カテゴリー「お城、史跡巡り 九州・沖縄」の38件の記事

2026年6月28日 (日)

長岩城 大分の旅⑦

旅の最終日は大分市から北西へ、車を走らせること2時間以上、、、

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中津市、耶馬渓近くの長岩城へ。
豪族・野仲氏の居城。皮肉にも1588(天正16)年、中津に入封した黒田長政に制圧されて落城したことで、歴史の脚光を浴びました。

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まずはメインルートとなる専用駐車場の位置から少し東へ逸れ、有名な弓形砲座を目指します。
案内板が立っていますが、正しい登山口はこの看板の位置から15mほど坂を下った位置にあります。

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10分ほど登った先に現れた石塁。

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更にこちらの大岩の脇をロープ伝いに登った先が凄かった。。。
聞きしに勝る岩盤の細尾根の連続で、両サイドは大袈裟でもなく断崖絶壁!
この2日前に捻挫していた私は、強がることもできないほどに足がすくみました。。。

当然、道中は写真を撮る余裕なんてありません。
恥も外聞もなく、ひたすら四つん這いになって登って行った先に・・・

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いきなりドーンッ!!(笑)
本当に突然目の前に現れた感じです。

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兎にも角にも到達しました・・・弓形砲座。

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狭間も。

往復の道中も砲座周辺の景観も、写真は1枚も撮れていませんでした。
それほどに緊張の連続だったとお察しください…(;^_^A

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では大手口へ移動して、メインルートで再アタックです。

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二之城戸
多くの城では竪堀で斜面を遮断していますが、ここでは石塁。

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沢を挟んだ対岸にも石塁。

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対岸の石塁は待ち受ける城兵の身隠しのように半円を描きながら、、、

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やはり斜面を登っています。
だいぶ埋まってしまってはいますが。

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三之城戸

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三之城戸伝いに登っていくと、、、

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東之台の石塁が見えてきました。

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東之台

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東之台から更に斜面上へと続く石塁。
今度はこちらに沿って登っていきます。

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途中にあった見張り所のようなスペース。
こちらもかなり埋まってしまっています。

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石垣の両サイドは竪堀のようになっていました。

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石塁と竪堀。

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それにしても見事です。

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本丸の虎口が見えてきました。

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虎口の先、本丸下の腰曲輪。

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本丸
ここからは別ルートで下山します。

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本丸から西之台方向へ下った先の堀切。

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石塁に挟まれた通路のような箇所も。

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西之台

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西之台の石塁。

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二重の堀切。

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そして竪堀も。

弓形砲座も行けたし、石塁の数々も堪能できて大満足。
弓形砲座は、、、もう二度と行かない!?(笑)

本当でしたらこの後、副城等にも立ち寄る予定でしたが、私のフライト時間との兼ね合いもあって断念。

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最後は、中津の道の駅で昼食を仕込み、、、

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有名な宇佐八幡宮の前を通過しながら、、、

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大分空港まで送っていただきました。

合計3泊4日の大分への旅。
個人的な事情、環境の変化もあって本当に久しぶりの旅となりました。
正直不安な部分もありましたが、全て払拭!・・・怪我をしたこと以外は(-_-;)

それもこれも事前準備から下調べまで、あらゆるバックアップをしてくださった同行者たちのおかげです。
本当にありがとうございました。

次はいつになるかわかりませんが、まだ九州で行けていない土地も残っていますので、是非またご一緒ください。
その日まで暫し。

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2026年6月27日 (土)

臼杵城 大分の旅⑥

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豊後の大名、大友宗麟がその後半生の本拠とした臼杵城。
丹生島城とも呼ばれ、主郭は三方を海に囲まれた断崖の上に築かれていました。

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大友氏の改易後は福原氏を経て太田氏が入城。
太田氏時代頃から近世城郭化されていったということです。
1600年の関ヶ原合戦後には美濃から稲葉氏が入城し、以降は江戸時代を通して稲葉氏の居城となりました。

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現存する畳櫓。

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大門櫓を通って二ノ丸へ。

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二ノ丸

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二ノ丸から南西方向。
往時は遠くに見えるお寺の辺りが波打ち際だったのではないでしょうか。

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同じく南東方向。
見事な高低差。眼下の住宅地を脳内で海に変換し、往時の光景を想像してみたりしながら進みます。

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大友宗麟のレリーフ。

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1586(天正14)年、薩摩島津氏の侵攻に遭った宗麟は臼杵城に籠城し、このフランキ(佛狼機)砲も用いて凌いだと云います。

