カテゴリー「お城、史跡巡り 九州・沖縄」の23件の記事

2019年10月31日 (木)

火災に見舞われた首里城によせて

2019年10月31日の未明、首里城の正殿・北殿・南殿をはじめとする計7棟が火災で全焼するという、大変にショッキングなニュースが飛び込んできました。
まだ当日のことで詳しいことはわかりませんし、そもそも出火原因や防火対策等について云々する意図で記事にした訳でもありません。
2017、2018年と2年続けて沖縄を訪問させていただき、その壮大なスケール・壮麗な佇まいに感動した首里城の主要部が失われたことがあまりにショックで、ただただ悲しく、その思いを綴っておきたくて筆を執りました。

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在りし日の首里城正殿と、左に北殿。
(2017年1月撮影。以下同)

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南殿

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正殿二階、御差床。

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正殿の地下に眠る遺構。
今となっては、こうした地下に眠る埋蔵文化財への影響が少ないことを祈るのみです。

これまで続けられてきた首里城の復元事業は、何よりも首里城や沖縄の歴史・文化に対する沖縄の方々の強い思いがあってのものと思います。
いつの日かまた、これらの建物が再建されて首里城がその雄姿を取り戻し、沖縄の人々の思いが結実する時が来ることを願って止みません。

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2018年3月29日 (木)

沖縄遠征2018 ~エピローグ~

今年の沖縄遠征も最終日。

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この日のスタートはロワジールホテルの裏手にある、三重城(ミーグスク)からです。

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三重城主郭

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所々に残るこれらの石垣は、城壁の名残でしょうか。

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三重城は那覇港に面して築かれた台場でした。
港湾防衛の要として行き交う船の管理・監視を担い、琉球の交易を支える存在だったことでしょう。

お次は本当最南端まで移動し、糸満市の上里城(ウエザトグスク)へ。
近くにはひめゆりの塔や、昨年訪れた具志川城、米須城などがあります。

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上里城には、こちらの拝所脇の小道を入っていくのですが・・・なかなかのジャングル具合で、ハブには最大級の警戒が要りそうです。。。我々もかなり慎重に進みました。

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ジャングルの中にひっそりと眠る、上里城の石垣。

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そのコーナー部分

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樹木が生い茂って石垣の全体を見通すことは難しいですが、グスク特有の曲線を描いている様子は把握することができました。

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平坦な郭内にも低い石垣があり、その奥も郭(主郭)になっています。

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主郭から、一つ前の写真の郭方向。
こうして郭を低い石垣で仕切るのも、グスクの特徴の一つなのでしょうか。

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主郭の先はド藪ですが、深い谷になっています。
谷の先にもグスクの痕跡が残っているとのことでしたので、車で回り込んで行ってみることにしたのですが・・・

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グスクの痕跡を求め、道なき道を進んだものの・・・

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高くそびえる絶壁に行く手を阻まれ、あえなく断念。

この後は高速で一気に北上し、名護城(ナングスク)を目指したものの・・・

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少し手前の許田の辺りで渋滞にハマり、私の帰りのフライト時間が早めだったこともあって、こちらも断念することに。
海が信じられないくらいに美しかったです。。。

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沖縄自動車道を読谷村まで引き返し・・・
(写真はその道中に通りかかった、護佐丸ゆかりの山田城跡の案内板)

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こちらのお店で昼食。

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最後は昨年訪れた座喜味城近くの、やちむんの里へ。
やちむん(焼物)の里は工房が集まって集落を形成したような場所で、写真は共同の登り窯です。

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ここで各々お気に入りの焼物や、琉球ガラスの製品などを購入して旅の〆となりました。

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とても愛想よく相手をしてくれたワンコ。

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今年の沖縄旅も充実して、楽しいものとなりました。
いずれまた再訪するチャンスもあるでしょうが、藪のグスクはもう勘弁かな・・・(^_^;)

