カテゴリー「新選組・戊辰戦争」の94件の記事

2017年10月17日 (火)

「近藤勇と調布の幕末維新」展と、上石原若宮八幡神社

小雨パラつく日曜の午後、ちょっと調布までドライブしてきました。
目的地は調布市郷土博物館。twitterで近藤勇と調布の幕末維新展が開催されていることを知り、覗きに来ました。
新選組局長として名高い近藤勇や、その他の調布周辺の人々に関連する古文書が中心の展示で、いくつか興味を惹かれる史料もありました。これで入館無料とは驚き・・・。

近藤勇養子縁組状
嘉永2年(1849)10月19日

原惣兵衛宛小島鹿之助書簡(原家文書)
元治元年(1864)7月30日

近藤勇事も討死いたし候与凶音
所々□申来り寔心配罷在候
勇事も去春攘夷之心得ニ而応
募国内之乱ニ而討死いたし候而者
亡霊之激怒思やられ候


原惣兵衛とは上布田村の名主で、布田宿組合の大惣代を務めた人物です。
元治元年(1864)の元治甲子戦争(禁門の変)で近藤勇が討ち死にしたとの風聞に接した小野路村の小島鹿之助が、原惣兵衛に宛てて近藤の安否を尋ねた書簡。
「勇は去年の春、攘夷の志で浪士組に応募して上京したのに、内乱で死んでしまっては、その無念たるやあまりに浮かばれない」といったところでしょうか。
(勿論、実際には死んでなどいませんでしたが)

三浦休太郎宛近藤勇書簡(羽生家蔵)
慶応3年(1867)11月18日

陳二郎事潜伏之義
如之御配慮奉多謝候
就而者同人義少々
相用候事件出来
候間
無断引取申候


所蔵する羽生家についてはコチラの記事をご参照ください(後半部分)。
三浦休太郎は紀州藩士。この書簡が出される直前の15日に暗殺された坂本龍馬とは、いろは丸沈没事件の賠償交渉での因縁がありました。
その関係で、龍馬暗殺の疑いをかけられて海援隊士らから命を狙われ、京都守護職を通して護衛の要請を受けた新選組は、斎藤一(二郎=山口二郎)ら7名を三浦の滞在する天満屋へ派遣していました。
斎藤はこの直前に伊東甲子太郎が主宰する御陵衛士を脱していましたが、この書簡の文面からすると彼を三浦の下に派遣したのは、新選組との間で隊士の行き来を禁じる取り決めのあった御陵衛士の目から隠す目的もあったのかもしれませんね(二郎事潜伏之義)。
そして近藤は、少々相用候事件出来したために断り無く斉藤を一旦引き取ったことを三浦に詫びているのですが・・・慶応3年の11月18日はまさに、新選組が伊東甲子太郎を暗殺し、伊東の凶報に接して現場に出てきた御陵衛士の襲撃を企てた油小路の変の当日・・・。
少々相用候事件が何を指しているのか・・・もはや言うまでもないところ、ですね。

布田宿組合宛振武軍軍用金請取状(原家文書)
慶応4年(1868)5月

上野の寛永寺で新政府軍と戦った彰義隊と分裂し、田無~飯能へと展開した振武軍については、コチラの記事をご参照ください。
田無で結成された振武軍は多摩各地から軍用金を徴収していますが、布田宿も例外ではなかったようです。

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受付で、10月14日に開催された講演会の資料も無料でいただけました。こちらも追って勉強していきたいと思います。

郷土博物館を辞し、車でちょっとだけ移動して・・・

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上石原若宮八幡神社へ。
「若宮」とつく通り、八幡神・応神天皇の皇子である仁徳天皇を祭神としています。
手前の石鳥居は天保14年(1843)の建立(昭和2年修繕)。

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拝殿
奥の本殿(覆屋内)は、文化4年(1807)の造営になります。

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上石原若宮八幡は、上石原村の鎮守。
同村出身の近藤勇も慶応4年(1868)、甲陽鎮撫隊を率いて甲州道中を甲府へ向かう途中、故郷(西光寺・中村勘六家/参照記事)に立ち寄った際、上石原若宮八幡の方角へ向かって拝礼し、戦勝祈願をしたと伝わります。

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帰りがけには土方歳三資料館にも立ち寄り、和泉守兼定の刀身や鎖帷子、加藤福太郎書簡(※)などを拝観して帰宅しました。
※加藤福太郎は多摩出身で、室蘭警察署に勤務していた人物。歳三の幼馴染の息子である平忠次郎から、歳三の遺体の行方についての調査を依頼され、その調査結果を報告する内容の手紙。

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2017年10月 9日 (月)

島原角屋

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船岡山から地下鉄鞍馬口へ向かって歩いている途中、たまたま出くわした妙覚寺
本能寺の変の際、織田信忠が宿所としていたお寺ですね。当時は二条衣棚にありましたが、後に秀吉によって現在地へ移されました。
有名な「斎藤道三の遺言状」、或いは「美濃国譲り状」とも呼ばれる書状の一つも、こちらで所蔵されています。

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地下鉄を乗り継ぎ、二条城前からJR二条駅へ向かって歩いている途中で見かけた小浜藩邸跡の碑。

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JR丹波口駅近くにある、平安京朱雀大路跡の碑。
平安後期には既に荒廃しつつあったという朱雀大路。その痕跡は現在の千本通りにあたるようです。

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西本願寺のすぐ西、平安中学・高校脇の小路。
この付近に明治期、元新選組で西本願寺に勤務していた島田魁が住んでいたそうです。

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そしてようやく島原へ・・・島原大門

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置屋として歴史を重ねてきた輪違屋
浅田次郎氏の小説の舞台にもなっていますね。現在は宴席の場として営業されていますが、数年前に特別公開された折に見学させていただきました。(参照記事

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今回の旅最後の目的地・・・角屋

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島原には何度か訪れていますが、どういう訳かタイミングが合わず、角屋の内部を見学するのは今回が初めてとなります。

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玄関

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玄関に残る刀傷

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台所
こちらに新選組掛売禁止の古文書(慶応2年9月/新選組の調役がこれまでのツケを清算し、今後は隊士への掛け売りを禁じ、もしツケを強要する隊士がいたら届け出るように通達した内容)も展示されていました。

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刀箪笥

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網代の間

一通り一階を見学したところで、いよいよニ階へ。
ニ階は撮影禁止のため写真はありませんが、合計で10以上ものお座敷を、襖の絵や欄干の形状・壁の色・釘隠しに至るまで、丁寧に説明しながらご案内いただきました。
特に青貝の間は素晴らしかった。見事な螺鈿細工の壁、そして柱の3ヶ所につけられた深い刀傷・・・感激。
※どうも新選組は、座敷に刀を持ち込んでいたようですね(笑)

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最後に、一階の松の間から臥龍松の庭の眺め。
松の間は大正14年の火災で一度焼失しており、角屋の座敷の中では唯一文化財指定を外れています。
また臥龍松も今は枯れ、現在のものは3本の若い松で臥せる龍を再現していました。

一人旅は何気に久しぶりでしたが、当初の目的も果たせて今回もいい旅になりました。
京都にはこれからも折を見て訪れたいと思います。

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2017年10月 7日 (土)

長谷川家住宅、墨染、藤森神社

2017年9月30日~10月1日、久しぶり?に京都へ出かけてきました。
京都行きを決めた一番の目的は、特別公開中の大徳寺本坊で初公開されている狩野永徳筆「織田信長公像」(9/16~10/1)を拝観すること。
そちらは公開最終日にあたる2日目に充て、初日はまず、京都駅から地下鉄へ乗り換えて十条駅で下車、旧東九条村の長谷川家住宅へ向かいます。

