カテゴリー「新選組・戊辰戦争」の131件の記事

2024年4月 1日 (月)

土方歳三の遺髪

2024033101
2024年3月31日、日野市の佐藤彦五郎新選組資料館へ。
去る27日に放送された「奇跡体験!アンビリバボー 番外編」の中で、初めてその存在が明かされた土方歳三の遺髪
しかも31日から特別公開されるとのことで、一も二もなく駆けつけました。

本来の開館時間である午前11時より少し前に到着したのですが、資料館前は既に多くの人だかり。
整理券が配られ、15分刻みで2~30人ずつ入れ替えで入館していきます。概ね1時間ほどの待ち時間だったでしょうか。列に並んでいる必要がないので、待ち時間に食事をしたりすることも可能だし、さほど退屈しないで済みます。
大きな混乱もなく、関係各位のご準備とご尽力の賜物ですね。

さて、土方歳三の遺髪ですが、小島資料館所蔵の「両雄士伝補遺」と並んで展示されていました。
その「両雄士伝補遺」の中で、市村鉄之助が佐藤家へ、写影(肖像写真)や絶命ノ和歌一首と共に届けたと記されていた鬢髪数根

ほんの一握りほどの細い束で、長さは15cmほどもあったでしょうか。
土方が最期を迎える時、彼の髪は肖像写真の撮られた時期よりも少し伸びていたのかもしれないなぁ…なんて考えてみたり。
少しウェーブの掛かったような感じは、いかにも肖像写真に残る土方歳三の遺髪らしいなとも思いました。
私は漠然と、遺髪は彼のお墓に収められているのかなぁ…と考えていましたが、まさか実際にこの目にする日が来るとは…!

不思議と展示ケース前を独占できる瞬間もあり、意外なほどじっくりと拝観させていただきました。
まずは公開していただいたことに感謝し、今後もずっと大切に守り伝えられていくことを願って止みません。

| | コメント (0)

2022年4月29日 (金)

石田散薬 製造体験

2022042901
2022年4月29日、運良く予約が取れたので、土方歳三資料館で開催された石田散薬製造体験会に参加してきました。

2022042902
本年10月末を以っての長期休館が決まっている土方歳三資料館。
この機会を逃してはいつまた、土方歳三に関する貴重な史料の数々にお目にかかれるかわからなくなると思い、参加を決めました。
(一般の開館日は混雑するので・・・)

2022042903
石田散薬の原料はミゾソバというタデ科の植物で、葉が牛の額(頭?)のような形をしていることから「牛額草」とも呼ばれています。
ミゾソバを採集してから乾燥させ、それを炒って最終的に薬研で粉状(散薬)にしていくまでには長い期間を要します。
従って体験会では予めご用意いただいた原料を用い、最終の薬研で擂る工程を体験させていただきます。

2022042904
擂る前の原料(右)と、擂った後のもの(左)。
我ながら結構な仕上がりと自賛(笑)

2022042905
最後は専用の包み紙に包んで完成です。
包み紙の折り方もレクチャーしていただきました。

製造体験終了後は、和泉守兼定をはじめとする土方歳三ゆかりの品々や、松平容保から拝領した島田魁の脇差土佐守藤原正宗なども悔いを残さないよう、じっくりと拝観させていただきました。

2022042906
この生家の大黒柱も、しばらくは見納めですかね・・・。

見渡す限り、男性参加者は私一人きりで肩身は狭かったですが(笑)、とても貴重な体験をさせていただきました。
ずっと求めていた、石田散薬の顧客リストともいうべき「村順帳」に関する資料も入手でき、大満足です。

| | コメント (0)

2022年1月 6日 (木)

扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~

2022年最初の“歴旅”は、前回の記事から引き続き飯能戦争関連です。
電車とバスを乗り継ぎ、、、

2022010401
こちらからスタート。
前回の記事でも触れましたが、慶応4年(1868)5月、上野戦争の敗報に接した振武軍ら旧幕府諸隊は、田無から二手に分かれて飯能を目指すことになります。
一隊は秩父甲州往還を所沢経由でここ扇町屋に入り、もう一隊は青梅街道で箱根ヶ崎まで引き返し、日光脇往還を北上して、やはり扇町屋を経由してから飯能入りしました(5月18日)。

また、その追討に向かう新政府軍本隊も同月22日に振武軍らの去った扇町屋へ入り、大村・佐土原・備前の各藩からなる部隊は秩父甲州往還を進み、野田村を経由して飯能へ向かうことを決し、翌23日未明に扇町屋を発しています。

今回はそのルートを辿って、私も扇町屋から飯能を目指して歩いてみます。

2022010402
青梅道(右)が日光脇往還に合流する地点。
そこに・・・

2022010403
扇町屋上町の道標があります。
子育地蔵は元禄5年(1692)の銘をもち、
右 おう免みち
左 八王じみち
と彫られているそうです。

左の馬頭観音は文政3年(1820)のものでやはり道標を兼ね、右の石柱型の道標には安政3年(1856)の銘がありました。

2022010404
日光脇往還を北へ進んでいくと、風情のある建物も残っていました。

2022010405
割烹扇屋さんは、幕末頃には旅籠を営まれていたとか。
飯能戦争に関わった両陣営の兵卒たちも、きっと利用したことでしょう。

飯能戦争当日の5月23日、振武軍の一隊が扇町屋の新政府軍襲撃を企てましたが、いざ到着してみると旅籠の軒先に名が掲げられているだけで、既にもぬけの殻であったと云います。(高岡槍太郎戊辰日記)

2022010406
よ~く町並を見てみると、建物が道路と正対せずに少しずつ斜めにズレ、ギザギザに並んでいました。

2022010407
日光脇往還は左斜め方向へ。
この分岐点の脇には・・・

2022010408
下町の道標(道祖神)
日光脇往還と、川越へ向かう道を標しています(「日こう」の文字も確認できました)。
こちらには享和2年(1802)の銘がありました。

2022010409
ところで、扇町屋の外れ(豊岡高校北隅)には彰義隊遭難者の碑がたてられています。
説明板によると慶応4年(1868)3月29日、軍資金調達のために扇町屋へやって来た彰義隊士13名が、村人によって殺害されるという事件があったのだそうです。
大正10年(1921)、当地を訪れた元幹部隊士・本多晋(敏三郎)によって建碑されました。

2022010410
さて、日光脇往還に戻って少し進むと、趣のある立派な建物が見えてきました。
黒須村名主・繁田家(本家)の長屋門と、繁田醤油(分家)です。
細い道を挟んだ左側には、繁田満義が設立に携わった旧黒須銀行(現りそな銀行)の古い建物も残っています・・・ほとんど写っていないけど(;^_^A

明治32年(1899)、飯能戦争で命を落とした渋沢平九郎の慰霊のため、飯能や越生を訪れた渋沢栄一は道中、この繁田家にも立ち寄りました。
そうした縁もあってのことでしょう、彼は黒須銀行設立時の顧問にも名を連ねています。
※旧黒須銀行については、コチラの記事参照。

ここで日光脇往還を離れ、繁田醤油と旧黒須銀行の間の小路を進むことにします。

2022010411
旧道の雰囲気を残す道をしばらく進み、入間川の河原が近づいてきたところで、河原に下りられそうなポイントがありました。
(民家の途切れた右側)

2022010412
目印は、こちらのお地蔵様。

2022010413
下りた先が・・・黒須村と笹井村を渡していた笹井の渡し跡です。
勿論、現在は渡ることができませんので、私は近くの豊水橋(日光脇往還根岸の渡し辺り)へ迂回しました。

2022010414
笹井の渡しを笹井村側へ渡河したポイントから。
佐土原・大村・備前の緒隊、及び双柳から中山方面へ向かう福岡や久留米の藩兵らも、きっとここから上陸したことでしょう。

