カテゴリー「新選組・戊辰戦争」の115件の記事

2019年10月23日 (水)

志苔館 ― 箱館戦争めぐり⑨ ―

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旅の2日目は、函館朝市での贅沢な朝食に始まり・・・

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函館空港すぐ南の志苔館へ。
道南十二館の一つで、続日本百名城にも選定されています。

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コシャマインの戦いで亡くなった志苔館主和人御霊、及び阿伊努(アイヌ)御霊を祀る慰霊碑。

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志苔館図

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西側の二重堀越しに虎口。

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それにしても見事な二重堀です。

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二重堀の海側を見ると、直下に小さな港も。
周辺の海域にはごく浅い岩礁帯が広がっており、この港の辺りだけが船をつける水深を確保できているようでした。
この地に館が築かれた一因になっているのかもしれません。

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郭内から二重堀。
発掘調査の結果、二重堀の外側にも柵と門が築かれていたことが判明しています。

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広い郭内からは、複数の時代に跨る建物跡が見つかっています。
そのうち、初期のものと推定される建物遺構が展示されていました。
また、郭の周囲をグルッと土塁が廻っていますが、虎口のすぐ脇など、いくつか不自然な切れ目もあります。

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箱館戦争時、志苔館は旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の台場としても利用されたと考えられています。

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こうした土塁の切れ目は、旧幕府軍の手により砲座として改変された痕跡ではないでしょうか。

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最後にもう一度、綺麗な二重堀を目に焼き付けて志苔館に別れを告げます。

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この後は近くにあったトラピスチヌ修道院にも立ち寄り、次の行程へと移ります。

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2019年10月22日 (火)

丁サ、叶同館、他 ― 箱館戦争めぐり⑧ ―

史上最大級とも言われ、日本各地に甚大な被害をもたらした2019年の台風19号。
亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げますと共に、被害に遭われた方々へは1日も早い復旧を願いつつ、お見舞い申し上げます。

さて、その台風19号が迫りつつある10月11日からの3泊4日、北海道は函館へ5年越しの箱館戦争めぐりの旅へ出かけてきました。
2019年は、箱館戦争終結からちょうど150年の節目の年。「何がなんでも今年のうちに」との思いから、旅の実現に漕ぎ着けました。
※5年前の記事はコチラ(①~⑦まであります)。私の中で今回の旅は「5年前の続き」という位置づけでもあったので、記事のタイトルも⑧からスタートすることにしました)

初日は単独での自由行動。
のんびりと昼過ぎのフライトで函館へ向かい、まずは空港バスでホテル近くまで移動してチェックイン。週初めからかつて経験ないほどの腰痛に悩まされており、荷物を置いて身軽になってから市電で再出発。

まずは、明治元年(1868)12月に行われた入札によって旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の陸軍奉行並、裁判局頭取、及び箱館市中取締に就いた土方歳三が、箱館での宿所にしていたと云う丁サ跡地へ。
丁サとは箱館大町の商家、佐野専左衛門方(万屋)のことで、その紋が「丁」の字の中に「サ」としていたため「丁サ」と呼ばれました。

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丁サ跡の具体的な位置については諸説あるようですが、明治初期に作成された古地図によれば、市電も走る現在の道が大幅に付け替えられたものでない限り、この高田屋本店跡碑から通りを挟んだ向かい辺りではないかと思われます。

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土方が最後の日々を過ごしたであろう、丁サ跡。
新選組が屯所としていた称名寺(当時は弥生小学校付近)も近くにありました。

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お次は人気の観光スポット、八幡坂を少し上がって・・・

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会所町(現末広町)にあった写真師・田本研造の写真館跡。
田本は榎本武揚やJ.ブリュネ(元フランス軍事顧問団副団長。幕府瓦解後、箱館で旧幕府軍に加わる)ら旧幕府軍幹部の写真を撮影したことでも知られますが、彼がこの地に写真館を開業したのは箱館戦争が終結する明治2年(1869)のこと。
榎本らの雄姿を捉えた有名な写真が撮影されたのはここではなく・・・

