カテゴリー「織田信長」の126件の記事

2017年10月 8日 (日)

狩野永徳筆「織田信長公像」拝観

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京都旅2日目は大徳寺からスタート。

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一目散に本坊へ向かいます。

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大徳寺本坊は現在、特別公開中。
お目当ては無論、初公開されている狩野永徳筆「織田信長公像」(但し10/1まで)です!

まずは国宝の方丈で前庭と、聚楽第の南門を移築したと伝わる唐門(日暮門/国宝)を眺めながら係の方の説明を聴き、狩野探幽筆の襖絵後醍醐天皇御宸筆の額を堪能し、小堀遠州作庭の東庭を眺めつつ、方丈の裏手へ。
開山大燈国師の木像を安置する雲門庵(外観)や、その木像を火災から守るためだけに設置されたという井戸、大幢燈国師の墓所を遠目に見学してから、とある一間の書院へ・・・

その床の間に、狩野永徳の筆に成る織田信長の肖像画が、総見院殿像(総見院蔵)と並んで展示されていました。

実際に本人にも拝謁している狩野永徳が描いた織田信長。
先日拝観した長興寺蔵の肖像画(参照記事)とは表情も一線を画し、独特な雰囲気を醸し出していました。
僅か1mほどの至近距離で直に拝観することができ、感激も一入です。
(ゆっくり拝観するため、次の人に遠慮することもないよう、わざとグループの最後尾に並んだことは言うまでもないww)

最後に法堂で龍の天井絵を拝観して、大徳寺をあとにしました。

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2017年8月29日 (火)

凌雲寺、稲葉地城跡

旅のラストは名古屋へ移動、地下鉄「中村公園」駅から歩くこと20分ほどで・・・

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凌雲寺に到着。

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名古屋市教育委員会設置の案内板によると、凌雲寺は永正年間(1504~1521)に、稲葉地城主で織田信長の伯父でもある(津田)信光によって創建された、とありましたが・・・
信光の生年は永正13年(1516)と伝えられています。仮に凌雲寺の創建が永正年間の最終年にあたる永正18年だったとしても、信光は満年齢で5歳・・・ちょっと無理がないでしょうか?

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凌雲寺境内
凌雲寺には織田信長も幼少の頃、手習いに通ったと伝えられています。

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本堂の前には、信長が手習いの墨で真っ黒になった草紙を枝に掛けたと云う草紙掛けの松があります。
(一番背の高い木がそれかと・・・)

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その松の根元にあった石碑。
織田信長公掛草紙松…etc.

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また、墓地には凌雲寺開基「信光」の墓と伝わる宝篋印塔も。

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當寺開基津田豊後守法名
凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士


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その裏には・・・
天文五年十一月廿八日没
津田玄蕃建之

・・・通説による信光の死没年は、信長と共に清須城を落とし、下四郡守護代・織田大和守家を滅ぼした直後の弘治元年11月26日(10月に天文24年より改元)。
天文5年はその19年も前に当たり、この宝篋印塔が本当に凌雲寺開基のお墓で、創建時期が伝承通り永正年間なのであれば、織田信長の伯父である信光と凌雲寺の開基を同一人物とするには、やはり無理があるように思えます。
年代からしても信光より少なくとも一世代は前の、誰か別の「津田」姓を名乗っていた人物、という可能性はないのでしょうか。
・・・お墓に関しては、単に建碑時点(江戸時代?)での歴史認識・年次比定の誤り、という可能性も拭えませんが。
(ちなみに「凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士」を信光の戒名としているのは、江戸時代編纂の「尾張國誌」が元になっているようです)

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さて、凌雲寺の近くには神明社があり、織田信光の築城と伝えられる稲葉地城址の石碑が建っています。

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神明社境内

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本殿の脇にひっそりと建っていた石碑。
漢文調の碑文に「織田」や「津田」の文字も見えたのですが・・・後で解読しようと撮影した写真が見事に手ブレ・・・(´;ω;`)ウッ

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神明社のすぐ裏には、庄内川の堤防が眼前に迫っていました。
信長は幼い頃より、庄内川(当時は於多井川)で遊んでいたと云います。凌雲寺に手習いで通っていたのであれば、この付近でも遊んでいたかもしれないと思い、試しに登ってみましたが・・・堤防の上には大きな道路が走っており、庄内川の川面は見えませんでした。

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稲葉地城・・・お城としての痕跡はもはや皆無といったところですが、「城屋敷」という地名に僅かにその名残を留めている、と言えるでしょうか。

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2017年8月28日 (月)

「天下人の城」展

岐阜市歴史博物館を辞した後は岐阜タンメンを食しつつ南下し、名古屋市の徳川美術館へ。

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話題の天下人の城展を拝観してきました。
既に訪問された方も多く、応援ブログ等でもたくさん取り上げられているので詳細は省きますが、こちらで私が個人的に魅かれたのは;