2022010415
上陸地点には水天宮が祭られていました。

2022010416
秩父甲州往還はこの先、しばらくは入間川に沿うようにして西へ進みます。

2022010417
渡し跡から7~8分ほども歩いたでしょうか、路傍には水神宮と・・・

2022010418
御嶽神社が祭られていました。
神社の前には、旧道の痕跡らしき砂利道もありましたが、私有地に入ってしまいそうでしたので追跡は断念しました。

新政府軍が入間川を越えて300mほど進んだところで、旧幕府方との最初の接触があったと云います(23日未明)。
その詳細な場所はわかりませんが、距離的にはこの辺りになりますでしょうか。
最初の遭遇の後、振武軍らは畑のそばの藪中から発砲してきたそうですが、実際にこのすぐ先には今も畑が広がっていました

笹井での戦闘で旧幕府方を撃退した新政府軍(先陣は佐土原藩)でしたが深追いはせず、夜の明けるのを待って進軍を再開しました。

2022010419
先ほどの砂利道はここに繋がっていたのかな?

2022010420
進軍する大村・佐土原・備前勢が野田村の外れまで差し掛かった時、再び旧幕府方から銃撃を受けました。
そこで新政府軍は開けた野原のような場所に出て散兵し、林や藪に潜む旧幕府方を撃退したと云います。
・・・なんとなく、それを彷彿とさせる光景に出くわしました。

2022010421
旧幕府方が潜んでいた(かもしれない?)藪を抜けて更に進みます。

2022010422
野田山王塚石造物群

2022010423
庚申塔や馬頭観音が集められており、最古のものは寛文8年(1668)になるそうです。
この場所で振武軍や、新政府軍らの動きを目撃していたのでしょうか。

2022010424
秩父甲州往還の旧道らしき道を進む。
この辺りは交通量も多く、歩道がなかったのでかなりスリリングでした。

2022010425
道中にあった白髭神社にもお参り。
この後、八高線や西武線の線路を超え、いよいよ飯能の中心部へ入っていきます。

2022010426
飯能の高札場跡。
この辺り一帯も、飯能戦争の兵火で焼けているようです。

2022010427
高札場跡付近に建つ、明治7年創業の吉田屋呉服店。
その前に明治16年の軍事演習の際、視察に訪れた明治天皇の御座所になったことを示すプレートも掲げられていました。
天皇は能仁寺裏の羅漢山にも登って演習を視察されています。それ以降、山は天覧山と呼ばれるようになりました。

2022010428
店蔵絹甚の重厚な佇まい。
明治37年(1904)の建築。

2022010429
野村庄三郎を頭とする振武軍隊士40名ほどが滞在していた広渡寺。
戦争で本堂や庫裡を焼失しています。

2022010430
眞能村名主・双木家跡付近。
「23日朝、戦闘がいよいよ飯能の町へ迫ってきたので逃げる支度をしていると、大砲の玉や小銃の銃弾が茶の間に落ちてきて恐怖した。(中略)終戦後、家に戻ってみたら大砲の玉が2つ、銃弾はたくさん転がっていた」
といった内容の証言を、時の当主・双木利八郎が拾った大砲玉を収めた箱(大炮玉箱)の箱書に残しています。

2022010431
ところで、飯能の町中に「双木利一」という人物の胸像がありました。
詳しく調べはついていないのですが、おそらく利八郎の孫(養子の子息)にあたる人物かと思われます。


本来であれば、久しぶりに能仁寺までお詣りしたいところでしたが、久しぶりの長距離ウォークで足が悲鳴を上げており、付け根の辺りに激痛レベルの痛みを覚えていたので断念いたしました。
コロナ禍で体も相当なまっている模様・・・早く何の気兼ねもなく出かけられる日々を取り戻したいものです。

| | コメント (0)

2021年12月19日 (日)