今回で2年連続の沖縄訪問となった訳ですが、今はまだ戻ったばかりということもあり、来年以降については何も考えられません。
この先も、自らのライフワークとなっている織田信長や新選組の足跡を辿る旅を続けつつ、ゆっくりと「沖縄」や「グスク」に対する自らの熱を確認してから検討したいと思います。

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2018年3月28日 (水)

沖縄遠征2018 ~久米島(後編)~

前編からのつづきです。

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比屋定バンタから尾根続きのような細い道をしばらく走ると・・・いよいよ眼前に宇江城城が迫ってきました。
逆光になってしまいましたが、肉眼では麓からでもはっきりと石垣が確認できました。

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久米島の最高峰・宇江城岳(310m)に築かれた宇江城城
これほどまでに典型的な「山城」といった立地のグスクを、私は初めて目にしたかもしれません。
それもそのはず、宇江城城は久米島のみならず、沖縄県内でも最高所に築かれたグスクなのだそうです。

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三の郭とされる場所に車を停め、二の郭、一の郭と観ていきます。

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二の郭から見上げる、一の郭の石垣。
グスク特有の曲線美が天空にそびえ、とにかく見栄えがします。

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足元の一段下、主郭部の外縁にも城壁らしきものが見えていました。

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一の郭から二の郭、及び三の郭(駐車スペース)を見下ろす。

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一の郭の城壁

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一の郭

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一の郭の城壁際にあったこちらは・・・貯水施設でしょうか?拝所??

伊敷索按司の長男・久米仲城(クメナカグスク)按司によって築かれたと云う宇江城城。
伊敷索一族の繁栄を支えたことと思いますが、16世紀初頭には琉球王国からの遠征軍の攻撃を受け、激しい抵抗の末に落城しています。

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宇江城岳から下山した後は、すぐ北にある県立自然公園へ向かい、遊歩道で断崖を海へ向かって下りていきます。
海面が近づいてくると、目的のものも見えてきました・・・

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天宮城(アンマーグスク)
柱状節理を横にしたような地質の奇岩で、石垣を積んだような岩肌をしていることからその名で呼ばれます。

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天宮城を下から。
かなり海風の激しい場所で、風の浸食による形状であることは、容易に想像がつきました。

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そのまま海岸まで下り切り、もう一つの奇岩で名勝にも指定されている「タチジャミ」にも向かおうかと思いましたが、思いの外距離がありそうで、後の行程を考えてパスすることとなりました。

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ミーフガー(女岩)
風や波による浸食でできた奇岩で、子宝に恵まれない女性にご利益があると崇められてきたのだそうです。
我々の目指す具志川城跡の目の前にありましたので、ちょっと立ち寄ってみました。

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そして具志川城

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具志川城は真達勃(マダフツ)按司によって築城されたと伝えられます。

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具志川城の城壁のずっと先に、先ほどのミーフガーも見えています。

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あちらの城門から城内へ入ります。

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三の郭から城門を振り返る。

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四の郭(手前)から三の郭方向。奥に城門。
郭間を低い石垣が横切ります。

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この仕切りの石垣は二の郭(写真奥)の石垣まで伸び、二・三・四の各郭を仕切る石垣がT字のようになっています。

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二の郭から三の郭方向。

真達勃の子・真金声(マカネゴエ、マカネクイ)按司が城主の時代、久米島で勢力を伸ばしつつあった伊敷索按司の次男・真二古樽(マニクダル)按司によって攻められ、具志川城は落城します。
真金声按司は沖縄本島南部の喜屋武岬近くの地へ逃れ、そこに城を築いて郷里と同じ名をつけたと云います。
参照記事

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糸満市の具志川城も久米島のものも、共に海に面した段丘・断崖上という立地で、船を係留できる岩場の存在も確認されています。
全体的な構造、雰囲気もどことなく似ているように感じました。