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二ノ丸と本丸間の空堀、土橋。
手前(右)は武具櫓台。

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空堀

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空堀の底から。右は天守台。

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本丸

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本丸から臼杵湾を望む。
今では海もだいぶ遠くなっています。

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臼杵城の搦手で船着き場にもなっていた卯寅口を見下ろす。

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大友宗麟が建立したのが始まりと云う卯寅神社。

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卯寅口門脇櫓。こちらも現存です。

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下船した人々は、この石段から城へ上がっていたのでしょうか。

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そのまま卯寅口から下城、城下町散策へ向かいます。

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1600年創業の鑰屋可児醤油。
創業者の可児孫右衛門は藩主稲葉氏とともに美濃から移ってきました。
かの有名な可児才蔵(吉長。「笹の才蔵」)とも所縁があるのでしょうか。

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二王座歴史の道の景観。

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風情がありますね。

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沖縄の辻々でよく見かける石敢當がなぜか臼杵に。
説明板に云われも書かれていましたが、要は盛んだった海上交易の過程で運ばれ、持ち込まれたものだったのでしょう。

これにて旅の3日目の行程も無事に終了。
大分駅前に戻った後は美味しい料理とお酒で、大分最後の夜を楽しみました。

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2026年6月26日 (金)

岡城 大分の旅⑤

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旅の3日目は、豊後国分寺跡へ立ち寄った後、、、

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竹田市の岡城跡へ!
駐車場から見上げるだけで、素晴らしい石垣が出迎えてくれます。

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現在に残る石垣の数々は、16世紀末に入部した中川氏の手によります。
大手門跡から入城し、まずは本丸などが連なる主郭部方向へ進むことにします。

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大手門への石段。
手すりのような、丸く加工された「かまぼこ石」が特徴的です。
ほぞ穴らしきものもありましたが、この上に塀のような構造物を建てるのであれば、基礎の石を丸く加工する意味が分からず・・・謎です。

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石垣の美しさに心を奪われます。

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大手門跡付近からの眺め。
1586(天正14)年の島津氏の侵攻の際、岡城は島津義弘率いる軍勢に攻められましたが耐え抜き、遂には義弘に城の攻略を諦めさせています。
この折、攻める島津軍は眼前に見えている山々に陣取っていたのだとか。

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中川氏改修以前の大手門、となりますでしょうか、、、古大手門跡。
その先は、、、

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堀切になっていました。

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大手門跡を振り返る。

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こちらは主郭部方向。

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但見屋敷跡から民部屋敷、覚左衛門屋敷跡方向。

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但見屋敷跡と城代屋敷・桜の馬場跡の中間付近に位置する虎口。

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城代屋敷・桜の馬場跡で見かけた、通路状の不思議な遺構。

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西中仕切跡付近から三の丸跡の石垣。
岡城の象徴的な光景の一つですね。

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西中仕切跡
この先が三の丸。

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三の丸から二ノ丸の石垣。

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西中仕切越しに城代屋敷・桜の馬場跡方向。
石垣が崩れたのか、下の方にコンクリートで固めた箇所も見えます。

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お城の排水システム。

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本丸、三重櫓跡。

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三重櫓跡から城代屋敷・桜の馬場、更には但見屋敷跡方向。

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三重櫓跡から、城の登城口となる滑瀬橋跡を見下ろす。

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こちらの絵図がわかりやすいですね。

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同じく本丸にある金倉跡。

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金倉跡から東中仕切跡を見下ろす。
片側に落とされた竪堀と、反対方向から伸びる石垣で通路を折り狭める・・・防衛意図がはっきりと見て取れる遺構です。

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その反対側、東中仕切越に本丸方向を見た様子。
正面の石垣上が金倉跡。

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二の丸

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二の丸に建つ「荒城の月」の滝廉太郎像。
幼少期を竹田市で過ごしました。

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二の丸から三の丸方向。
右手奥は覚左衛門屋敷跡。

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清水門跡

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城域の東端、下原門跡付近まで来ました。
この後は引き返し、覚左衛門屋敷跡方面を目指します。

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民部屋敷跡下から覚左衛門屋敷跡。

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埋門もありました。

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覚左衛門屋敷跡。
覚左衛門家は藩主の姓を賜って中川を名乗っていますが、遡ると古田織部に繋がる家系なのだそうです。
奥に見える櫓台のような石垣の先には、結構規模の大きな堀切もあったのですが、、、

