カテゴリー「新選組・戊辰戦争」の129件の記事

2022年1月 6日 (木)

扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~

2022年最初の“歴旅”は、前回の記事から引き続き飯能戦争関連です。
電車とバスを乗り継ぎ、、、

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こちらからスタート。
前回の記事でも触れましたが、慶応4年(1868)5月、上野戦争の敗報に接した振武軍ら旧幕府諸隊は、田無から二手に分かれて飯能を目指すことになります。
一隊は秩父甲州往還を所沢経由でここ扇町屋に入り、もう一隊は青梅街道で箱根ヶ崎まで引き返し、日光脇往還を北上して、やはり扇町屋を経由してから飯能入りしました(5月18日)。

また、その追討に向かう新政府軍本隊も同月22日に振武軍らの去った扇町屋へ入り、大村・佐土原・備前の各藩からなる部隊は秩父甲州往還を進み、野田村を経由して飯能へ向かうことを決し、翌23日未明に扇町屋を発しています。

今回はそのルートを辿って、私も扇町屋から飯能を目指して歩いてみます。

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青梅道(右)が日光脇往還に合流する地点。
そこに・・・

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扇町屋上町の道標があります。
子育地蔵は元禄5年(1692)の銘をもち、
右 おう免みち
左 八王じみち
と彫られているそうです。

左の馬頭観音は文政3年(1820)のものでやはり道標を兼ね、右の石柱型の道標には安政3年(1856)の銘がありました。

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日光脇往還を北へ進んでいくと、風情のある建物も残っていました。

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割烹扇屋さんは、幕末頃には旅籠を営まれていたとか。
飯能戦争に関わった両陣営の兵卒たちも、きっと利用したことでしょう。

飯能戦争当日の5月23日、振武軍の一隊が扇町屋の新政府軍襲撃を企てましたが、いざ到着してみると旅籠の軒先に名が掲げられているだけで、既にもぬけの殻であったと云います。(高岡槍太郎戊辰日記)

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よ~く町並を見てみると、建物が道路と正対せずに少しずつ斜めにズレ、ギザギザに並んでいました。

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日光脇往還は左斜め方向へ。
この分岐点の脇には・・・

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下町の道標(道祖神)
日光脇往還と、川越へ向かう道を標しています(「日こう」の文字も確認できました)。
こちらには享和2年(1802)の銘がありました。

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ところで、扇町屋の外れ(豊岡高校北隅)には彰義隊遭難者の碑がたてられています。
説明板によると慶応4年(1868)3月29日、軍資金調達のために扇町屋へやって来た彰義隊士13名が、村人によって殺害されるという事件があったのだそうです。
大正10年(1921)、当地を訪れた元幹部隊士・本多晋(敏三郎)によって建碑されました。

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さて、日光脇往還に戻って少し進むと、趣のある立派な建物が見えてきました。
黒須村名主・繁田家(本家)の長屋門と、繁田醤油(分家)です。
細い道を挟んだ左側には、繁田満義が設立に携わった旧黒須銀行(現りそな銀行)の古い建物も残っています・・・ほとんど写っていないけど(;^_^A

明治32年(1899)、飯能戦争で命を落とした渋沢平九郎の慰霊のため、飯能や越生を訪れた渋沢栄一は道中、この繁田家にも立ち寄りました。
そうした縁もあってのことでしょう、彼は黒須銀行設立時の顧問にも名を連ねています。

ここで日光脇往還を離れ、繁田醤油と旧黒須銀行の間の小路を進むことにします。

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旧道の雰囲気を残す道をしばらく進み、入間川の河原が近づいてきたところで、河原に下りられそうなポイントがありました。
(民家の途切れた右側)

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目印は、こちらのお地蔵様。

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下りた先が・・・黒須村と笹井村を渡していた笹井の渡し跡です。
勿論、現在は渡ることができませんので、私は近くの豊水橋(日光脇往還根岸の渡し辺り)へ迂回しました。

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笹井の渡しを笹井村側へ渡河したポイントから。
佐土原・大村・備前の緒隊、及び双柳から中山方面へ向かう福岡や久留米の藩兵らも、きっとここから上陸したことでしょう。

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上陸地点には水天宮が祭られていました。

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秩父甲州往還はこの先、しばらくは入間川に沿うようにして西へ進みます。

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渡し跡から7~8分ほども歩いたでしょうか、路傍には水神宮と・・・

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御嶽神社が祭られていました。
神社の前には、旧道の痕跡らしき砂利道もありましたが、私有地に入ってしまいそうでしたので追跡は断念しました。

新政府軍が入間川を越えて300mほど進んだところで、旧幕府方との最初の接触があったと云います(23日未明)。
その詳細な場所はわかりませんが、距離的にはこの辺りになりますでしょうか。
最初の遭遇の後、振武軍らは畑のそばの藪中から発砲してきたそうですが、実際にこのすぐ先には今も畑が広がっていました

笹井での戦闘で旧幕府方を撃退した新政府軍(先陣は佐土原藩)でしたが深追いはせず、夜の明けるのを待って進軍を再開しました。

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先ほどの砂利道はここに繋がっていたのかな?