昨年、糸満市の具志川城を訪れてその成り立ちを知り、それならば真金声按司が元いた久米島の具志川城にも行ってみよう、となったのが今回の旅のきっかけ。
とても素晴らしい城跡で、訪問が実現して本当に良かったと思います。

さて、久米島での最後の行程は、ちょっと変わり種で・・・
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こちら、おばけ坂
平成2年頃、ギアをニュートラルに入れて停車していた車が、何故か上り坂に向かって進むという現象が起きたことから話題になったそうです。

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先頭で屈んでいる同行者のいる辺りが坂の鞍部。
その先は上り坂に見えるのに、何故かニュートラルの車が進む、というのですが・・・。
現地の案内板には、周囲の風景や勾配などで引き起こされる錯覚ではないか、ともありましたが、実際に歩いてみた体感では錯覚でも何でもなく、上り坂だったような・・・?
※後日、某動画サイトで検証している動画を観ましたが、写真のガードレールの先は下り坂だったようです。我々も錯覚を起こしていたのですねぇ・・・。

なお、案内板には島の古老の言い伝えとして、宇江城城の攻防で命を落とした兵士の霊が、戦場だったこの辺り一帯を彷徨って引き起こしている現象ではないか、ともありました。

日帰りとはいえ、とっても満喫しました、久米島

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さ、那覇へ帰りますか☆
空港でフライト時間を待ちながら何気なく海を眺めていると、偶然にも遠目に鯨のジャンプする姿を目撃しました!
きっと鯨もお見送りに来てくれたのでしょうね。いい久米島旅の締め括りになりました♪

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無事に那覇へ戻った後は、昨年もお邪魔したこちらのお店で乾杯☆
お料理がどれも美味しく、アットホームでとても雰囲気のいいお店です。好物の人参シリシリも堪能しました。

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2018年3月27日 (火)

沖縄遠征2018 ~久米島(前編)~

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沖縄の旅2日目は早朝、宿から歩いて波上宮への参拝からスタートしました。
琉球八社の一つで、その最上位に格付けされています。

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那覇市内唯一の砂浜、波の上ビーチから見上げる波上宮。
波上(ナンミン)は古くから景勝地としても知られた地で、波上宮はこの地を聖地・拝所として、ニライカナイの神々に祈りを捧げたことに始まるとされます。
第2次大戦で社殿は灰燼に帰しましたが、昭和28年、ハワイの人々の尽力によって再建されました。

波上宮参拝を終えた後は那覇空港へ移動し、最後のメンバーとも合流。

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恐らくは人生初搭乗となるプロペラ機で、いよいよ久米島へ渡ります。

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プロペラ機の機内。
高速バス程度の広さですが、新しいのか清潔感もあり、なかなか快適な乗り心地でした。

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高度を上げて水平飛行している時は安定していたものの・・・
着陸に向けて高度を下げていくに連れ、揺れが結構激しくなりました・・・(^_^;)
(写真は渡嘉敷島上空からの眺め)

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飛行時間僅か30分弱で久米島空港に到着!

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レンタカーを確保し、まず最初に向かったのは久米島博物館。
博物館のすぐ横に伊敷索(チナハ、イシキナハ)城があるのですが、まずは博物館を見学。

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久米島の城(グスク)マップ

久米島には14世紀末頃から按司(アジ、アンジ)と呼ばれる支配層が現れ、各地に城(グスク)を築き始めます。
そして、中山王の系統をひくと云われる按司は伊敷索に城を築いて拠点としました。
この伊敷索按司は徐々に勢力を広げ、長男を宇江城(ウエグスク)に、次男を具志川、三男を登武那覇(トンナハ)に配して久米島全域にその勢力圏を広げていきます。
ところが16世紀初頭、三山を統一した琉球王朝の尚真王の命で久米島の按司は討伐され、それ以降久米島は琉球王国の支配下に治められることになりました。