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長谷川家住宅
寛保2年(1742)築。開館は9月2日~12月10日の土・日・祝のみ。
最近発見された長谷川家当主(長谷川軍記/1822-71)の日記により、元治甲子戦争(禁門の変)に於いて鴨川の九条河原や銭取橋(勧進橋)に布陣した会津藩が、当家などを宿所として利用していたことが判明しています。
また、新選組(壬生浪士組)も同村の又右衛門・吉兵衛・九右衛門方に宿営していました。

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現在のご当主は100歳を超えるご高齢で施設に入られているとのことで、年齢の離れた妹ご夫妻が管理・運営されているようです。
私以外の来館者はほんの2~3組で、しかもわざわざ東京から来たということで大変喜んでいただき、貴重な古文書の数々や古地図なども交えながら、時間をかけてじっくりと丁寧にご案内いただきました。

長谷川軍記日記(前出)
会津藩らの着陣の様子や宿所割当の記録などの他、長州勢が迫って銭取橋の陣所から法螺貝が吹かれ、宿所で休息中だった非番の兵士らが俄かに甲冑に身を固めて飛び出していく様や、頻りに聞えてくる大砲の音など、元治甲子戦争の様子が生々しく記録されている。

浄土宗門人別改帳
浄土宗の改帳とあるが、東九条村一帯が相国寺領だったために報告先も相国寺宛になっている。

歳中諸事覚帳
年貢の納め先や、用水・水運のために開かれた高瀬川(現在は暗渠)の水利をめぐる争いの記録など。江戸中期頃から藍の栽培を始め、大正期まで染工場が多かった村の歴史を知ることもできる。

村誌

職員録(明治2年)
官員録(明治9年)
上記2点共、三条実美や岩倉具視、大久保利通らを筆頭に、当時のいわゆる国家公務員全員の名が記されている。中には後に陸軍大将を務める乃木希典の名もあり、そこに記された当時の階級は「少佐」。

会津藩軍勢図
etc...

2階の隠し書庫には、江戸期の書物が膨大に所蔵されていました。

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長谷川家住宅はご夫妻が修築・管理するようになってから、まだ5年くらいとのこと。
この先、この貴重な建物や史料をどう次代に引き継いでいくか、切実な問題として頭を悩ませていると仰せでした。
微々たるものですが、我々のような歴史好きが訪れ、注目されることで少しでも助けになれることを願います。

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会津藩が布陣した銭取橋(勧進橋)から鴨川の流れ。
長谷川軍記日記によれば、新選組(壬生浪士組)は「加茂川向」に陣取っていたようです。

さて、再び電車で少し移動し、近鉄京都線伏見駅から少し北上すると・・・

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料亭「清和荘」の前に、近藤勇遭難の地碑が建っています。
慶応3年12月、二条城での軍議を終え、当時新選組の宿営地となっていた伏見奉行所への帰路に就いた近藤勇は道中、御陵衛士残党の襲撃に遭いました。
しかし、この碑の建つ場所は江戸期の伏見街道と竹田街道のちょうど中間にあたり、主要な街道からは外れていますので、実際の現場ではないと思われます。

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清和荘から東へ5~600mほど進むと、墨染交差点へ出ます。
こちらも近藤勇襲撃現場の候補地の一つとされています。上の写真は北から南の方角を向いており、北(手前)から続く伏見街道(大和街道とも)が右へ曲がって鉤型に折れるポイントです。
御陵衛士の残党は、交差点を直進した少し先から近藤を待ち受けていたと云いますので、街道が鉤型に折れて速度を緩める瞬間を狙っていたのでしょうか。

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今度は南側から、待ち受ける御陵衛士残党の視点。
あくまでも候補地の一つとして訪れてみました。実際のところは何か決定的な証拠(記録)でも出てこない限り、場所の特定は難しいでしょうね。

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墨染交差点から伏見街道を少し北上して、この日最後は藤森神社へ。

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額のない石鳥居
本来は後水尾天皇御宸筆の額が架けられていて、参勤交代で大名行列が伏見街道を通行する際は、藤森神社の前では大名も籠から降り、槍などを伏せて通っていたのだそうです。
ところが幕末の動乱期を迎え、そんな悠長なことをしてい場合ではないと考えた近藤勇が、額を外してしまったと云われているのだとか。
いくら動乱期とはいえ、天皇の御宸筆の額ですからね・・・俄かには信じ難い気もしますが。

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藤森神社は菖蒲の節句の発祥として知られ、菖蒲=勝負に通じ、毎年5月5日には駆馬神事が催行されることから、勝運と馬の神社として特に信仰を集めてきました。また、祭神の一人として舎人親王を祀ることから、学問の神としても信仰されています。

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御旗塚
神功皇后が大旗を立てた場所で、藤森神社発祥の地とされています。(そういえば長谷川家住宅の床の間にも、神功皇后を中心に据えた五月人形が飾られていました)
このいちいの木に参拝すると腰痛が治るとされ、近藤勇も参拝したとか・・・腰痛持ちだったんですかね?

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御神水の不二の水
“二つとないおいしい水”ということで「不二」の名がつけられています。

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大将軍社
桓武天皇が平安遷都された折、都の東西南北四方に祀った大将軍社のうちの一つ(南)。
現在の社殿は永享10年(1438)、足利義教による造営

この他、宝物館では;
・戊辰役で有栖川宮熾仁親王が着用した鎧兜(徳川家綱奉納)
・八連発式火縄銃
・戊辰役で薩摩軍が使用した先込式大筒(砲身が50cmもない小さなもの)
・宝剣の三条小鍛治宗近
などを拝観しました。

さて、これにて旅の初日は終了です。
2日目も大徳寺を皮切りに、京都をのんびり楽しみます。

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2017年6月20日 (火)

会津西街道 上三依~田島宿

先日、久しぶりに家族で温泉旅行に出かけました。
今回の宿泊先は芦ノ牧温泉。折角なのでその道すがら、慶応4年(1868)の戊辰戦争時、宇都宮で負傷した土方歳三が会津まで運ばれ、新政府軍と戦い続けた大鳥圭介らが往来した会津西街道を北上してみることにしました・・・完全に私の趣味→運転手特権(笑)

会津西街道
街道は古来、向かう先の地名にちなんで呼ばれることが多く、会津側からは「日光街道」、或いは「南通り」「南山通り」「下野街道」などとも呼ばれてきました。
江戸後期にもなると、会津藩では「下野街道」を公称としていたようですが、煩雑になるので当記事では「会津西街道」で統一します。

西那須野塩原ICから国道400号を経由し、上三依でほぼ旧会津西街道に沿って通る国道121号に合流。
121号を北上し始めてすぐ、この日最初の立ち寄りポイントは・・・

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鶴が渕城址
ナラ入沢渓流釣りキャンプ場入口への分岐を過ぎてすぐ、左手に見える男鹿川に架かる小さな橋を渡った南側です。

鶴が渕城は永禄年間に、田島地頭職の流れを汲む長沼氏によって築かれました。
男鹿川左岸、国道121号の東にそびえる姥捨山の山上に築かれた曲輪群と、男鹿川右岸の山麓に築かれた角馬出・長塁とが残ります。
山麓の角馬出や長塁は、その規模や形状から長沼氏時代のものではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直前、徳川家康の北進に備え、当時会津を領していた上杉氏が築いたものと考えられています。実際に直江兼続が実弟の大国実頼(田島鴫山城主)に対し、「鶴渕山」の防備を固めさせるように指示したことを窺わせる書状も残されています。

今回は山麓の角馬出と長塁のみ、サクッと観てまわります。
上写真の案内板を過ぎ、正面の角馬出への土橋上から右に目を向けると・・・

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西へ向かって一直線に伸びる、見事な長塁が飛び込んできます。
笹藪が結構キツイですが、堀も土塁も非常に良好な状態で残っていました。
正面奥に見えるのは会津鬼怒川線の線路。更にその先にも長塁は続いているそうなのですが、さすがに独りで突き進む勇気がなく、今回はパス…(^_^;)