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写真にすると、なんのこっちゃ!ですね…(;^_^A

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覚左衛門屋敷跡から主郭部方向。
どこまでも石垣が連なる絶景です。

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近戸門跡
岡城の搦手口とされていました。

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門扉を開閉するための、石のレールも残っています。
(大手門跡にもありました)

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是より内、たいまつともす事、くわえきせる、堅停止
実際に近戸門は一度、1765(明和2)年に消失しているそうです。

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近戸門付近から西の方角。
正面の少し高くなっているところは騎牟礼城跡。

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民部屋敷跡を経由して西の丸へ向かいます。
石垣のRがとても美しいです。

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西の丸の櫓台のような石垣を遠望。

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西の丸の石垣。
一番最初に駐車場から見上げた箇所です。
下からはわかりませんでしたが、先の方には堀切も見えています。

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その堀切。

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そして、スタート地点の大手門跡まで戻ってきました。

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最後に滑瀬橋跡へ向かってみましたが、生い茂る藪のために断念。

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かまぼこ石を乗せた石垣塀も見えているし、肉眼ではルートも薄ら確認できたのですが仕方ないですね。

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城下町に出て、、、

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銭湯(その前は塩蔵)だった建物を利用した食事処でお昼をいただき、竹田市をあとにしました。

この後は臼杵へ向かいます。

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2026年6月25日 (木)

戸次川古戦場 大分の旅④

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鏡城跡から戸次川古戦場一帯を見晴るかす。
対岸の山で一番高くなっている辺りが鶴賀城跡。

1586(天正14)年12月、北進してきた島津家久率いる薩摩軍に包囲された鶴賀城救援のため、豊臣秀吉に派遣された仙石秀久、長宗我部元親、十河存保ら上方勢(四国連合軍)は戸次川(現大野川)を挟んだ対岸のここ鏡城に着陣します。

この地より北(写真左方向)には大友氏の本拠・府内へと続く平野が広がっており、鶴賀・鏡の両城は府内の南方を守る最後の砦、死守すべき防衛ラインとなっていました。
実際に現地に立ってみるとわかるのですが、鏡城からは包囲される鶴賀城の様子がありありと見て取れたと思います。

秀吉からは軽率な行動を戒める書状も届いていましたが、包囲される鶴賀城の様子を見た仙石らは12月12日、戸次川の渡河を決行し、鏡城対岸の河畔一帯で島津軍との激しい戦闘が繰り広げられました。

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仙石らが渡河したのは果たして、この辺りだったのでしょうか。

鏡城跡からの光景を目にした途端、当時の様子がまざまざと目に浮かぶようで否が応でも興奮を覚えました。
我々も戸次川を渡河し、まずは包囲される鶴賀城を目指します。

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鶴賀城縄張り図
途中の細い林道で車が脱輪するトラブルもあり、JAFを待つamさんには申し訳ないことになりましたが、他のメンバーと右(東)側の三ノ丸下から二ノ丸を経て本丸を目指します。
戸次川の合戦が勃発する時点で既に、二ノ丸辺りまで島津軍に占拠されていたとも云います。

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林道伝いに二ノ丸付近まで来た辺りだったかと・・・土塁らしき痕跡が見えてきました。

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二ノ丸跡に建つ城址碑

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裏には当時の城主、利光越前守宗魚の名も。

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二ノ丸の土塁

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更に進んで、本丸下の堀切。

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竪堀として奇麗に落とされていました。

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本丸の周囲にはこうして、畝状竪堀が幾重にも施されていたようです。

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その畝状竪堀。
写真では厳しいですが、実際の目には奇麗に見えていました。

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鶴賀城本丸跡

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本丸から、先ほどまでいた鏡城の方向。
当時は目の前の木々もなかったでしょうから、籠城する城兵らには戦闘の推移が手に取るようにわかったことでしょう。

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戻りがてら、本丸周囲の畝状竪堀を下から。

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先の縄張り図で、幾重にも折り重ねられた横堀のように描かれていた箇所。
本丸の虎口にも繋がっていたようなので、城道だったのでしょうか。

さて、鶴賀城から下山した後は、戦死した長宗我部信親の墓所へ向かいます。

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長宗我部信親のお墓
元親期待の嫡男でしたが、戸次川の乱戦の中で命を落とし、短い生涯を閉じました。享年22。

