カテゴリー「新選組・戊辰戦争」の98件の記事

2018年6月14日 (木)

「戊辰戦争 菊と葵の500日」展

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国立公文書館で開催されている企画展、戊辰戦争 菊と葵の500日(~H30.6.30)に足を運んできました。

戊辰所用錦旗及軍旗真図
函館五稜郭開拓使ヨリ請取方伺

鳥羽・伏見戦で負傷した山口次郎(斎藤一)が、江戸で松本良順の治療を受けたことを示す;
新撰組手負之者山口次郎医学所江罷越候儀ニ付申上候書付
といった展示品をはじめとして;

Ⅰ 開戦 鳥羽・伏見の戦い
Ⅱ 江戸・関東への転戦
Ⅲ 東北・北越戦線へ
Ⅳ 終幕 五稜郭の戦い

という構成で、各戦線にまつわる史料(どちらかというと新政府軍サイドのものが多め)が時系列に沿って展示されていました。

各史料の詳細は省きますが、その中に桑名藩士・中村武雄の記した戊辰桑名戦記というものがあり、旧幕府脱走陸軍が市川国府台に集結したくだりを開いて展示してあったので、思わずケースに被りつきで読み込んでしまいました。
大鳥圭介ハ陸軍ノ事ニ達シ著名ナル人故之ヲ以テ惣督トシ土方歳三ハ従来新撰組ノ副長ニテ機智勇略兼子(ネ)備リタル故参謀ト定メ・・・

その他では土佐藩士・細川広世の記した跨関日記の中で、近藤勇(大久保剛)を「日野の産」と誤って認識しているところが・・・個人的にはツボ(笑)

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2018年5月13日 (日)

布多天神社

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調布市の布多天神社

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その境内片隅に建つ日露戦役記念碑

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記念碑裏の従軍人名には、新選組局長・近藤勇の娘たまと婿養子・勇五郎の子で、勇にとっては孫にあたる近藤久太郎の名も刻まれています。
彼は日露戦争に出征し、明治38年(1905)に僅か23歳で戦病死しました。

碑文は上石原の名主だった中村勘六の長男・克昌によります。
慶応4年(1868)3月、甲陽鎮撫隊を率いて甲府へ向かう近藤勇は上石原の西光寺で休息し、西光寺の向かいにあった中村勘六邸で歓待を受けています
・・・世代を経ても、人の縁はこうして繋がっていたのですね。

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西光寺門前に建つ近藤勇像
3年ぶりの再訪ですが、銅像が奇麗になっていました。

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西光寺の向かい、旧甲州街道を挟んだ対面の中村勘六邸跡
布多天神社からは、旧甲州街道を西へ1㎞ほどの距離になります。

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ところで、布多天神社には天正18年(1590)の小田原征伐の際、豊臣秀吉から発給された制札も残されているようです。
今回は日露戦役記念碑を目当てに布多天神社を参拝しましたが、いずれ機会があれば制札にもお目にかかってみたいものですね。

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2017年11月 3日 (金)

青木家屋敷 (町田市相原)

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11月3日の文化の日は、町田市相原の青木家屋敷へ。
目の前の通りは町田街道の旧道です。

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普段は医院を開業されていて非公開ですが、東京文化財ウィークの一環でこの日だけは敷地内が開放され、主屋などの外観を見学できます。
敷地内は撮影禁止と聞いていましたので、写真はここまで。

青木家屋敷は幕末頃の建立(文久2年/1862の祈祷札あり)と推定されています。多くの間取りを有し、幕末当時としては最上層の大型民家なのだそうです。
外観のみでは詳細までは把握できないものの、玄関の規模などは「然もありなん」と思わせるものがありました。
また、主屋の西南(上写真左隅)と東南の2ヶ所に土蔵が対で建っているのも印象的でした(西南のを上蔵、東南を下蔵と呼びます)。

裏山には自然の傾斜を活かした庭園もあったようで、これら屋敷や庭園は、水戸の弘道館と下屋敷を模して造られたとも伝えられているそうです。

青木家には、天然理心流二代目の近藤三助も出稽古に訪れていたと云われ、実際に彼はここ相原で客死しています。
そのためか・・・

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青木家の近くにある清水寺の観音堂脇には、近藤先生碑と刻まれた三助の供養碑が建っています。

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その基台には発起願主の人々の名前が並びますが、その中には嶋崎周平の名も・・・言わずと知れた天然理心流三代目、後に近藤勇を養子とする近藤周助(周斎)です。
※近藤勇も周助の跡を継ぐにあたり、まず嶋崎家の養子に入って「嶋崎(勝太~)勇」を名乗っています(日野八坂神社の奉納額など)。
何名か「青木」姓も見えますね。

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青木家屋敷、さすがに今も住居兼医院として活用されているだけあって手入れも行き届き、茅葺屋根がとても素敵なお屋敷でした。


