カテゴリー「新選組・戊辰戦争」の122件の記事

2019年10月31日 (木)

五稜郭、立待岬、碧血碑 ― 箱館戦争めぐり⑯ ―

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旅の最終日は五稜郭へ。

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五稜郭タワーから見る函館山。

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五稜郭は旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の入城時は脆弱な備えだったようで、新政府軍の襲来に備えて改修を加えたことを、大鳥圭介やブリュネが証言しています。
箱館戦争終結後、五稜郭の構えを見た新政府軍関係者が「さすがは西洋に通じた榎本、大鳥」と感嘆したとか。

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半月堡脇の石垣に刻まれた「栄永」の文字。

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半月堡の先端部分。

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反対に、半月堡の先端から主郭方向。

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五稜郭へ来たら、ここは絶対に外せません・・・一本松の土饅頭。
その理由は・・・5年前に訪れた際の記事をご参照ください。

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復元された箱館奉行所・・・新政府軍艦隊の砲撃目標になってしまった建物(;^_^A

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無論、奉行所内も見学しました。

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明治元年(1868)10月26日、箱館を占拠した土方ら旧幕府軍が五稜郭へ入城した裏門。

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裏門脇の土塁上に築かれた砲座。

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北東側の稜堡部分。
稜堡には、大砲の昇降用に築かれたスロープ状の坂と、土塁をくりぬいた弾薬庫が設けられていました。
スロープ脇の土盛りは、弾薬庫を築くために土塁をくりぬいて出た土で、目隠しや弾除けのために弾薬庫前に盛り上げられていたものです。

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東(東北)門の蔀土塁からは、新政府軍艦隊の旗艦・甲鉄から発射されたものと考えられる砲弾も発見されているそうです。

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東門の先、かつては橋が架けられていたであろう痕跡。

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5年前の初訪時には見落としていた部分もあり、再訪できて良かったと思います。

この後の行程は残された時間、及び同行メンバーの希望とも相談し、タクシーで一気に移動して・・・

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函館山の南東端、立待岬へ。

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立待岬にもかつて、幕府の命を受けた南部藩が築いた台場がありました。

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箱館戦争時には無論、旧幕府軍も利用したものと思われます。

なお、近くの墓地には石川啄木や、初日の記事でご紹介した写真師・田本研造の墓所もあります。

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旅のラストは碧血碑へ。
写真の場所でタクシーを降り、山道を5分ほど進みます。

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明治8年に建立された碧血碑
箱館戦争に斃れた旧幕府軍兵士約800名の霊を祀ります。碑の揮毫は大鳥圭介によるものと云われています。

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旧幕府軍戦死者らの埋葬や、碧血碑の建立に尽力した柳川熊吉の碑。

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明治辰巳實有此事
立石山上叺表歔志
「明治辰巳の年(2年)“此の事”は実際に有りました。山上に石を立て悲しみの志を表します」

箱館戦争終結から6年の歳月を経てもなお、具体的に記すことを明治政府に憚って「此事」とのみ刻んだ、榎本や大鳥ら建碑者たちの思いたるや如何に・・・。

今回も箱館戦争にどっぷりと浸かることができ、充実した旅となりました。
私のわがままに付き合ってくれた同行メンバーには感謝に堪えません。お陰様で、腰痛で思うように身動きも取れない中でしたが、なんとか乗り切ることができました。

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帰路は全員で新幹線を選択。
初めて訪れた新函館北斗駅にて、ほっきーとご対面。

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駅構内には、北斗の拳のケンシロウも。

3泊4日の函館・松前・江差・乙部への旅、全10回に渡るblog記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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2019年10月30日 (水)

江差、乙部 ― 箱館戦争めぐり⑮ ―

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江差の町が近づくにつれ、鴎島の姿がだんだんと大きくなってきました。
開陽のマストも3本、小さく見えています。

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開陽丸青少年センター

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昭和50年からの発掘・調査プロジェクトで引き揚げられた遺物などを見学。

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巨大なスクリューシャフトも。
これほどのシャフトが歪む姿に、座礁・沈没事故の衝撃を見る思いがしました。

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そして遂に、原寸大に復元された開陽丸(開陽丸記念館)とご対面!