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反対に左側(東)は、男鹿川の渓谷に向かって落とされているようです。

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男鹿川の断崖縁に築かれた角馬出
周囲を囲む土塁も残っています。

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角馬出の南東隅だけ、土塁が切れていました。
この防塁を築いた段階に於いては、構造からしても角馬出(の付近)に街道を通していたことになるのでしょうか。

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角馬出北西方向。
土塁が、眼前を横切る長塁の堀まで続いている様子がお分かりいただけるでしょうか。

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角馬出のすぐ脇を流れる男鹿川。
とにかく水が綺麗で、美しい眺めでした。

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鶴が渕城(防塁)址図面(しみず作)
今まで縄張図など描いたこともないので、稚拙な出来栄えですが・・・ざっくりとイメージをお伝えしたく、帰宅後に記憶を頼りにトライしてみました。描いたのはあくまで、自ら実際に観てまわった範囲のみです。
実尺と異なり、サイズなどはデフォルメされていることをお断りしておきます。

歴史は家康を小山で反転させて関ヶ原へと向かわせることになるので、実際にこの防塁が利用されることはありませんでしたが・・・実際にこうした山中で、400年以上も前の痕跡を目にすることができる喜びは、やはり無上のものです。

再び121号を北上します。

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横川村の少し手前に残る、横川一里塚

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背後の山の斜面に「よばわり岩」と呼ばれる大岩があることから、「よばわりの岩の一里塚」とも呼ばれていました。
その大岩は生い茂る樹木に遮られ、辛うじて認識できる程度にしか見えませんでした。

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会津藩横川関所跡と如意輪観音堂(江戸時代後期)
横川村は会津西街道の下野国最北の集落。会津藩の預かり地でもあり、会津藩が領内へ出入りする街道沿いに築いた関所の一つです。

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清水伝左衛門の墓
文化10年(1813)、横川村で盆踊りが催された際、盆踊りに興じる人垣が関所の敷地内に立ち入ってしまいました。
「関所内で盆踊りとは不届き」との責めを負い、関守であった清水伝左衛門は切腹して果てたと云います。

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横川宝篋印塔
推定戦国時代末期の作。
村の伝承から「三依」地名の起源にもなったと伝わる三依姫の供養塔とされています。
三依姫の詳細は分かっていませんが、下野国矢板の塩谷氏から、会津田島の地頭・長沼氏に嫁いだ姫のようです。
長沼氏は後に足利義満によって任を解かれ、その知行を没収されたため、姫も流浪の身となり、最期は横川で寂しく生涯を終えたと伝えられているそうです。

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横川の町並

(慶応4年閏4月)四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原ならびに鈴木藩之助等と同宿す。
(大鳥圭介「南柯紀行」…以下引用同

日光・今市を明け渡し、一旦田島へ向かうことにした大鳥圭介の旧幕府脱走陸軍は、ここ横川でも一泊しています。
この時に大鳥自身が泊まった家も、この写真の中にあるのでしょうか。

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トンネルで下野と陸奥(会津)国境の山王峠を越え、少し下った先の旧会津西街道名残の砂利道と、山王茶屋跡地
江戸期の茶屋は旧道左側の草むらや国道に掛かる辺りに位置し、戊辰戦争で焼かれた後、明治2年に旧道右側の写真奥(民家の建つ付近)に再建されました。

五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。

横川を出立した大鳥圭介は山王峠を越え、この地に建つ茶屋で会津藩の若年寄であった山川大蔵と出会っています。
大鳥、山川を評して曰く「性質怜悧」「余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。」
二人は田島まで同行して軍容を整えた後、今市奪還を期して共に新政府軍と戦うことになります。

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奥会津博物館に移築保存されている、明治2年再建の山王茶屋

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茶屋とはいえ「乗り込み玄関」を備えた本陣形式の立派な建築です。

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現在はお食事処として営業しており、我々もこちらでお昼をいただきました。

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奥会津博物館には他にも、様々な歴史的日本家屋が保存されています。
写真は旧猪俣家住宅。奥会津地方に現存する最古の住宅遺構でもあります。

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木地小屋
山に入った木地師たちの作業場兼住居です。

更に北上を続け、田島宿へ。

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田島に置かれていた旧南会津郡役所
「郡区町村編制法」の施行により、明治12年に会津郡から南会津郡が分割されて設置されました。明治18年落成~昭和45年移築保存。

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田島宿の町並と、昭和9年創業の和泉屋旅館
和泉屋旅館は一時、進駐軍の指定旅館になっていたこともあり、国の登録有形文化財に指定されています。

本日(五日)、糸沢、中食、夕方、田島に着き本陣に宿す。

大鳥らは田島に10日間ほど滞在して軍容を整えた後、今市奪還を期して再度、会津西街道を南下していくことになります。
※今市での攻防戦はコチラ
※その後の小原沢の戦いはコチラ
※足を負傷し、会津まで運ばれる土方歳三も、その道中に田島に宿陣しています。(島田魁「日記」)

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鴫山城跡(愛宕山)登山口
家族連れなので、さすがに山城は行けませんが…(^_^;)

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旧南会津郡役所も建つ福島県南会津合同庁舎の駐車場一角には、鴫山城の外郭土塁も。

さて、今回の会津西街道めぐりはここまで。
※この先の大内宿~会津に関しては、コチラを参照願います。

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最後に塔のへつりにも立ち寄って・・・

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芦ノ牧温泉の宿にチェックイン。
喜多方から祖母も合流し、久しぶりにのんびりと共に過ごしました。

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2017年5月18日 (木)

渡邊家の蔵(日野宿)

毎年5月、土方歳三の命日(旧暦5月11日)前後の週末に開催されるひの新選組まつり
その週末に合わせ、甲州街道沿いに建つ渡邊家の蔵も公開されていましたので、祭りの合間にちょっと見学させていただきました。

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こちらが渡邊家の蔵
江戸末期~明治初期頃の建築です。

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渡邊家の屋号は「中村屋」
蔵は味噌・醤油・酒などを扱うお店(万屋)の店蔵として利用されていたそうです。
当初は木造だったものの、関東大震災(大正12年)の影響で土壁にひびが生じたため、昭和5年になって大谷石による石造りに改修されています。
また、昭和7年には甲州街道の拡幅により、位置を少し移されているようです。

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蔵の二階には調度品などの展示も。
一階には天然理心流の目録?免許??(きちんと確認しなかったので詳細不明です…スミマセン)も展示されていました。
※撮影禁止

そういえば八坂神社の天然理心流奉納額に、佐藤彦五郎や井上松五郎らと並び;
渡邊庄三郎藤原盛正
という人物の名前が見えます。
或いはこちらの渡邊家の関係者でしょうか・・・来年また機会があったら確認します(;・∀・)

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梁の木材がとても立派でした。

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二階の窓から覗く甲州道中・・・
普段は無粋な都道も、この時は祭りの開催で車両通行止め。徒歩で行き交う人の流れが、なんとなく往時の街道宿場町の雰囲気を味わわせてくれました。

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昭和33年、アジア大会自転車競技開催時の渡邊家の蔵。
この時は病院として使われていたようです。

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2017年1月 7日 (土)

勝沼・柏尾古戦場

先日、武田勝頼の遺蹟をめぐって大善寺にも立ち寄ったのですが、大善寺のある勝沼は慶応4年(1868)3月、近藤勇ら新選組を中心に編成された甲陽鎮撫隊が、板垣退助らが率いる新政府軍と衝突した勝沼・柏尾戦争(以下「柏尾戦争」で統一)の舞台としても知られます。

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柏尾戦争といえば、近藤勇を描いたこちらの錦絵が有名ですが、奥に描かれているのが大善寺の山門です。