■11月24日追記
2017年11月23~28日まで開催されている写真展「写真が語る 八王子の平安時代から未来まで」に於いて、近藤勇が青木家の吉太郎という人物に発行した免許(の写真)が展示されるとの情報を得て確認してきました。
一番気になっていた日付は「慶応二丙寅年六月日」・・・この時期、近藤は京にいて江戸へ戻ったという記録はありません。或いは、江戸の留守を預かる師範や先代の周斎などが「合格」と判断すると、連絡を受けた当代の勇が免許を書いて江戸へ送る、といったようなシステムが機能していたのでしょうか。

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2017年10月30日 (月)

本田家住宅 (主屋・薬医門)

東京文化財ウィーク2017、今年は国立市にある本田家住宅(主屋・薬医門)の講演・見学会に参加させていただきました。
本田家住宅には4年前、やはり東京文化財ウィークの公開期間に訪れています(記事)が、どうしても主屋の内部も見学したくて、今回の参加を決めました。

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まずは講演会から。
会場は本田家住宅のすぐ近くにある下谷保防災センター。

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防災センター前にあった本田道庚申塔。寛政5年(1793)の造立。
細くて古い路地ですが、通りにも「本田」の名がついていたのですね。

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講演は多摩近郷に残る古民家建築などの事例から、近世(江戸期)に於ける農家の住宅形式の変遷を、本百姓/名主/総名主(惣代?)の階層別に見ていき、その中での本田家住宅(の形式)の位置づけを確認し、その歴史や具体的な建築形式について解説していただく、といった内容。
しかし、時間が不足して後半は端折り気味となり、本田家住宅の詳細については現地で見学しながらご説明いただく、ということになりました。

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本田家住宅薬医門
幕末期の建立と推定されています。
一般的に「豪農」と呼ばれる階層の住宅には長屋門が多いのですが、それだけに本田家の高い格式を物語るかのようです。

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本田家住宅主屋
平成21年までは実際に住居として利用されていました。
平成29年、薬医門と共に本田家より国立市へ寄贈されています。

参加者が60名弱と多かったので、3班に分かれての見学となりました。
私のC班はまず、お庭で待機して外観の見学から(つまりは…お預けw)。

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本田家は遠祖を畠山重忠の郎党とし、江戸時代に下谷保村(国立市谷保)に定着して代々名主を務めるようになりました。
10代・定价は市河米庵に書を習い、本田家の書家としての礎を築きます。
幕末には日野宿の佐藤家や、土方歳三の土方家とも姻戚関係を結んでいます。歳三も生家から多摩川を越えて、本田家11代・覚庵(定済)の元へ書や学問を習いに通ったと伝えられています。
また、覚庵の日記には歳三や近藤勇が文久3年に上洛するまで度々訪れ、時には泊まったりした様子が書き残されているそうです。

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玄関
棟札がないので正確な創建年代は不明ですが、中の間の柱から;
享保十六辛亥歳 八月吉祥日
と記された祈祷札が見つかったことから、主屋は少なくとも享保16年=1731年には建てられていたことが判っています。
その後、嘉永2年(1849)には茶室などを増築したようです。

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屋根は赤いトタンに覆われていますが、その内側にはまだ藁葺が残っていました。

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主屋東面
一見しただけですぐ、建物が斜めに傾いているのがわかります。
築300年近い年月の老朽化に加え、平成23年の東日本大震災によるダメージが大きかったようです。

20分ほどもブラブラしていると声が掛かり、土間へ誘導されました。

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土間に陳列されている米庵流の篆刻作品。

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土間から前室越しに見える書斎、そこに架かっている「大観書屋」と大書された額は市河米庵の筆

土間では、本多家住宅を管理する国立市職員の方から、主屋に残されていた資料についてのご説明を受けました。
主屋には判明しているだけでも、約7万点もの資料が保存されていたのだそうです。
新選組に関連する部分でいうと、前述の覚庵の日記に近藤や土方らとの交流が綴られていますが、佐藤彦五郎や小島鹿之助などとは違い、直接的に新選組を支援した記録はないそうです。
しかし元治元年(1864)、近藤が江戸に下って隊士を募集した折の名簿の写しが残っていて、そこには実際には上京前に入隊を取り止めた面々の名前もあることから、しばらく日時が経過した後に知らされた情報ではなく、近藤が隊士を募っている最中のリアルタイムな情報を入手できていたのではないか、とのことでした。
即ち、それだけ近藤や新選組に近いネットワークを持っていた、ということを窺わせます。

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資料に関するお話が終わると、いよいよ主屋内部の見学に移ります。
写真は、土間から直接上がれる広間と呼ばれる一間。右に見えるのが3本ある大黒柱のうちの1本。