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叶同館跡に建つ東本願寺函館別院。
写真向かって左の石碑に「史蹟 叶同館之阯」とあります。
旧幕府軍幹部らの依頼を受けた田本研造は、この地にあった叶同館の近くに露天の写場を開き、彼らを撮影したと云われています。

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東本願寺函館別院がこの地に移ってきたのは明治12年(1879)のことで、明治40年(1907)の大火で一度焼失し、大正4年(1915)に日本初の鉄筋コンクリート寺院として本堂を再建、現在に至ります。

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現在は境内になっている一画のどこか片隅で、こうして撮影していたのかもしれませんね。

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この後は、同行メンバーとの集合場所である函館山ロープウェイ山麓駅に向かいつつ・・・南部藩陣屋跡。
幕府の命で蝦夷地防衛の任にあたった南部藩が築いた陣屋跡です。
すぐ横の坂道は、南部藩の陣屋があったことから「南部坂」。

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合流後は函館観光のド定番、函館山からの夜景を堪能し・・・

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夜は、翌日からの旅の成功を祈念して乾杯☆
やっぱり函館に来たら、活イカは外せないですよね♪

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2019年10月 3日 (木)

妙法寺の松

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谷町9丁目の妙法寺
今は失われていますが、妙法寺には「妙法寺の松」と呼ばれる名高い松の木があり、江戸時代後期には庶民から「松の寺」とも呼ばれて親しまれていたそうです。

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有名な「妙法寺の松」ではないけれど、境内に植えられていた松をパシャリ。

警護のため、将軍家茂に随行して上方に滞在していた伊庭八郎は元治元年(1864)5月26日、早朝に妙法寺を訪れて「大松」を見物した、と日記に書き残しています(征西日記)。

朝涼や人より先へ渡りふね
その時に彼が詠んだ一句なのですが、どんな意味が込められているのでしょうか。
まだ涼しい早朝に出かけたおかげで人より先にいいものを見ることができた・・・案外こんな単純な感慨を句に詠んだのかもしれませんね。

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また、真田丸跡をめぐって訪れた心眼寺は、桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎らの埋葬地。
彼ら3名は京都見廻組に属した幕臣で、同じく見廻組に属していた今井信郎の供述の中で、坂本龍馬、中岡慎太郎を襲撃・暗殺した近江屋事件の実行部隊に名を連ねています。
特に桂は小太刀の名手で、実際に龍馬を切ったとも伝えられる小太刀が霊山歴史館に展示されています。
いずれも慶応4年(1868)1月4~5日にかけて、薩長を中心とする新政府軍との戦闘(いわゆる鳥羽伏見の戦い)で戦死し、当寺に葬られました。
残念ながらいつの頃か、高橋の墓石は失われて残っていないそうです。

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2019年7月31日 (水)

横倉喜三次の二王清綱

上陸した台風6号の進路も気になる7月27~28日、その台風へ向かうかの如く飛騨高山への旅に出かけました。
27日(土)の朝に東京の自宅を出る時は快晴だった空模様も、新幹線で西へ進むにつれて怪しくなり、愛知県に入った辺りでは視界も霞むほどの豪雨・・・。

午前10時、JR岐阜駅で台風旅の道連れと合流し、まずは私のリクエストで・・・

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関市の岐阜県博物館へ。(写真提供:流星☆さん)
こちらで開催されている令和元年度の特別展、剣精霊貫白虹 幕末美濃の剣豪と名刀(~2019年9月8日)を目当てに訪れました。

本特別展は幕末の動乱期に於ける美濃国の歴史や、山岡鉄舟・小原鉄心・島田魁ら美濃出身者たちの活躍にスポットライトを当てた企画。
中でも目玉として、近藤勇の処刑に用いられた刀をはじめ、揖斐に陣屋を構える旗本岡田家に仕えた横倉喜三次に関する貴重な史料(横倉家資料)が公開されると聞き、矢も楯もたまらずに今回の岐阜旅を決めたのでした。
※横倉喜三次や揖斐については、コチラの記事もご参照ください。