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榎本武揚率いる旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の旗艦・開陽。

明治元年(1868)11月15日未明、陸軍部隊よりも早く江差沖に到着した開陽。
海上から砲撃を加えてみたものの応戦もなく、榎本らは既にもぬけの殻となっていた江差に上陸して無血占拠に成功しました。

ところがその夜、碇泊していた開陽は地元で「タバ風」と呼ばれる特有の暴風に煽られて座礁してしまいます。
艦内で留守を預かっていた機関長の中島三郎助は大砲を一斉に放ち、その反動を利用しての離礁を試みますが叶わず、乗組員は全員脱出しましたが、当時、世界でも最大級を誇った旧幕府軍の最強兵器、最新鋭艦・開陽はあえなく数日のうちに冷たい海の底へと姿を消してしまいました。

既に土方らが松前城を陥落させた後のことで、江差攻略戦は開陽を用いるまでもない作戦だったこともあり、安易に出港させて最強の兵器を失う要因を作った榎本に対し、旧幕府軍内部にも批判的な見方をする向きがありました。
陸軍部隊に比して活躍の場を得られない海軍将兵の鬱憤を押さえきれなかった、というのが実情だったようですが、数日後には開陽の救出に回天と共に駆けつけた輸送船・神速をも座礁~沈没させてしまい、旧幕府軍の制海権を一気に減退させ、その後の戦局に大きく影響を及ぼす要因となったことは確かでしょう。

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開陽の甲板

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開陽は度々遭遇した時化によって舵に不調をきたしており、修理や処置は施されていたものの、万全ではなかったとの説もあります。

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甲板から鴎島

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船首

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緊急脱出用の短艇。
中島三郎助らも、これで脱出したのでしょう。

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艦内には海底から引き揚げられた遺物が所狭しと陳列されていましたが、一つ一つ挙げていってもキリがないので、遺物保存のための脱塩処理をしている様子の1枚を。

つづいて江差の町へ。
夕暮れ時も迫り、主だったところを駆け足でめぐります。

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能登屋の坂

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足元にも。この坂を少し上がった先が・・・

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江差で合流した榎本と土方が休息したと伝わる能登屋跡。
芭蕉の句碑がありました。

文化元年(1804)に江差を訪れた太呂という俳人が、この地にあった町医者・本田快庵の屋敷に庵を結び、芭蕉の120回忌にあたる文化11年(1814)に句碑を建立したと云います。
文化13年になって、能登屋の六代目が快庵からこの屋敷地を購入しました。
向かって左が当時からの句碑ですが、明治5年(1872)の火災で能登屋が焼失した際、句碑も焼けて剥離が進み、修復が困難なために右の新しい句碑が建立されました。

榎本や土方も、この句碑を目にしたのかな?
・・・まぁ、開陽を失ってそれどころではなかったでしょうけど(;^_^A

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土方歳三嘆きの松

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現在は明治20年に建てられた旧檜山爾志郡役所が復元されていますが、土方らが江差に入った当時は檜山奉行所が置かれていました。

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明治元年11月16日、江差に到着した土方は、高台に建つ奉行所の前から沈みゆく開陽を眺め、この松を叩いて嘆いたと云われていますが、あくまでも伝承の域を出ません。

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眼下の町へと続くこの坂は、奉行所が置かれていたことから「奉行坂」。

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何はともあれ、江差を占拠した旧幕府軍はなおも追撃の手を緩めず、逃げる松前藩兵を藩領北端の熊石まで追い詰めます。
松前藩主・徳廣は既に船で弘前へ逃亡した後で、残された藩兵も降伏・投降し、旧幕府軍による蝦夷地平定は達せられました。

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江差を占拠した旧幕府軍の拠点が置かれた東本願寺江差別院(旧順正寺)

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高台にあって眺望が効くため、明治2年4月9日に江差北方の乙部に新政府軍が上陸した際は、江差沖を北上する新政府軍艦隊を確認できたと云います。