※この後見ていく各部屋の配置を簡単にご説明すると、主屋ほぼ中央南に位置する「土間」から東へ「広間」→「玄関」→「中の間」と続き、中の間の南に「茶室」、北に「奥の間」があります。
これが今回、見学させて頂いた範囲。

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本田家住宅主屋の形式は、江戸後期の名主層の代表的な住宅形式である整形六間型(各部屋の間口が揃って縦横真っすぐに配置されている)よりも時代が先行する食違形六間型(間取りに食い違い=ズレを持たせている箇所がある)という形式になるのだそうです。六間型としては東京都最古の住宅なのだとか。
写真は広間(手前)と、その先の玄関との間の食い違い。広間の方が奥行きが深い分、間取りに段差ができています。

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玄関

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中の間から見る玄関(右)と茶室(左)

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茶室

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中の間の柱。
白くなっている部分に、享保16年の祈祷札が貼ってありました。

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中の間から奥の間を見る。
土方歳三や近藤勇が実際に泊った部屋、かもしれませんね。

奥の間には佐藤彦五郎の母・マサの姉で、本田家10代・定价に嫁いだチカ(共に土方家出身)のお顔を描いた額が飾られていました。
定价とチカの間に生まれた娘に婿養子として分家から迎えたのが覚庵であり、よって覚庵・彦五郎・歳三は従兄同士ということになります。
(彦五郎と歳三は義兄弟でもある)

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近藤や土方も間違いなく訪れ、泊った本田家住宅。
その貴重な空間を少しの間だけでも共有でき、とても幸せな気分でした。
願わくば今後、この貴重な文化財が適切に保護され、長くその歴史を語り継いでいくことを祈らずにはおられません。

※参加者の中に慶応4年(1868)、新政府軍に追われた佐藤彦五郎一家を匿った「羽生家」(参考記事)の関係の方がいらしたので不躾ながらお声掛けし、少しお話を聞かせていただけました。
近藤勇の三浦休太郎宛書状を羽生家が所蔵する理由については、逃れてきた彦五郎が持ってきたのではないか、とお考えのようでした。
だが、そもそも彦五郎と羽生家の繋がりが確認できていないらしく、やはり伝承通り二宮村の茂平のような仲介者がいたのかもしれません。
また、羽生家の家屋は明治15年に火事で焼失しており、彦五郎らを匿った当時から現存するのは土蔵だけなのだそうです。

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2017年10月17日 (火)

「近藤勇と調布の幕末維新」展と、上石原若宮八幡神社

小雨パラつく日曜の午後、ちょっと調布までドライブしてきました。
目的地は調布市郷土博物館。twitterで近藤勇と調布の幕末維新展が開催されていることを知り、覗きに来ました。
新選組局長として名高い近藤勇や、その他の調布周辺の人々に関連する古文書が中心の展示で、いくつか興味を惹かれる史料もありました。これで入館無料とは驚き・・・。

近藤勇養子縁組状
嘉永2年(1849)10月19日

原惣兵衛宛小島鹿之助書簡(原家文書)
元治元年(1864)7月30日

近藤勇事も討死いたし候与凶音
所々□申来り寔心配罷在候
勇事も去春攘夷之心得ニ而応
募国内之乱ニ而討死いたし候而者
亡霊之激怒思やられ候


原惣兵衛とは上布田村の名主で、布田宿組合の大惣代を務めた人物です。
元治元年(1864)の元治甲子戦争(禁門の変)で近藤勇が討ち死にしたとの風聞に接した小野路村の小島鹿之助が、原惣兵衛に宛てて近藤の安否を尋ねた書簡。
「勇は去年の春、攘夷の志で浪士組に応募して上京したのに、内乱で死んでしまっては、その無念たるやあまりに浮かばれない」といったところでしょうか。
(勿論、実際には死んでなどいませんでしたが)

三浦休太郎宛近藤勇書簡(羽生家蔵)
慶応3年(1867)11月18日

陳二郎事潜伏之義
如之御配慮奉多謝候
就而者同人義少々
相用候事件出来
候間
無断引取申候


所蔵する羽生家についてはコチラの記事をご参照ください(後半部分)。
三浦休太郎は紀州藩士。この書簡が出される直前の15日に暗殺された坂本龍馬とは、いろは丸沈没事件の賠償交渉での因縁がありました。
その関係で、龍馬暗殺の疑いをかけられて海援隊士らから命を狙われ、京都守護職を通して護衛の要請を受けた新選組は、斎藤一(二郎=山口二郎)ら7名を三浦の滞在する天満屋へ派遣していました。
斎藤はこの直前に伊東甲子太郎が主宰する御陵衛士を脱していましたが、この書簡の文面からすると彼を三浦の下に派遣したのは、新選組との間で隊士の行き来を禁じる取り決めのあった御陵衛士の目から隠す目的もあったのかもしれませんね(二郎事潜伏之義)。
そして近藤は、少々相用候事件出来したために断り無く斉藤を一旦引き取ったことを三浦に詫びているのですが・・・慶応3年の11月18日はまさに、新選組が伊東甲子太郎を暗殺し、伊東の凶報に接して現場に出てきた御陵衛士の襲撃を企てた油小路の変の当日・・・。
少々相用候事件が何を指しているのか・・・もはや言うまでもないところ、ですね。

