カテゴリー「お城、史跡巡り 九州・沖縄」の18件の記事

2018年1月25日 (木)

またも雪に阻まれた・・・基肄城

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2泊3日の福岡旅、最後の行程は基肄城です。
基肄城は唐・新羅の襲来に備え、福岡県筑紫野市と佐賀県基山町とに跨る基山に築かれた古代朝鮮式山城。
南北に連なる東西の尾根や、その間に開く谷をも総延長4.2㎞に及ぶ土塁や石塁で取り巻いています。

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まずは南麓の水門跡から。
修復・復元された立派な石垣が出迎えてくれました。

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東西尾根間の谷の水を排除するために築かれた水門で、今でも水が流れていました。

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それにしても・・・麓でこの残雪(嫌な予感)

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暗渠の中を覗くと・・・つらら(笑)

続いて、基山山頂付近にある草スキー場の駐車場を目指して車で向かったものの・・・

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案の定、ご覧の積雪でタイヤがスタック・・・仕方なく瀧光徳寺奥之院の駐車場まで引き返し、そこから徒歩で向かうことにしました。

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瀧光徳寺奥之院から草スキー場までは1kmほどの道のり、雪道とはいえ20分程度で到着しました。
草スキー場・・・てか、普通にスキー場じゃん(笑)まずはこの斜面を登らないといけません。。。

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※注)決して自らすすんでダイブしたわけではありません。怖い人に「やれ」と命じられたのです(涙)・・・思ったよりは雪が薄く、飛び込んだ瞬間に顔面を打ちつけて痛かった。。。

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膝下までまとわりつく雪を掻き分け、やっとの思いで到達した尾根上部。
大きな岩が何やら城門を思わせますが・・・雪で構造がよくわかりません。

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天智天皇欽仰之碑
大野城や水城などと共に、基肄城築城を命じた天智天皇を顕彰する碑ですね。

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基山山頂から。
すぐ下に「いものがんぎ」と呼ばれる4連続堀切が見えています。

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4連続堀切が芋畑の畝に似ていることから、いものがんぎと呼ばれています。
お城で雁木(がんぎ)というと階段状のものを連想しますが、畝状のものを雁木と表現するのは初めて知りました。
なお、いものがんぎは基肄城の防塁線上にありますが基肄城の遺構ではなく、後にこの地に築かれた中世山城の遺構です。

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写真では雪の影響もあってわかりづらいですが、近づくと結構な深さがあります。

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畝の淵に沿って遊歩道が付いているのですが・・・見事なS字(笑)

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いものがんぎ越しに基山山頂(左奥)
基山山頂は曲輪跡で切岸も明瞭ですが、こちらもいものがんぎ同様、中世山城の遺構になります。

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基肄椽城跡

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土塁線から少し内側へ下ると・・・見えてきましたね。

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大礎石群
総柱式の建物礎石で、基肄城跡から見つかっている40棟あまりの建物礎石の中でも最大のもの。こちらは紛れもなく、古代の遺構です。
立地や雰囲気などから直感的に、食料庫のようなものが建っていたのかなぁと思いましたが、実際に大宰府政庁付近からは、基肄城に米を備蓄していたことを示す木簡が見つかっているようです。

さて、私の帰りのフライト時間の都合もあり、基肄城めぐりもこれまでとなります。

今回の旅は幾度ともなく雪に阻まれる行程となりましたが、その分、水城をじっくりと見れたり、九州歴史資料館で貴重な出土遺物に触れることができたりと、有意義な旅になりました。
これも案内してくれた九州在住のフォロワーさんや、一緒に旅をしてくれる仲間のおかげですね。今回ばかりは一人だったら2日目以降、何もできなかったかも・・・感謝。
そして、大野城や基肄城にはいずれまた必ず再訪します。

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ラストは離陸直後に撮影した、前日に必死になって登った水城から大野城への尾根筋の写真を載せて終わりにします。

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2018年1月24日 (水)

高良山神籠石

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福岡旅3日目、まずは久留米市まで移動して筑後國一宮、高良大社へ。

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高麗大社境内に残る神籠石の列石

神籠石とは、九州や瀬戸内地方に存在する列石遺構の総称で、一般的には「日本書紀」や「続日本記」に記述がない古代山城の遺構を指すようで、神籠石式山城とも呼ばれています。

引き続き境内から離れて山中に分け入り、この神籠石のラインを辿っていきます。

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高良山の山腹を取り巻く列石
現在確認されている列石の総延長は1.6㎞ですが、未確認の北側などの推定線を含めると4㎞にも及ぶと考えられています。

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延々と続く列石は一旦車道に分断されますが・・・

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車道の先からまた続いていました。

この列石には古代山城の遺構とする説の他に、神域を示すものとする説もあるようです。
678年の筑後国大地震の影響を受けていると考えられることから、少なくともそれ以前には築造されていたと推定されています。

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基本的には一段のみなのですが、一部には二段に積まれている箇所もありました。