この日のラストに、我々も江差を北上して乙部へ向かいます。

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乙部、新政府軍上陸の地碑。

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付近にはこんな看板も。

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蝦夷地奪還を目指す新政府軍は明治2年4月9日、この付近の2ヶ所から上陸を開始したと云います。

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新政府軍が上陸した海の夕暮れ。

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国道229号から上陸地碑へと続く道は、「官軍上陸通り」と名付けられているようです。

これにて3日目の行程も全て終了。
移動距離が長く、全てまわりきれるか心配でしたが、なんとかコンプリートできて一安心。松前・江差・乙部は鉄道も通らず、なかなか容易に足を伸ばせる場所ではないですからね・・・。
江差からは、迫る日没との勝負で急ぎ足になってしまいましたが満足です。

この後は二股口の古戦場を通過し、一気に函館市内へ。
2日間お世話になったレンタカーを返却し、函館最後の夜をのんびりと楽しみました。

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2019年10月28日 (月)

松前城、法華寺、他 ― 箱館戦争めぐり⑭ ―

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松前に到着後、まずは松前城から城下の市街を挟んだ東の高台に位置する法華寺へ。

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法華寺本堂
明治元年(1868)11月5日、松前城を攻撃する土方歳三は、この法華寺に拠点を置きました。

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古絵図(麦叢録附図)に見る、松前城攻防戦の様子。
手前(下)で大砲を据えている高台が法華寺です。
法華寺からは、南方に位置する松前藩の築島台場にも大砲を撃ち下して無力化させ、その上で海上からは軍艦・回天の艦砲射撃も浴びせるという作戦が執られました。

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法華寺境内から望む松前城。
151年前、土方らもきっと目にした光景。

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合葬塚
旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の戦死者60余名を埋葬したと伝わります。

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徳川陸軍隊・士官隊の墓標

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新政府軍、伊州藩松山明義の墓碑。
伊州とは伊賀国のことになりますが、伊賀は津藩(伊勢)の領土となっていましたので、松山も津藩士ということになりますでしょうか。

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11月5日の攻城戦で戦死した赤羽音吉、及び翌明治2年4月、病のために新政府軍の手に落ちた松前からの脱出を諦め、赤羽の墓前での自害を選んだ大庭久輔・関清介らの墓所。

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法華寺の山門前から。
この方角に、松前藩の築島台場はありました。

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城下の松前町役場は松前奉行所跡。

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蝦夷地平定後の入札により、松前奉行に任じられた人見勝太郎が宿所にしていたと云う松前藩医・桜井小膳邸跡付近。
一説には、松前城を攻略した土方も滞在したとか、しないとか・・・。

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さて、それでは松前城をめぐります。

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城の南東に位置する天神坂。

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天神坂の北、馬坂。
こちらの馬坂から登城することにします。

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馬坂門跡

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馬坂門跡から法華寺方向。
奥の高台上に、法華寺本道の屋根が少し見えています。

松前城の攻防戦で城側は、搦手の門を開いて野戦砲を放ち、撃ち終われば門を閉ざして砲弾を装填し、また開門しては放つという作戦を繰り返したと云います。
これに手を焼いた旧幕府軍は、城側が装填のために門を閉ざした隙に城門前へ10名余りの銃兵を並べ、開門と同時に一斉に発砲させてこれを突破したとか。

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松前城で搦手門と呼ばれるものは城内側の東郭にあり、この時の攻防が繰り広げられた城門は、その外郭にあたる天神坂門、或いは馬坂門だったものと思われます。
馬坂門だったのではないかとする説もありますが、実際に訪れてみた感想としては、門が旧幕府軍が攻めかけてくる東を向いた天神坂門だった可能性が高いようにも思えます。
(馬坂門も城の東面に位置していますが北向き)

先に掲載した「麦叢録附図」にも、南の海岸線沿いを城へ向かって走る旧幕府軍兵士の姿が描かれており、城の南東に位置する天神坂門を攻め上ったのではないかと、個人的には考えています。
(城の東に面した通りに出た兵士も、足の向きから南へ向かって走っているように見えます)