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進軍する大村・佐土原・備前勢が野田村の外れまで差し掛かった時、再び旧幕府方から銃撃を受けました。
そこで新政府軍は開けた野原のような場所に出て散兵し、林や藪に潜む旧幕府方を撃退したと云います。
・・・なんとなく、それを彷彿とさせる光景に出くわしました。

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旧幕府方が潜んでいた(かもしれない?)藪を抜けて更に進みます。

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野田山王塚石造物群

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庚申塔や馬頭観音が集められており、最古のものは寛文8年(1668)になるそうです。
この場所で振武軍や、新政府軍らの動きを目撃していたのでしょうか。

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秩父甲州往還の旧道らしき道を進む。
この辺りは交通量も多く、歩道がなかったのでかなりスリリングでした。

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道中にあった白髭神社にもお参り。
この後、八高線や西武線の線路を超え、いよいよ飯能の中心部へ入っていきます。

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飯能の高札場跡。
この辺り一帯も、飯能戦争の兵火で焼けているようです。

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高札場跡付近に建つ、明治7年創業の吉田屋呉服店。
その前に明治16年の軍事演習の際、視察に訪れた明治天皇の御座所になったことを示すプレートも掲げられていました。
天皇は能仁寺裏の羅漢山にも登って演習を視察されています。それ以降、山は天覧山と呼ばれるようになりました。

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店蔵絹甚の重厚な佇まい。
明治37年(1904)の建築。

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野村庄三郎を頭とする振武軍隊士40名ほどが滞在していた広渡寺。
戦争で本堂や庫裡を焼失しています。

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眞能村名主・双木家跡付近。
「23日朝、戦闘がいよいよ飯能の町へ迫ってきたので逃げる支度をしていると、大砲の玉や小銃の銃弾が茶の間に落ちてきて恐怖した。(中略)終戦後、家に戻ってみたら大砲の玉が2つ、銃弾はたくさん転がっていた」
といった内容の証言を、時の当主・並木利八郎が拾った大砲玉を収めた箱(大炮玉箱)の箱書に残しています。

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ところで、飯能の町中に「並木利一」という人物の胸像がありました。
詳しく調べはついていないのですが、おそらく利八郎の孫(養子の子息)にあたる人物かと思われます。


本来であれば、久しぶりに能仁寺までお詣りしたいところでしたが、久しぶりの長距離ウォークで足が悲鳴を上げており、付け根の辺りに激痛レベルの痛みを覚えていたので断念いたしました。
コロナ禍で体も相当なまっている模様・・・早く何の気兼ねもなく出かけられる日々を取り戻したいものです。

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2021年12月19日 (日)

振武軍が宿営した箱根ヶ崎

慶応4年(1868)、副頭取・天野八郎らとの対立から彰義隊を離れた渋沢成一郎らは田無に入り、同志を募って振武軍を結成しました(5月1日頃か)。
ここでしばらく、周辺の多摩地域の村々から惣代や名主に出頭を求め、軍用金の調達に勤しみます。連光寺村の惣代・忠右衛門もやはり呼び出しを受けて田無の振武軍本営へ出頭していますが、この忠右衛門とは富澤忠右衛門のことで、彼は新選組の面々とも親交のあった人物で、京に旅した際には近藤や土方、山南、沖田らから歓待を受けています。(「旅硯九重日記」/参考記事

そして5月12日、振武軍は田無から青梅街道を西へ向かい、箱根ヶ崎に陣替えしています。
これは田無では江戸に近く、新政府軍が動き出したら1日以内で襲撃されてしまう恐れがあったためとも云います。

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JR箱根ヶ崎駅から東へ150mほどで、八王子千人同心が日光勤番に利用していた日光街道(日光脇往還/以下「日光街道」と表記)に出ます。
眼前を南北に横切っている道路がそれで、奥へ続いている道は江戸街道(江戸道)です。
この日光街道と江戸街道が接する南側(写真右側)の角にはかつて、旅籠関屋(関谷家)がありました。

箱根ヶ崎に到着した振武軍は、この旅籠関屋や圓福寺などに宿営します。

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旅籠関屋跡
安政4年(1857)に作成された間取図によると、旅籠の建物は日光街道と江戸街道に面した敷地の北西寄りに建てられていました。
上の写真では手前が江戸街道なので、煉瓦の塀沿いに奥へ、日光街道にぶつかって塀が途切れる辺りにかけてとなります。

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日光街道を少し北上し、青梅街道との交差点。
奥へ続く道が青梅街道(田無方面)で、手前を横切るのが日光街道です。
角に明治5年創業という漢方薬店の素敵な建物がありました。
※往時の青梅街道・田無方面の日光街道との結節点は、もう1本南側の小道だったようです。そこから日光街道で少しクランクさせて、写真手前方向に青梅方面へと続いていました。