布田宿組合宛振武軍軍用金請取状(原家文書)
慶応4年(1868)5月

上野の寛永寺で新政府軍と戦った彰義隊と分裂し、田無~飯能へと展開した振武軍については、コチラの記事をご参照ください。
田無で結成された振武軍は多摩各地から軍用金を徴収していますが、布田宿も例外ではなかったようです。

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受付で、10月14日に開催された講演会の資料も無料でいただけました。こちらも追って勉強していきたいと思います。

郷土博物館を辞し、車でちょっとだけ移動して・・・

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上石原若宮八幡神社へ。
「若宮」とつく通り、八幡神・応神天皇の皇子である仁徳天皇を祭神としています。
手前の石鳥居は天保14年(1843)の建立(昭和2年修繕)。

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拝殿
奥の本殿(覆屋内)は、文化4年(1807)の造営になります。

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上石原若宮八幡は、上石原村の鎮守。
同村出身の近藤勇も慶応4年(1868)、甲陽鎮撫隊を率いて甲州道中を甲府へ向かう途中、故郷(西光寺・中村勘六家/参照記事)に立ち寄った際、上石原若宮八幡の方角へ向かって拝礼し、戦勝祈願をしたと伝わります。

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帰りがけには土方歳三資料館にも立ち寄り、和泉守兼定の刀身や鎖帷子、加藤福太郎書簡(※)などを拝観して帰宅しました。
※加藤福太郎は多摩出身で、室蘭警察署に勤務していた人物。歳三の幼馴染の息子である平忠次郎から、歳三の遺体の行方についての調査を依頼され、その調査結果を報告する内容の手紙。

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2017年10月 9日 (月)

島原角屋

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船岡山から地下鉄鞍馬口へ向かって歩いている途中、たまたま出くわした妙覚寺
本能寺の変の際、織田信忠が宿所としていたお寺ですね。当時は二条衣棚にありましたが、後に秀吉によって現在地へ移されました。
有名な「斎藤道三の遺言状」、或いは「美濃国譲り状」とも呼ばれる書状の一つも、こちらで所蔵されています。

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地下鉄を乗り継ぎ、二条城前からJR二条駅へ向かって歩いている途中で見かけた小浜藩邸跡の碑。

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JR丹波口駅近くにある、平安京朱雀大路跡の碑。
平安後期には既に荒廃しつつあったという朱雀大路。その痕跡は現在の千本通りにあたるようです。

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西本願寺のすぐ西、平安中学・高校脇の小路。
この付近に明治期、元新選組で西本願寺に勤務していた島田魁が住んでいたそうです。

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そしてようやく島原へ・・・島原大門

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置屋として歴史を重ねてきた輪違屋
浅田次郎氏の小説の舞台にもなっていますね。現在は宴席の場として営業されていますが、数年前に特別公開された折に見学させていただきました。(参照記事

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今回の旅最後の目的地・・・角屋

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島原には何度か訪れていますが、どういう訳かタイミングが合わず、角屋の内部を見学するのは今回が初めてとなります。

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玄関

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玄関に残る刀傷

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台所
こちらに新選組掛売禁止の古文書(慶応2年9月/新選組の調役がこれまでのツケを清算し、今後は隊士への掛け売りを禁じ、もしツケを強要する隊士がいたら届け出るように通達した内容)も展示されていました。

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刀箪笥

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網代の間

一通り一階を見学したところで、いよいよニ階へ。
ニ階は撮影禁止のため写真はありませんが、合計で10以上ものお座敷を、襖の絵や欄干の形状・壁の色・釘隠しに至るまで、丁寧に説明しながらご案内いただきました。
特に青貝の間は素晴らしかった。見事な螺鈿細工の壁、そして柱の3ヶ所につけられた深い刀傷・・・感激。
※どうも新選組は、座敷に刀を持ち込んでいたようですね(笑)

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最後に、一階の松の間から臥龍松の庭の眺め。
松の間は大正14年の火災で一度焼失しており、角屋の座敷の中では唯一文化財指定を外れています。
また臥龍松も今は枯れ、現在のものは3本の若い松で臥せる龍を再現していました。

一人旅は何気に久しぶりでしたが、当初の目的も果たせて今回もいい旅になりました。
京都にはこれからも折を見て訪れたいと思います。

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2017年10月 7日 (土)