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大善寺山門

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柏尾戦争の様子を伝える諸資料
(内外新報/甲府大功記/柏尾戦争図)

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現在の柏尾橋の脇、「深沢入口」交差点に建つ近藤勇像
・・・おそらく、先ほどの錦絵を元に製作されたのではないかと…(;・∀・)

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永倉新八ら、鎮撫隊の別働部隊が展開した南の方角。

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「深沢入口」交差点にはかつて、大善寺境内の東の境界を示す東神願鳥居が建っていました。
勝沼宿まで進んでいた近藤は、宿場から甲州道中沿いにいくつかの関門を築かせつつ、この東神願鳥居前に本陣を構え、大砲2門を据えて新政府軍と対峙したと伝わります。
斜面の上、鉄製のフェンス内側に見える窪みが旧甲州道中の痕跡で、この斜面は後に明治天皇行幸の際に開削されています。

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在りし日の東神願鳥居を伝える説明板

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「深沢入口」交差点でに折れ、深沢川に沿ってなだらかに下っていく柏尾坂
無論、先ほどの痕跡から続いていた旧甲州道中にあたります

柏尾坂を下っていくと・・・

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明治期の柏尾橋跡があり、右隣りには大正期の柏尾橋の跡も見えています。

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こちらが大正柏尾橋跡

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ちょっと樹木が邪魔で見えづらいですが・・・大正柏尾橋を斜め横から。
「深沢」というだけあって、かなり切り立った地形であることは見て取れるかと思います。

柏尾坂を更に下っていくと・・・

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突当りに江戸期の柏尾橋跡がありました。
つまりこの橋を渡るルートが、柏尾戦争時に於ける甲州道中ということになります。

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甲州街道分間延絵図に描かれる柏尾橋周辺
先にご紹介した内外新報の戦争絵図同様、東から西へ進んできた旧甲州道中が東神願鳥居のところでに折れ、坂を下って橋に至る・・・現在に垣間見える痕跡を、そっくり描き出してくれています

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現柏尾橋を勝沼側へ渡ってすぐ、北から国道20号に合流してくる細道。
これも江戸柏尾橋を渡り、深沢川を越えた旧甲州道中の続きということになりそうですね。

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柏尾の古戦場を、深沢川の東岸から俯瞰・・・
橋の位置が当時とは違い、写真右下方向になりますので、近藤が本陣を置いた東神願鳥居前(写真左端)は、西から甲州道中を進んでくる新政府軍が橋を渡ろうとすると、川の対岸から横矢を掛けられる位置になります。

ほんのついでのように立ち寄った形ではありましたが、新たな気付きもあり、とても楽しい散策になりました。
いずれ近いうちに、もっと詳しく訪ね歩きたいと思います。

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2016年8月 5日 (金)

寛永寺 特別参拝

東叡山寛永寺特別参拝に参加してきました。
※特別参拝には所定の事前申込が必要です。詳しくは寛永寺さんのHPにてご確認ください。

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集合は午後1時40分、根本中堂前にて。
ちなみにこちらの根本中堂、川越の喜多院から本地堂を移築して再建されたものです。

寛永寺は元々、現在の上野公園全域を含む約30万坪の広大な寺域を誇り、根本中堂も本来は上野公園の噴水広場辺りに建っていました。
しかし、慶応四年(1868)の上野戦争で多くの伽藍と共に焼失し、広大な境内地も明治政府によって没収されるに至っています。
ようやく復興が許され、子院だった大慈院の跡地(現在地)に根本中堂が再建されたのは、明治十二年になってのことでした。
※参考記事:上野戦争の爪痕上野戦争めぐり

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根本中堂前に建つ上野戦争碑記

午後2時、まずは根本中堂内陣にて御本尊の薬師如来像に般若心経を唱え、寛永寺の由緒や歴史(寺名・山号の由来や、なぜ天台宗の寛永寺が浄土宗に帰依する徳川将軍家の廟所となったのか、etc...)に関するお話しがありました。

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その後、いよいよ葵の間へ移動となります。
本堂(左)からこの渡り廊下を抜けた先に、葵の間はありました。

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葵の間
寛永寺子院の一つ、大慈院にあった一間です。

慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った徳川慶喜は翌二月、新政府への恭順を唱えて自ら寛永寺大慈院に入って謹慎します。
この葵の間こそ、大慈院で謹慎する慶喜が過ごしていた部屋で、彼が再び大慈院を出て水戸へ向かうのは、江戸無血開城が成る同年四月十一日。上野戦争勃発の約二ヶ月前(この年は四月と五月の間に閏月を挟む)のことでした。

葵の間は現在、その大慈院跡地に再建された根本中堂の離れにありますが、これは大正三年に再建されたもの。その際、再利用に耐えうる旧材のみを用いたため、12畳半と12畳の二間だったものが⇒10畳と8畳に縮小されています。
位置も本来の場所とは若干ずれているようです。

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室内には徳川慶喜の陣羽織(家康公御遺訓/レプリカ)、「最後の輪王寺宮」公現法親王の書状なども展示されていました。
また、部屋の天井や壁には一面に二葉葵の紋が描かれています。

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最後は徳川家の御霊廟へ。
五代綱吉、八代吉宗、十三代家定&天璋院篤姫の霊廟にお参りさせていただきました。
写真は徳川綱吉霊廟の勅額門
各将軍の霊廟には本来、このような朱塗りの唐門を6基建てるのが慣例だったそうですが、吉宗の代になって財政上の理由から、6基のうちの4基を他の将軍のものと共有することにしたのだとか・・・。
吉宗は偏諱を受けた綱吉のものと共有したため、両者の霊廟は隣り合わせに祀られています。

霊廟への参拝を終えたところで解散となりました。
とても貴重な体験をさせていただき、有意義な一日でした。

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2016年7月 3日 (日)

甲州道中(鳥沢→初狩)

7月2日、また甲州道中を歩いてみたくなって出かけてきました。

甲府へ向けて進軍する甲陽鎮撫隊は慶応四年三月二日、府中を出発して日野や八王子に立ち寄り、小仏峠を越えて相模湖畔の与瀬宿に泊まっています。(→参考記事
そして・・・

三日、雨天。
一 与瀬宿出立、上野原宿昼飯、猿橋宿泊り。

(佐藤彦五郎日記)

翌三日には与瀬を発って上野原で休息した後、猿橋で宿を取りました。

本来であれば私も前回、高尾から小仏峠を越えて与瀬まで歩いていますので、その続きからスタートすればいいところですが、与瀬から猿橋までは30km弱と距離が長く、その間結構な山越えがあって電車のルートからも大きく逸れることから、7月という暑い時期を考慮して今回はひと山越えた先の鳥沢駅から歩き始めることにしました。
与瀬~鳥沢間もいずれ必ず、時期を選んで挑戦します。

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甲州道中鳥沢宿
鳥沢宿は上下二つの宿場に分かれており、駅すぐ北の国道20号に沿っているこちらは上鳥沢宿になります。

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明治天皇駐蹕地址の碑
駐蹕(ちゅうひつ)とは天皇が行幸の途中、一時乗り物を止めることをいうのだそうです。つまり、御休息されたということですね。

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少し国道を進み、こちらの二股が出てきたら右へ。

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旧道は深く切れ込んだ沢(谷)を迂回するように進みます。
写真右手のコーナー部分には・・・

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馬頭観音
馬は移動や荷役の貴重な手段でしたので、旧街道にはよく見られます。今回のルートでも、この先多く出てきます。
なお、「馬頭観世音」「馬頭尊」などと文字だけ彫られたものは、愛馬への供養として祀られたものが多いのだそうです。

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再び国道に合流します。

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しばらくは国道沿いに、桂川の断崖上を進みます。

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ここでまた甲州道中は少しだけ国道を離れ、正面奥のベージュ色の建物手前を右へ入ります。