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奥に見えているのが搦手ニノ門で、その先に・・・

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搦手門跡があります。
左奥に見えているのが搦手ニノ門で、それぞれの城門がL字のように垂直方向を向いた枡形だったようです。

なお、土方自身は各記録によると「城裏」「山をめぐりて城後」から石垣に梯子をかけて攻め入ったとありますので、守りの手薄な北側の高所(おそらく寺町方面)へ回り込んだものと思われます。

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松前城といえば、な鉄板アングル。

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三重櫓(天守)南面の石垣に残る砲弾跡
方角からして艦砲射撃によるものと思われ、或いは11月5日の攻防戦で回天から発射された砲弾跡かもしれません。

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松前城の北、寺町に建つ松前家の菩提寺・法幢寺。

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歴代藩主や、その家族らが眠る松前家墓所。

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城の南面に築かれていた二番台場周辺に残る砲座。

松前城は諸外国の脅威に備え、北辺警備のために幕府が松前藩に命じて築城させ、安政元年(1854)に完成しています。
そのため、海に面した南~南東にかけて多くの台場が築かれていました。
(だからこそ反対に北の山側の守りが薄く、そこを土方に衝かれた、ともいえるのかもしれません)

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海へ向けて据え付けられた砲門はしかし外国勢力にではなく、旧幕府軍の軍艦・回天や、土方ら陸軍部隊到着前の11月1日に松前港へ回航した蟠龍へと向けられたのでした。

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五番台場

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天神坂門近くに築かれた七番台場。
現在では東屋が置かれ、大砲の代わりにベンチが設置されていました。奇しくも、土方らが布陣した法華寺へ向いています。

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帰りは天神坂門から。

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昼食後、同行メンバーは松前城の北に位置する道南十二館の一つ大館に向かったので、腰痛に苦しむ私は麓の松前一の宮・徳山大神宮でお留守番。
(大館へ向かった一行も、林道のド藪で結局諦めて戻ってきました)

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徳山大神宮の近くには、国後島で南部藩に捉えられ、ロシアに拿捕されていた高田屋嘉兵衛との交換で釈放されたロシア人ゴローウニンらの幽閉地もありました。

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松前城の西方、元新選組・永倉新八が明治初頭に松前藩への帰参が許され、藩医・杉村家の娘と結婚して一時移り住んだ地。
(その後、小樽へ転居)

僅か数時間の戦闘で松前城を攻略した土方歳三らは11月11日、逃げた松前藩兵を追って更に北へと進軍していきます。
我々も松前をあとにし、その足取りを追って北上することにします。

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松前城から西へ2㎞ほどに位置する建石野台場跡。
遺構ではないのでしょうが、土塁のようなものがあってテンションが上がりました(笑)

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建石野台場跡(左手前)と弁天島。

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建石野台場の更に西北へ1㎞余り、折戸浜砲台跡。
いずれも旧幕府軍が新政府軍の襲来に備え、松前防衛のために築いた台場跡で、明治2年4月には松前へ迫る新政府軍との間で激戦が繰り広げられています。

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大滝の古戦場
明治元年11月14日、松前藩兵を追って北上した土方歳三率いる旧幕府軍は、急峻な山裾が海へと落ち込み、その縁を縫うように「十三曲」と呼ばれる隘路が通うこの付近で、待ち受ける松前藩兵との戦闘に及びます。
元々この地には松前藩の陣屋が置かれていたとのことなのですが、地勢からすると陣屋というよりは関所のようなものが置かれていたのかもしれません。

間に切り立った谷を挟んで対峙した両軍でしたが、山を大きく迂回した額兵隊(旧幕府軍)一小隊の横撃により、旧幕府軍は松前藩兵を撤退させることに成功しています。

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土方らも通った十三曲の旧道を、大滝橋から見下ろせるとのことだったのですが・・・車を停めるスペースがなく、交通量も多かったので走行しながらの撮影を試みるも・・・車高が低過ぎて叶わず。