振武軍が宿営した箱根ヶ崎

慶応4年(1868)、副頭取・天野八郎らとの対立から彰義隊を離れた渋沢成一郎らは田無に入り、同志を募って振武軍を結成しました(5月1日頃か)。
ここでしばらく、周辺の多摩地域の村々から惣代や名主に出頭を求め、軍用金の調達に勤しみます。連光寺村の惣代・忠右衛門もやはり呼び出しを受けて田無の振武軍本営へ出頭していますが、この忠右衛門とは富澤忠右衛門のことで、彼は新選組の面々とも親交のあった人物で、京に旅した際には近藤や土方、山南、沖田らから歓待を受けています。(「旅硯九重日記」/参考記事

そして5月12日、振武軍は田無から青梅街道を西へ向かい、箱根ヶ崎に陣替えしています。
これは田無では江戸に近く、新政府軍が動き出したら1日以内で襲撃されてしまう恐れがあったためとも云います。

2021121901
JR箱根ヶ崎駅から東へ150mほどで、八王子千人同心が日光勤番に利用していた日光街道(日光脇往還/以下「日光街道」と表記)に出ます。
眼前を南北に横切っている道路がそれで、奥へ続いている道は江戸街道(江戸道)です。
この日光街道と江戸街道が接する南側(写真右側)の角にはかつて、旅籠関屋(関谷家)がありました。

箱根ヶ崎に到着した振武軍は、この旅籠関屋や圓福寺などに宿営します。

2021121902
旅籠関屋跡
安政4年(1857)に作成された間取図によると、旅籠の建物は日光街道と江戸街道に面した敷地の北西寄りに建てられていました。
上の写真では手前が江戸街道なので、煉瓦の塀沿いに奥へ、日光街道にぶつかって塀が途切れる辺りにかけてとなります。

2021121903
日光街道を少し北上し、青梅街道との交差点。
奥へ続く道が青梅街道(田無方面)で、手前を横切るのが日光街道です。
角に明治5年創業という漢方薬店の素敵な建物がありました。
※往時の青梅街道・田無方面の日光街道との結節点は、もう1本南側の小道だったようです。そこから日光街道で少しクランクさせて、写真手前方向に青梅方面へと続いていました。

2021121904
青梅街道を少し西へ進むと・・・

2021121905
振武軍宿営地の一つ、圓福寺。
立派な山門に驚かされます。

2021121906
圓福寺本堂

箱根ヶ崎滞在中も軍用金調達のため、近郷の村々の名主らが呼び出しを受けていますが、新町村(青梅市)名主へも同様の廻状が出されています。
この新町村名主とは、こちらの記事でご紹介した吉野家のことでしょう。

5月15日、上野で戦争が始まったとの報を受け、成一郎らは急ぎ箱根ヶ崎を出発して青梅街道を東進します。
ところが高円寺あたりまで来た時(同日夜)、上野戦争の敗報に接して田無まで引き返しました(同16日)。
田無で彰義隊や臥龍隊の敗残兵らと合流し、一隊は所沢を経由して扇町屋から、もう一隊は箱根ヶ崎から飯能へと向かうことになりました。
成一郎ら振武軍は箱根ヶ崎を経由するルートをとり、旅籠関屋を本営として隊士らは圓福寺に宿営(同17日)、翌18日には慌ただしく出発して日光街道を北へ、扇町屋を経由してから飯能へ入っています。

私も少し、日光街道を北上してみました。

2021121907
残堀川に架かる大橋の欄干が不思議な形をしていました。
この橋の袂にはかつて、慶応元年(1865)創建の常夜燈が建っていたそうです。
ところが大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまい、現在は修復して近くの狭山池公園に移設されています。