今回、我々もこれら伊敷索・宇江城・具志川・登武那覇の各グスクを中心に、久米島の名所などをめぐっていきます。
まずは、博物館の目の前にある伊敷索城から。

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伊敷索城、虎口を抜けた先の郭内。
立派な石垣が取り囲みます。

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沖縄地方の石垣、やはり独特ですね。

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石垣を横目に、細長い郭を奥へと進みます。

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郭間を仕切るように低い石垣が横切ります。この奥が主郭。

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主郭の石垣は残存状態も良好で、一段と立派な印象を受けました。

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伊敷索城から北の方角を眺めると、遠くに宇江城城のある宇江城岳が見えていました。
(写真中央やや右奥)

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一端グスクから離れ、お次は奥武島へ。
その道中、あまりの見事な青さに魅せられて撮った1枚。

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ついつい美しい海に目を奪われがちですが、目的はその手前に広がる畳石です。

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奥武島畳石
溶岩が冷えて固まる過程で割れ目(節理)が入り、柱状の岩塊を形成した柱状節理です。
五、六角形の天辺部分だけが地表面に現れ、直径1~2mの柱は地下深くへと続いています。

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こうしてちょっと段差があると、一つ一つが独立した柱状になっていることがわかりますね。

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お昼は畳石近くのお店で、久米島そばをいただきました。

さて、次は登武那覇城へ向かいます。
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中腹の公園に付随した駐車場に車を停めたものの城跡の位置がわからず、間違って山頂まで登ってしまいました。
写真は頂上付近からの眺め。遠くに、はての浜まで見えています。

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実際の城跡は中腹の公園の先端、標柱の奥の藪を掻き分けた先にあります。
ご覧の通り、理由は定かではありませんが、山の中腹の斜面に築かれたグスクでした。

藪の入口があまりにワイルドだったので・・・ハブが怖い私はチャレンジを断念。

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突入した同行者が撮影した、登武那覇城の石垣。
(写真提供:あむさん)

先に述べた通り、登武那覇城には伊敷索按司の三男・笠末若茶良(ガサシワカチャラ)が入れられました。
ところが若茶良は、後に父である伊敷索按司の追討を受けて自害に追い込まれる運命にあります。
この地方には若茶良を唄ったオモロ(歌/沖縄方言の「思い」が語源)が数首残っており、領民に慕われていたことを偲ばせます。

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次の目的地である比屋定バンタへ向かう道すがら、あまりの絶景に思わず車を停めて撮った1枚。右奥にはての浜。

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比屋定バンタ
バンタとは、「崖」や「端」を意味する言葉なのだそうです。
物凄い断崖絶壁から吹き上げる海風がまた強烈で、まともに立っていられないほどでした。

この後は宇江城城へ向かいますが、ここから先は後編へ続きます。

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2018年3月26日 (月)

沖縄遠征2018 ~プロローグ~

3月16~18日、2年連続となる沖縄遠征に出かけてきました。
今回の旅のメインは2日目に渡る久米島ですが、初日は小雨の降る中、首里城周辺を散策します。

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空港からゆいレールで儀保駅まで移動、一部の参加メンバーと合流し、首里城を横目に散策開始。

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琉球王世子の邸宅、中城御殿(ナカグスクウドゥン)の井戸跡。

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中城御殿跡の石垣塀には、アーチ門らしき痕跡も。

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首里城外郭の継世門
国王が死去すると世子はこの門から城内へ入り、世誇殿で王位継承の儀式を執り行ったことにその名を由来します。

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とても見通しの良い坂道を少し下ると・・・

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こんな標柱を見かけたので、ちょっと立ち寄ってみることにしました。

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推定樹齢200年を超えるアカギの大木が、全部で6本自生しているそうです・・・誰が言ったか「六本木」(・ω・)

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根元には凄いコブ。

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大木それぞれに拝所もありました。これらの大木を崇め、祈りを捧げていたのでしょう。
一昔前までは首里城内や周辺に多く自生していまいたが、その殆どは第2次大戦で焼失してしまったようです。