板橋にて、新選組局長・近藤勇斬首の太刀取りを命じられた横倉喜三次。
彼がその際に用いた脇差二王清綱
切っ先が長めで反りは控えめの美しい刀身で、茎には「二王」の刻印、樋は朱に塗られていました。
白鞘には
在銘 周防國 二王清綱作
との墨書も。

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一度は拝観したいと願っていた一振り・・・感無量です。
(写真提供:流星☆さん)

喜三次自筆の「近藤勇首實検唱文」には、二王清綱が後に明治天皇の天覧に供されたことも記されていました。

喜三次が揖斐で、近藤勇の法要を営んだ際の記録「大和守法會入用覚帳
漠然と、故郷の揖斐に戻って一人静かに近藤の霊を弔っている姿をイメージしていたので、本史料で結構な数の参列者のあったことを知って意外な思いがしましたし、何よりも驚きなのは「慶応四年 辰 (閏) 四月十六日」という、その日付。
近藤の刑死(4月25日)から僅かに半月ほど後のことで、当然、各地ではまだ戦闘(戊辰戦争)が続いている真っ只中。しかも、「賊」とされた旧幕府方戦没者らの慰霊が公に許されるのは、明治7年になってからのことです。
新政府に知れたら如何なるお咎めを受けるやもしれぬ状況下(だからこそ「近藤勇」ではなく「大和守」の法会と記したのかもしれませんね)にも関わらず、あえて近藤の法会を挙行した喜三次の思いとは・・・。
※大和守=大久保大和

昨年(2018)の夏、実際に揖斐へ足を運んで松林寺や大興寺など、喜三次ゆかりの地を訪れていたからこその、更に感じ入るものもありました。
念願も叶い、とても有意義な時間でした。

この後は昼食を挟み、下道でのんびりと宿のある高山へ向かいます。

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2019年6月19日 (水)

土方歳三、慶応4年4月12~16日の行軍

慶応4年(1868)4月12日、国府台に集結した旧幕府脱走陸軍(以下 旧幕府軍)は、宇都宮城の攻略を目指して北進を開始します。
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旧幕府軍は兵を前軍と中・後軍から成る本隊とに分け、参謀に就任した土方歳三は秋月登之助と共に前軍を率いることになりました(本隊は総督の大鳥圭介)。
国府台を発した前軍はその後、同月16日には茨城県下妻市の宗道まで進んで下妻藩や下館藩を下していくのですが、宗道に至るまでの行程については、前軍の主力を構成した伝習第一大隊に所属する人物が、その日記「谷口四郎兵衛日記」に淡々と書き残しています。
今回はそれを参考に小金~宗道まで、土方らの進軍経路を辿ってドライブしてきました。
※谷口四郎兵衛は伝習第一大隊の所属ではなく桑名藩士で、後に仙台で新選組に加わる人物ですが、伝習第一大隊の某人物が記した日記を谷口が所持していたため、本史料は「谷口四郎兵衛日記」の名で呼ばれているそうです。

(慶応四年四月)十二日、小金ヶ原ニ兵隊整列、規則ノ礼ヲナス。東泉寺ニ泊陣。
(谷口四郎兵衛日記/以下引用同)

水戸街道の宿場町である小金宿(千葉県松戸市)に東泉寺というお寺はなく、彼らが泊陣したのは関東十八檀林の一つでもある名刹・東漸寺と考えられています。

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東漸寺総門
奥へ向かって長い参道が伸びています。

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参道の中ほどに建つ立派な仁王門。

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総門から本堂前の中雀門(写真奥)まではおよそ200m強。
前軍の総兵数は約1,000人にも及びますが、往時は参道の脇に宿坊なども建ち並んでいたでしょうから、東漸寺だけでも相当な人数を収容できたのではないでしょうか。

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東漸寺本堂
土方ら幹部が泊まったのは、或いは・・・?