2021121908
日光街道の看板。

2021121909
更に北へと続く日光街道。
飯能へと向かう成一郎ら振武軍も行軍した道。。。

その後の飯能戦争については、以下の記事を。
飯能戦争の舞台
顏振峠と渋沢平九郎最期の地

折角なので、周辺をもう少し散策します。

2021121910
小高い丘の上に建つ狭山神社。
石段が修復中で通行不能なため、脇の坂道を上がっていくのですが・・・

2021121911
かなりの急勾配な上に枯れ葉がびっしりと積もり、とてもスリリングな参拝になりました…(;^_^A

2021121912
伊邪那岐尊・伊邪那美尊と共に、泉津事解男命・箱根大神・木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命を祭ります。
創建年代は不明ですが、箱根大神は永承年間(1046-1053)、奥州征伐に向かう「八幡太郎」源義家が、この近くの筥の池(現在の狭山池)付近に宿陣した際に勧請したものと伝えられ、木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命の三柱は源頼朝の命による勧請と考えられています。

2021121913
源義家が宿陣したと云う筥の池。

2021121914
大橋の袂に建っていた常夜燈もありました。
この常夜燈は、飯能へ向かう振武軍の行軍も目撃していたのですねぇ・・・。

2021121915
他にも馬頭観音や・・・

2021121916
蛇喰い次右衛門の石像なるものも。
案内板によると・・・

とある暑い日、治右衛門が筥の池で水浴びをしていると、小さな蛇が絡みついてきて離れなくなりました。
どうにか引き離そうと治右衛門が蛇に嚙みつくと、急に空模様が大荒れとなり、蛇も大蛇となって傷口からは血が七日七晩流れ続けたと云います。
蛇が退治されると池の水も枯れ始め、現在のような小さな池になりました。

・・・これは昔、筥の池の水を残堀川に流して玉川上水の助水にしたことで筥の池の規模が縮小し、且つ、その時の残堀川の流れが大蛇さながらのようであったことから、「蛇堀川」と呼ばれたことに由来する伝承と考えられています。

2021121917
狭山池公園から、狭山神社の建つ丘を見上げる。

2021121918
最後は瑞穂町郷土資料館にも立ち寄って、この日の歴史散策は終了。
週末も仕事で家に籠る日が多かったので、いい運動になりました。

| | コメント (0)

2021年11月23日 (火)

近藤芳助が所持していた近藤・土方肖像写真

2021112301
2021年11月23日、新選組隊士だった近藤芳助(川村三郎)が所持していたと云う近藤勇・土方歳三の肖像写真が、1日限定(写真の劣化を防ぐため)で公開されると聞き、土方歳三資料館へ。

2021112302
到着してみると想像を超える盛況ぶりで、行列は表の道路まで延々と続いていました。

今回、土方歳三資料館で公開された近藤・土方の写真は、幕府御典医であった松本良順(順)が所持していたものを、元新選組隊士・久米部正親(猪野忠敬)が借り受けて近藤芳助に託し、芳助が横浜の写真家・鈴木真一に依頼して3枚ずつ複写したものの1組とのこと。
残りの2組は、久米部と永倉新八とで分け合ったのだとか。

実際、土方の写真の裏には;
土方年三君 明治廿壱年九月 猪野忠敬氏所持之分複写
と書かれているそうです。

芳助の御子孫が土方歳三資料館へ寄贈されたことから、今回の1日限定公開になった訳ですが、過去(2009年)にはこの御子孫により、2人の写真は「開運!なんでも鑑定団」に出品されたこともあったようです。

近藤の写真の方は劣化が進み、かなり色褪せているように見受けられましたが、土方の方は割と鮮明で、市村鉄之助が箱館から佐藤家に届けた写真と構図は全く同じなのですが、表情が心もち柔らかい印象を受けました。

2021112303
資料館内も大変な混雑。私は既に何度もお邪魔しているので、今回は目的の写真だけを目に焼き付けて、早々に退散いたしました。

| | コメント (0)

2020年9月20日 (日)