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続いて県の名勝にも指定されている金城町石畳道を下ります。
尚真王の時代に築かれた軍用道「真珠道」の一部になります。

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歴史と風情を感じさせる、とても素敵な古道です。

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石畳道の途中に金城大樋川(カナグスクウフヒージャー)
金城村の共同井戸で、東側には坂道を上下する人馬が樋川の水で喉を潤すための広場もあったそうです。

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石畳道を下り切りました。

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石畳道の直線上に続く細い坂道を南へ、今度は上っていきます。

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上り詰めて振り返った様子・・・かなり高低差があります。
正面奥には、先ほど歩いた石畳道も見えていました。

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繁多川(ハンターガー)
「端(ハンタ)にある井泉」を意味するとされます。地域の生活用水として利用されてきました。

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メーミチー(前道)に残る石垣塀
戦前から残る石垣ですが、その一部は第2次大戦による空爆で破損しています。
なおメーミチーも「真珠道」の一部だったようで、往時は石畳敷きだったそうです。やはり金城町石畳道から谷を挟んでつづく、歴史ある道だったのですね。

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坊主川(ボージガー)
近くにあった神応寺や識名宮にちなんだものとされています・・・坊主が利用していた泉、ということでしょうか。
大変に美味しい水だったそうで、豆腐作りにも利用されていました。

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ちょいちょい道を間違えながらも、なんとか辿り着いた・・・識名宮
琉球八社の一つで、尚元王長子の病気回復に霊験を得て創建されたと伝わります。
尚賢王の代からは毎年1、5、9月の吉日、国王の参拝が慣例となりました。

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識名宮からタクシーでおもろまち駅まで移動し、安里八幡宮を目指して歩いている際に見かけた琉球コーラの自販機。

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安里八幡宮
こちらも琉球八社の一つです。

安里八幡に参拝したところで、この日の散策は終了。
ゆいレールで宿まで移動し、夜は国際通りへ。

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仕事の関係で2日目から合流する1名を除いたメンバー6名で集合し、久米島入りの前夜祭は楽しく盛り上がりました♪

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2018年1月25日 (木)

またも雪に阻まれた・・・基肄城

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2泊3日の福岡旅、最後の行程は基肄城です。
基肄城は唐・新羅の襲来に備え、福岡県筑紫野市と佐賀県基山町とに跨る基山に築かれた古代朝鮮式山城。
南北に連なる東西の尾根や、その間に開く谷をも総延長4.2㎞に及ぶ土塁や石塁で取り巻いています。

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まずは南麓の水門跡から。
修復・復元された立派な石垣が出迎えてくれました。

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東西尾根間の谷の水を排除するために築かれた水門で、今でも水が流れていました。

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それにしても・・・麓でこの残雪(嫌な予感)

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暗渠の中を覗くと・・・つらら(笑)

続いて、基山山頂付近にある草スキー場の駐車場を目指して車で向かったものの・・・

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案の定、ご覧の積雪でタイヤがスタック・・・仕方なく瀧光徳寺奥之院の駐車場まで引き返し、そこから徒歩で向かうことにしました。

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瀧光徳寺奥之院から草スキー場までは1kmほどの道のり、雪道とはいえ20分程度で到着しました。
草スキー場・・・てか、普通にスキー場じゃん(笑)まずはこの斜面を登らないといけません。。。

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※注)決して自らすすんでダイブしたわけではありません。怖い人に「やれ」と命じられたのです(涙)・・・思ったよりは雪が薄く、飛び込んだ瞬間に顔面を打ちつけて痛かった。。。

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膝下までまとわりつく雪を掻き分け、やっとの思いで到達した尾根上部。
大きな岩が何やら城門を思わせますが・・・雪で構造がよくわかりません。

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天智天皇欽仰之碑
大野城や水城などと共に、基肄城築城を命じた天智天皇を顕彰する碑ですね。