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大学稲荷神社の辺りで再び車道に出て、ここから少しの間は列石も車道に沿って進みます。

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車道沿いで一旦土中に埋もれますが、すぐにまた顔を出し、その先はまた山中へ入っていきます。

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竪積みされた列石・・・誰が言ったか、「歯みたい」(笑)

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列石が直角に折れるポイント

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水門跡
もう殆ど崩れてしまっていますが、明らかに人工的に成形された石を積んでいた痕跡は留めています。
こうして谷筋をも包括的に列石(神籠石式)や土塁・石塁(朝鮮式)で取り巻くのが、古代山城の特徴の一つなのでしょうね。

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水門跡の先で、列石は高良大社の参道に出ました。
ここで列石めぐりは終了します。

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高良の神が神馬の蹄跡を残したとされる馬蹄石
中世の縁起書「高良記」には、「この石こそが神籠石で、八葉の石畳(=現在の神籠石列石)の起点・終点である」とあります。
そもそも「神籠石」とは、こうした神の依り代となる石を指す名称でしたが、その近くにあった列石と混同して報告されたために、列石の方を神籠石と呼ぶようになったのだとか・・・現在、列石の呼称の見直しも検討されているのだそうです。

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列石を辿ってかなり下りましたので、参道を登って駐車場へ戻ります。
参道も風情があって素敵でした。

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お昼は久留米ラーメンで舌鼓♪

この後は基肄城へ向かいます・・・雪の不安しかないけど?!

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2018年1月23日 (火)

水城

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福岡旅2日目、ラストは水城をめぐります。

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水城は大野城や基肄城などと共に、大宰府防衛のために築かれた大堤(土塁)です。
全長1.2㎞、基底部の最大幅約80m、最大高さ約14mを誇り、「日本書紀」にも
「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う。」
と記述されています。

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水城東門跡

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東門の礎石

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道路を挟んだ反対側、車列の間から礎石らしき石が見えています。
東門には官道が通り、大宰府の玄関口になっていました。現在も県道112号と574号が合流する地点で、交通の要衝のようですね。

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東門跡から尾根伝いに山を登り、大野城の水城口城門を目指してみます。

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しばらく登った先にある展望台から眺める水城。

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更に登った先から・・・

この先も雪の残る急勾配な尾根を直登し、頑張って水城口城門のすぐ手前のピーク辺りまでは辿り着きましたが・・・
いよいよ残雪も深まり、下山までの時間を考えると日没タイムリミットと判断し、止む無く撤退しました。

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下山後はまず、東門跡付近の内濠沿いを散策。
発掘された木樋(暗渠)を復元した展示。

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実際に木樋が発掘された場所。
木樋はヒノキ材で、内濠と水城の土塁を越えた先の外濠を繋ぐため、約80mに渡って敷設されていました。
出土した木樋の実物は、一つ前の記事でご紹介した九州歴史資料館にて見学することができます。

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内濠跡越しに水城
内濠の土手からは、瓦窯跡も発見されています。

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車で少し南西方向へ移動し、JR鹿児島本線水城駅付近。
線路によって分断された水城を、土塁断面ひろばとして整備しています。

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引き続き水城駅周辺を散策・・・父子嶋の土盛。
水城築造のため、来る日も来る日も土を運んで働いていた、とある父子がいました。
ある日、「土塁が出来上がったぞ!」との声を聞き、全身の力が抜けて運んでいた土を放り出してしまいました。その土が盛り上がってできたこの場所を父子嶋(ててこじま)と呼ぶようになった、との伝承が残っているそうです。

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水城西門跡

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西門付近の土塁
その見事な高さを感じていただけますでしょうか。

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線路に分断された水城

大野城は残念でしたが、その分じっくりと水城をめぐることができ、これはこれで良かったかな。

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夜は、翌3日目の行程をご一緒するフォロワーさんとも合流し、博多でもつ鍋飲み会♪

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2軒目は海鮮系のお店に入り、大好物のごまさばも♪
2軒目には地元に住むフォロワーさんも急遽参戦し、楽しく盛り上がった一夜になりました☆

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2018年1月22日 (月)

大宰府政庁と大野城、九州歴史資料館

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旅の2日目は太宰府天満宮参拝からスタート。
何の因果か偶然か、この日はセンター試験の日でもありました。

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社殿の屋根には雪も残っていました。

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名物の梅ヶ枝餅

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大宰府政庁跡
背後には大野城跡の四王寺山の姿も。

大宰府政庁は;
Ⅰ期  7世紀後半~ 掘立柱建物
Ⅱ期  8世紀初頭~ 礎石を用いた朝堂院形式 
Ⅲ期 10世紀後半~ 藤原純友の乱で焼失した後の再建
といった変遷を辿っており、発掘調査で明らかになった建物礎石群(南門や中門、回廊、正殿、後殿、etc...)を見学できるようになっています。