・・・・・抑弥三郎字
儀利三迄令申候処御披
露を以被成下 御朱印
殊更 信御字拝領候
名聞面目不過之誠忝
次第是非無所可申上候
長曾我部元親書状石谷頼辰宛(石谷家文書)
※スペースは闕字

次に字の儀信を遣わし候、即ち信親然るべく候
織田信長書状写長宗我部信親宛

信親の「信」の字は紛れもなく織田信長から拝領した偏諱であり、個人的にも思い入れがある武将です。
この虎口を脱していたら、果たしてどれほどの武将に成長していたのかと思うと残念でなりません。

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十河一族慰霊碑も

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鎧塚

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少し場所を移動して、今度は長宗我部信親終焉の地へ。

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長宗我部信親終焉の地
貴重な「石谷家文書」を遺した石谷頼辰(明智光秀重臣・斎藤利三実兄)も信親とともに出陣し、この地で戦死を遂げています。

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戸次川古戦場全景
左に鶴賀城、右が鏡城。

かねてよりの念願だった戸次川古戦場巡り、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。

・・・おまけ
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戸次川古戦場巡りの途中、こちらの勝光寺にも寄らせていただきました。
なんとこちら、歌手の南こうせつさんのご実家で、ご住職はお兄さんにあたる方なのだそうです。

この後は一旦ホテルへ戻ってから別府まで移動。

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ヒットパレードクラブでお酒と音楽を楽しみつつ、、、

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夜の温泉街を散策したりしながら過ごしました。

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別府タワー
明日はどんな一日になるでしょうか。

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2026年6月24日 (水)

大友氏遺跡 大分の旅③

大分駅でオフ会の仲間と合流した後は、膝を負傷した私の傷薬を購入したりしてから車で小移動。

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大友氏遺跡へ。

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まずはボランティアガイドの方の案内で、大友館跡を巡ります。
この日は偶然にも大友宗麟の命日(1587年旧暦5月23日)だったこともあり、鶴崎踊りの奉納が行われていました。

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おもて(主殿)跡付近から、東の大門跡(看板の辺り)方向。
その先には町屋が広がっていたそうです。

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振り返ると、大友氏の詰の城・高崎山城・・・ちょっと遠いね(笑)

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こちらの白い玉砂利は、発掘で判明した建物(らしき)跡を示しているそうです。
確かにラインが真っすぐになっていますが、直線に揃えなかったのはなぜでしょう?

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三ケ月形の小さな池。
右の平坦な区画もやはり建物跡で、右に続く庭園との位置関係から、庭園を望む茶室だったのではと想定されています。

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その庭園。
出土した植物の種子等も参考にしながら植栽まで想像復元されています。
この地で宗麟と面会したフランシスコ・ザビエルも眺めたでしょうか。

大友館跡、なかなか見どころの多い遺跡でした。

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続いては大友館跡から南へ1㎞ほど、上野台地の北端に築かれた上原(うえのはる)館跡へ。
車を停めると早速、南面の土塁が出迎えてくれます。

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上原館跡も大友氏遺跡を構成する遺跡群の一つです。
大友氏館と意見が分かれるところですが、有名な「二階崩れの変」の舞台としても有力視されているようです。

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土塁の上から。
両サイドがぐっと下がって高低差がはっきりとしています。

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北側の館内部も今は宅地に。

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西山城(上原館の別名)大友屋形址

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この土塁だけでも一見の価値ありです。

この後は大分でしか展開していないという「鳴門うどん」で美味しいうどんをいただいた後、戸次川合戦の舞台へ向かいます。

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2026年6月23日 (火)

佐川官兵衛の墓参 大分の旅②

前乗りの夜も明け、大分オフ初日の朝を迎えました。
合流前の朝の散策に、大分から電車で1駅の牧駅で下車、そこから15分ほど歩いて、、、

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大分縣護國神社へやってきました。

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緑深い参道を進み、まずは参拝。

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資料館のような寄須処前に展示されていた、弾痕の残る鉄扉。
旧第十二海軍航空廠高城発動機工場第六工場の扉で、米軍機による機銃掃射の痕が数多く残ります。

・・・この大きな鉄扉を振り仰ぎながら石段を下りていたところ、石段下の窪みに気づかずに足を取られ、横倒しになるほど、もう信じられないくらい派手に転びました。
足首は捻って捻挫するし、膝は大きく擦りむくし、ズボンには穴が開くし、、、とんだ災難でした。
よそ見には厳重注意です(-_-;)