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旧道へ入ってすぐの二股は左へ。

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二股の脇、民家の庭先にはやはり小さな馬頭観音が。

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旧道はこの先、正面で行き止まりになりますが・・・

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なんとか国道へ下りるための道が付けられていました。

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国道から、下りてきた道を振り返る・・・道が付けられているとはいえ、急斜面で藪もきつく、結構躊躇しました(笑)

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またしばらくは国道を進みます。

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道端には常夜灯や稲荷社も。

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「→小菅」の標識が出てきたら、その先で右斜めの道へ進みます。
この先にある・・・

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日本三奇橋の一つ、猿橋で桂川を渡ります。

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猿橋からの絶景・・・

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いつ頃からこれほどの橋が架けられていたのか定かではありませんが、西暦600年頃に百済からの渡来人が、猿が互いに体を支え合って橋を作って桂川を渡っていくのを見て架橋に成功した、との伝説もあるのだそうです。
江戸時代に五街道が整備される、そのかなり以前から交通の要衝であったことは確かで、幾度か合戦の舞台にもなっているようです。

幕末、甲陽鎮撫隊が勝沼から敗走する際には、一部の兵が断崖絶壁の要害を利用して新政府軍の追撃を食い止めるため、猿橋を焼き落そうとしますが、その場にいた佐藤彦五郎が必死にこれを止めて、なんとか焼失を免れたというエピソードも伝わってます。(聞きがき新選組)
なお、現在の橋は昭和59年に架け替えられたものになります。

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猿橋を南側へ渡った先に建つ、明治天皇御召換所址の碑
ちなみに明治天皇の山梨巡幸は、明治13年のことになります。

甲州道中は猿橋を渡り、少し進むとすぐにまた国道20号に合流します。
その先に・・・

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甲陽鎮撫隊が宿泊した猿橋宿の町並みが連なります。

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ここで意外な方と遭遇・・・まさか国道沿いでクワガタに出くわすとは!

更に西へ進みます。

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またまたお目に掛かりましたね、馬頭観音。

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こちらには何と彫ってあったかなぁ?・・・忘れました。
このカーブの外側、阿弥陀寺の門前には・・・

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猿橋一里塚跡の標柱がひっそりと立っていました。
文字も消えかかっているし…普通に歩いていたらまず気付きません。

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猿橋一里塚跡付近から、西の方角の眺め。
暑さに霞んでいますが、右に見えているのは小山田氏の居城跡としても知られる岩殿山です。

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猿橋一里塚跡を過ぎたら、甲州道中は右の細道へ。

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萬延二年(1861)の日付が刻まれていた石・・・正面の文字は読み取れませんでした。

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旧街道歩きはやはり、国道よりもこういった旧道の方が雰囲気があって楽しいですね。

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今度は左上の歩道を上がって行きます。

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坂を登ると中央本線の線路にぶつかり、甲州道中は踏切を越えて行きます。

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踏切を越えると国道に出ますが、すぐにまた右の旧道へ。
この先、なだらかな坂を登って行くと・・・

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甲州道中の宿場の一つ、駒橋宿があります。

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駒橋宿の碑

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坂を登りきったところで一旦国道に合流し、300mほど西へ進んだら、写真の場所で再び右に逸れます。

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ここまで来ると、岩殿山が目の前にドーンとそびえています。

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中央本線の南側を、線路に沿って西へ。しばらくすると大月駅のロータリーに出ます。

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甲州道中はロータリーを横切るようにして、先へ続いています。

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駅前だというのに、どうした訳か人通りの耐えた甲州道中を往く・・・。
駅を越えてしばらくしたら、国道に合流します。

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大月宿本陣(溝口家)跡に建つ、明治天皇御召換所址の碑

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本陣前のT字路を右折→中央本線の線路を越えたら今度はすぐに左折します。
写真はその、中央本線の線路を越えて左折した先に続く甲州道中。

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歩いていたら、こんな供養碑も見かけました。

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桂川を渡る中央本線(手前)に国道20号(奥)。その更に奥は・・・水門かな?
この先3~400mほどで、あちらの国道と合流します。

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国道に合流して少し進むと、下花咲一里塚が見えてきます。
周辺から集められた馬頭観音や庚申塔が並べられていました。

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一里塚

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更に進むと・・・いよいよ見えてきました。

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下花咲宿本陣(花咲宿名主・星野家)
日野、小原の本陣と共に、甲州道中では三軒だけ現存する本陣建物です。

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こちらにも明治天皇花咲小休所の碑が建っていました。

四日、雨天。
一 同
(猿橋)宿出立、花咲宿昼飯之処、真偽相不分、官軍体之人数、明五日頃甲府町え押来り候様子達し有之候ニ付、花咲宿より早追ニて大久保・内藤、其外兵隊相越し候ニ付、(以下略)
(佐藤彦五郎日記)

慶応四年三月四日、猿橋宿を発った甲陽鎮撫隊一行がここ花咲宿で昼食をとっているところへ、新政府軍が明日にも甲府に到着しそうだ、との情報が舞い込みます。
急ぎ確認を取ったところ、新政府軍が既に前日には甲府に入っていたことが判明し、甲陽鎮撫隊はこの日、この先の駒飼宿で進軍を止めています。

そして、佐藤彦五郎のご子孫が残した「聞きがき新選組」には;

大月(花咲カ)宿の星野源仲と云う医家に、宿舎を取った当夜、
※実際には花咲宿には泊まっていない。

という一節がありました。
大月市教育委員会による説明には下花咲宿本陣の星野家について、「幕末には薬の商いも行っていた」ともあり、医家に通じるものがあるように思えます。
つまり、こちらの下花咲宿本陣こそまさしく、近藤勇(大久保)や土方歳三(内藤)らが昼食に立ち寄っていた場所そのものである可能性も充分に考えられると思うのですが、いかがでしょうか・・・。

※その後、星野源仲大月宿在住の医師・星野玄仲であると知りました。訂正いたします。
「聞きがき新選組」に記述があることから、星野玄仲家に泊まったのは鎮撫隊本隊ではなく、彦五郎率いる春日隊の一部だったのかもしれません。

さて、ここいらで暑さに蝕まれた私の体力も限界に近づき、折角なので本陣横の和食ファミレスで昼休憩を挟みました。
汗だくで来店した私の姿を見た店員さん、他に客も殆どいなかったことからエアコンの設定温度をこっそり下げてくれました。こういうさり気ない気遣い、嬉しいものですねぇ…ありがとうございました。

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お陰で体力も少し回復し、甲州道中歩きを再開します。
国道20号、「上花咲」バス停の次は・・・

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「花折」…なんだか情緒を感じる地名ですね。由来が気になります。

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国道20号の97.8kmポスト付近。
この辺りでは本来、甲州道中は線路を挟んだ山裾側を通っていたらしく、実際に道の痕跡らしきものも見えていました。
このトンネルを潜って線路の向こう側へ行けるようなのですが・・・ひどい藪に加え、道がどこまで残っているのか覚束ないので、勿論冒険はしません(笑)
しかし、後で出てくるので「甲州道中が本当は、国道に対して線路の向こう側を通っていた」ということは覚えておいてください。

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真木橋から歩いてきた方角を振り返る。
この区間はひたすら一直線で日陰も全くなく、気力/体力とも本当にきつかった・・・。

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線路を挟んだ対岸の斜面中腹、甲州採石初狩鉱業所(以下:採石所)に架かる橋と同じ高さに1本の道が付けられているのがわかりますか?

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橋の上から…右の斜面に、線路と平行するように筋が走っていますよね?