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至るところに徳川家の葵紋も見受けられました。

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境内には、竹内廉之助・哲次郎兄弟の碑も。
兄弟は小金宿の出身。尊王攘夷思想に目覚めて天狗党の筑波山挙兵に参加し、廉之助は後に相楽総三と赤報隊を組織しますが、慶応4年(1868)2月8日、碓氷峠で明治新政府東山道軍の命を受けた小諸藩兵の襲撃を受けて命を落としました。

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再び参道を引き返し、総門から表へ出る前に撮影した1枚。この時、時刻はまだ朝の8時過ぎくらいでした。
慶応4年4月13日の朝には、東漸寺を出発する土方らも、こうして同じように参道を歩いて総門に向かったことでしょう。

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東漸寺総門から水戸街道を南へ4~500m、旅籠玉屋(鈴木家)跡。

小金宿は近藤勇が連行された流山にも近く、しかも土方らが小金に着いたのは、近藤との別離から僅かに9日後のことでした。

前軍はこの先、北柏辺りまでは水戸街道を進み、北柏の根戸追分で進路を布施街道にとったものと考えられます。

同十三日、布施弁天駅泊陣。
同十四日、滞陣。

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千葉県柏市布施の布施弁天東海寺
関東三弁天の一つに数えられ、本尊は弘法大師の作とも伝えられています。
写真の楼門は文化9年(1812)の建立。

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本堂
こちらは享保2年(1717)の建立。

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三重塔

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鐘楼は文化15年(1818)建立。
珍しい形をしていますが、これは多宝塔式鐘楼というのだそうです。

楼門・本堂・鐘楼はいずれも県の重要文化財に指定されています。
間違いなく、土方らも目にしたことでしょう。

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布施弁天から、利根川を越える七里ヶ渡方面の眺め。

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江戸時代、布施街道は水戸街道の脇往還的な位置づけで往来も多く、布施には5軒の旅籠が営まれていたそうです。
谷口四郎兵衛日記には布施弁天”に泊まったとあるので、前軍の幹部などは高台にある東海寺に泊まったかもしれませんが、日記の記主ら多くの将兵は、そうした旅籠などにも分宿していたのでしょう。

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利根川へ向かって一直線に伸びる布施街道。
道端には古い地蔵や庚申塔が並べられていました。

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布施街道、利根川寄りから振り返る布施弁天。

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七里ヶ渡跡
布施と対岸の戸頭(茨城県取手市)とを結ぶ、利根川の渡し場です。

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堤防を下りて実際の渡船場跡にも近づいてみましたが、あいにくのド藪に行く手を阻まれました。
案内板の意味よ。。。

13日に布施に着いた前軍は14日も留まって、出発は15日の朝になりました。

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利根川の対岸は常陸国。
七里ヶ渡は、下総と常陸に跨る国境越えの要地でもありました。

同十五日、水海道泊陣。

15日は茨城県常総市の水海道泊陣しています。

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水海道八幡神社

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水海道八幡神社には、日露戦争で旅順を攻略したことを記念する石碑も建てられていました。

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水海道本町の町並み。
水海道は鬼怒川舟運の拠点として栄え、特に幕末~明治にかけては隆盛を極めたそうです。

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その繁栄の中心ともいえる河岸跡にも向かってみたのですが、なんと鬼怒川の護岸改修工事中で近づくことすら叶いませんでした・・・。

十六日、日光西街道宗道村ニ泊陣ス。

16日、水海道を出発した前軍一行は下妻市の宗道まで達しました。

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宗道神社

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宗道神社境内の片隅に建っていた宗道河岸址の案内板。
宗道もやはり鬼怒川の舟運で賑わい、明治の頃までは結構な繁栄を誇っていたようです。
大正期になって鉄道が開通し、更に流路改修工事によって鬼怒川が大きく西へ付け変えられるに至り、往時の面影は失われていきました。

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この高低差が流路改修前の鬼怒川の名残、ということになりますでしょうか。
写真左奥が宗道神社です。

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宗道神社付近を歩いていると、立派な長屋門のお宅を見掛けました。
この長屋門・・・

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どことなく、宗道河岸址の案内板にあった絵の中央に見える長屋門を彷彿とさせませんか?