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基山山頂から。
すぐ下に「いものがんぎ」と呼ばれる4連続堀切が見えています。

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4連続堀切が芋畑の畝に似ていることから、いものがんぎと呼ばれています。
お城で雁木(がんぎ)というと階段状のものを連想しますが、畝状のものを雁木と表現するのは初めて知りました。
なお、いものがんぎは基肄城の防塁線上にありますが基肄城の遺構ではなく、後にこの地に築かれた中世山城の遺構です。

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写真では雪の影響もあってわかりづらいですが、近づくと結構な深さがあります。

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畝の淵に沿って遊歩道が付いているのですが・・・見事なS字(笑)

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いものがんぎ越しに基山山頂(左奥)
基山山頂は曲輪跡で切岸も明瞭ですが、こちらもいものがんぎ同様、中世山城の遺構になります。

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基肄椽城跡

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土塁線から少し内側へ下ると・・・見えてきましたね。

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大礎石群
総柱式の建物礎石で、基肄城跡から見つかっている40棟あまりの建物礎石の中でも最大のもの。こちらは紛れもなく、古代の遺構です。
立地や雰囲気などから直感的に、食料庫のようなものが建っていたのかなぁと思いましたが、実際に大宰府政庁付近からは、基肄城に米を備蓄していたことを示す木簡が見つかっているようです。

さて、私の帰りのフライト時間の都合もあり、基肄城めぐりもこれまでとなります。

今回の旅は幾度ともなく雪に阻まれる行程となりましたが、その分、水城をじっくりと見れたり、九州歴史資料館で貴重な出土遺物に触れることができたりと、有意義な旅になりました。
これも案内してくれた九州在住のフォロワーさんや、一緒に旅をしてくれる仲間のおかげですね。今回ばかりは一人だったら2日目以降、何もできなかったかも・・・感謝。
そして、大野城や基肄城にはいずれまた必ず再訪します。

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ラストは離陸直後に撮影した、前日に必死になって登った水城から大野城への尾根筋の写真を載せて終わりにします。

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2018年1月24日 (水)

高良山神籠石

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福岡旅3日目、まずは久留米市まで移動して筑後國一宮、高良大社へ。

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高麗大社境内に残る神籠石の列石

神籠石とは、九州や瀬戸内地方に存在する列石遺構の総称で、一般的には「日本書紀」や「続日本記」に記述がない古代山城の遺構を指すようで、神籠石式山城とも呼ばれています。

引き続き境内から離れて山中に分け入り、この神籠石のラインを辿っていきます。

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高良山の山腹を取り巻く列石
現在確認されている列石の総延長は1.6㎞ですが、未確認の北側などの推定線を含めると4㎞にも及ぶと考えられています。

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延々と続く列石は一旦車道に分断されますが・・・

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車道の先からまた続いていました。

この列石には古代山城の遺構とする説の他に、神域を示すものとする説もあるようです。
678年の筑後国大地震の影響を受けていると考えられることから、少なくともそれ以前には築造されていたと推定されています。

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基本的には一段のみなのですが、一部には二段に積まれている箇所もありました。

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大学稲荷神社の辺りで再び車道に出て、ここから少しの間は列石も車道に沿って進みます。

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車道沿いで一旦土中に埋もれますが、すぐにまた顔を出し、その先はまた山中へ入っていきます。

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竪積みされた列石・・・誰が言ったか、「歯みたい」(笑)

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列石が直角に折れるポイント

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水門跡
もう殆ど崩れてしまっていますが、明らかに人工的に成形された石を積んでいた痕跡は留めています。
こうして谷筋をも包括的に列石(神籠石式)や土塁・石塁(朝鮮式)で取り巻くのが、古代山城の特徴の一つなのでしょうね。

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水門跡の先で、列石は高良大社の参道に出ました。
ここで列石めぐりは終了します。