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青梅街道を少し西へ進むと・・・

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振武軍宿営地の一つ、圓福寺。
立派な山門に驚かされます。

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圓福寺本堂

箱根ヶ崎滞在中も軍用金調達のため、近郷の村々の名主らが呼び出しを受けていますが、新町村(青梅市)名主へも同様の廻状が出されています。
この新町村名主とは、こちらの記事でご紹介した吉野家のことでしょう。

5月15日、上野で戦争が始まったとの報を受け、成一郎らは急ぎ箱根ヶ崎を出発して青梅街道を東進します。
ところが高円寺あたりまで来た時(同日夜)、上野戦争の敗報に接して田無まで引き返しました(同16日)。
田無で彰義隊や臥龍隊の敗残兵らと合流し、一隊は所沢を経由して扇町屋から、もう一隊は箱根ヶ崎から飯能へと向かうことになりました。
成一郎ら振武軍は箱根ヶ崎を経由するルートをとり、旅籠関屋を本営として隊士らは圓福寺に宿営(同17日)、翌18日には慌ただしく出発して日光街道を北へ、扇町屋を経由してから飯能へ入っています。

私も少し、日光街道を北上してみました。

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残堀川に架かる大橋の欄干が不思議な形をしていました。
この橋の袂にはかつて、慶応元年(1865)創建の常夜燈が建っていたそうです。
ところが大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまい、現在は修復して近くの狭山池公園に移設されています。

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日光街道の看板。

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更に北へと続く日光街道。
飯能へと向かう成一郎ら振武軍も行軍した道。。。

その後の飯能戦争については、以下の記事を。
飯能戦争の舞台
顏振峠と渋沢平九郎最期の地

折角なので、周辺をもう少し散策します。

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小高い丘の上に建つ狭山神社。
石段が修復中で通行不能なため、脇の坂道を上がっていくのですが・・・

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かなりの急勾配な上に枯れ葉がびっしりと積もり、とてもスリリングな参拝になりました…(;^_^A

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伊邪那岐尊・伊邪那美尊と共に、泉津事解男命・箱根大神・木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命を祭ります。
創建年代は不明ですが、箱根大神は永承年間(1046-1053)、奥州征伐に向かう「八幡太郎」源義家が、この近くの筥の池(現在の狭山池)付近に宿陣した際に勧請したものと伝えられ、木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命の三柱は源頼朝の命による勧請と考えられています。

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源義家が宿陣したと云う筥の池。

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大橋の袂に建っていた常夜燈もありました。
この常夜燈は、飯能へ向かう振武軍の行軍も目撃していたのですねぇ・・・。

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他にも馬頭観音や・・・

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蛇喰い次右衛門の石像なるものも。
案内板によると・・・

とある暑い日、治右衛門が筥の池で水浴びをしていると、小さな蛇が絡みついてきて離れなくなりました。
どうにか引き離そうと治右衛門が蛇に嚙みつくと、急に空模様が大荒れとなり、蛇も大蛇となって傷口からは血が七日七晩流れ続けたと云います。
蛇が退治されると池の水も枯れ始め、現在のような小さな池になりました。

・・・これは昔、筥の池の水を残堀川に流して玉川上水の助水にしたことで筥の池の規模が縮小し、且つ、その時の残堀川の流れが大蛇さながらのようであったことから、「蛇堀川」と呼ばれたことに由来する伝承と考えられています。

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狭山池公園から、狭山神社の建つ丘を見上げる。

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最後は瑞穂町郷土資料館にも立ち寄って、この日の歴史散策は終了。
週末も仕事で家に籠る日が多かったので、いい運動になりました。

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2021年11月23日 (火)

近藤芳助が所持していた近藤・土方肖像写真

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2021年11月23日、新選組隊士だった近藤芳助(川村三郎)が所持していたと云う近藤勇・土方歳三の肖像写真が、1日限定(写真の劣化を防ぐため)で公開されると聞き、土方歳三資料館へ。

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到着してみると想像を超える盛況ぶりで、行列は表の道路まで延々と続いていました。

今回、土方歳三資料館で公開された近藤・土方の写真は、幕府御典医であった松本良順(順)が所持していたものを、元新選組隊士・久米部正親(猪野忠敬)が借り受けて近藤芳助に託し、芳助が横浜の写真家・鈴木真一に依頼して3枚ずつ複写したものの1組とのこと。
残りの2組は、久米部と永倉新八とで分け合ったのだとか。

実際、土方の写真の裏には;
土方年三君 明治廿壱年九月 猪野忠敬氏所持之分複写
と書かれているそうです。

芳助の御子孫が土方歳三資料館へ寄贈されたことから、今回の1日限定公開になった訳ですが、過去(2009年)にはこの御子孫により、2人の写真は「開運!なんでも鑑定団」に出品されたこともあったようです。