近藤勇愛用の湯呑を拝観

H2020092001_20200920145302
2020年9月20日、久しぶりに土方歳三資料館へ。
新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、館内の人数を制限をしているので多少は待ち時間もありましたが、それでも兼定の刀身は公開していないので20分ほどで入館できました。

今回は、特別に公開されている近藤勇愛用の湯呑を拝観するための訪問です。
慶應三年(「卯」)七月、刀箱の装飾をしてもらったお礼にと、多摩の縁の家に贈られたという湯呑。
外側だけでなく、内側にも綺麗な絵が施された上品な印象の品で、近藤が大きな手でこの湯呑を包み込み、ホッと一息ついている姿を想像しながら拝観させていただきました。

H2020092002
まだまだ思い通りに出かけられない状況が続いていますが、地元でも好きな歴史に触れることができる環境は、とても恵まれているのかもしれません。

| | コメント (0)

2020年7月26日 (日)

幕末維新展 志士たちの軌跡(津雲邸)

2020072601
5年ぶりに青梅の津雲邸へ。

2020072602
また幕末維新展が開催されていると知り、前期の最終日に駆け込むようにして拝観してきました。

5年前の「幕末維新展」と似たような構成だったかとは思いますが、個人的に印象に残り、且つ当時の記事では触れていないものを、備忘を兼ねてピックアップしておきます。

三条実美 明治天皇への建言書
木戸孝允、版籍奉還建議書
→5年前の記事でも触れているものと同一かもしれません。

伊藤博文→アーネスト・サトウ宛書状
→漢文。さすがのサトウも、漢文は読めなかったでしょうねぇ…?(笑)

大山巌・捨松→伊藤博文宛招待状
勝海舟の漢詩
→末尾に「戊辰晩夏 海舟 勝義邦」とあり、江戸無血開城(慶応4年=戊辰)遂行後の心情を詠んでいます。

黒田清隆→伊藤博文書状
→「明治14年の政変」に繋がる「開拓使官有物払下事件」に関連する内容が書かれています。

板垣退助 委任状
→後藤象二郎が経営に行き詰まり、岩崎弥太郎の三菱に譲渡することになった高島炭鉱の運営を委任する旨を記したもの。旧土佐藩出身者間の繋がりが見て取れます。

雲井龍雄が人見寧に贈った漢詩
→「平潟湾 勿来関」に始まり、明治政府には屈しないとの決意を詠み込んでいます。

近藤勇直筆借用書(樋口重郎兵衛宛)

また、他に来館者が殆どいないタイミングだったからというのもあるでしょうが、説明を受けている際、係の方から近藤勇の木刀三振や榊原健吉の杖を渡され、この手に持たせていただくという幸運にも恵まれました。

後期展示期間は令和2年9月25日~11月29日。
幕末維新期の歴史にご興味をお持ちの方にはお薦めの展示内容ですので、機会があれば是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
※開館日:金・土・日・祝

| | コメント (0)

2020年1月11日 (土)

日野駅南にあった旧甲州街道踏切

2020年1月現在、開業130周年を迎えたJR日野駅では、日野宿発見隊さんの主催で「まちかど写真館 in ひの」が開催されています。
その展示されている古い写真の中に、かつて日野駅ホーム南端の先で線路を横切っていた旧甲州街道の踏切を写したものがありましたので、令和を迎えた現在の光景と比較してみることにしました。

2020011101
こちらが昭和46年(1971)に撮影された、旧甲州街道踏切の姿。
中央の屋根がとんがっている建物は坂下地蔵堂

2020011102
その現在。赤い屋根が坂下地蔵堂です。
旧甲州街道は写真右奥から坂を上ってきて、左側の線路を越えて続いていました。

2020011103
坂下地蔵堂と旧甲州街道の踏切跡。
ここにあった踏切を越えた先は「大坂上」。
日野宿佐藤家の御子孫が著した「聞きがき新選組」の中で、京から日野に戻っていた土方歳三が佐藤彦五郎の長男・源之助俊宜を伴い、大坂上から馬を攻めて甲州街道を日野宿まで駆け下った、というエピソードが紹介されていますが、まさにここが、2人が馬で駆け下ったという場所でもあります。