大滝の戦いに勝利した旧幕府軍は、江差へ向けて北上を続けます。
同日、箱館では旧幕府軍の旗艦・開陽が、やはり江差を目指して碇を上げました。

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2019年10月27日 (日)

茂別館、咸臨丸終焉の地、他 ― 箱館戦争めぐり⑬ ―

3日目は朝7時に宿を出発。
松前方面を目指し、国道228号をひたすら進みます。

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まず最初の立ち寄り地は矢不来台場
しかし、当初の訪問予定に入っておらず軽装備だった我々は、取り付き口の結構な繁り具合にあえなく撤退。

矢不来台場跡では最近、大規模な伐採があり、重機も入って遺構が壊されているとの情報もあるので気がかりです。
北斗市の史跡にも指定されている大切な文化財・・・もし本当なら残念でなりません。
※矢不来台場の5年前(2014年)の様子はコチラから。

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矢不来台場の案内板前から見た海と函館山が奇麗でした。。。

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お次は茂別館跡。こちらも再訪になります。
大館と小館の2つの郭から成り、写真は大館跡に鎮座する矢不来天満宮。

茂別館は津軽十三湊を追われた安藤太郎盛季によって築かれました。
道南十二館の一つで、志苔館/大館(松前町)/勝山館・花沢館と共に国の史跡に指定されています。

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矢不来天満宮の裏参道脇に残る堀と土塁(切岸)

道南十二館はコシャマインの戦いで10までが陥落していますが、花沢館と茂別館だけは持ち堪えました。

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旧茂辺地中学校のグラウンドを利用した茂辺地北斗星広場。
引退した寝台特急北斗星が展示されています。後方の丘陵上が茂別館跡。

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なお、明治元年(1868)10月28日に五稜郭を出陣した土方歳三率いる松前攻略軍は同29日、ここ茂辺地に宿陣しています。

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咸臨丸が座礁沈没したサラキ岬にも立ち寄り。

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咸臨丸終焉の碑
北海道への移住を余儀なくされた仙台藩白石城主・片倉小十郎の家臣団一行を乗せた咸臨丸は明治4年(1871)9月20日、函館経由で小樽へ向かう途中、このサラキ岬沖で座礁沈没しました。

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しばし、咸臨丸が消えた海を眺める。

この後も土方ら松前攻略軍の足取りを辿るように、彼らが宿陣した木古内(10/30)、知内(11/1~2。1日の夜に松前藩兵の夜襲を受けるが撃退)、福島(11/4)と通過して・・・

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北海道の最南端・白神岬の展望広場から、青森県の竜飛岬を遠望。
ついつい、あの歌を口ずさんでしまいますね♪

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1988年に廃線となった松前線の廃線跡。
・・・いよいよ目指す松前が近づいてきました。

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2019年10月26日 (土)

亀田八幡宮、一本木関門、他 ― 箱館戦争めぐり⑫ ―

2日目のラストは、函館市内を転々と。

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函館市八幡町、亀田八幡宮の旧拝殿。

明治2年(1869)5月15日に兵粮尽きた弁天台場が降伏し、16日未明には、五稜郭への撤退命令を拒んだ中島三郎助父子3名の玉砕をもって千代ヶ丘台場が陥落するに及び、榎本武揚ら旧幕府脱走軍はこれ以上の抗戦を諦め、新政府軍への降伏と五稜郭の開城を決断します。
翌17日の朝、この亀田八幡宮旧拝殿前にて新政府軍参謀の黒田了介(清隆)らとの会見に臨み、最終的には無条件での降伏を受け入れました。

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旧拝殿前での降伏式の様子。
降伏式(会見)を終えて一旦五稜郭に戻った榎本らは、翌18日に改めて出頭して五稜郭も開城し、1年半にも及ぶ戊辰戦争の最後を飾る箱館戦争は終結を迎えました。

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旧拝殿には、箱館戦争時の弾痕も残されています。
紛らわしい穴がたくさん開いていて判断が難しいのですが、この写真のものなどは銃弾の痕で間違いないと思います。