近藤の写真の方は劣化が進み、かなり色褪せているように見受けられましたが、土方の方は割と鮮明で、市村鉄之助が箱館から佐藤家に届けた写真と構図は全く同じなのですが、表情が心もち柔らかい印象を受けました。

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資料館内も大変な混雑。私は既に何度もお邪魔しているので、今回は目的の写真だけを目に焼き付けて、早々に退散いたしました。

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2020年9月20日 (日)

近藤勇愛用の湯呑を拝観

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2020年9月20日、久しぶりに土方歳三資料館へ。
新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、館内の人数を制限をしているので多少は待ち時間もありましたが、それでも兼定の刀身は公開していないので20分ほどで入館できました。

今回は、特別に公開されている近藤勇愛用の湯呑を拝観するための訪問です。
慶應三年(「卯」)七月、刀箱の装飾をしてもらったお礼にと、多摩の縁の家に贈られたという湯呑。
外側だけでなく、内側にも綺麗な絵が施された上品な印象の品で、近藤が大きな手でこの湯呑を包み込み、ホッと一息ついている姿を想像しながら拝観させていただきました。

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まだまだ思い通りに出かけられない状況が続いていますが、地元でも好きな歴史に触れることができる環境は、とても恵まれているのかもしれません。

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2020年7月26日 (日)

幕末維新展 志士たちの軌跡(津雲邸)

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5年ぶりに青梅の津雲邸へ。

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また幕末維新展が開催されていると知り、前期の最終日に駆け込むようにして拝観してきました。

5年前の「幕末維新展」と似たような構成だったかとは思いますが、個人的に印象に残り、且つ当時の記事では触れていないものを、備忘を兼ねてピックアップしておきます。

三条実美 明治天皇への建言書
木戸孝允、版籍奉還建議書
→5年前の記事でも触れているものと同一かもしれません。

伊藤博文→アーネスト・サトウ宛書状
→漢文。さすがのサトウも、漢文は読めなかったでしょうねぇ…?(笑)

大山巌・捨松→伊藤博文宛招待状
勝海舟の漢詩
→末尾に「戊辰晩夏 海舟 勝義邦」とあり、江戸無血開城(慶応4年=戊辰)遂行後の心情を詠んでいます。

黒田清隆→伊藤博文書状
→「明治14年の政変」に繋がる「開拓使官有物払下事件」に関連する内容が書かれています。

板垣退助 委任状
→後藤象二郎が経営に行き詰まり、岩崎弥太郎の三菱に譲渡することになった高島炭鉱の運営を委任する旨を記したもの。旧土佐藩出身者間の繋がりが見て取れます。

雲井龍雄が人見寧に贈った漢詩
→「平潟湾 勿来関」に始まり、明治政府には屈しないとの決意を詠み込んでいます。

近藤勇直筆借用書(樋口重郎兵衛宛)

また、他に来館者が殆どいないタイミングだったからというのもあるでしょうが、説明を受けている際、係の方から近藤勇の木刀三振や榊原健吉の杖を渡され、この手に持たせていただくという幸運にも恵まれました。

後期展示期間は令和2年9月25日~11月29日。
幕末維新期の歴史にご興味をお持ちの方にはお薦めの展示内容ですので、機会があれば是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
※開館日:金・土・日・祝

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2020年1月11日 (土)

日野駅南にあった旧甲州街道踏切

2020年1月現在、開業130周年を迎えたJR日野駅では、日野宿発見隊さんの主催で「まちかど写真館 in ひの」が開催されています。
その展示されている古い写真の中に、かつて日野駅ホーム南端の先で線路を横切っていた旧甲州街道の踏切を写したものがありましたので、令和を迎えた現在の光景と比較してみることにしました。

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こちらが昭和46年(1971)に撮影された、旧甲州街道踏切の姿。
中央の屋根がとんがっている建物は坂下地蔵堂

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その現在。赤い屋根が坂下地蔵堂です。
旧甲州街道は写真右奥から坂を上ってきて、左側の線路を越えて続いていました。

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坂下地蔵堂と旧甲州街道の踏切跡。
ここにあった踏切を越えた先は「大坂上」。
日野宿佐藤家の御子孫が著した「聞きがき新選組」の中で、京から日野に戻っていた土方歳三が佐藤彦五郎の長男・源之助俊宜を伴い、大坂上から馬を攻めて甲州街道を日野宿まで駆け下った、というエピソードが紹介されていますが、まさにここが、2人が馬で駆け下ったという場所でもあります。

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昭和56年(1981)11月、封鎖される直前に撮影された旧甲州街道の踏切。

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その現在。
ちょっと視界が開けるポイントがありませんでした。

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そして同年12月、封鎖された直後の踏切。

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同じアングルから。
正面に見えているクネクネとした道路や、建物のいくつかは今も変わっていませんね。
旧甲州街道は線路を越えた先で左へ折れ、坂を下って日野宿へ入っていきました。