2020011104
昭和56年(1981)11月、封鎖される直前に撮影された旧甲州街道の踏切。

2020011105
その現在。
ちょっと視界が開けるポイントがありませんでした。

2020011106
そして同年12月、封鎖された直後の踏切。

2020011107
同じアングルから。
正面に見えているクネクネとした道路や、建物のいくつかは今も変わっていませんね。
旧甲州街道は線路を越えた先で左へ折れ、坂を下って日野宿へ入っていきました。

2020011108
最後に日野駅の姿も。
こちらは昭和12年(1937)に撮影されたものとのことです。

2020011109
レトロな駅舎は今も殆どその姿を変えることなく、人々の日々の生活を見守り続けています。
私も学生時代から通学・通勤で毎日利用している身。
この風情ある佇まいがこの先、幾世代も長く守り伝えられていくことを願ってやみません。

| | コメント (0)

2019年12月18日 (水)

佐藤俊宜の「今昔備忘記」拝観

2019121501
佐藤彦五郎新選組資料館
2019年12月15日、土方歳三没後150年最後の開館日に、市村鉄之助が箱館から土方の肖像写真などを届けた際の経緯を記録した「今昔備忘記」の原本が、1日限定で公開されると聞いてお邪魔してまいりました。

「今昔備忘記」は大正10年(1921)頃、佐藤彦五郎の長男・俊宜が残した書。
その記すところによると明治2年(1869)のある日、佐藤家(現日野宿本陣)の軒先に見知らぬ乞食のような小僧が立ち、しきりに家の様子を伺っていました。
なんだか胡散臭いので追い払おうとすると、あろうことか台所にまで入ってきて、家の人にお会いしたいと懇願する始末。仕方ないので中庭の方へ回して問い質すと、「私は土方大将の小姓を務めておりました市村鉄之助と申す者です」と名乗り、土方の写真と一片の切紙を差し出しました。その紙片には、

使の者の身上頼上候
義豊

とあり、紛れもなく歳三の真筆だったので詳しく聞くと、土方から日野までの使いを命じられた際の詳しい経緯や、出航を待つ外国船で耳にした土方戦死の様子(戦死地については「海岸一本木」とも)などを語り出しました。
話を聞くうちに当主・彦五郎も、その妻で土方の実姉ノブも涙せぬ者はなったと云います。

2019121502
日野宿本陣、佐藤家の台所跡。

2019121503
同じく中庭。
左が台所のあった建物です。

同時代史料となる父・彦五郎の日記には、明治2年7月18日の項に「箱館ニおゐて降伏兵卒、亀太郎と申もの来ル。」とあるのみで鉄之助に関する記述がなく、「今昔備忘記」の存在を知らなった専門家の中には、鉄之助と佐藤家との関連を疑問視する向きもあったのだとか。
俊宜は明治2年当時、既に数えで20歳の青年です。鉄之助はその後、2年間ほど佐藤家で匿われたと云いますし、彼に関する記憶は50年以上を経ても褪せることはなかったのではないでしょうか。

このエピソードも今となっては広く知られるところではありますが、改めてその史料原本を拝観させていただき、真に迫るものを感じました。

2019121504
鉄之助が2年間匿われ、養われていた一間。

2019121505
「今昔備忘記」の表表紙には「佐藤家の記事 十四代 俊宜執筆」の記載と共に、「不許他見(他見を許さず)」とあることから滅多に表に出すこともなく、今回も約10年ぶりの公開となりました。
新選組に関する記述も多く、戊辰戦争終結から50年以上を経てもなお、「不許他見」とした俊宜、そして日記に鉄之助のことを一切記さなかった彦五郎(俊正)の思いも推して知るべし、といったところでしょうか。