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つづいて一本木関門跡へ。
まずは総合福祉センター敷地内の土方歳三最期之地碑にお参り。

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そして一本木関門跡

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一本木柵に沿って流れていた亀田川の支流跡。
※一本木関門と土方歳三最期の様子については、コチラの記事でもう少し詳しく触れています。

没後150年の節目に、この地に立てたことに感謝。

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弁天台場跡の碑に・・・

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弁天台場で戦い抜いた新選組最後の地碑。

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赤レンガ倉庫の近く、日本最古のコンクリート電柱

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これにて2日目の行程も終了。
3日目は松前~江差方面へ遠征します。

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2019年10月25日 (金)

意冨比神社、戸切地陣屋 ― 箱館戦争めぐり⑪ ―

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2日目の昼食は、ラッキーピエロ峠下総本店にて♪

ところで、峠下は箱館戦争の開戦を告げる戦い(明治元年10月22日)のあった地です(参考記事)。
峠下での新政府(箱館府)軍の急襲を退けた旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)は軍を進め、24日には大野、及び七重で待ち受ける新政府軍との戦闘に及び、これを撃破しています(峠下から大野・七重へと進んだ旧幕府軍は、大鳥圭介指揮の本道軍)。

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大野の戦いの中心地となった意冨比神社(大日社)

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境内のイチイの木に弾痕が残るとの情報から、神社の方に位置を教えていただきましたが、既に木の成長で樹皮が弾痕を覆ってしまった模様。

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しかしよ~く観察すると、空洞になった幹の中に気になる痕跡も・・・。

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大野の古戦場から南西へ一里ほどの戸切地陣屋

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戸切地陣屋は安政2年(1855)、幕府の命を受けた松前藩によって築かれました。

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南東側の虎口の先では、大きな蔀土塁が行く手を阻みます。

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蔀土塁の背面にはスロープが・・・。
まさか有事の際は、ここにも大砲を据えることになっていたのでしょうか。

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郭内には17棟の建物が建てられていましたが、大野の戦いに敗れた松前藩兵が自焼して撤退しています。

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東側の稜堡だけが菱型になっており、砲座が6つ構えられていました。
手前の四角い土盛りは、砲座に据える大砲の格納庫(大砲入)跡。2.5間×3間の規模で、6つの砲門が保管されていました。

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北西側の虎口にも蔀土塁。
背面のスロープまで、南東側のそれと同じ構造です。

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北西側の虎口を出た先。
郭内でヒグマのものらしき足跡も確認していたので怖かったのですが、奥に見える林の先に面白い遺構があるとの情報を得ており、警戒しながら向かうと・・・

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綺麗に整備・保存された火薬庫跡が迎えてくれました。

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土塁の他、火薬を湿気から守るための排水溝も廻らされています。

戸切地陣屋・・・ある程度の期待は持って訪れたのですが、想像以上の規模、そして綺麗な整備具合に感動しました。
今年訪れた城跡の中でも、トップクラスのインパクトです。

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2019年10月24日 (木)

大圓寺、権現台場、四稜郭 ― 箱館戦争めぐり⑩ ―

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函館市神山の大圓寺
箱館戦争で戦死した旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)兵士21名の霊を弔っています。

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土方歳三埋葬伝承地の一つでもある二本松の根元。
近年になって慰霊碑も建てられたようです。
※土方歳三の埋葬地については、5年前の極楽寺願乗寺跡(本願寺函館別院)五稜郭の記事も参照してください。

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河合要之助(福山藩)、中村幸六郎、鮫嶋辰造(以上、在住隊)のお墓。
墓石に「明治元年十月廿四日」とあるので、箱館戦争の緒戦ともいえる大野か七重での戦闘に新政府(箱館府)軍として従軍し、命を落としたものと思われます。

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つづいて権現台場
この地には、五稜郭の鬼門の守護として東照宮が祀られていました。