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展望所のような場所からの眺め。
工場群の向こうには別府湾も見えています。

さて、護國神社を訪れた一番の目的の場所へ向かいます。

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参道の石段を下った先、参道から横へそれた場所にそれはあります。

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西南の役における政府軍戦死者たちの墓地です。
正面奥、向かって左端に目的の人物は眠っていました。

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元会津藩家老、佐川官兵衛のお墓です。
明治10年に勃発した西南戦争の折、佐川は豊後口警視隊一番小隊長として従軍しています。

明治10年3月18日、阿蘇二重峠の薩摩軍陣地に切り込んだ佐川は激戦のさなか、胸に被弾して壮絶な戦死を遂げました。
墓石の横には彼の命日も刻まれています。

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こちらには「豊後口警視隊一番小隊長」とでも彫られていたのでしょうか。
「豊後口警」までは読み取れました。

さて、それでは大分駅に戻って仲間たちと合流します。

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2026年6月22日 (月)

府内城 大分の旅①

2026年5月23~25日は久しぶりの歴旅オフ!
今回の旅の舞台は大分で、個人的には2023年の長崎~熊本以来、2年半ぶりの九州入りとなります。

5月22日、現地前入りのため、早朝に自宅を出発。
羽田から空の旅で大分空港に降り立ち、高速バスへ乗り継いで大分駅前に到着したのは午後1時過ぎ。

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大分駅前で出迎えてくれた大友宗麟像。

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さすがはイエズス会布教の拠点!
本当にBVNGOに来たんだなぁ~とテンションも上がります。

この後は駅近くのTOKIWAで土産物を手配し、旅の拠点となるホテルへ一旦チェックイン。
荷物を置いて身軽になってから、、、

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ホテル近くの府内城へ。
16世紀末の慶長年間、福原氏によって築城され、関ヶ原合戦後に入封した竹中重利(半兵衛重治の親類)が改修、初代府内藩主となりました。
築城にあたっては海に面した大分川河畔の「荷落」の地が選ばれましたが、福原直高はこれを「荷揚」と改め、荷揚城とも呼ばれました。
上写真は手前から、西丸西南隅櫓・宗門櫓(現存)・大手門・東丸着到櫓。

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大手門前に建つ道路元標。
奥の石垣の足元では、大きなアオサギが日光浴をしていましたが…見えますか?

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大手門
ここからは入城せず、まずは外周を反時計回りに進みます。

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帯曲輪から東丸や本丸の石垣を望む。

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扇櫓という扇状の平櫓が建っていたという辺り。
その奥には天守台も見えています。右は現存の人質櫓。

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山里丸(現松榮神社)と西丸を結ぶ廊下橋。

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廊下橋復元工事に伴う発掘調査で出土した、築城当時の慶長期石垣。

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慶長期絵図に見える⇦部分ですね。

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廊下橋を渡った先の見事な桝形。
冠木門の礎石もしっかり残っています。

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四層の天守が建っていたと云う天守台。

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天守台から扇櫓跡越しに、先ほど歩いてきた帯曲輪方向。

ほんの小一時間程度の散策でしたが、十分に楽しめました。

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2023年12月16日 (土)

田原坂

田原坂の戦い
明治10年(1877)に勃発した西南戦争。
2月22日より熊本鎮台の置かれた熊本城攻撃を始めた薩摩軍は、熊本鎮台救援のために小倉・博多方面から南下してくる政府軍に備え、迎撃部隊を派遣します。
田原坂北方の木葉・高瀬などでの戦闘を経て、薩摩軍は要害ともいえる地形を活かして田原坂に布陣し、3月4日から20日までの17日間に及ぶ激戦が繰り広げられました。

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田原坂公園に建つ崇烈碑。
明治13年(1880)、国の主導で建てられた西南戦争の顕彰碑です。
篆額と撰文は、征討軍総督の有栖川宮熾仁親王によります。

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弾痕の家
田原坂の頂上付近にあった土蔵で、戦いの直後に上野彦馬(旅の初めに長崎でお墓参りしました)が撮影したものと、明治13年頃に撮影された別の写真を元に復元されました。
数多くの銃弾の痕も再現されています。