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こちらは宗任神社。
祭神は前九年の役(1051~1061)で源頼義に敗れた安倍宗任。宗任の家臣であった松本秀則・秀元父子がこの地に来住し、旧主を祀ったのが始まりとされています。
戦国期には小田氏治の崇敬も受け、江戸幕府からは5石の朱印地を与えられていました。
現在に至るまで代々、松本氏が宮司を務めているようです。

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宗任神社の裏手には、文政12年(1829)に完成した江連用水の分水施設である宮裏両樋。
宗任神社の裏にあるから「宮裏」で、明治33年(1900)に煉瓦造りに改修されたそうです。

16日に宗道村へ到着した前軍は、直ちに下妻藩に圧力を掛けてこれを恭順させ、翌17日には下館藩をも下して兵糧などを提供させました。
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彼らが宇都宮城に攻めかかり、一旦はその攻略に成功するのは4月19日。下館藩を下した僅かに2日後のことです。
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2019年5月29日 (水)

井上源三郎資料館の蔵

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佐藤彦五郎新選組資料館の後(前記事)は、井上源三郎資料館へ。
資料展示室にもなっている蔵が建て替えられることになったと聞き、その解体前最後の公開(開館)日となった5月26日、急遽訪れることにしました。

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この蔵は明治初期、日野義貴宅から移築されたものとのこと。
湿度が高く、資料の保存に適さないと判断されたそうです。

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記念として、お煎餅もいただきました。

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「誠」の蔵、現代の日野宿のシンボリックな建物の一つにもなっていたので寂しいですが、大切な資料を守り伝えていくための措置・・・致し方のないところですね。

※近藤勇が井上松五郎に贈った大和守源秀國の刀身も公開されていました。
久しぶりの拝観となったのですが、改めてその美しさに見惚れました。単純に刀身の姿形だけの比較ならば、和泉守兼定や越前康継よりも、この秀國の方が個人的には好きかもしれません。

建て替え後の再開は10月とのこと。その時にまた訪れたいと思います。

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2019年5月28日 (火)

釼術覚帳 (古谷家所蔵)

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5月26日(日)はまず、佐藤彦五郎新選組資料館へ。
この日から公開される、古谷家で見つかった天然理心流の釼術覚帳(万延二年 古谷祐之助)を拝観いたしました。
※古谷祐之助は、日野宿の組頭を務めていた人物とのことです。

何度か登場する土方歳三の名前の表記は全て「年蔵」でした。
以前から、多摩に残る土方上京前の関係史料では「歳蔵」「年蔵」と表記しているものが多いように感じていましたが、これには何か理由でもあるのでしょうか。
いくら当時は当て字を用いることも多かったとはいえ、土方本人が認めた書状などの署名は「歳三」となっていますし、「蔵」より「三」の方が書くのも楽だと思うのですが・・・多摩の人々は、土方の名前の表記を「蔵」で認識していたのでしょうか。

当て字といえば、山南敬助の名前は「三南敬助」となっていました。
以前からも指摘されていたことですが、やはり彼は「やまなみ」ではなく「さんなん」と呼ばれていたことは、ほぼ間違いのないところでしょう。

同史料には佐藤彦五郎の長男、源之助の名前も見えました。
万延二年といえば1861年。源之助は当時、僅か12歳の少年でした・・・幼い頃から熱心に稽古に励んでいたのですね。

また、特別公開最終日となった越前康継の刀身も拝観いたしました。

釼術覚帳の公開は8月18日までとのことです。

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2019年5月14日 (火)

第22回 ひの新選組まつり(没後150 歳三×日野)

5月11~12日は、ひの新選組まつり
地元ということもあって例年足を運んではいるものの、大抵は日曜日(2日目)だけ日野宿をウロウロし、パレードを見て帰る、という程度。
しかし今年は、土方歳三の没後150年。しかも令和改元を迎えた節目の年(改元自体は日野や土方には特に関係ないけどw)でもあり、土曜日から記念すべき年の祭りを楽しむことにしました。