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最後に日野駅の姿も。
こちらは昭和12年(1937)に撮影されたものとのことです。

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レトロな駅舎は今も殆どその姿を変えることなく、人々の日々の生活を見守り続けています。
私も学生時代から通学・通勤で毎日利用している身。
この風情ある佇まいがこの先、幾世代も長く守り伝えられていくことを願ってやみません。

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2019年12月18日 (水)

佐藤俊宜の「今昔備忘記」拝観

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佐藤彦五郎新選組資料館
2019年12月15日、土方歳三没後150年最後の開館日に、市村鉄之助が箱館から土方の肖像写真などを届けた際の経緯を記録した「今昔備忘記」の原本が、1日限定で公開されると聞いてお邪魔してまいりました。

「今昔備忘記」は大正10年(1921)頃、佐藤彦五郎の長男・俊宜が残した書。
その記すところによると明治2年(1869)のある日、佐藤家(現日野宿本陣)の軒先に見知らぬ乞食のような小僧が立ち、しきりに家の様子を伺っていました。
なんだか胡散臭いので追い払おうとすると、あろうことか台所にまで入ってきて、家の人にお会いしたいと懇願する始末。仕方ないので中庭の方へ回して問い質すと、「私は土方大将の小姓を務めておりました市村鉄之助と申す者です」と名乗り、土方の写真と一片の切紙を差し出しました。その紙片には、

使の者の身上頼上候
義豊

とあり、紛れもなく歳三の真筆だったので詳しく聞くと、土方から日野までの使いを命じられた際の詳しい経緯や、出航を待つ外国船で耳にした土方戦死の様子(戦死地については「海岸一本木」とも)などを語り出しました。
話を聞くうちに当主・彦五郎も、その妻で土方の実姉ノブも涙せぬ者はなったと云います。

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日野宿本陣、佐藤家の台所跡。

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同じく中庭。
左が台所のあった建物です。

同時代史料となる父・彦五郎の日記には、明治2年7月18日の項に「箱館ニおゐて降伏兵卒、亀太郎と申もの来ル。」とあるのみで鉄之助に関する記述がなく、「今昔備忘記」の存在を知らなった専門家の中には、鉄之助と佐藤家との関連を疑問視する向きもあったのだとか。
俊宜は明治2年当時、既に数えで20歳の青年です。鉄之助はその後、2年間ほど佐藤家で匿われたと云いますし、彼に関する記憶は50年以上を経ても褪せることはなかったのではないでしょうか。

このエピソードも今となっては広く知られるところではありますが、改めてその史料原本を拝観させていただき、真に迫るものを感じました。

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鉄之助が2年間匿われ、養われていた一間。

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「今昔備忘記」の表表紙には「佐藤家の記事 十四代 俊宜執筆」の記載と共に、「不許他見(他見を許さず)」とあることから滅多に表に出すこともなく、今回も約10年ぶりの公開となりました。
新選組に関する記述も多く、戊辰戦争終結から50年以上を経てもなお、「不許他見」とした俊宜、そして日記に鉄之助のことを一切記さなかった彦五郎(俊正)の思いも推して知るべし、といったところでしょうか。

土方歳三没後150年の節目の年の最後に、感慨深い現史料を拝観させていただきました。

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2019年10月31日 (木)

五稜郭、立待岬、碧血碑 ― 箱館戦争めぐり⑯ ―

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旅の最終日は五稜郭へ。

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五稜郭タワーから見る函館山。

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五稜郭は旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の入城時は脆弱な備えだったようで、新政府軍の襲来に備えて改修を加えたことを、大鳥圭介やブリュネが証言しています。
箱館戦争終結後、五稜郭の構えを見た新政府軍関係者が「さすがは西洋に通じた榎本、大鳥」と感嘆したとか。

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半月堡脇の石垣に刻まれた「栄永」の文字。

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半月堡の先端部分。

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反対に、半月堡の先端から主郭方向。

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五稜郭へ来たら、ここは絶対に外せません・・・一本松の土饅頭。
その理由は・・・5年前に訪れた際の記事をご参照ください。

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復元された箱館奉行所・・・新政府軍艦隊の砲撃目標になってしまった建物(;^_^A

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無論、奉行所内も見学しました。

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明治元年(1868)10月26日、箱館を占拠した土方ら旧幕府軍が五稜郭へ入城した裏門。

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裏門脇の土塁上に築かれた砲座。

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北東側の稜堡部分。
稜堡には、大砲の昇降用に築かれたスロープ状の坂と、土塁をくりぬいた弾薬庫が設けられていました。
スロープ脇の土盛りは、弾薬庫を築くために土塁をくりぬいて出た土で、目隠しや弾除けのために弾薬庫前に盛り上げられていたものです。