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大宰府展示館では、発掘により表出した政庁東側の玉石溝を直接見ることができます。
それにしても、雪・・・(^_^;)

続いて大野城跡へ向かいましたが・・・

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山道を登るにつれて積雪が深くなり、大宰府口城門付近まで来たところで無念のリタイア。。。
ちなみに写真右側に写っているのは、大野城の土塁の断面です。

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大野城大宰府口城門の石垣も雪に埋もれ・・・

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大野城は標高410m四王寺山の尾根や谷を、総延長6.5㎞もの土塁で取り囲んだ古代朝鮮式山城です。
663年、白村江の戦いに敗れ、唐・新羅の襲来を恐れた朝廷(天智天皇)が水城・基肄城などともに築かせた防衛施設の一つ。
本来であれば土塁線をグル~ッとめぐりたかったのですが・・・この悪条件では致し方ありません。
行程を変更して九州歴史資料館へ向かいます。

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九州歴史資料館
こちらでは、出土した水城の木樋を見学しました。
また、ボランティアが待機するに限り、本物の出土遺物に触れることができるサービス(体験学習)があります。

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中世の永楽通寶洪武通寶
永楽銭は織田信長の旗印でも有名ですね。こうした銅銭は実際に手に取ってみると意外なほど薄くて軽く、裏には特に細工もなくて、なんだか「安っぽい」印象でした。
こうした情報も、実際に触れることで初めて知ることができたわけで、とても貴重な体験になりました。

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こちらは黒曜石の石器。ダイヤモンドカッターよりも硬いのだそうです。
いわゆる先史時代の遺物をこの手に触れることができるだなんて・・・信じられないでしょ?

九州歴史資料館では他に、出土遺物の調査や洗浄~修復に至る工程をオープンにしており、ボランティアガイドの案内で中庭から各工程の様子を見学させていただくこともできます。

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2018年1月21日 (日)

生の松原元寇防塁と壱岐神社

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2度に及ぶ蒙古の襲来(元寇)
その1度目となる文永の役(1274)を受けて鎌倉幕府は、元の再襲来に備えて博多湾沿岸一帯に防塁(石築地)を築かせました。
元寇防塁は福岡市内の数ヶ所で保存されており、5年前に博多を訪れた際には西新地区の防塁を見学しましたが、今回は竹崎季長奮戦の地としても知られる(蒙古襲来絵詞)生の松原の元寇防塁に来てみました。

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海も綺麗ですが吹きつける強風が冷たく、手の感覚を失うほどに凍えました。。。

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復元された元寇防塁の石築地(石垣)

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この海の彼方から、元の大船団が現れたのですね・・・。

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松原の中を進む遊歩道はちょっとした高まりの上を通り、復元石垣ともラインで繋がりますので、こちらも長い年月の中で砂に埋もれていった防塁の痕跡ではないかと思います。
石の大半は、福岡城築城の際に運び去られたようですが。

2度目の蒙古襲来となった弘安の役(1281)。
攻め来たった彼らの目に、この防塁はどのように映ったのでしょうか。

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生の松原元寇防塁の近くに鎮座する壱岐神社
武内宿禰の身代わりとなった壱岐直真根子を祀る社とされています(日本書紀)。

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参道は海へ向かって真っすぐに延びています。

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参道の先、海岸に建つ鳥居。

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その近くには逆松の碑が建っていました。
神功皇后が松の枝を逆さにして戦勝を占った際、その枝が根付いて松が生き返ったとの伝説から、この地は生の松原と呼ばれるようになったと云われています。
その松は既に枯れていますが、幹が壱岐神社に奉納されているそうです。

さて、これにて旅の初日は終了です。
2日目からは仲間とも合流し、大宰府周辺をじっくりとめぐります。

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2017年2月 2日 (木)

知念城、斎場御嶽、浦添ようどれ&浦添城 (沖縄グスクめぐり⑥)

楽しい時は過ぎるのも早いもの・・・沖縄の旅もいよいよ最終日です。
眠い目をこすりながら集合時間の7時にロビーへ下りてみると・・・どうやら別ホテルに宿泊している一人が姿を現さない模様。ま、前の晩に遅くまで遊んだからね(^_^;)
部屋に電話をかけてもらい、無事にお目覚めいただいてから出発(笑)


知念城(南城市知念知念)

最終日のスタートは、前日後半にも訪れていた南城市にある知念城。

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知念城前にあったノロ屋敷跡の石垣
ノロは琉球信仰に於ける女性神官のこと。祭祀を司り、御嶽を管理していました。
按司から屋敷地を与えられ、大切に保護されていたのでしょうか。

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知念城の城壁
知念城は主に、ミーグスク(新城)クーグスク(古城)と呼ばれる2つの郭から成ります。
写真はミーグスクの城壁(クーグスクは写真左にある斜面の上)

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正門を通ると、正面には石垣で築かれた蔀状の壁がありました。