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これが先ほど97.8kmポスト付近で冒険を回避した、線路向こう側の古道から続く甲州道中の名残と思われます。

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採石所のゲート前を通過し、古道はさらに西へ続いています。
左は採石所の敷地に入ってしまいますので、当然私も写真正面の道を行きます。

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獣の類が怖いので、懸命に音を立てながら・・・(^_^;)

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やがて砂利道は採石所の施設下を潜り・・・

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舗装路に出ます。

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道端には小さなお地蔵さんなど。

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そのまま進んで踏切を越えると、聖護院道興歌碑があります。
道興は関白近衛家の出身で仏門に入り、天台宗寺門派修験宗の総本山・聖護院の座主を務めた人物。
諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ねて「廻国雑記」を著していますが、その中で猿橋についても触れています。
なお、この辺りが下初狩宿になるようです。

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先には小さな馬頭観音も。

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やがて、採石所前から離れていた国道20号と再合流します。
ここまで来たら本日のゴールも近い・・・ラストスパート!

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国道に合流してからはダラダラと上り勾配が続きます。
すぐに初狩駅前の交差点がありますが、一旦通り過ぎます。沿道には常夜灯も。

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大月市武道館前に建つ中初狩宿の碑を過ぎ・・・

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こちらが本日のゴール、初狩宿本陣(小林家)
やはり門前には明治天皇御小休遺跡の碑が。

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今もご子孫がお住まいとお見受けした家屋。
甲州道中の現存本陣は三軒だけなので、こちらは現存ではないのでしょうが、歴史と風格を漂わせる雰囲気がありました。

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さて、これにて今回の甲州道中歩きは終了です。帰りは初狩駅から。

鳥沢駅を出発してここまで約5時間。国道20号の標識では14kmほどでしたが、実際には甲州道中の痕跡を辿って何度も旧道に逸れたりしているので、もう少し長かったかと・・・。
なにより遮るもののない日差しと、容赦ない暑さが堪えました・・・。次はもう少し時期を選んで、ですね(^_^;)

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2016年5月 8日 (日)

橋本の戦い

慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦い。その戦線は鳥羽・伏見から淀を経て(参照記事その1その2その3)、石清水八幡宮周辺~橋本へと移っていきます。

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石清水八幡宮の男山から淀方面の眺め。まさに鳥羽伏見の戦い、その終盤戦が繰り広げられた光景です。
淀から京街道が男山北麓を経由して西麓の橋本宿を抜け、旧幕府軍が最終的に敗走する大坂へと続いています。

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男山から淀川沿いを西へ向かいます。堤に立派な木が生えていました。

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こういうクランク・・・好きです(笑)

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しばらくすると淀川は南へ折れ、その対岸には山崎の天王山が見えてきます。

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そして背後を振り返ると、石清水八幡宮の男山。

一ヶ月六日朝七時頃山崎天王山下タ関門藤堂和泉守固メ八幡山江ハ松平越中守兵戸釆女正其外歩兵相固メル橋本宿ハ会津兵新選組遊撃隊見廻リ組固メル八幡堤ハ薩兵寄ル新選組ト大戦イ
(永倉新八「浪士文久報国記事」より/以下青文字引用同)

淀川西岸の山崎方面は津藩藤堂家が守備し、男山(八幡山)には桑名・大垣藩・その他の旧幕府兵が布陣。会津藩や新選組・見廻組は淀川東岸の橋本宿に入って、新政府軍の襲来に備えていました。

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天王山と男山の間を縫うように、淀川に沿って通る京街道には道標も。
文政己卯二年二月吉日・・・1819年ですね。

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裏にはこの後、旧幕府軍が敗走することになる「大坂」の文字も見えます。
この街道に沿って、戦闘が展開されていったことが偲ばれます。

六日暁天ニ敵亦進来ス、我軍橋本入口胸壁ヲ築キ置キ互ニ炮撃ス、
(島田魁「日記」より/以下緑文字引用同)

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橋本宿の北にある小山
まさに島田魁のいう橋本入口のような場所で、実際に京街道へ向けて築かれた塹壕胸壁)が今でも一部残っているらしいのですが・・・

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残念ながらフェンスには厳重に南京錠が掛けられ、立ち入ることは出来ませんでした。
遠目にも気になる地表面が見えていましたが・・・

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何とかフェンス越しにも撮影を試みましたが・・・事前に教わった塹壕の位置は、物凄い竹藪でちょっと無理ですね…(^_^;)
でもまぁ島田が書き残した胸壁が、ここである可能性は充分に高いと思います。

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京街道に戻ります。橋本宿の入口(北)付近に建っていた道標。

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柳谷わたし場の道標

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渡し場から見る橋本宿
会津藩や新選組、見廻組らが守備した地です。

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橋本宿を貫く京街道

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あのS字・・・渋い。

迚モ大垣兵ニハ防コト六ケ敷、夫故ニ土方歳三原田左之助兵ヲ率キ三丁ホド参ルト薩兵コチラヲ向イ炮発イタス、漸くノ事ニテ胸壁ノ内エ引揚ケ

土方歳三も新選組本隊を率いて、橋本に布陣していました。
そこへ遂に薩摩藩兵を中心とする新政府軍が攻め寄せ、八幡堤で大垣藩兵と戦端を開きます。大垣兵だけでは心許ないと、土方は原田と共に兵を率いて八幡堤を進んで援軍に向かいますが、薩摩兵の激しい銃撃を受け、やっとのことで胸壁へと引き上げています。

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ここでいう土方の進んだ八幡堤が具体的にどの位置を指すのか分かりませんが、前後の状況からして淀川南岸の堤防を東へ、男山方面(写真)へ向かったものと思います。
また、彼らが逃げ帰った胸壁は、先ほどご紹介した竹藪の小山かもしれません。

永倉新八、斎藤一馬兵ヲ率テ八幡山中副ニテ戦ヲル

なおこの時、永倉は斎藤一と共に男山の中腹に陣取っていました。

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という訳で男山を下山する際、それらしき痕跡がないか注意深く見てみましたが、殆どが切り立った自然地形でした。写真は裏参道沿いにあった、塹壕に見えなくもない痕跡。
地形からして、新政府軍が攻め登ってくる(と想定される)ルートも限られてきますので・・・あながちなくもない、かな?

八幡堤ノ戦イ藤堂裏切致シ夫故ニ兵散乱イタサムト心得夫ト見ルヨリ土方歳三、原田佐之介猶ヲ進メト令ヲカケ其内ニ藤堂兵会津兵ニ追払ハレタト注進コレアリ

戦闘は山崎方面に布陣した津藩が新政府軍に寝返り、淀川対岸から旧幕府軍に向けて砲撃を加えてきたことで大きく新政府軍優勢に傾きます
それでも一度は盛り返したようですが、見廻組頭取の佐々木只三郎が命を落とすことになる重傷を負うなど、旧幕府軍は大きな被害を出していきます。

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橋本宿の後方(南)、旧幕府軍の本営が置かれた久修園院楠葉砲台跡地一帯。

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久修園院
大坂夏の陣で一度被災しているようです。残念ながら拝観は謝絶のようでした。

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復原?された楠葉砲台(北側)

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楠葉砲台越しに、津藩が砲撃を加えてきた山崎・高浜砲台方面を眺める。

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楠葉砲台南端の堀

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奥には天王山

然ルニ山嵜ノ関門藤堂藩返シテ大小銃ヲ烈布放ツ、故ニ我軍大瓦解遂ニ大坂迄退ク、

支え切れなくなった旧幕府軍は崩れ、大坂へと敗走することになりました。
なおこの時、永倉・斎藤は男山に取り残され、慌てて引き返す途中、敵に包囲されかけて窮地に陥りますが辛うじて脱し、危うく難を逃れました。

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ちなみに京阪橋本駅の目の前に建つ西遊寺には、久修園院にあった旧幕府軍に弾薬庫として使われた建物が移築されているそうなのですが・・・