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日野市では昨年末から、JR日野駅構内に土方歳三の大きなパネルを展示するなどして、没後150年を盛り上げていく動きが見られましたが・・・

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新選組まつりウィークに入ると、駅構内の広告パネルを一斉に新選組モードに切り替え、大河ドラマ「新選組!」の、あのテーマ曲もエンドレスで流して祭りの気運を高めていました。

※以下、本記事は私個人の日記的な内容です。
「もっとこうしたら効率的に回れるのに」「あれは見てないの?勿体ない・・・」等々、ご意見は多々あるかと思いますが、そこは人それぞれ、気力も体力も執着心も千差万別なので・・・どうぞお構いなく(笑)


■5月11日(土)
ひの新選組まつりの初日を迎えたこの日は、奇しくも土方歳三の旧暦命日(明治2/1869年)。
初日も様々な催しが組まれていましたが、新選組隊士法要隊士コンテストは外せないところ・・・という訳で、高幡不動へ向かうことにしました。

多摩都市モノレール万願寺駅近くの駐車場に愛車を停めたので、ついでに土方歳三資料館を覗いてみたら・・・

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まだ午前10時過ぎだというのに、ご覧の盛況ぶり。
行列は角を曲がった先まで続いていました。

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久しぶりに兼定の刀身も拝んでおきたかったのですが、さすがに並ぶ気はしないのでスルー・・・万願寺駅からモノレールで高幡不動へ。

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高幡不動尊に到着したら、まずは土方歳三の銅像にご挨拶。

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目当ての隊士法要は12時~、隊士コンテストは14時~で、いずれも五重塔下の会場で行われます。
法要の間は撮影禁止でしたので写真はありませんが、開始から最後まで参席し、焼香もさせていただきました。

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空いた時間は公式グッズや・・・

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会津のお酒などを購入して過ごしました。
※予めたくさん用意されていた土方のお酒は問題なかったものの、斎藤一が想定以上の人気だったそうで、私が購入したものが最後の一本でした…f(^_^;

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隊士コンテストの司会・進行役は武者所お奉行と、さくらゆきの小栗さくらさん。

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隊士コンテストの開始に先立ち、進行役のお奉行から和泉守兼定の模造刀が紹介されました。
今年新たに用意されたもので、歳三の生家でもある土方歳三資料館が公認するものとしては、唯一の模造刀なのだそうです。
令和新刀兼定」と名付けられ、祭りの間、コンテストを経て選ばれるミスター土方に託されます

今年のコンテスト参加者は43名。
全参加者のパフォーマンスを拝見したのも、今回が初めてでした。

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パフォーマンス終了後は、さくらゆきによるミニライブ。

コンテストの結果も気になるところでしたが、事情によりミニライブ後に会場をあとにして・・・

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石田寺へ。
人影もまばらな夕暮れの中、静かに墓参させていただきました。

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お稲荷さんのいなくなったとうかん森にも・・・。
木はまだ伐採されていませんでした。

これにて私の、ひの新選組まつり初日は終了です。


■5月12日(日)
ひの新選組まつり…2日目。
この日のメインは無論、日野宿の甲州街道を練り歩く隊士パレード
午前10時には日野駅に到着し、日野宿界隈をブラブラしました。

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日野駅前にて、市内でもたった一つだけの土方歳三マンホールを。

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佐藤彦五郎新選組資料館では、市村鉄之助が届けた土方歳三の写真を拝観。
年一の恒例として、毎年祭りの際に会いに来ていますが、年々写真の色味が薄くなってきているのだそうです・・・心配。

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渡邊家の蔵もやはり、新選組まつりの週末だけの公開。

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日野宿本陣

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本陣前での日野太鼓パフォーマンス。

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同じく本陣前にて、午前10:50から行われた開会式の様子。
パレードにも松平容保役で参加される容保のご子孫・会津松平家十四代の保久氏や、バレーボール女子元日本代表の大林素子氏らの姿もありました。