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こうして見ると正門(右)だけでなく、裏門(左)にも蔀状の壁が設けられ、まるで枡型のようになっていますね。
こうした蔀、少なくともこの旅でめぐった城では他に例を見ませんでした。そういった意味では、かなり新しい時期に造られたのかもしれません・・・新城だけに。

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すぐ眼前の久高島(写真には写っていない)への遥拝所があった辺り。

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そして近くの山の中腹に、知念按司の墓があるというので向かったみたものの・・・

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かなり鬱蒼とした山道を登って行かねばならず、ビビリな私はハブを敬遠してパス・・・(^_^;)
ちなみに麓はウファカルといって、琉球の稲作発祥の地と伝えられているそうです。

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今では畑になっていて、水田を思わせるものは・・・これくらい?(^_^;)


斎場御嶽(せーふぁうたき)

次は、知念城のすぐ近くにある斎場御嶽へ。

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斎場御嶽へは、こちらの物産館で券を購入してから参拝します。

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物産館から斎場御嶽への道順。

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斎場御嶽は琉球王国最高の聖地
はじめに簡単なVTRで参拝の注意事項を確認してから、参道へ向かいます。

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大庫理(ウフグーイ)
「大広間」「一番座」という意味を持つ、御門口から登っていった先の最初の拝所。

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参道脇には、沖縄戦で撃ち込まれた砲弾による爪痕も残っていました。

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参道にも厳粛な空気が漂います。
心配していましたが、さすがに大陸からの観光客グループも、ここではあまり騒いではいませんでした。

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寄満(ユインチ)
意味としては「台所」。豊穣の満ちた所、と解されています。

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「聖なる水」を滴らせる2本の鍾乳石と、それを受けるシキヨダユル・アマダユルの壺。

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巨大な岩でできた三角形の通り道の先が三庫理(サングーイ)

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いざ、三庫理へ・・・

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三庫理

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三庫理からは、琉球創成の神アマミキヨが天から降臨し、国創りを始めたという神の島久高島を正面に見据えることができます。
各地に点在する全ての御嶽が拝する久高島・・・その先にあると云うニライカナイ。それが今、眼前に・・・。
この地が何故、琉球最高の聖地と成り得たのか・・・それを明瞭に物語ってくれるような光景でした。

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去り際、見送りに来てくれた小鳥。


浦添ようどれ浦添城(浦添市当山)

3泊4日の沖縄旅、ラストは浦添へ。

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浦添城図

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まずは13世紀の中山王・英祖、そして第二尚氏七代・寧の陵墓である浦添ようどれへ。

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浦添ようどれの石垣
「ようどれ」とは「夕凪」の意味。それだけだと、なぜ陵墓にそう名付けられたのか分りづらいのですが、他に「極楽」という意味もあるそうです。それなら・・・なんとなく分かるような気もしますね。
背後にある浦添城共々、ようどれは沖縄戦に於いてアメリカ軍の激しい攻撃に晒され、破壊されています
近年、発掘調査に基づき修復されて戦前の姿を取り戻しました。

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現地には戦前の古写真も展示されていましたが、岩肌の形まで随分と変わっていました
砲撃の激しさを物語っているかのようです。

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このアーチ門を抜けた先に・・・

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英祖王(手前)、尚寧王(奥)の眠る墓室があります。

続いて浦添城へ。
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復元された浦添城の石垣

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あちらの石垣も復元のようです。
沖縄戦での破壊により、遺構らしきものは殆ど残っていません。

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城跡内にあるディークガマ御嶽
沖縄戦により、市内各地で亡くなった5,000人もの人々を祀る「浦和の塔」もありました。

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かすかに痕跡を留めている浦添城の石垣

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浦添城の前の碑
1597年、浦添城と首里城とを結ぶ道路を建設した際の、竣工記念碑。尚寧王の命で国民が力を合わせ、道を築いた様子が具に記されています。
こちらも沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元されました。

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確かに浦添城から、首里城の正殿の屋根も見えていました。
(写真中央、小高い丸い丘の左上)

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石碑前の岩は「馬ヌイ石」、馬に乗るための踏み台と考えられています。
とすると、その首里城とを結ぶ道はこの辺りから延びていたのでしょうか。

さて、これにて3泊4日に及ぶ沖縄グスクの旅も終了です。
この後は空港へ向かい、昼食がてらに簡単な打ち上げの後、各自のフライト時間に合わせて追々解散となりました。

初めて訪れた沖縄の地。
今回はグスクめぐりに主眼を置いた旅で、実際に訪れたグスクはどれも刺激的で素晴らしかった。
それと同時に、各地をめぐっているうちに自然と目にし、肌で感じることになる72年前の沖縄戦のこと、沖縄の人々の信仰のこと。。。
沖縄に限ったことではないが、旅をする時はその土地の歴史や風習、風土に敬意を払って臨まなくてはならない・・・改めてそう感じた4日間。
特に沖縄では「信仰」というものに、強烈な印象を刻まれました。