土方歳三没後150年の節目の年の最後に、感慨深い現史料を拝観させていただきました。

| | コメント (0)

2019年10月31日 (木)

五稜郭、立待岬、碧血碑 ― 箱館戦争めぐり⑯ ―

2019101401
旅の最終日は五稜郭へ。

2019101402
五稜郭タワーから見る函館山。

2019101403
五稜郭は旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の入城時は脆弱な備えだったようで、新政府軍の襲来に備えて改修を加えたことを、大鳥圭介やブリュネが証言しています。
箱館戦争終結後、五稜郭の構えを見た新政府軍関係者が「さすがは西洋に通じた榎本、大鳥」と感嘆したとか。

2019101404
半月堡脇の石垣に刻まれた「栄永」の文字。

2019101405
半月堡の先端部分。

2019101406
反対に、半月堡の先端から主郭方向。

2019101407
五稜郭へ来たら、ここは絶対に外せません・・・一本松の土饅頭。
その理由は・・・5年前に訪れた際の記事をご参照ください。

2019101408
復元された箱館奉行所・・・新政府軍艦隊の砲撃目標になってしまった建物(;^_^A

2019101409
無論、奉行所内も見学しました。

2019101410
明治元年(1868)10月26日、箱館を占拠した土方ら旧幕府軍が五稜郭へ入城した裏門。

2019101411
裏門脇の土塁上に築かれた砲座。

2019101412
北東側の稜堡部分。
稜堡には、大砲の昇降用に築かれたスロープ状の坂と、土塁をくりぬいた弾薬庫が設けられていました。
スロープ脇の土盛りは、弾薬庫を築くために土塁をくりぬいて出た土で、目隠しや弾除けのために弾薬庫前に盛り上げられていたものです。

2019101413
東(東北)門の蔀土塁からは、新政府軍艦隊の旗艦・甲鉄から発射されたものと考えられる砲弾も発見されているそうです。

2019101414
東門の先、かつては橋が架けられていたであろう痕跡。

2019101415
5年前の初訪時には見落としていた部分もあり、再訪できて良かったと思います。

この後の行程は残された時間、及び同行メンバーの希望とも相談し、タクシーで一気に移動して・・・

2019101416
函館山の南東端、立待岬へ。

2019101417
立待岬にもかつて、幕府の命を受けた南部藩が築いた台場がありました。

2019101418
箱館戦争時には無論、旧幕府軍も利用したものと思われます。

なお、近くの墓地には石川啄木や、初日の記事でご紹介した写真師・田本研造の墓所もあります。

2019101419
旅のラストは碧血碑へ。
写真の場所でタクシーを降り、山道を5分ほど進みます。

2019101420
明治8年に建立された碧血碑
箱館戦争に斃れた旧幕府軍兵士約800名の霊を祀ります。碑の揮毫は大鳥圭介によるものと云われています。

2019101421
旧幕府軍戦死者らの埋葬や、碧血碑の建立に尽力した柳川熊吉の碑。

2019101422
明治辰巳實有此事
立石山上叺表歔志
「明治辰巳の年(2年)“此の事”は実際に有りました。山上に石を立て悲しみの志を表します」

箱館戦争終結から6年の歳月を経てもなお、具体的に記すことを明治政府に憚って「此事」とのみ刻んだ、榎本や大鳥ら建碑者たちの思いたるや如何に・・・。

今回も箱館戦争にどっぷりと浸かることができ、充実した旅となりました。
私のわがままに付き合ってくれた同行メンバーには感謝に堪えません。お陰様で、腰痛で思うように身動きも取れない中でしたが、なんとか乗り切ることができました。

2019101423
帰路は全員で新幹線を選択。
初めて訪れた新函館北斗駅にて、ほっきーとご対面。

2019101424
駅構内には、北斗の拳のケンシロウも。

3泊4日の函館・松前・江差・乙部への旅、全10回に渡るblog記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