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東(東北)門の蔀土塁からは、新政府軍艦隊の旗艦・甲鉄から発射されたものと考えられる砲弾も発見されているそうです。

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東門の先、かつては橋が架けられていたであろう痕跡。

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5年前の初訪時には見落としていた部分もあり、再訪できて良かったと思います。

この後の行程は残された時間、及び同行メンバーの希望とも相談し、タクシーで一気に移動して・・・

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函館山の南東端、立待岬へ。

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立待岬にもかつて、幕府の命を受けた南部藩が築いた台場がありました。

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箱館戦争時には無論、旧幕府軍も利用したものと思われます。

なお、近くの墓地には石川啄木や、初日の記事でご紹介した写真師・田本研造の墓所もあります。

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旅のラストは碧血碑へ。
写真の場所でタクシーを降り、山道を5分ほど進みます。

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明治8年に建立された碧血碑
箱館戦争に斃れた旧幕府軍兵士約800名の霊を祀ります。碑の揮毫は大鳥圭介によるものと云われています。

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旧幕府軍戦死者らの埋葬や、碧血碑の建立に尽力した柳川熊吉の碑。

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明治辰巳實有此事
立石山上叺表歔志
「明治辰巳の年(2年)“此の事”は実際に有りました。山上に石を立て悲しみの志を表します」

箱館戦争終結から6年の歳月を経てもなお、具体的に記すことを明治政府に憚って「此事」とのみ刻んだ、榎本や大鳥ら建碑者たちの思いたるや如何に・・・。

今回も箱館戦争にどっぷりと浸かることができ、充実した旅となりました。
私のわがままに付き合ってくれた同行メンバーには感謝に堪えません。お陰様で、腰痛で思うように身動きも取れない中でしたが、なんとか乗り切ることができました。

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帰路は全員で新幹線を選択。
初めて訪れた新函館北斗駅にて、ほっきーとご対面。

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駅構内には、北斗の拳のケンシロウも。

3泊4日の函館・松前・江差・乙部への旅、全10回に渡るblog記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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2019年10月30日 (水)

江差、乙部 ― 箱館戦争めぐり⑮ ―

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江差の町が近づくにつれ、鴎島の姿がだんだんと大きくなってきました。
開陽のマストも3本、小さく見えています。

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開陽丸青少年センター

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昭和50年からの発掘・調査プロジェクトで引き揚げられた遺物などを見学。

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巨大なスクリューシャフトも。
これほどのシャフトが歪む姿に、座礁・沈没事故の衝撃を見る思いがしました。

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そして遂に、原寸大に復元された開陽丸(開陽丸記念館)とご対面!

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榎本武揚率いる旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の旗艦・開陽。

明治元年(1868)11月15日未明、陸軍部隊よりも早く江差沖に到着した開陽。
海上から砲撃を加えてみたものの応戦もなく、榎本らは既にもぬけの殻となっていた江差に上陸して無血占拠に成功しました。

ところがその夜、碇泊していた開陽は地元で「タバ風」と呼ばれる特有の暴風に煽られて座礁してしまいます。
艦内で留守を預かっていた機関長の中島三郎助は大砲を一斉に放ち、その反動を利用しての離礁を試みますが叶わず、乗組員は全員脱出しましたが、当時、世界でも最大級を誇った旧幕府軍の最強兵器、最新鋭艦・開陽はあえなく数日のうちに冷たい海の底へと姿を消してしまいました。

既に土方らが松前城を陥落させた後のことで、江差攻略戦は開陽を用いるまでもない作戦だったこともあり、安易に出港させて最強の兵器を失う要因を作った榎本に対し、旧幕府軍内部にも批判的な見方をする向きがありました。
陸軍部隊に比して活躍の場を得られない海軍将兵の鬱憤を押さえきれなかった、というのが実情だったようですが、数日後には開陽の救出に回天と共に駆けつけた輸送船・神速をも座礁~沈没させてしまい、旧幕府軍の制海権を一気に減退させ、その後の戦局に大きく影響を及ぼす要因となったことは確かでしょう。

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開陽の甲板

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開陽は度々遭遇した時化によって舵に不調をきたしており、修理や処置は施されていたものの、万全ではなかったとの説もあります。

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甲板から鴎島

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船首

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緊急脱出用の短艇。
中島三郎助らも、これで脱出したのでしょう。

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艦内には海底から引き揚げられた遺物が所狭しと陳列されていましたが、一つ一つ挙げていってもキリがないので、遺物保存のための脱塩処理をしている様子の1枚を。

つづいて江差の町へ。
夕暮れ時も迫り、主だったところを駆け足でめぐります。

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能登屋の坂

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足元にも。この坂を少し上がった先が・・・

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江差で合流した榎本と土方が休息したと伝わる能登屋跡。
芭蕉の句碑がありました。