楽しく、有意義な旅を共有できた旅仲間にも感謝です。ありがとうございました(^_^)/
・・・次の機会には、7時に起こして桃色の○○○履かせ、緑の財布を持って波に弄ばれましょ~(^m^)

※全6回に渡って記事を上げてまいりましたが、何分、沖縄の歴史には疎いので、随分と薄っぺらい内容になってしまいました・・・。
より詳しく知りたい方は、旅の同行者がブログにまとめてくれているので、そちらも是非☆
山城Love☆ (カテゴリ「九州・沖縄地方」)

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糸数城、玉城城、垣花城、島添大里城、他 (沖縄グスクめぐり⑤)

糸数城(南城市玉城糸数)

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3日目後半は、南山地方のグスクが点在する南城市へ移動、まずは糸数城に到着です。
いきなり心奪われる光景がお出迎えしてくれました。

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城門
糸数城は、玉城(この後訪れます)の按司が自らの三男を糸数按司に任じて築かせたと伝わる城。

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見事な曲線を描きだす堅牢な城壁がとても美しく、感動すら覚えます。

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城門を抜け、城壁を城外側から。
櫓台のようにせり出した箇所もありました。
ちなみに、隅をとんがらせる隅頭石は見当たりません・・・地域差・築城年代などが関係するのでしょうか?

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城門を抜けた先は広い平坦地になっています。
石積みで区画された空間がいくつか散見され、城外ではありますが何らかの居住空間・施設があったものと思われます。

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では、城壁に上がってみます。

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城壁には武者走り状の通路が設けられていました。

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糸数城の城壁・・・素晴らしい

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台地の突端のような場所に築かれた糸数城。
従来はこの城壁が下に見える城壁と繋がっており、林道の辺りにも搦手の門があったのかもしれません。


玉城城(南城市玉城玉城)

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玉城城・・・別名アマツヅ城とも。
沖縄の国土を創成したと云う沖縄神話の神・アマミキヨが築いた城との伝説もあります。
但し、アマミキヨは女神とのことですが。

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玉城城からの眺め
既に夕方近い時刻でしたが、海の青がよく映えていました。

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自然の断崖を利用した一の郭の城壁。上部は石垣で整えられています。
玉城城には段階的に二の郭、三の郭もあったようですが、それらの城壁の石材は基地建設の用材として、米軍が運び去ってしまったようです。

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自然の岩盤をくりぬいたかのような城門

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城門を郭内から
内側には石垣が積まれていました。

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一の郭

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一の郭に祀られる「天つぎあまつぎ」の御嶽

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伝承通りなら沖縄最古ともいえる城。
凄い歴史が残っているものです。。。


垣花城(南城市玉城垣花)

垣花城に関しては特に記録・伝承もなく、詳細は不明です。
城内に残る石垣の垂直に近い野面積みの技法から、グスク時代初期の築城と推測されています。

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確かに垂直の野面積み・・・

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しかし城域全体に鬱蒼と樹木が生い茂り、ハブも怖いので早々に退散しました・・・(^_^;)

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垣花城からご覧のような切通の石畳小路を抜けると・・・

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全国名水百選にも選ばれている垣花桶川(ヒージャー)があります。

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垣花の町角で見かけた古い石敢當(いしがんどう/いしがんとう)
魔除けの風習で、沖縄ではマジムンという魔物が直進する性質を持ち、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうとされていることから、その丁字路や三叉路などの突き当たりに多く見られます。
塀に表札のようなプレートを埋め込んだものも多く見かけました。


島添大里城(南城市大里大里)

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3日目ラストは島添大里城
南山王・島添大里按司によって築城されたと伝わります。
後に三山統一に乗り出した尚巴志が、真っ先に攻略した城としても知られています。

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現在、城跡は公園になっていましたが、かつては小学校が建てられていたこともあったようで、遺構の残存状況はよろしくないようでした。
南山王の城だけあって、往時はかなり大きなグスクだったようです。

さて、3日目のグスクめぐりもこれにて終了。
結局、1日で11ものグスクをめぐることができました。前日に回れなかった分を補って余りある成果ですね。

夜は勿論、那覇市内で乾杯☆
沖縄での最後の夜は、2次会にカラオケへ。近づく旅の終わりを惜しむかのように、遅くまで盛り上がりましたとさ♪

履かせて~履かせて~♪ 桃色~○○○~♪♪

※4日目へつづく

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2017年2月 1日 (水)

中城城、具志川城、米須城、南山城、他 (沖縄グスクめぐり④)

中城城(中城村泊)

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阿麻和利の勝連城を訪れたら、護佐丸の中城城にも行かない訳にはまいりません。

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中城城図
順路に沿って図面左の、裏門から回ります。

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中城城は先中城按司が数代に渡って築き上げてきた城で、座喜味から移った護佐丸により、北の郭・三の郭が増築されて現在に残る形になりました。
勝連城の記事でも書きましたが、護佐丸は謀反の疑いを掛けられ、勝連の阿麻和利の軍勢が王旗を掲げて攻めてくると抵抗することもなく、中城城で自害して果てます。