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歩行者天国となった甲州街道で駕籠かきを務めるのは・・・ラグビーのトップリーグに参戦する日野レッドドルフィンズの選手たち。
街道上では殺陣など、様々な団体によるパフォーマンスも繰り広げられました。

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オープニングパレード(11:20)

オープニングパレード後は出店で焼きそばを購入し、日野宿だんだら村(日野第一小学校)にて昼食がてらの小休止。

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その後は、八坂神社境内での天然理心流演武を見学するなどして過ごし・・・
(無論、八坂神社では天然理心流奉納額も公開されました)

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13:20、いよいよ新選組隊士パレードのスタート!
先頭を切るのは、会津松平家十四代・保久氏扮する松平肥後守容保
※パレード出陣前には参加隊士一同を集め、容保公よりミスター土方・近藤が「新選組」を拝命するセレモニーも行われたそうです・・・観てみたかったなぁ~

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今年のミスター土方による勝鬨。
てっきり昨年と同じ方が選ばれたのかと思っていたら、何と今年の方は双子のお姉さんなのだそうです。

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沖田総司の一番隊。

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こちらも日野出身、井上源三郎の六番隊。
パフォーマンス的には、源さんが一番目立ってましたかねぇ~(笑)
過去数年も土方や近藤役でお見かけした気がするので、場慣れしてますね。

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総合進行役のお奉行も通りかかりました。

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パレード2周目は、新政府軍に扮した鉄砲隊との銃撃戦パフォーマンス付き。
市村鉄之助ら、近藤・土方両長の前にいる小姓がうずくまっているのは撃たれたのではなく、両長の指示で伏せただけですよ~

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ミスター土方が敵部隊に対して掲げる刀は無論、あの令和新刀兼定
令和という新しい時代を迎え、ひの新選組まつりにもまた一つ、新たな歴史伝統が刻まれていくことになったのですねぇ・・・。

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武田観柳斎の五番隊は地元企業、日野自動車の方々で構成。
お決まりの「トントン、トントン、日野の2t」パフォーマンスも披露していましたが・・・遠くて殆ど見えず。

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源さんは銃撃戦でも大張り切り。
鉄砲隊の隊長も苦笑い…(;^ω^)

各隊、それぞれに趣向を凝らしたアドリブで場を盛り上げてくれました。

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パレードも終わり、日野宿閉会式を待つ隊士たち。
この頃には腰が悲鳴を上げており、私はあえなく脱落・・・閉会式を待たず帰路につきました。

土方歳三 没後150年の記念の年を飾る、第22回ひの新選組まつり
2日間、天候にも恵まれて素晴らしい催しになったのではないでしょうか。
開催に向けて尽力された関係者の方々に敬意を表し、来年以降の継続的な発展も祈りつつ・・・今回はこの辺で。

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2019年4月21日 (日)

特別展「土方歳三」(没後150 歳三×日野)

2019(平成31/令和元)年は、土方歳三の没後150年。
彼の故郷である日野市では「没後150 歳三×日野」と銘打ち、講演やイベントなど様々な企画が予定され、且つ進行中です。

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その一環で、新選組のふるさと歴史館では4月20日~6月30日までの期間、土方歳三 史料から見たその実像という特別展が開催されています。
その開催初日となる4月20日、さっそく足を運んでみました。

これから行かれる方のためにも詳細は省きますが、土方歳三の名が史料上に初めて登場する天保11年(1840)の宗門人別書上帳下書から始まり;
第Ⅰ章 石田村の土方歳三
第Ⅱ章 浪士組から新選組へ
第Ⅲ章 戊辰戦争での奮闘
第Ⅳ章 箱館での最期の戦い
第Ⅴ章 語り継がれる土方歳三
という構成で、数多くの貴重な関連史料が並べられています。