文化元年(1804)に江差を訪れた太呂という俳人が、この地にあった町医者・本田快庵の屋敷に庵を結び、芭蕉の120回忌にあたる文化11年(1814)に句碑を建立したと云います。
文化13年になって、能登屋の六代目が快庵からこの屋敷地を購入しました。
向かって左が当時からの句碑ですが、明治5年(1872)の火災で能登屋が焼失した際、句碑も焼けて剥離が進み、修復が困難なために右の新しい句碑が建立されました。

榎本や土方も、この句碑を目にしたのかな?
・・・まぁ、開陽を失ってそれどころではなかったでしょうけど(;^_^A

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土方歳三嘆きの松

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現在は明治20年に建てられた旧檜山爾志郡役所が復元されていますが、土方らが江差に入った当時は檜山奉行所が置かれていました。

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明治元年11月16日、江差に到着した土方は、高台に建つ奉行所の前から沈みゆく開陽を眺め、この松を叩いて嘆いたと云われていますが、あくまでも伝承の域を出ません。

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眼下の町へと続くこの坂は、奉行所が置かれていたことから「奉行坂」。

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何はともあれ、江差を占拠した旧幕府軍はなおも追撃の手を緩めず、逃げる松前藩兵を藩領北端の熊石まで追い詰めます。
松前藩主・徳廣は既に船で弘前へ逃亡した後で、残された藩兵も降伏・投降し、旧幕府軍による蝦夷地平定は達せられました。

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江差を占拠した旧幕府軍の拠点が置かれた東本願寺江差別院(旧順正寺)

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高台にあって眺望が効くため、明治2年4月9日に江差北方の乙部に新政府軍が上陸した際は、江差沖を北上する新政府軍艦隊を確認できたと云います。

この日のラストに、我々も江差を北上して乙部へ向かいます。

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乙部、新政府軍上陸の地碑。

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付近にはこんな看板も。

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蝦夷地奪還を目指す新政府軍は明治2年4月9日、この付近の2ヶ所から上陸を開始したと云います。

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新政府軍が上陸した海の夕暮れ。

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国道229号から上陸地碑へと続く道は、「官軍上陸通り」と名付けられているようです。

これにて3日目の行程も全て終了。
移動距離が長く、全てまわりきれるか心配でしたが、なんとかコンプリートできて一安心。松前・江差・乙部は鉄道も通らず、なかなか容易に足を伸ばせる場所ではないですからね・・・。
江差からは、迫る日没との勝負で急ぎ足になってしまいましたが満足です。

この後は二股口の古戦場を通過し、一気に函館市内へ。
2日間お世話になったレンタカーを返却し、函館最後の夜をのんびりと楽しみました。

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2019年10月28日 (月)

松前城、法華寺、他 ― 箱館戦争めぐり⑭ ―

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松前に到着後、まずは松前城から城下の市街を挟んだ東の高台に位置する法華寺へ。

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法華寺本堂
明治元年(1868)11月5日、松前城を攻撃する土方歳三は、この法華寺に拠点を置きました。

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古絵図(麦叢録附図)に見る、松前城攻防戦の様子。
手前(下)で大砲を据えている高台が法華寺です。
法華寺からは、南方に位置する松前藩の築島台場にも大砲を撃ち下して無力化させ、その上で海上からは軍艦・回天の艦砲射撃も浴びせるという作戦が執られました。

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法華寺境内から望む松前城。
151年前、土方らもきっと目にした光景。

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合葬塚
旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の戦死者60余名を埋葬したと伝わります。

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徳川陸軍隊・士官隊の墓標

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新政府軍、伊州藩松山明義の墓碑。
伊州とは伊賀国のことになりますが、伊賀は津藩(伊勢)の領土となっていましたので、松山も津藩士ということになりますでしょうか。

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11月5日の攻城戦で戦死した赤羽音吉、及び翌明治2年4月、病のために新政府軍の手に落ちた松前からの脱出を諦め、赤羽の墓前での自害を選んだ大庭久輔・関清介らの墓所。

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法華寺の山門前から。
この方角に、松前藩の築島台場はありました。

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城下の松前町役場は松前奉行所跡。

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蝦夷地平定後の入札により、松前奉行に任じられた人見勝太郎が宿所にしていたと云う松前藩医・桜井小膳邸跡付近。
一説には、松前城を攻略した土方も滞在したとか、しないとか・・・。

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さて、それでは松前城をめぐります。

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城の南東に位置する天神坂。

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天神坂の北、馬坂。
こちらの馬坂から登城することにします。

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馬坂門跡

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馬坂門跡から法華寺方向。
奥の高台上に、法華寺本道の屋根が少し見えています。

松前城の攻防戦で城側は、搦手の門を開いて野戦砲を放ち、撃ち終われば門を閉ざして砲弾を装填し、また開門しては放つという作戦を繰り返したと云います。
これに手を焼いた旧幕府軍は、城側が装填のために門を閉ざした隙に城門前へ10名余りの銃兵を並べ、開門と同時に一斉に発砲させてこれを突破したとか。