長谷川家住宅、墨染、藤森神社

2017年9月30日~10月1日、久しぶり?に京都へ出かけてきました。
京都行きを決めた一番の目的は、特別公開中の大徳寺本坊で初公開されている狩野永徳筆「織田信長公像」(9/16~10/1)を拝観すること。
そちらは公開最終日にあたる2日目に充て、初日はまず、京都駅から地下鉄へ乗り換えて十条駅で下車、旧東九条村の長谷川家住宅へ向かいます。

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長谷川家住宅
寛保2年(1742)築。開館は9月2日~12月10日の土・日・祝のみ。
最近発見された長谷川家当主(長谷川軍記/1822-71)の日記により、元治甲子戦争(禁門の変)に於いて鴨川の九条河原や銭取橋(勧進橋)に布陣した会津藩が、当家などを宿所として利用していたことが判明しています。
また、新選組(壬生浪士組)も同村の又右衛門・吉兵衛・九右衛門方に宿営していました。

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現在のご当主は100歳を超えるご高齢で施設に入られているとのことで、年齢の離れた妹ご夫妻が管理・運営されているようです。
私以外の来館者はほんの2~3組で、しかもわざわざ東京から来たということで大変喜んでいただき、貴重な古文書の数々や古地図なども交えながら、時間をかけてじっくりと丁寧にご案内いただきました。

長谷川軍記日記(前出)
会津藩らの着陣の様子や宿所割当の記録などの他、長州勢が迫って銭取橋の陣所から法螺貝が吹かれ、宿所で休息中だった非番の兵士らが俄かに甲冑に身を固めて飛び出していく様や、頻りに聞えてくる大砲の音など、元治甲子戦争の様子が生々しく記録されている。

浄土宗門人別改帳
浄土宗の改帳とあるが、東九条村一帯が相国寺領だったために報告先も相国寺宛になっている。

歳中諸事覚帳
年貢の納め先や、用水・水運のために開かれた高瀬川(現在は暗渠)の水利をめぐる争いの記録など。江戸中期頃から藍の栽培を始め、大正期まで染工場が多かった村の歴史を知ることもできる。

村誌

職員録(明治2年)
官員録(明治9年)
上記2点共、三条実美や岩倉具視、大久保利通らを筆頭に、当時のいわゆる国家公務員全員の名が記されている。中には後に陸軍大将を務める乃木希典の名もあり、そこに記された当時の階級は「少佐」。

会津藩軍勢図
etc...

2階の隠し書庫には、江戸期の書物が膨大に所蔵されていました。

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長谷川家住宅はご夫妻が修築・管理するようになってから、まだ5年くらいとのこと。
この先、この貴重な建物や史料をどう次代に引き継いでいくか、切実な問題として頭を悩ませていると仰せでした。
微々たるものですが、我々のような歴史好きが訪れ、注目されることで少しでも助けになれることを願います。

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会津藩が布陣した銭取橋(勧進橋)から鴨川の流れ。
長谷川軍記日記によれば、新選組(壬生浪士組)は「加茂川向」に陣取っていたようです。

さて、再び電車で少し移動し、近鉄京都線伏見駅から少し北上すると・・・

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料亭「清和荘」の前に、近藤勇遭難の地碑が建っています。
慶応3年12月、二条城での軍議を終え、当時新選組の宿営地となっていた伏見奉行所への帰路に就いた近藤勇は道中、御陵衛士残党の襲撃に遭いました。
しかし、この碑の建つ場所は江戸期の伏見街道と竹田街道のちょうど中間にあたり、主要な街道からは外れていますので、実際の現場ではないと思われます。

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清和荘から東へ5~600mほど進むと、墨染交差点へ出ます。
こちらも近藤勇襲撃現場の候補地の一つとされています。上の写真は北から南の方角を向いており、北(手前)から続く伏見街道(大和街道とも)が右へ曲がって鉤型に折れるポイントです。
御陵衛士の残党は、交差点を直進した少し先から近藤を待ち受けていたと云いますので、街道が鉤型に折れて速度を緩める瞬間を狙っていたのでしょうか。

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今度は南側から、待ち受ける御陵衛士残党の視点。
あくまでも候補地の一つとして訪れてみました。実際のところは何か決定的な証拠(記録)でも出てこない限り、場所の特定は難しいでしょうね。

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墨染交差点から伏見街道を少し北上して、この日最後は藤森神社へ。

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額のない石鳥居
本来は後水尾天皇御宸筆の額が架けられていて、参勤交代で大名行列が伏見街道を通行する際は、藤森神社の前では大名も籠から降り、槍などを伏せて通っていたのだそうです。
ところが幕末の動乱期を迎え、そんな悠長なことをしてい場合ではないと考えた近藤勇が、額を外してしまったと云われているのだとか。
いくら動乱期とはいえ、天皇の御宸筆の額ですからね・・・俄かには信じ難い気もしますが。