中には;
・2014年に発表された本願寺文書諸日記関連記事
・土方や斎藤一、藤堂平助、伊藤甲子太郎らが宿泊した記録の残る草津宿本陣大福帳関連記事
・母成峠での敗戦後、猪苗代から援兵を請う土方歳三書状内藤介右衛門、小原字右衛門宛関連記事
などまでもが・・・函館からも多くの史料が出展されており(明治初期に撮影された軍艦「回天」の残骸写真には感動)、没後150年の特別展に相応しい、まさに全国規模の力の入った展示構成だと感じました。

2Fでは大河ドラマ「新選組!」で使用された小道具などが展示されており、個人的にツボったのは箱館の地形模型
・・・大河の続編「土方歳三最期の一日」で、大鳥圭介(吹越満)が喚きながら引っ繰り返していたアレ、ですね(笑)

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図録は2,000円也。ついでにマグカップもお買い上げ~♪

開催期間は2ヶ月以上もありますので、興味をお持ちの方は是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
本特別展では複製展示だった鎖帷子などの原史料は、彼の生家である土方歳三資料館にありますし、そちらの開館日に合わせて訪れるのもいいかもしれません。


※弘化3年(1846)の洪水による被害状況を記録した石田村絵図では、確かに土方の生家が被害を受けたことを確認できました。現在の土方歳三資料館は、その洪水後に越した地になります。

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2019年2月10日 (日)

近藤勇書簡三浦休太郎宛

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東京都日野市の佐藤彦五郎新選組資料館
平成31年2月10日より、大久野(東京都日の出町)の羽生家の蔵から昭和63年頃に発見された;
近藤勇書簡三浦休太郎宛
が特別展示されると聞き、早速訪れてみました。

坂本龍馬の暗殺(近江屋事件)を受け、いろは丸沈没事故の経緯から身の危険を感じた三浦休太郎(紀州藩)は京都守護職の松平容保を通じ、新選組に身辺警護を依頼します。
新選組は三浦の要請に応え、御陵衛士を脱したばかりの斎藤一(山口二郎)らを派遣しますが、この書簡はその二郎を少々必要とする件(少々相用候事件)が出来して、断りなく引き上げたことを詫びる内容となっています。
その日付は(慶応三年)霜月十八日。龍馬暗殺の3日後で、伊東甲子太郎ら御陵衛士の粛清を謀った油小路の変まさに当日です。
※派遣メンバーに斎藤一を加えたのは、御陵衛士から脱した彼を匿ってもらう意図をも含んでいたことが、やはり本書簡から読み取れます(二郎事潜伏之義如之御配慮奉多謝候)。

書簡は虫食いも殆どなく、とてもきれいな状態で保存されていました。
実際には三浦の元へ届くことはなく、どういう訳か新選組とは接点のない羽生家に伝来した書状・・・おそらくは近藤勇から佐藤彦五郎の手に渡り、彦五郎が羽生家に匿われた際(この経緯については、コチラの記事を参照)に当家に置いていったものと考えられています。
(三浦の元へ届けられていないことから、本史料を下書きとする説もあるようですが、下書きにしては校正による直しもなく、文字も丁寧に整然と書き上げられていました。本人は文末で多忙乱筆草々などと述べていますが)

私が訪れた時には他に来館者もなく、しばらくは佐藤福子館長と書簡について;

・近藤から彦五郎の手に渡ったタイミングはいつだったのか
・何故、油小路の変当日の日付になっているのか
来月上旬迄ニ者確報も可有之と述べている確報の内容とは、具体的に何を指していたのか

etc...いろいろと意見交換方々、じっくりとお話しさせていただけました。

この書簡が認められた日から一月も経たない12月7日には、龍馬暗殺を疑った海援隊士らによる三浦休太郎襲撃事件が発生し、三浦の警護に戻っていた斎藤一は手傷を負いながらも、なんとかその撃退に成功しています(天満屋事件)。

本書簡の特別展示に合わせ、通常は毎月第1・3日曜日のみの開館のところを、3月いっぱいまでは毎日曜日(但し3月10日を除く)開館するそうです。
ご興味をお持ちの方は是非、訪れてみてください。

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