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高良の神が神馬の蹄跡を残したとされる馬蹄石
中世の縁起書「高良記」には、「この石こそが神籠石で、八葉の石畳(=現在の神籠石列石)の起点・終点である」とあります。
そもそも「神籠石」とは、こうした神の依り代となる石を指す名称でしたが、その近くにあった列石と混同して報告されたために、列石の方を神籠石と呼ぶようになったのだとか・・・現在、列石の呼称の見直しも検討されているのだそうです。

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列石を辿ってかなり下りましたので、参道を登って駐車場へ戻ります。
参道も風情があって素敵でした。

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お昼は久留米ラーメンで舌鼓♪

この後は基肄城へ向かいます・・・雪の不安しかないけど?!

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2018年1月23日 (火)

水城

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福岡旅2日目、ラストは水城をめぐります。

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水城は大野城や基肄城などと共に、大宰府防衛のために築かれた大堤(土塁)です。
全長1.2㎞、基底部の最大幅約80m、最大高さ約14mを誇り、「日本書紀」にも
「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う。」
と記述されています。

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水城東門跡

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東門の礎石

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道路を挟んだ反対側、車列の間から礎石らしき石が見えています。
東門には官道が通り、大宰府の玄関口になっていました。現在も県道112号と574号が合流する地点で、交通の要衝のようですね。

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東門跡から尾根伝いに山を登り、大野城の水城口城門を目指してみます。

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しばらく登った先にある展望台から眺める水城。

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更に登った先から・・・

この先も雪の残る急勾配な尾根を直登し、頑張って水城口城門のすぐ手前のピーク辺りまでは辿り着きましたが・・・
いよいよ残雪も深まり、下山までの時間を考えると日没タイムリミットと判断し、止む無く撤退しました。

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下山後はまず、東門跡付近の内濠沿いを散策。
発掘された木樋(暗渠)を復元した展示。

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実際に木樋が発掘された場所。
木樋はヒノキ材で、内濠と水城の土塁を越えた先の外濠を繋ぐため、約80mに渡って敷設されていました。
出土した木樋の実物は、一つ前の記事でご紹介した九州歴史資料館にて見学することができます。

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内濠跡越しに水城
内濠の土手からは、瓦窯跡も発見されています。

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車で少し南西方向へ移動し、JR鹿児島本線水城駅付近。
線路によって分断された水城を、土塁断面ひろばとして整備しています。

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引き続き水城駅周辺を散策・・・父子嶋の土盛。
水城築造のため、来る日も来る日も土を運んで働いていた、とある父子がいました。
ある日、「土塁が出来上がったぞ!」との声を聞き、全身の力が抜けて運んでいた土を放り出してしまいました。その土が盛り上がってできたこの場所を父子嶋(ててこじま)と呼ぶようになった、との伝承が残っているそうです。

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水城西門跡

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西門付近の土塁
その見事な高さを感じていただけますでしょうか。

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線路に分断された水城

大野城は残念でしたが、その分じっくりと水城をめぐることができ、これはこれで良かったかな。

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夜は、翌3日目の行程をご一緒するフォロワーさんとも合流し、博多でもつ鍋飲み会♪

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2軒目は海鮮系のお店に入り、大好物のごまさばも♪
2軒目には地元に住むフォロワーさんも急遽参戦し、楽しく盛り上がった一夜になりました☆

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2018年1月22日 (月)

大宰府政庁と大野城、九州歴史資料館

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旅の2日目は太宰府天満宮参拝からスタート。
何の因果か偶然か、この日はセンター試験の日でもありました。

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社殿の屋根には雪も残っていました。

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名物の梅ヶ枝餅

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大宰府政庁跡
背後には大野城跡の四王寺山の姿も。

大宰府政庁は;
Ⅰ期  7世紀後半~ 掘立柱建物
Ⅱ期  8世紀初頭~ 礎石を用いた朝堂院形式 
Ⅲ期 10世紀後半~ 藤原純友の乱で焼失した後の再建
といった変遷を辿っており、発掘調査で明らかになった建物礎石群(南門や中門、回廊、正殿、後殿、etc...)を見学できるようになっています。