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松前城で搦手門と呼ばれるものは城内側の東郭にあり、この時の攻防が繰り広げられた城門は、その外郭にあたる天神坂門、或いは馬坂門だったものと思われます。
馬坂門だったのではないかとする説もありますが、実際に訪れてみた感想としては、門が旧幕府軍が攻めかけてくる東を向いた天神坂門だった可能性が高いようにも思えます。
(馬坂門も城の東面に位置していますが北向き)

先に掲載した「麦叢録附図」にも、南の海岸線沿いを城へ向かって走る旧幕府軍兵士の姿が描かれており、城の南東に位置する天神坂門を攻め上ったのではないかと、個人的には考えています。
(城の東に面した通りに出た兵士も、足の向きから南へ向かって走っているように見えます)

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奥に見えているのが搦手ニノ門で、その先に・・・

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搦手門跡があります。
左奥に見えているのが搦手ニノ門で、それぞれの城門がL字のように垂直方向を向いた枡形だったようです。

なお、土方自身は各記録によると「城裏」「山をめぐりて城後」から石垣に梯子をかけて攻め入ったとありますので、守りの手薄な北側の高所(おそらく寺町方面)へ回り込んだものと思われます。

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松前城といえば、な鉄板アングル。

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三重櫓(天守)南面の石垣に残る砲弾跡
方角からして艦砲射撃によるものと思われ、或いは11月5日の攻防戦で回天から発射された砲弾跡かもしれません。

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松前城の北、寺町に建つ松前家の菩提寺・法幢寺。

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歴代藩主や、その家族らが眠る松前家墓所。

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城の南面に築かれていた二番台場周辺に残る砲座。

松前城は諸外国の脅威に備え、北辺警備のために幕府が松前藩に命じて築城させ、安政元年(1854)に完成しています。
そのため、海に面した南~南東にかけて多くの台場が築かれていました。
(だからこそ反対に北の山側の守りが薄く、そこを土方に衝かれた、ともいえるのかもしれません)

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海へ向けて据え付けられた砲門はしかし外国勢力にではなく、旧幕府軍の軍艦・回天や、土方ら陸軍部隊到着前の11月1日に松前港へ回航した蟠龍へと向けられたのでした。

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五番台場

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天神坂門近くに築かれた七番台場。
現在では東屋が置かれ、大砲の代わりにベンチが設置されていました。奇しくも、土方らが布陣した法華寺へ向いています。

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帰りは天神坂門から。

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昼食後、同行メンバーは松前城の北に位置する道南十二館の一つ大館に向かったので、腰痛に苦しむ私は麓の松前一の宮・徳山大神宮でお留守番。
(大館へ向かった一行も、林道のド藪で結局諦めて戻ってきました)

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徳山大神宮の近くには、国後島で南部藩に捉えられ、ロシアに拿捕されていた高田屋嘉兵衛との交換で釈放されたロシア人ゴローウニンらの幽閉地もありました。

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松前城の西方、元新選組・永倉新八が明治初頭に松前藩への帰参が許され、藩医・杉村家の娘と結婚して一時移り住んだ地。
(その後、小樽へ転居)

僅か数時間の戦闘で松前城を攻略した土方歳三らは11月11日、逃げた松前藩兵を追って更に北へと進軍していきます。
我々も松前をあとにし、その足取りを追って北上することにします。

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松前城から西へ2㎞ほどに位置する建石野台場跡。
遺構ではないのでしょうが、土塁のようなものがあってテンションが上がりました(笑)

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建石野台場跡(左手前)と弁天島。

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建石野台場の更に西北へ1㎞余り、折戸浜砲台跡。
いずれも旧幕府軍が新政府軍の襲来に備え、松前防衛のために築いた台場跡で、明治2年4月には松前へ迫る新政府軍との間で激戦が繰り広げられています。

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大滝の古戦場
明治元年11月14日、松前藩兵を追って北上した土方歳三率いる旧幕府軍は、急峻な山裾が海へと落ち込み、その縁を縫うように「十三曲」と呼ばれる隘路が通うこの付近で、待ち受ける松前藩兵との戦闘に及びます。
元々この地には松前藩の陣屋が置かれていたとのことなのですが、地勢からすると陣屋というよりは関所のようなものが置かれていたのかもしれません。

間に切り立った谷を挟んで対峙した両軍でしたが、山を大きく迂回した額兵隊(旧幕府軍)一小隊の横撃により、旧幕府軍は松前藩兵を撤退させることに成功しています。

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土方らも通った十三曲の旧道を、大滝橋から見下ろせるとのことだったのですが・・・車を停めるスペースがなく、交通量も多かったので走行しながらの撮影を試みるも・・・車高が低過ぎて叶わず。

大滝の戦いに勝利した旧幕府軍は、江差へ向けて北上を続けます。
同日、箱館では旧幕府軍の旗艦・開陽が、やはり江差を目指して碇を上げました。

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