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模型と並べてみるw

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裏門
1853年に来島したペリー艦隊一行は、この石造りのアーチ門を「エジプト式」と評しています。

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護佐丸が拡張した北の郭より。
左隅には、グスクでは珍しい狭間も。

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自然の断崖上に築かれた城壁がとにかく美しいです。
北の郭には大井戸(ウフガー/写真下、樹木の陰になっている箇所)もあります。

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西の郭への石門

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二の郭

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二の郭から三の郭を見下ろす。

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同じく、二の郭から一の郭の城壁。

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一の郭へのアーチ門
奥に南の郭へ抜けるアーチ門も見えています。

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二の郭内にある拝所

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一の郭

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南の郭にあった久高遥拝所
南の郭は城内の神域だったようです。
久高島は神の島とされる沖縄信仰の聖地。各地で見られる御嶽・拝所は皆、久高島の方角に向いているのだそうです。

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正門
こちらはどうやら、櫓門になっていたようです。

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南の郭の更に先へ抜けると・・・“例の”廃墟が(^_^;)

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南の郭の城壁を見上げる。狭間が2つ並んでいます。
足元の岩が窪んだ場所はカンジャーガマ。鍛冶を行っていたところで、阿麻和利に備える護佐丸が武具を用意させていたとも伝わります。

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中城城跡の近くには、その護佐丸の墓所もあります。
藪を警戒していましたが、参道は綺麗に整備されていました。

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護佐丸の墓所
最古の亀甲式墓と推定されています。

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ここに眠りながら抱く思いは無念か、それとも・・・


具志川城(糸満市喜屋武)

さてお次は沖縄本島最南端の城、具志川城です。
到着後、まずはロープを頼りに急坂を海岸へ下りてみます。

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海岸から見上げる具志川城
断崖絶壁の上部に石垣が見えています。
写真右手、絶壁には不思議な洞穴もありました。

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その洞穴
中へ入ってみると・・・

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頭上の郭と繋がっていました。
周囲は船着き場のようにもなっていたので、荷物の上げ下ろし有事の際の脱出口だったのかもしれません。

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久米島での覇権争いに敗れた久米島具志川城の真金声按司がこの地に逃れて城を築き、郷里と同じ名前を付けたと伝わります。

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自然の断崖が海岸にせり出した部分。側面をやはり石垣で固めています。

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具志川城跡から望む喜屋武岬
言わずと知れた沖縄戦の激戦地で、米軍に追い詰められた住民や日本兵が身を投げて自決を図った地です。
グスクとは時代こそ違え、決して忘れてはならない沖縄の歴史。

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断崖上に屹立する石垣の城壁

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郭内
柵の中に、海岸の洞穴と直結する穴(ヒーフチミー)があります。

周囲の景観といい、見栄えのする城でした。


米須城(糸満市米須)

米須城には、とある仇討ちの伝説が残っています。
米須按司の美しい妻に横恋慕した家来が密かに按司を殺害し、その妻に自らの妻となるよう迫ります。
それで夫を殺した犯人を悟った妻がその家来を討ち、仇をとったというもの。

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これまで訪れた城と違い、殆ど整備はされていません。
郭へ向かう通路の脇にも石積みが見えます。

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これが郭の虎口かな?

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郭を囲む石垣

結構藪っており、正直ちょっと分りづらい城でした…(^_^;)


南山城(糸満市大里)

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南山城の跡地とされる地に建つ南山神社

南山城は、尚巴志によって琉球の三山が統一される過程で、最後に攻略されたと伝わる城です。
現在は神社や小学校の敷地になっています。

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神社の石垣に残る、或いは現存?と思われる石垣。
この面だけ明らかに古く、石の成形なども周囲とは異なっていました。

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緑のネットが張られている辺りが、城の本来の門跡と思われます。
土塁っぽく見えているのは・・・城壁の名残かな?

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こちらもおそらく御嶽でしょう。

さ、次は・・・楽しみにしていた糸数城へ向かいます。

※つづく

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座喜味城、安慶名城、勝連城、他 (沖縄グスクめぐり③)

沖縄旅3日目。
前日にあまり回れなかった分、この日は朝からガッツリ城を攻めます。
まずは那覇市内、初日にゆいレールの車窓からも見かけて気になっていた場所へ・・・

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崇元寺跡の三連アーチ型石門です。

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崇元寺は臨済宗寺院で第二尚氏の廟所でしたが、残念ながら第二次大戦の沖縄戦で焼失してしまいました。


座喜味城(読谷村座喜味)

さて、この日の1城目は座喜味城です。

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座喜味城碑

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座喜味城は、尚巴志の北山攻略にも参戦した護佐丸の築城と伝わります。

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アーチ門
このアーチ門、最頂部に楔が打たれているのが特徴で、他に類例がないことから、沖縄で現存する最古のアーチ門とも推定されています。

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二の郭

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二の郭と一の郭の城壁に挟まれた通路状の空間。
ここを進むと・・・

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不思議と行き止まりに・・・どんな意図で設計されたのでしょうか?