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大宰府展示館では、発掘により表出した政庁東側の玉石溝を直接見ることができます。
それにしても、雪・・・(^_^;)

続いて大野城跡へ向かいましたが・・・

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山道を登るにつれて積雪が深くなり、大宰府口城門付近まで来たところで無念のリタイア。。。
ちなみに写真右側に写っているのは、大野城の土塁の断面です。

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大野城大宰府口城門の石垣も雪に埋もれ・・・

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大野城は標高410m四王寺山の尾根や谷を、総延長6.5㎞もの土塁で取り囲んだ古代朝鮮式山城です。
663年、白村江の戦いに敗れ、唐・新羅の襲来を恐れた朝廷(天智天皇)が水城・基肄城などともに築かせた防衛施設の一つ。
本来であれば土塁線をグル~ッとめぐりたかったのですが・・・この悪条件では致し方ありません。
行程を変更して九州歴史資料館へ向かいます。

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九州歴史資料館
こちらでは、出土した水城の木樋を見学しました。
また、ボランティアが待機するに限り、本物の出土遺物に触れることができるサービス(体験学習)があります。

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中世の永楽通寶洪武通寶
永楽銭は織田信長の旗印でも有名ですね。こうした銅銭は実際に手に取ってみると意外なほど薄くて軽く、裏には特に細工もなくて、なんだか「安っぽい」印象でした。
こうした情報も、実際に触れることで初めて知ることができたわけで、とても貴重な体験になりました。

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こちらは黒曜石の石器。ダイヤモンドカッターよりも硬いのだそうです。
いわゆる先史時代の遺物をこの手に触れることができるだなんて・・・信じられないでしょ?

九州歴史資料館では他に、出土遺物の調査や洗浄~修復に至る工程をオープンにしており、ボランティアガイドの案内で中庭から各工程の様子を見学させていただくこともできます。

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2018年1月21日 (日)

生の松原元寇防塁と壱岐神社

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2度に及ぶ蒙古の襲来(元寇)
その1度目となる文永の役(1274)を受けて鎌倉幕府は、元の再襲来に備えて博多湾沿岸一帯に防塁(石築地)を築かせました。
元寇防塁は福岡市内の数ヶ所で保存されており、5年前に博多を訪れた際には西新地区の防塁を見学しましたが、今回は竹崎季長奮戦の地としても知られる(蒙古襲来絵詞)生の松原の元寇防塁に来てみました。

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海も綺麗ですが吹きつける強風が冷たく、手の感覚を失うほどに凍えました。。。

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復元された元寇防塁の石築地(石垣)

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この海の彼方から、元の大船団が現れたのですね・・・。

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松原の中を進む遊歩道はちょっとした高まりの上を通り、復元石垣ともラインで繋がりますので、こちらも長い年月の中で砂に埋もれていった防塁の痕跡ではないかと思います。
石の大半は、福岡城築城の際に運び去られたようですが。

2度目の蒙古襲来となった弘安の役(1281)。
攻め来たった彼らの目に、この防塁はどのように映ったのでしょうか。

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生の松原元寇防塁の近くに鎮座する壱岐神社
武内宿禰の身代わりとなった壱岐直真根子を祀る社とされています(日本書紀)。

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参道は海へ向かって真っすぐに延びています。

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参道の先、海岸に建つ鳥居。

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その近くには逆松の碑が建っていました。
神功皇后が松の枝を逆さにして戦勝を占った際、その枝が根付いて松が生き返ったとの伝説から、この地は生の松原と呼ばれるようになったと云われています。
その松は既に枯れていますが、幹が壱岐神社に奉納されているそうです。

さて、これにて旅の初日は終了です。
2日目からは仲間とも合流し、大宰府周辺をじっくりとめぐります。

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