旧幕府軍は明治2年(1869)、新政府軍の襲来に備え、五稜郭の北の守りとして四稜郭を急造しますが、その中間に位置する東照宮も台場としました。

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戦闘で社殿は焼失し、東照宮も後に移転(現北海道東照宮)しましたが、現在鎮座する神山稲荷神社の大鳥居は1862年、五稜郭や弁天台場の石垣を築いた石工による作で、箱館戦争の戦火も潜り抜けています。
北海道東照宮に移された石造りの手水鉢に残る弾痕が有名ですが、こちらの大鳥居にも怪しい痕跡が・・・。

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神山稲荷神社

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社殿背後の気になる土塁・・・いつ築かれたものでしょうか。

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そして四稜郭へ。
建設を指揮したのは陸軍奉行の大鳥圭介とも、ブリュネとも伝えられています。

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稜堡外縁の堀跡。

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唯一の虎口は、小さいながらも枡形。

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郭内から虎口の枡形。

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北西側の稜堡先端から、四稜郭全体の撮影を試みるも・・・ちょっとフレームに入りきりませんでした。
見た通り、緩斜面の台地上に築造されており、当時は箱館を一望することができたと云います。

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稜堡先端部。
全ての稜堡先端部に、大砲の昇降用と思われるスロープ状の坂がつけられていました。

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古絵図で見る、四稜郭と権現台場の位置関係。

明治2年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃時、未だ完成前の四稜郭には江差奉行だった松岡四郎次郎隊が守備につきますが、先に権現台場を占拠され、退路が断たれるのを恐れて五稜郭へ撤退しました。

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2019年10月23日 (水)

志苔館 ― 箱館戦争めぐり⑨ ―

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旅の2日目は、函館朝市での贅沢な朝食に始まり・・・

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函館空港すぐ南の志苔館へ。
道南十二館の一つで、続日本百名城にも選定されています。

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コシャマインの戦いで亡くなった志苔館主和人御霊、及び阿伊努(アイヌ)御霊を祀る慰霊碑。

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志苔館図

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西側の二重堀越しに虎口。

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それにしても見事な二重堀です。

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二重堀の海側を見ると、直下に小さな港も。
周辺の海域にはごく浅い岩礁帯が広がっており、この港の辺りだけが船をつける水深を確保できているようでした。
この地に館が築かれた一因になっているのかもしれません。

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郭内から二重堀。
発掘調査の結果、二重堀の外側にも柵と門が築かれていたことが判明しています。

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広い郭内からは、複数の時代に跨る建物跡が見つかっています。
そのうち、初期のものと推定される建物遺構が展示されていました。
また、郭の周囲をグルッと土塁が廻っていますが、虎口のすぐ脇など、いくつか不自然な切れ目もあります。

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箱館戦争時、志苔館は旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の台場としても利用されたと考えられています。

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こうした土塁の切れ目は、旧幕府軍の手により砲座として改変された痕跡ではないでしょうか。

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最後にもう一度、綺麗な二重堀を目に焼き付けて志苔館に別れを告げます。

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この後は近くにあったトラピスチヌ修道院にも立ち寄り、次の行程へと移ります。

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2019年10月22日 (火)

丁サ、叶同館、他 ― 箱館戦争めぐり⑧ ―

史上最大級とも言われ、日本各地に甚大な被害をもたらした2019年の台風19号。
亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げますと共に、被害に遭われた方々へは1日も早い復旧を願いつつ、お見舞い申し上げます。

さて、その台風19号が迫りつつある10月11日からの3泊4日、北海道は函館へ5年越しの箱館戦争めぐりの旅へ出かけてきました。
2019年は、箱館戦争終結からちょうど150年の節目の年。「何がなんでも今年のうちに」との思いから、旅の実現に漕ぎ着けました。
※5年前の記事はコチラ(①~⑦まであります)。私の中で今回の旅は「5年前の続き」という位置づけでもあったので、記事のタイトルも⑧からスタートすることにしました)

初日は単独での自由行動。
のんびりと昼過ぎのフライトで函館へ向かい、まずは空港バスでホテル近くまで移動してチェックイン。週初めからかつて経験ないほどの腰痛に悩まされており、荷物を置いて身軽になってから市電で再出発。