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藤森神社は菖蒲の節句の発祥として知られ、菖蒲=勝負に通じ、毎年5月5日には駆馬神事が催行されることから、勝運と馬の神社として特に信仰を集めてきました。また、祭神の一人として舎人親王を祀ることから、学問の神としても信仰されています。

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御旗塚
神功皇后が大旗を立てた場所で、藤森神社発祥の地とされています。(そういえば長谷川家住宅の床の間にも、神功皇后を中心に据えた五月人形が飾られていました)
このいちいの木に参拝すると腰痛が治るとされ、近藤勇も参拝したとか・・・腰痛持ちだったんですかね?

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御神水の不二の水
“二つとないおいしい水”ということで「不二」の名がつけられています。

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大将軍社
桓武天皇が平安遷都された折、都の東西南北四方に祀った大将軍社のうちの一つ(南)。
現在の社殿は永享10年(1438)、足利義教による造営

この他、宝物館では;
・戊辰役で有栖川宮熾仁親王が着用した鎧兜(徳川家綱奉納)
・八連発式火縄銃
・戊辰役で薩摩軍が使用した先込式大筒(砲身が50cmもない小さなもの)
・宝剣の三条小鍛治宗近
などを拝観しました。

さて、これにて旅の初日は終了です。
2日目も大徳寺を皮切りに、京都をのんびり楽しみます。

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2017年6月20日 (火)

会津西街道 上三依~田島宿

先日、久しぶりに家族で温泉旅行に出かけました。
今回の宿泊先は芦ノ牧温泉。折角なのでその道すがら、慶応4年(1868)の戊辰戦争時、宇都宮で負傷した土方歳三が会津まで運ばれ、新政府軍と戦い続けた大鳥圭介らが往来した会津西街道を北上してみることにしました・・・完全に私の趣味→運転手特権(笑)

会津西街道
街道は古来、向かう先の地名にちなんで呼ばれることが多く、会津側からは「日光街道」、或いは「南通り」「南山通り」「下野街道」などとも呼ばれてきました。
江戸後期にもなると、会津藩では「下野街道」を公称としていたようですが、煩雑になるので当記事では「会津西街道」で統一します。

西那須野塩原ICから国道400号を経由し、上三依でほぼ旧会津西街道に沿って通る国道121号に合流。
121号を北上し始めてすぐ、この日最初の立ち寄りポイントは・・・

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鶴が渕城址
ナラ入沢渓流釣りキャンプ場入口への分岐を過ぎてすぐ、左手に見える男鹿川に架かる小さな橋を渡った南側です。

鶴が渕城は永禄年間に、田島地頭職の流れを汲む長沼氏によって築かれました。
男鹿川左岸、国道121号の東にそびえる姥捨山の山上に築かれた曲輪群と、男鹿川右岸の山麓に築かれた角馬出・長塁とが残ります。
山麓の角馬出や長塁は、その規模や形状から長沼氏時代のものではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直前、徳川家康の北進に備え、当時会津を領していた上杉氏が築いたものと考えられています。実際に直江兼続が実弟の大国実頼(田島鴫山城主)に対し、「鶴渕山」の防備を固めさせるように指示したことを窺わせる書状も残されています。

今回は山麓の角馬出と長塁のみ、サクッと観てまわります。
上写真の案内板を過ぎ、正面の角馬出への土橋上から右に目を向けると・・・

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西へ向かって一直線に伸びる、見事な長塁が飛び込んできます。
笹藪が結構キツイですが、堀も土塁も非常に良好な状態で残っていました。
正面奥に見えるのは会津鬼怒川線の線路。更にその先にも長塁は続いているそうなのですが、さすがに独りで突き進む勇気がなく、今回はパス…(^_^;)

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反対に左側(東)は、男鹿川の渓谷に向かって落とされているようです。

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男鹿川の断崖縁に築かれた角馬出
周囲を囲む土塁も残っています。

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角馬出の南東隅だけ、土塁が切れていました。
この防塁を築いた段階に於いては、構造からしても角馬出(の付近)に街道を通していたことになるのでしょうか。

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角馬出北西方向。
土塁が、眼前を横切る長塁の堀まで続いている様子がお分かりいただけるでしょうか。

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角馬出のすぐ脇を流れる男鹿川。
とにかく水が綺麗で、美しい眺めでした。

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鶴が渕城(防塁)址図面(しみず作)
今まで縄張図など描いたこともないので、稚拙な出来栄えですが・・・ざっくりとイメージをお伝えしたく、帰宅後に記憶を頼りにトライしてみました。描いたのはあくまで、自ら実際に観てまわった範囲のみです。
実尺と異なり、サイズなどはデフォルメされていることをお断りしておきます。