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田原坂西南戦争資料館前から、政府軍が陣取った二俣台地を望む。
谷部を挟んだ対岸の右手、少し開けている辺りは二俣瓜生田官軍砲台跡。この距離間で砲撃戦や、抜刀隊による白兵攻撃も繰り広げられました。
そこから尾根伝いに左へ視線を移し、少し高くなった場所が、その帰趨をめぐって激戦が展開され、田原坂の戦いの行方をも決定づけることになる横平山です。

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それでは早速、田原坂を下っていきます。
写真は三の坂に差し掛かる辺り。

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二の坂。
道幅は当時も4mほどで、熊本へと続くルート上で唯一、大砲を引き上げることのできる道だったとも云われています。

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一の坂。
道が深く掘り込まれ、屈曲によって先が見通しづらくなっている様子がよくわかります。
薩摩軍はこうした利点を活かし、道の両側の高所から、突破を試みる政府軍を迎え撃ったことでしょう。

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一の坂下まで下ってきました。
今度は突破を試みる政府軍の目線で、少しだけ登り直してみます。

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道の脇の竹藪は坂に合わせて段々の平坦地になっており、道に面して土塁のような高まりが連なっていました。
但し古写真を見る限り、戦争当時、周辺一帯は耕作地だったようなので、その名残かと思います。
いずれにしても、この両脇に銃を構えた薩摩兵が待ち構えているかと思うと、この坂を攻め上るなど恐怖以外の何物でもありません。

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田原坂の麓に架かる豊岡眼鏡橋。
享和2年(1802)の築造です。多くの兵士たちもここを行き交ったことでしょう。

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豊岡眼鏡橋からの田原坂遠景。

小倉・博多方面から熊本を結ぶルートは主に山鹿口・田原坂・吉次峠の3つで、そのいずれでも激戦が展開されています。
政府軍はその中でも坂が少なくて距離も短く、道幅も広い三池往還ルートに主力を投入しました。その最大の難所が、豊岡台地へと続く田原坂でした。

豊岡眼鏡橋からの高低差約80m、頂上までの距離1.5㎞ほどが、「こすにこされぬ・・・」と詠われた激戦の舞台となりました。

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こちらは田原坂資料館にもほど近い田原熊野座神社。
ここでも3月8日と15日に戦闘が繰り広げられ、社殿も兵火に見舞われました。

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薬莢が境内の南北端から集中して出土していることから、両軍は写真のこの距離間で銃を撃ち合ったと考えられています。その間、僅かに60m。

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両軍に挟まれた境内中央の参道に建つ石灯籠には、数多くの弾痕も残っています。

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田原熊野座神社近くに建つ、田原の五輪塔。

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「建治3年」(1277)「田原寺」の銘があり、こちらにも多数の弾痕が残されています。

続いて、今度は主に政府軍側が陣取った二俣台地上をめぐります。

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二俣瓜生田官軍砲台跡。
正面に田原坂西南戦争資料館、そこから左へと続くのが田原坂。
摩擦火管の他、砲座や大砲の轍跡も確認されています。
史跡としての整備が大々的に進められているようで(広い駐車場も設置されていました)、両軍の距離感を肌身に感じることができます。

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官軍本営出張所址。
こちらにも整備に着手したような形跡が窺えました。

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二俣古閑官軍砲台跡。
やはり摩擦火管がみつかっているようです。
民家に隠れて田原坂は望めませんが、資料館は微かに見えています。
そして、こちらも整備が進められていました。凄い力の入れようです。

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二俣古閑官軍砲台跡から南へ視線を移すと・・・
薩摩軍の重要拠点の一つ、横平山がもう至近の距離に!?

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薩軍兵站の地と湧水池
横平山の麓に位置します。
周辺では唯一の水源で、水を求めてやってきた負傷兵の血で真っ赤に染まったと云います。

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二俣台地の後背に位置する横平山の戦略的重要性を認めた政府軍は、3月9日よりその攻略に着手します。
それでは早速、登ってみましょう。

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横平山に残る塹壕跡。
政府軍が陣取る瓜生田や古閑の方向へ向けられています。

3月9日から始まった横平山の争奪戦は特に苛烈を極め、戦局は一進一退、抜きつ抜かれつを繰り返しました。
その帰趨は同15日に決着を見ます。

15日早朝、薩摩軍の急襲により、政府軍は横平山からの撤退を余儀なくされます。
そこで政府軍は戦局打開のため、14日より七本柿木台場など豊岡台地に点在する薩摩軍陣地攻略に投入した選りすぐりの警視抜刀隊約100名余りを再編成してここでも投入し、彼らの奮迅の活躍もあって横平山は再び陥落、政府軍の掌中に帰しました。
しかしその被害も甚大で、戦死33名、負傷50名、軽傷負わざる者無しという壮絶なもので、警視抜刀隊は精鋭を殆ど失い、横平山での政府軍戦死者は224名にも上りました。