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どれがその移築建物なのか、判断がつきませんでした。
※西遊寺には天正10年、山崎合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉も立ち寄っているそうです。

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最後に・・・楠葉砲台から南へ、旧幕府軍が敗走したであろうルートを3kmほど南下、楠葉橋近くに建つ戊辰役戦没者供養墓
京街道が当時通っていた場所で、おそらくは大坂への敗走途中で命を落したのであろう兵士8名を供養しています。

さて、予想外の暑さと2泊3日分の荷物を背負ったままでの探索に思いの外体力を奪われたので、初日はここまで。
電車で京都駅へ戻り、ホテルへチェックインした後は一歩も動けませんでした・・・。

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2016年4月 6日 (水)

平町東照宮参拝 ―歴史の道ウォーク―

平成28年4月3日、日野新選組ガイドの会主催の歴史の道ウォークに参加してきました。
慶応元年(1865)4月17日、徳川家康の命日にあたるこの日、佐藤彦五郎は江戸に戻っていた土方歳三らを伴って平町の東照宮を参拝しています。

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今回参加させていただいたウォーキング・イベントは、日野宿本陣を出発し、彦五郎・歳三らが151年前に辿った平村(現平町)までの東光寺道の道程を同じように歩き、彼らと同様、特別に東照宮を参拝させていただくというもの。
同時に、東光寺道に沿って流れる日野用水の歴史も学びます。

※なお、この道程は以前、個人的にも歩いて記事にまとめています。
佐藤彦五郎の逃避行 (東光寺道と日野用水、他)
重複する部分は多いものの、今回は訪れていない場所、新たに得た知見などもありますので、合わせてお読みいただければ幸いです。

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朝9:30、日野宿本陣に集合。
受付を済ませた後、出発前に本陣内をご案内いただきました。

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本陣出発後、まずは甲州道中を西へ進みます。
「日野市役所入口」交差点にはその昔、日野用水が甲州道中を横切るように流れていました(現在は暗渠)ので、街道には金子橋という橋が架けられていました。
交差点付近にはそれを示すように、橋の欄干を模した石碑が建っています。

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JR中央線の高架を支える日野煉瓦と、日野用水上堰。
日野煉瓦工場は明治20年、多摩川鉄橋建設に伴って設立され、翌21年1月には本格的に操業を開始しています。
しかし同23年8月、創業者の急死によって惜しくも廃業となりました。
実働僅か2年半の間に約50万個もの煉瓦を製造したと云い、主な売込先が甲武鉄道だったためか、今も中央線沿線の高架や鉄橋には多くの煉瓦が現役で使われています。

この上堰の辺りで甲州道中を離れ、日野用水に沿って東光寺道を北西方向に進みます。
ちなみに日野用水は永禄10年(1567)に、滝山城主・北条氏照の支援を受けた上佐藤家の祖・佐藤隼人によって開削されています。実に450年もの歴史があるのです。

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よそう森公園
昭和40年代まで、この辺り一帯には一面の田園が広がっており、ご覧のような塚に上ると周囲がよく見渡せたそうです。

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その塚の上から
こうして塚に上がり、周囲を見渡して毎年の収穫量を予想したことから、「よそう森」・・・なるほど。
しかしそれなら、「よそう盛り」の方が意味としてはピンと来るんだけど…(^_^;)

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東光寺小学校の桜も満開♪
ちなみに、日野に土着した武蔵七党の一つ、西党の祖である日奉(ひまつり)氏が創建したと云う東光寺は、日奉氏の没落と共に衰退して、中世以降には既に存在しておらず、現在は地名だけが残ります。
東光寺小学校から少し北へ行った都道169号線沿いには、天正16年に再興された成就院というお寺がありますが、そちらは元々は東光寺の子院だったものと伝わります。

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東光寺小学校の裏手には日野台地の崖線(東光寺崖線とも)が迫ります。
東光寺は日奉氏が自らの居館の鬼門除けに創建したと伝わりますので、この台地上のいずれかに、その居館があったのではないかと考えられているそうです。

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崖線の麓には、カタクリの群生地もあります。

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水車堀公園
佐藤彦五郎日記には古谷平右衛門という人物による代官・江川太郎左衛門宛、水車新設の嘆願書(慶応三卯年十一月七日付)が書き留められています。
昭和25年頃まで、日野用水には数多くの水車が残っていたのだそうです。

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「栄町五丁目」交差点。東光寺道はここで、都道169号線と合流します。
写真正面の大きな杉が生えている辺りは、成就院に移築された東光寺薬師堂(日奉氏創建、天正8年再建)が昭和46年まで建っていた跡地です。
今でこそ暗渠になって見えませんが、この交差点で日野用水は上堰用水と下堰用水とに分岐しており、この地には東光寺道が日野用水を渡るために架けられた東光寺大橋がありました。
(20年ほど前までは、交差点の中央付近が一部開いていて用水が顔を覗かせていましたが、それも今は昔・・・)

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交差点脇に建つ東光寺大橋の碑(右)

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しばらく進み…谷地川を越える日野用水

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ちゃんと水も流れています。

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谷地川を越えた日野用水、並びに東光寺道は都道169号線を離れ、南側へ迂回するかのようにグイッと曲げられています。
この不自然なコース取りの理由がなかなか掴めないのですが・・・今のところは、写真の窪地を避けるためではないか…としておきます。

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南へ迂回した日野用水
流れを制御するための仕組みでしょうね。

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迂回した東光寺道が最も南に達する付近には…お茶屋の松
佐藤家の古い記録にも、この場所に「茶屋を作った」と残っているのだそうです。ちょうど八王子と日野の境でもあります。
昭和40年代までは松の古木が残っていましたが、現在のものは3代目。

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日野用水改修記念碑
東光寺道はここで一旦、都道169号線に戻ります。

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石川堰
この堰で余った水を多摩川へ流し、用水の水量を調節しています。

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再び都道を離れ、旧道をゆく東光寺道と日野用水

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八王子水再生センターの屋上を開放した八石下広場より、南の方角。
※近くに八王子千人同心の関根家があり、その屋号が「八石」(家禄に由来か?)だったことから「八石下広場」

この付近一帯が粟の須(村)と呼ばれていた地で、写真中央、左右に伸びる加住丘陵の中腹に、名主を務める井上忠左衛門邸がありました。
※この井上忠左衛門という人物、後ほどまた登場してきますので覚えておいてください。

そして東光寺道は写真のすぐ足もとを通っているのですが・・・

東光寺道より粟の須を走り、小宮村北平の大蔵院へ逃竄した。
(聞きがき新選組)

慶応4年3月、八王子まで進軍してきた新政府軍に追われる佐藤彦五郎は家族を伴い、東光寺道を平の大蔵院まで逃れます。
上の引用は彦五郎のご子孫が著した「聞きがき新選組」に見えるこの時の状況を現した一節ですが、まさに彼らが走って逃げた東光寺道が粟の須を通っていた様子が、地形からもよく見て取れる光景です。

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同じく八石下広場から、多摩大橋方面。
この多摩大橋付近では慶応2年(1866)6月に武州世直し一揆勢と、それを迎え撃つ彦五郎率いる日野農兵隊とによる戦闘が繰り広げられています。
(詳細はコチラ

さて、我々はここで東光寺道を離れ、八石下広場から先は多摩川の土手沿いを歩くことにしました。

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八高線の線路を潜り・・・

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しばらく進むと西の方角に、いよいよ平町が見えてきます。

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平町に設置されている日野用水の取水口
そう、日野用水は平町で多摩川の水を取り入れられているのです。

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まさにここが、日野用水の始点。
平の辺りでは「北平用水」とも呼ぶのだそうです。