歴史は家康を小山で反転させて関ヶ原へと向かわせることになるので、実際にこの防塁が利用されることはありませんでしたが・・・実際にこうした山中で、400年以上も前の痕跡を目にすることができる喜びは、やはり無上のものです。

再び121号を北上します。

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横川村の少し手前に残る、横川一里塚

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背後の山の斜面に「よばわり岩」と呼ばれる大岩があることから、「よばわりの岩の一里塚」とも呼ばれていました。
その大岩は生い茂る樹木に遮られ、辛うじて認識できる程度にしか見えませんでした。

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会津藩横川関所跡と如意輪観音堂(江戸時代後期)
横川村は会津西街道の下野国最北の集落。会津藩の預かり地でもあり、会津藩が領内へ出入りする街道沿いに築いた関所の一つです。

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清水伝左衛門の墓
文化10年(1813)、横川村で盆踊りが催された際、盆踊りに興じる人垣が関所の敷地内に立ち入ってしまいました。
「関所内で盆踊りとは不届き」との責めを負い、関守であった清水伝左衛門は切腹して果てたと云います。

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横川宝篋印塔
推定戦国時代末期の作。
村の伝承から「三依」地名の起源にもなったと伝わる三依姫の供養塔とされています。
三依姫の詳細は分かっていませんが、下野国矢板の塩谷氏から、会津田島の地頭・長沼氏に嫁いだ姫のようです。
長沼氏は後に足利義満によって任を解かれ、その知行を没収されたため、姫も流浪の身となり、最期は横川で寂しく生涯を終えたと伝えられているそうです。

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横川の町並

(慶応4年閏4月)四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原ならびに鈴木藩之助等と同宿す。
(大鳥圭介「南柯紀行」…以下引用同

日光・今市を明け渡し、一旦田島へ向かうことにした大鳥圭介の旧幕府脱走陸軍は、ここ横川でも一泊しています。
この時に大鳥自身が泊まった家も、この写真の中にあるのでしょうか。

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トンネルで下野と陸奥(会津)国境の山王峠を越え、少し下った先の旧会津西街道名残の砂利道と、山王茶屋跡地
江戸期の茶屋は旧道左側の草むらや国道に掛かる辺りに位置し、戊辰戦争で焼かれた後、明治2年に旧道右側の写真奥(民家の建つ付近)に再建されました。

五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。

横川を出立した大鳥圭介は山王峠を越え、この地に建つ茶屋で会津藩の若年寄であった山川大蔵と出会っています。
大鳥、山川を評して曰く「性質怜悧」「余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。」
二人は田島まで同行して軍容を整えた後、今市奪還を期して共に新政府軍と戦うことになります。

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奥会津博物館に移築保存されている、明治2年再建の山王茶屋

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茶屋とはいえ「乗り込み玄関」を備えた本陣形式の立派な建築です。

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現在はお食事処として営業しており、我々もこちらでお昼をいただきました。

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奥会津博物館には他にも、様々な歴史的日本家屋が保存されています。
写真は旧猪俣家住宅。奥会津地方に現存する最古の住宅遺構でもあります。

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木地小屋
山に入った木地師たちの作業場兼住居です。

更に北上を続け、田島宿へ。

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田島に置かれていた旧南会津郡役所
「郡区町村編制法」の施行により、明治12年に会津郡から南会津郡が分割されて設置されました。明治18年落成~昭和45年移築保存。

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田島宿の町並と、昭和9年創業の和泉屋旅館
和泉屋旅館は一時、進駐軍の指定旅館になっていたこともあり、国の登録有形文化財に指定されています。

本日(五日)、糸沢、中食、夕方、田島に着き本陣に宿す。

大鳥らは田島に10日間ほど滞在して軍容を整えた後、今市奪還を期して再度、会津西街道を南下していくことになります。
※今市での攻防戦はコチラ
※その後の小原沢の戦いはコチラ
※足を負傷し、会津まで運ばれる土方歳三も、その道中に田島に宿陣しています。(島田魁「日記」)

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鴫山城跡(愛宕山)登山口
家族連れなので、さすがに山城は行けませんが…(^_^;)

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旧南会津郡役所も建つ福島県南会津合同庁舎の駐車場一角には、鴫山城の外郭土塁も。

さて、今回の会津西街道めぐりはここまで。
※この先の大内宿~会津に関しては、コチラを参照願います。

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最後に塔のへつりにも立ち寄って・・・

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芦ノ牧温泉の宿にチェックイン。
喜多方から祖母も合流し、久しぶりにのんびりと共に過ごしました。

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2017年5月18日 (木)

渡邊家の蔵(日野宿)