まずは、明治元年(1868)12月に行われた入札によって旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の陸軍奉行並、裁判局頭取、及び箱館市中取締に就いた土方歳三が、箱館での宿所にしていたと云う丁サ跡地へ。
丁サとは箱館大町の商家、佐野専左衛門方(万屋)のことで、その紋が「丁」の字の中に「サ」としていたため「丁サ」と呼ばれました。

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丁サ跡の具体的な位置については諸説あるようですが、明治初期に作成された古地図によれば、市電も走る現在の道が大幅に付け替えられたものでない限り、この高田屋本店跡碑から通りを挟んだ向かい辺りではないかと思われます。

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土方が最後の日々を過ごしたであろう、丁サ跡。
新選組が屯所としていた称名寺(当時は弥生小学校付近)も近くにありました。

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お次は人気の観光スポット、八幡坂を少し上がって・・・

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会所町(現末広町)にあった写真師・田本研造の写真館跡。
田本は榎本武揚やJ.ブリュネ(元フランス軍事顧問団副団長。幕府瓦解後、箱館で旧幕府軍に加わる)ら旧幕府軍幹部の写真を撮影したことでも知られますが、彼がこの地に写真館を開業したのは箱館戦争が終結する明治2年(1869)のこと。
榎本らの雄姿を捉えた有名な写真が撮影されたのはここではなく・・・

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叶同館跡に建つ東本願寺函館別院。
写真向かって左の石碑に「史蹟 叶同館之阯」とあります。
旧幕府軍幹部らの依頼を受けた田本研造は、この地にあった叶同館の近くに露天の写場を開き、彼らを撮影したと云われています。

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東本願寺函館別院がこの地に移ってきたのは明治12年(1879)のことで、明治40年(1907)の大火で一度焼失し、大正4年(1915)に日本初の鉄筋コンクリート寺院として本堂を再建、現在に至ります。

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現在は境内になっている一画のどこか片隅で、こうして撮影していたのかもしれませんね。

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この後は、同行メンバーとの集合場所である函館山ロープウェイ山麓駅に向かいつつ・・・南部藩陣屋跡。
幕府の命で蝦夷地防衛の任にあたった南部藩が築いた陣屋跡です。
すぐ横の坂道は、南部藩の陣屋があったことから「南部坂」。

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合流後は函館観光のド定番、函館山からの夜景を堪能し・・・

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夜は、翌日からの旅の成功を祈念して乾杯☆
やっぱり函館に来たら、活イカは外せないですよね♪

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2019年10月 3日 (木)

妙法寺の松

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谷町9丁目の妙法寺
今は失われていますが、妙法寺には「妙法寺の松」と呼ばれる名高い松の木があり、江戸時代後期には庶民から「松の寺」とも呼ばれて親しまれていたそうです。

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有名な「妙法寺の松」ではないけれど、境内に植えられていた松をパシャリ。

警護のため、将軍家茂に随行して上方に滞在していた伊庭八郎は元治元年(1864)5月26日、早朝に妙法寺を訪れて「大松」を見物した、と日記に書き残しています(征西日記)。

朝涼や人より先へ渡りふね
その時に彼が詠んだ一句なのですが、どんな意味が込められているのでしょうか。
まだ涼しい早朝に出かけたおかげで人より先にいいものを見ることができた・・・案外こんな単純な感慨を句に詠んだのかもしれませんね。

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また、真田丸跡をめぐって訪れた心眼寺は、桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎らの埋葬地。
彼ら3名は京都見廻組に属した幕臣で、同じく見廻組に属していた今井信郎の供述の中で、坂本龍馬、中岡慎太郎を襲撃・暗殺した近江屋事件の実行部隊に名を連ねています。
特に桂は小太刀の名手で、実際に龍馬を切ったとも伝えられる小太刀が霊山歴史館に展示されています。
いずれも慶応4年(1868)1月4~5日にかけて、薩長を中心とする新政府軍との戦闘(いわゆる鳥羽伏見の戦い)で戦死し、当寺に葬られました。
残念ながらいつの頃か、高橋の墓石は失われて残っていないそうです。

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