警視抜刀隊
士族出身の薩摩兵に対し、徴兵による政府陸軍の兵卒は特に接近戦に於いて歯が立たず、対抗措置として、やはり士族出身者の多かった警視隊巡査の中から選ばれた精鋭。
この時の奮戦ぶりを讃え、後に軍歌「抜刀隊」も作曲されました。

※警視隊には会津の出身者も多く、佐川官兵衛や元新選組・斎藤一こと藤田五郎も豊後口警視隊として参戦(佐川は阿蘇にて戦死)し、警視隊ではないものの山川浩(戊辰戦争でも会津軍の指揮官として活躍した山川大蔵。率いる部隊の先頭に彼岸獅子を舞わせ、城を包囲する新政府軍を欺いて鶴ヶ城入城を果たすという離れ業を演じました)は陸軍参謀として西南戦争に従軍して熊本城救援に駆けつけ、ここでも見事、戦火の中を潜り抜けて入城を果たしています。

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横平山からの田原坂遠望。
横平山を落とし、二俣台地に連なる地を掌握した政府軍は田原坂方面(豊岡台地)への砲撃・攻勢を強め、そして3月20日に最後の総攻撃をかけることになります。

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七本柿木台場(薩摩軍)
豊岡台地上、田原坂の背後を守るような占地で、3月20日の政府軍総攻撃で陥落します。
これにより薩摩軍の防衛ラインは崩れ、政府軍の攻撃を支えきれなくなった田原坂の戦線もついに崩壊しました。

戦後、近隣住民が散在する薩摩兵329名の遺体をまとめて改葬し、現在は薩摩軍墓地となっています。

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雨は降る降る
じんばはぬれる
こすにこされぬ
田原坂

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こちらは七本官軍墓地。
300名余りの政府軍戦死者が眠ります。
一人一人に墓石も建てられ、「賊」とされた薩摩兵の墓地との違いは明白です。

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熊本県民のソウルフードという「おべんとうのヒライ」で腹拵えした後は、田原坂の前哨戦ともいえる木葉の戦いのあった方面へ向かいます。

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稲佐熊野座神社

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境内にひっそりと建つ薩軍砲陣跡碑。
田原坂に戦線が移る前の木葉の戦い(2月23日)か、高瀬の戦い(同25日~)の時に布陣したものと思われますが、いずれかは判断がつきませんでした。

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境内の大梛には弾痕も残っていたそうですが、残念ながら何らかの理由で既に伐採されていました。

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高月官軍墓地
980名余りもの政府軍戦死者が眠ります。

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有栖川宮督戦の地
政府軍は戦線が田原坂へ移った後に本営を木葉に置きましたが、征討総督有栖川宮熾仁親王はその木葉の本営から度々近くの高台へ登り、この地から戦闘の様子を観戦したと云います。

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確かに田原坂や二俣台地も・・・

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そして、吉次峠もよく見えました。

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宇蘇浦官軍墓地に眠る、谷村圭介伍長の墓。
谷村圭介伍長は2月21日、熊本城の電信が断線したため、玉名に駐留する第一旅団へ戦況と作戦計画を伝えるための密使として派遣され、途中2度も薩摩軍に捕らわれるものの切り抜け、見事に任を果たします。
しかし3月4日、田原坂の戦いの緒戦に志願して参戦し、敵塁に突撃して戦死しました。
戦後「軍人の鑑」と評され、あやかろうとする者が墓の欠片を持ち帰ろうとするため、鉄枠で保護されました。

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こちらは吉松秀枝少佐の墓。
熊本鎮台小倉第14連隊(連隊長心得乃木希典)の第3大隊長で、2月23日の木葉の戦いで戦死しました。

なお、宇蘇浦官軍墓地には警視抜刀隊64名を含む398名が祀られています。

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徳成寺
官軍病院址の石碑が目に入って立ち寄りました。

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日赤発祥之地ともされており、屋根にも赤十字のマークが。

17日間に及んだ田原坂の戦い。その戦死者は両軍合わせて2800名余りにも上ります。
特に攻める側の政府軍にとって厳しく、1700名というその戦死者は、7ヶ月間に及んだ西南戦争全体での戦死者の1/4にも相当しました。
西南戦争はその後、9月24日の西郷隆盛自刃を以って終結します。