毎年5月、土方歳三の命日(旧暦5月11日)前後の週末に開催されるひの新選組まつり
その週末に合わせ、甲州街道沿いに建つ渡邊家の蔵も公開されていましたので、祭りの合間にちょっと見学させていただきました。

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こちらが渡邊家の蔵
江戸末期~明治初期頃の建築です。

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渡邊家の屋号は「中村屋」
蔵は味噌・醤油・酒などを扱うお店(万屋)の店蔵として利用されていたそうです。
当初は木造だったものの、関東大震災(大正12年)の影響で土壁にひびが生じたため、昭和5年になって大谷石による石造りに改修されています。
また、昭和7年には甲州街道の拡幅により、位置を少し移されているようです。

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蔵の二階には調度品などの展示も。
一階には天然理心流の目録?免許??(きちんと確認しなかったので詳細不明です…スミマセン)も展示されていました。
※撮影禁止

そういえば八坂神社の天然理心流奉納額に、佐藤彦五郎や井上松五郎らと並び;
渡邊庄三郎藤原盛正
という人物の名前が見えます。
或いはこちらの渡邊家の関係者でしょうか・・・来年また機会があったら確認します(;・∀・)

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梁の木材がとても立派でした。

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二階の窓から覗く甲州道中・・・
普段は無粋な都道も、この時は祭りの開催で車両通行止め。徒歩で行き交う人の流れが、なんとなく往時の街道宿場町の雰囲気を味わわせてくれました。

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昭和33年、アジア大会自転車競技開催時の渡邊家の蔵。
この時は病院として使われていたようです。

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2017年1月 7日 (土)

勝沼・柏尾古戦場

先日、武田勝頼の遺蹟をめぐって大善寺にも立ち寄ったのですが、大善寺のある勝沼は慶応4年(1868)3月、近藤勇ら新選組を中心に編成された甲陽鎮撫隊が、板垣退助らが率いる新政府軍と衝突した勝沼・柏尾戦争(以下「柏尾戦争」で統一)の舞台としても知られます。

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柏尾戦争といえば、近藤勇を描いたこちらの錦絵が有名ですが、奥に描かれているのが大善寺の山門です。

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大善寺山門

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柏尾戦争の様子を伝える諸資料
(内外新報/甲府大功記/柏尾戦争図)

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現在の柏尾橋の脇、「深沢入口」交差点に建つ近藤勇像
・・・おそらく、先ほどの錦絵を元に製作されたのではないかと…(;・∀・)

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永倉新八ら、鎮撫隊の別働部隊が展開した南の方角。

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「深沢入口」交差点にはかつて、大善寺境内の東の境界を示す東神願鳥居が建っていました。
勝沼宿まで進んでいた近藤は、宿場から甲州道中沿いにいくつかの関門を築かせつつ、この東神願鳥居前に本陣を構え、大砲2門を据えて新政府軍と対峙したと伝わります。
斜面の上、鉄製のフェンス内側に見える窪みが旧甲州道中の痕跡で、この斜面は後に明治天皇行幸の際に開削されています。

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在りし日の東神願鳥居を伝える説明板

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「深沢入口」交差点でに折れ、深沢川に沿ってなだらかに下っていく柏尾坂
無論、先ほどの痕跡から続いていた旧甲州道中にあたります

柏尾坂を下っていくと・・・

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明治期の柏尾橋跡があり、右隣りには大正期の柏尾橋の跡も見えています。

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こちらが大正柏尾橋跡

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ちょっと樹木が邪魔で見えづらいですが・・・大正柏尾橋を斜め横から。
「深沢」というだけあって、かなり切り立った地形であることは見て取れるかと思います。

柏尾坂を更に下っていくと・・・

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突当りに江戸期の柏尾橋跡がありました。
つまりこの橋を渡るルートが、柏尾戦争時に於ける甲州道中ということになります。

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甲州街道分間延絵図に描かれる柏尾橋周辺
先にご紹介した内外新報の戦争絵図同様、東から西へ進んできた旧甲州道中が東神願鳥居のところでに折れ、坂を下って橋に至る・・・現在に垣間見える痕跡を、そっくり描き出してくれています

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現柏尾橋を勝沼側へ渡ってすぐ、北から国道20号に合流してくる細道。
これも江戸柏尾橋を渡り、深沢川を越えた旧甲州道中の続きということになりそうですね。

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柏尾の古戦場を、深沢川の東岸から俯瞰・・・
橋の位置が当時とは違い、写真右下方向になりますので、近藤が本陣を置いた東神願鳥居前(写真左端)は、西から甲州道中を進んでくる新政府軍が橋を渡ろうとすると、川の対岸から横矢を掛けられる位置になります。

ほんのついでのように立ち寄った形ではありましたが、新たな気付きもあり、とても楽しい散策になりました。
いずれ近いうちに、もっと詳しく訪ね歩きたいと思います。

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