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城壁からの景色
城のすぐ横は谷のように落ち込む地形・・・前日の今帰仁城で見た光景とよく似ています。
琉球で城を築く際の、一つの特徴的な選地条件なのかもしれません。

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城壁
曲線を伴う屈折がなんとも美しいです。

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第二次大戦時に、日本軍が砲台を置いたと思われる場所。
明らかに城の縄張に含まれそうな位置・地表面形状ですが、石垣のようなものは一切見受けられません。
城壁などは砲台構築の際、もしくは敗戦後に破壊されたものでしょうか。

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城壁上から見る二の郭
2つのアーチ門を同時に視界に捉えます。

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こちらは一の郭

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アーチ門越しの・・・アーチ門(笑)

朝一番からいい城を観れました。
次は安慶名城へ向かいます。


安慶名城(うるま市安慶名)

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安慶名城登城口
周囲はゲートボール場などがある広い公園ですが、ここからは鬱蒼とした樹木の中の山道となります。
念の為、ハブに警戒しながら慎重に進みます。

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しばらく登ると側面の岩肌に、石が積まれた壁のような場所が現れます。
こちらは、安慶名按司の墓と考えられているそうです。

按司」とは主に、地方豪族の首長の称号として用いられていました。
その後、尚氏の時代になると王や王子に次ぐ王族の称号へと変化していきます。

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自然の岩を利用した城門
片面のみ、石垣を用いています。この城門を抜けた先に・・・

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素晴らしい光景が待っていました。
切り立った断崖に積まれた石垣、そして周囲を横堀(帯曲輪?)のように取り囲む城壁・・・古めかしさがまた武骨で、とても格好いいです。

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ちょっとアングルを変えて・・・思わず溜息が漏れそうです。

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眼下には闘牛場が。
沖縄では闘牛を「ウシオーラセー」といい、古くから親しまれてきたそうです。
近年、近くに新しい闘牛場ができたようですが、こちらでもまだ、今でも年に1~2回開催されているとのこと。

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背後(西側)の城壁

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郭内にあったこちらは・・・やはり御嶽か?

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一段低い位置で、主郭周囲を取り囲む城壁

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その城壁伝いに闘牛場の方へ下ります。

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安慶名城、期待に違わぬ素晴らしいグスクでした。


勝連城(うるま市勝連)

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次は勝連城にやってきました。

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勝連城イラスト図
勝連城は阿麻和利の城として知られます。

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阿麻和利は、元の勝連按司を倒して城主の座に収まった人物。
勝連を拠点に勢力を増す阿麻和利を警戒した首里の尚泰久(第一尚氏六代)は、娘を嫁がせてその懐柔を図ります。

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正史によると、密かに王統簒奪を目論む阿麻和利は、やはり勢力と名声に富み、目触りとなる護佐丸(中城城/王の室の父)の排除を図り、泰久王に護佐丸謀反の嫌疑を讒言、討伐の軍勢を差し向けました。
王旗を掲げて攻め寄せてくる阿麻和利の軍勢に対し、護佐丸に抵抗の意思はなく自刃して果てたと云います。
後に阿麻和利の真意を知った王により、阿麻和利自身もここ勝連で討伐されるのですが・・・
この辺りの歴史は、護佐丸・阿麻和利のどちらが善悪ということではなく、結局のところは配下の勢力拡大を恐れた泰久王が、両者の排除を図ったというのが真実に近いのではないかと、個人的には思えてきます。

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鍛冶屋の仲間家が使用した泉(井戸)との伝承から、「仲間ヌウガー」「カンジャー(鍛冶屋)ガー」と呼ばれる井戸跡。
(ガーとは井戸や泉を指す言葉)

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三の郭へ向かいます。

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三の郭の城門跡
ここには四脚門が建っていました。

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三の郭から、二の郭・一の郭を見上げる。

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二の郭

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二の郭、火の神を祀るウミチムン

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同じく二の郭、「身を隠して凌ぐ洞穴」との意味である「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴。
すぐ頭上の一の郭の洞穴と繋がっており、このことから阿麻和利はここから脱して、読谷村まで逃げ延びたとの伝説もあるとか。

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一の郭への階段
上に行くに従い、幅が細くなっていきます。

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一の郭

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勝連を守護する霊石を御神体とする「玉ノミウヂ御嶽」と、ウシヌジガマに繋がる洞穴。

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一の郭から見下ろす二の郭、及び三の郭
やはりここでも、築城地形の共通性が見受けられます。対岸は東の郭。

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最後に四の郭の城壁へ

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城壁が道路に寸断されている付近にはかつて、西原御門がありました。