さて、これにて4泊5日に及ぶ私の長崎~熊本の旅もフィナーレを迎えました。
天候にも恵まれ、何一つ不足のない、全てやり切った感のする充実の旅となりました。
これもひとえに旅を共にし、何から何までお世話してくださった同行者たちのお陰。改めて感謝いたします。
・・・と同時に、次回もよろしくお願いいたします!(笑)

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2023年12月15日 (金)

復興進む熊本城

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熊本市で迎える旅の最後の朝は、個人的に16年ぶりとなる熊本城散策から。
2016年4月の震災で倒壊した長塀は、見事に復旧していました。

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清正公さんにもご挨拶。

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二ノ丸跡に建つ、神風連 加屋霽堅 齋藤求三郎等 戦死之跡碑。

神風連の乱
明治初期に頻発した不平士族の反乱の一つ。
明治9年(1876)10月24日、明治政府に強い不満を抱く熊本の士族(旧肥後藩士)・加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名で構成された敬神党は深夜、熊本鎮台司令長官・種田政明、熊本県令・安岡良亮らを殺害し、熊本鎮台をも襲撃して一時、砲兵営を制圧しました。
しかし翌朝には政府軍の反撃を受け、加屋・斎藤らは戦死、その他も多くが戦死や自刃に追い込まれ、敬神党は壊滅します。
「神風連」とは、この敬神党に対する蔑称だったようです。

この後、熊本鎮台司令長官には大山巌の“繋ぎ”を経て、翌年に西南戦争を戦うことになる谷干城が就くことになります。
新風連の乱は、西南戦争にも少なからぬ影響を残したことでしょう。

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震災で受けた甚大な被害の痕跡が今もなお、随所に色濃く残る熊本城。

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宇土櫓は10年にも及ぶ解体修理工事に入りました。

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痛々しい限りです。

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しかし、大天守・小天守は早くも見事に蘇っていました。

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本丸御殿の床下を潜り、空中回廊(特別見学路)へ向かいます。
写真は、震災後は立ち入ることができなくなっている闇り通路。ライトアップで飾っていました。

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大雨で地面が陥没したことにより判明したという、東竹の丸の井戸跡。

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二様の石垣越しに大天守。

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戦う熊本城の“本気”を窺わせるかのような、連続する枡形。

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数寄屋丸の石垣も崩れていますね。

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しかし、飯田丸五階櫓の石垣は修復が終わったそうですし、冒頭の長塀や天守など、復興に向けた力強い歩みも感じられました。
震災後はじめて訪れましたが、部外者ながら訪問前よりもポジティブな感情が大きくなったような気がします。

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最後に市役所の展望室から熊本城を俯瞰。

熊本城には明治時代、熊本鎮台が置かれ、西南戦争の舞台になったことでも知られています。
特に写真の左奥方向(西)にあった段山(だにやま)は、薩摩軍にとって至近距離から城内を砲撃できる好立地であり、それだけに鎮台(政府)側にしてみれば弱点となる訳で、戦いの最前線で激戦地になったと云います。

さて、それではいよいよその西南戦争の激戦地の一つとなった田原坂へ向かいます。

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2023年12月14日 (木)

日野江城(おまけで島原城)

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原城に引き続き、今度は有馬氏の本城・日野江城を攻めます。
本丸の東側に連なる二ノ丸曲輪群を上がっていきます。

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階段状の遺構が発見された箇所。
イエズス会の報告書にも、有馬晴信が石垣や階段を築いていたことが記されています。

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ところどころ、いい石垣を目にすることもできましたが・・・

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全体としてはこんな感じ。。。

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階段遺構は、更に上の段まで続いています。
(石垣の間の坂)

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本丸直下の曲輪に残る石垣。

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日野江城から原城を望む。。。

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削平が甘く、斜めになっているけど・・・これも段曲輪か?

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本丸
背後の土塁が立派です。

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その土塁の背後は、自然地形の切り立った崖になっていました。
この先に三ノ丸曲輪群が続いているそうですが、時間切れのため切り上げます。

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その後は、島原城天守のライトアップをカメラに収めてから島原港へ。

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雲仙普賢岳、そして長崎県に別れを告げ、フェリーで熊本へ渡りました。

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熊本で迎える旅の最後の夜は、名物の馬刺しで乾杯。

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