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そして、平の渡し跡。
天正18年(1590)、関東へ移封された徳川家康は新領内を巡見し、八王子城などの視察を終えて川越へ向かう際、平の渡しに差し掛かります。
この時、家康の多摩川越えを助け、川越までお供した名主・平家の先祖は、家康から褒美として黄金の洪武通宝と扇を下賜されます。
その後、家康の七回忌に東照宮を祀り、下賜された洪武通宝を御神体としたのが、平町東照宮の始まりです。
(元々は村の鎮守でもある西玉神社に日光大権現を勧請して祀っていましたが、御神体の紛失を恐れ、寛政8年に平家の敷地内に本社が建立されました)

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平の渡しに繋がるこの一本道こそ、往時の川越街道ということにもなるのでしょう。

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渡し場付近には、寿司屋や団子屋を連想させる屋号を持つお宅があるそうです。
なんとなく、街道の渡し場で賑やかに商売を営んでいた光景が目に浮かんできそうな平場も・・・

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渡し場への道(左/川越街道?)と、東光寺道らしき小路の追分。
彦五郎や歳三も、この右手の小路から平村へとやってきたのでしょうか。

(慶応元年四月)十七日、天気、
上平村東照神君様御宮拝例ニ、彦五郎・歳三、其外之もの相越し候処、(中略)帰宅掛ヶ粟須村忠左衛門方え立寄、稽古いたし候、
(佐藤彦五郎日記)

―この名主平喜一家の表庭には荘厳なる社殿がある。金銭権現と云うを祭る。往昔戦乱中、家康公が、ここの下の多摩川を渡る時、折柄川漁に出ていた当家の祖先が、公を背負って川瀬を渡り越した。
それで公より黄金の宝貨を下賜され、御神体として社祠に祭って子孫に伝えたものである―
(聞きがき新選組)

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御神体が洪武通宝だから、金銭権現なのですね。
151年前の旧暦4月17日、家康の命日に彦五郎・歳三が連れだってお参りした平村東照宮に、いよいよ我々も参拝させていただきます!
※あくまでもツアー限定の公開であり、個人宅の敷地内で普段は公開されていませんので、ご注意ください。

お庭の片隅に建つ現在の祠はこれといった装飾もなく、こじんまりとコンパクトなものでした。
しかし、地表面に残る段差や石垣、石段などの痕跡が、ガイドさんに見せていただいた平家に伝来する文久3年に再建された社殿の絵図(つまり歳三らが参拝した当時のもの。彦五郎も再建の世話人になっている)と、配置や形状が見事に一致しました。
東照神君様御宮拝例の際、彦五郎や歳三がどこに立ちどちらを向いていたのかまでハッキリと分かるくらいに・・・。
また、2基の石灯籠は現在は祠に合わせて場所を変えていますが、横山宿、及び八日市宿から寄進されたものが現存していました。
貴重な体験をさせていただき、感謝に堪えません。

※以前はこうしたガイドツアーで御神体の洪武通宝を見せていただけることもあったようですが、禁じられているにも関わらず、ネットに写真を上げる不心得者がいたために、防犯などの観点から教育委員会の指導も入って公開されることはなくなりました。
残念なことですが、ルールとマナーを守れない人間がいる以上は致し方のないことです。これからも大切に守り伝えていっていただきたいと思います。

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さて、こちらは大蔵院(比盧宝山福生寺)
先に引用しましたが慶応4年3月、新政府軍に追われる彦五郎一家が最初に逃げ込んだお寺です。
大蔵院を当座の潜伏先として彦五郎に世話したのも平氏です。

名主の平氏は元々、上野國田部井氏の出で甲斐國へ流れて小野氏を称し、後に平村で名主を務めるようになって平姓となったそうです。
その先祖の一人・小野大蔵(喜道)は天正18年6月、豊臣秀吉による北条征伐の際には八王子城で戦い、城と運命を共にしています。
大蔵院は彼の三男が、父・大蔵の菩提を弔うために元和7年(1621)に創建されたと伝わっています。

ひとまず大蔵院に落ち着いた彦五郎一家・・・
薄暗き座中に尼僧の接待、渋茶を啜ってホッとひと息した時に、粟の須井上忠左衛門方から、ここへ官軍が来そうであると急報して来た。ソレッと再び草鞋をはき、寺院の裏庭続きに雑木山を攀じ登り峰伝いに西へ西へと走った
(聞きがき新選組)

上写真奥、彦五郎らが井上忠左衛門からの急報を受けて飛び出し、慌てて攀じ登った寺院の裏庭続き雑木山は現在、墓地になって雰囲気は変わっていますが、それでも地形はしっかりと残っています。
この時、新政府軍が寺を取り囲む様子を村の遠方より見ていた者の話では、裏山を這い上がる3~4人の白足袋がチラチラ見えていたと云います・・・まさに間一髪、といったところだったのですね。
※大蔵院を出た後の彦五郎らの足取りについては、やはりコチラの記事後半を参照ください。

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平町大蔵院のイチョウ(市指定天然記念物)
文政6年(1823)に書かれた「武蔵名勝図会」にも載っている古木で、樹齢は500年ほどと推定されています。
このイチョウもまた、彦五郎・歳三の東照宮参拝や、新政府軍に追われる彦五郎一家の歴史を見てきた証言者なのですね。。。

この後は平家歴代の墓所にもお参りさせていただきました。
墓誌には八王子城で戦死した小野大蔵(但し何故か、没年月日は八王子落城の10日前になっていましたが)は勿論、家康から洪武通宝の下賜を受けたと思われる人物、彦五郎・歳三の東照宮参拝当時の御当主と思われる人物、先に引用した「聞きがき新選組」に出てくる喜一氏(但し墓誌では「一喜」)などの法名がズラリと並んでいました。

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彦五郎たちも攀じ登った大蔵院の裏山から、平村の眺め。

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裏山中腹に鎮座する平村の鎮守・西玉神社。
日光大権現を勧請して家康を合祀していますので・・・

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社殿には三葉葵の紋が使われています。

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大蔵院の裏山、加住丘陵に部分的に残る尾根道。
彦五郎一家も或いはこの道を、峰伝いに西へ西へと走ったのかもしれないなぁ・・・などと想像を膨らませています。

さて、歴史の道ウォークはこれにて終了。
この後は解散してバスで日野駅へ戻り、私は一緒に参加したサイガさんと軽く打ち上げの乾杯をしました。

ところで、先ほどからチラホラと名前が出てくる粟の須村の井上忠左衛門…彦五郎・歳三が東照宮参拝の帰路に立ち寄って稽古をつけた家の主で、大蔵院に潜伏する彦五郎に「新政府軍迫る」の急報を届けた人物ですが・・・

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そんな井上忠左衛門の邸地もまた、現在に至りご子孫が守り継いでいらっしゃいます。
近くの高台の一角には、井上家歴代の墓所もありました。

彦五郎の長男・源之助は慶応4年の新政府軍が迫った折、病で歩けず、大蔵院へ向かった家族とはぐれてしまいます。
そんな彼を釣り籠で自宅まで運ばせて匿ったのもまた、忠左衛門でした。
ちなみに源之助は翌日、新政府軍迫るの報に接し、忠左衛門の息子と共に急ぎ山越しして宇津木村へ行き、とある小さな農家に隠れさせて貰うも発見され、結局は捕らわれてしまいますが、板垣退助によって赦免されています。

そして忠左衛門は、佐藤家の留守居をしていたところを彦五郎の一味と見做されて捕らわれますが、同じく後に釈放されています。

佐藤、平、井上。
小野路には小島家があり、他にも富澤家や谷保の本田家、etc...
こうして見ていくと当時の名主間の繋がりは、我々が想像する以上に深いものがあったことでしょう。

※徳川家康から下賜された洪武通宝や扇、「武蔵国多摩郡平村東照大権現再建図版木」は、八王子市郷土資料館から1997年に発行された「八王子宿周辺の名主たち」に掲載されています。

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