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模型で言うと、写真中央部分になります(手前)。

勝連城・・・整備も行き届いて全体構造を把握しやすく、グスクのスケール感を肌で感じることができました。

※3日目はまだまだつづきます・・・

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2017年1月31日 (火)

今帰仁城、古宇利大橋、美ら海水族館、玉陵、他 (沖縄グスクめぐり②)

沖縄旅2日目。
朝一番でレンタカーを確保して高速道路を一気に北上、まずは今帰仁城(今帰仁村)を目指します。

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今帰仁城図
今帰仁城は北山王の居城だったと伝わる城です。
15世紀前半、北山は中山の尚巴志(後に南山も滅ぼして琉球を統一した第一尚氏の二代)に攻め滅ぼされ、それ以降は旧北山地方統治の拠点として、今帰仁城には監守が派遣されるようになります。
1609年、薩摩の島津氏が琉球に侵攻してくると、今帰仁城はその第一攻略目標とされ、あえなく落城の憂き目に遭いました。

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今帰仁城模型

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外郭の城壁
琉球の城は、この独特の曲線を伴う城壁が特に格好いいですね。

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平郎門から中心部内へ。

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平郎門の脇、城内で一番高いという大隅の城壁。
うねりのような曲線が見事です。

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平郎門

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カーザフ
カーは「川」や「泉」、ザフは「谷間」を意味します。名前からして、昔は水を湛えてていたのでしょうか。

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平郎門を抜け、大庭へと続く城の旧道。

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大庭から、一段上の主郭方面。

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大庭にあるソイツギ(城内下之御嶽)

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御内原から、大隅の城壁越しの眺め。
これぞグスク!って感じの偉容ですね。

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こちらは志慶真門郭を眼下に収める眺め。
城壁奥の地形がまた凄い・・・。

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御内原のテンチジアマチジ(城内上之御嶽)・・・今帰仁城の守護神。
御内原は男子禁制だった聖域で、国家繁栄や五穀豊穣、子孫繁栄などを祈りました。

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主郭

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今帰仁里主所火の神の祠。
第二尚氏時代の北山監守一族の火の神を祀っています。

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主郭から志慶真門郭へ抜ける石門

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志慶真門郭
出土品などから、城内で仕える人々の生活空間と推定されています。
写真左上が主郭の石垣。

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志慶真門郭の外郭城壁

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城跡前にあったお店。こちらで・・・

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試しにサトウキビ・ジュースを買ってみました。
・・・脳天に突き抜けるような甘さです(笑)

今帰仁城・・・素人目線の感想ですが、これぞグスク!といえる特徴の詰まった、とても象徴的な城に感じました。

さて、折角沖縄まで来たことだし、予報に反して空には晴れ間も覗いている・・・という訳で、今帰仁城から程近い古宇利島にも立ち寄ってみることになりました。
・・・何故か出発後、すぐにまた今帰仁城跡へUターンせざるをえなくなるハプニングもありつつ(笑)

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古宇利大橋で古宇利島へ渡るの図
古宇利島の海岸でしばし波と戯れ(波に弄ばれている人もいましたがww)、昼休憩のために再度橋を渡り・・・

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美らテラスへ。
こちらで海を眺めつつ、お昼をいただきます。

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私は海ぶどうのスペシャル丼を選択しました。
なんともカラフル♪
(この旅で食した海ぶどうの中では、ここのものが一番粒も大きくて美味しかったです)

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美らテラスから古宇利島を眺める。

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古宇利大橋
海の青さが、信じられないくらいに美しかった。。。

更に更に、これも折角沖縄まで来たんだから・・・

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という訳で、美ら海水族館にもお立ち寄り(笑)
ジンベエザメ・・・でかっ!

凄まじい入館者の数、そして某大陸国からの観光客の自撮り棒乱立に多少辟易しつつ、駆け足気味に見学して回りました。

美ら海水族館を出たら、今度は一気に那覇市内へ戻ります。
一日遅れで那覇入りした最後の参加者とも合流し、2日目のラストは首里城近くの・・・

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第二尚氏の陵墓玉陵(タマウドゥン)へ。
美ら海水族館からの移動距離、そして那覇市内の名物渋滞にハマって拝観時間ギリギリでしたが、なんとか間に合いました・・・。

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参道を進むと見事な石垣が現れます。

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玉陵・・・正面より。

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玉陵は1945年の沖縄戦で甚大な被害を受け、1974年より3年の歳月を掛けて修復されました。

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歴代の王族らが眠る石室

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向かって左から、王と王妃の東室・洗骨前の遺骸を安置する中室・限られた家族の西室

さて、2日目の行程はこれにて終了。
今帰仁城が那覇から遠くて移動に時間を要したこともあり、グスクは結局1城だけになりました。
それでも沖縄らしい観光もできたし、これはこれでよかったかな。

この日も夜は、国際通り近くのお店で2次会まで。
1軒目のお店は料理も美味しく、店員さんの感じも良くてGoodでした。

この日回れなかった分、3日目はガッツリ城をめぐります。

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