脇差 銘吉光・亀王丸 号 蜘蛛切丸(熱田神宮)
刀 名物 義元左文字(建勲神社)
織田信長永禄3年に熱田社へ奉納した(「張州雑志」)と伝わり、桶狭間合戦の戦勝祈願に奉納したとも云われる蜘蛛切丸。それが、その桶狭間の勝利で手にした義元左文字と並べて展示されている姿には、やはり特別な感慨が湧いてきました。
※ちなみに義元左文字は3度目の拝観になるのですが、今回も茎の金象嵌は「義元討取刻・・・」の側を向けて展示されており、「織田尾張守信長」を観ることは叶いませんでした。

唐物茶壺 銘松花
唐物茶壺 銘金花
信長・秀吉・家康の歴代天下人が所持した大名物。
「信長公記」にも;

せうくわの壷・きんくわの壺とて、隠れなき名物参り、御機嫌斜ならず。
(信長公記 巻九「安土の御普請首尾仕るの事」)

とその名が登場します。
過去にもそれぞれを個別に拝観したことはありましたが、今回はその2つが同時に並べて展示されており、とても感動的でした。

脇差 無銘あざ丸
千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれたり。此の刀、陰山掃部助求めさし候て、
~中略~
陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす。其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ此の刀所持の人は必ず日を煩ふの由風聞侯。熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。これにより、熱田大明神へ進納侯てより、即時に日もよく罷り成り侯なり
(信長公記 首巻「景清あざ丸刀の事」)

これまた、「信長公記」に登場する脇差。熱田神宮に奉納された経緯もはっきりしており、曰くありげなエピソードが更に特別な魅力を加えているかのようです。

織田信長書状 おね宛
こちらも3度目くらいの拝観になりますが、最も好きな信長文書の一つでもあります。
参照記事

真田信繁自筆書状 小山田壱岐守(茂誠)宛 (慶長20年)二月八日
「歯も抜け、髭にも黒いところはなく、白い髭ばかりになった」と、老いへの嘆き?を綴った有名な書状ですね。
平成28年に再発見されたばかりの自筆文書です。


■以下、自らの拝観記録のために列挙。

・小豆坂合戦ノ図
・斎藤道三書状 織田玄蕃允宛 天文22年頃
・今川義元木像 正徳4年 長福寺(名古屋市)
・松井宗信木像 嘉永2年 長福寺(名古屋市)
・今川義元旧位牌 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦戦死者位牌 二基 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦討死者書上 長福寺(名古屋市)
※信長勢の戦死者の中に「近江国佐々木方」が含まれており、近江六角氏からの援兵があったことを匂わせる史料。
公開されるのは初めてかもしれませんが、その存在については既に数年前には指摘されており、私も桶狭間を訪問した折などに耳にしておりました。

・尾州知多郡大高内鷲津丸根古城図
・織田信長書状 沢源三郎宛 天正弐十一月廿四日
※平成29年新発見の鷹匠宛。
・脇差 銘吉光 名物 鯰尾藤四郎
・純金天目 伝豊臣秀吉所用
※単純な全面純金製ではなく、金の釉を垂らして景色を作っているところに興味を惹かれました。
・真珠付純金団扇 伝豊臣秀吉所用
・金箔押木瓜紋飾り瓦 清州城下町遺跡出土金箔瓦の内

さすがに話題になっているだけあって、充実の展示構成・内容でした。

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2017年8月27日 (日)

「Gifu信長」展(後期)

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7月にも訪れた岐阜市歴史博物館のGifu信長展

再訪の一番の目的は、8月11~20日の期間限定で公開された、
織田信長像(狩野元秀筆/天正11年) 長興寺蔵
を拝観すること。歴史の教科書などにも必ず掲載されている、信長といえば誰もが真っ先にイメージする有名な肖像画ですね。
割と最近になって修復されたようで、色彩はとても鮮やかでした。
日曜日とはいえさほどの混雑もなく、お蔭で白い小袖の薄っすらとした文様や刀に差し込まれた金の笄まで、具にゆっくりと観察することができました。

それ以外で興味を惹かれたものといえば、何といっても;
織田信長制札 楽市場宛 永禄10年10月日 円徳寺
織田信長制札 加納宛 永禄11年9月日 円徳寺
の二つの制札(木札)ですね。
永禄10年の楽市場宛のものは全体的に日焼けによる傷みが目立ち、裏には立て札として掲げられていた際の木の棒の痕がクッキリと残り、それに沿って縦に釘穴も2ヶ所ありました。
それに対して永禄11年の加納宛の方は、文字がクッキリと見て取れるほどに保存状態も良く、裏にも棒の痕はなく、真ん中の上寄りに横並びで2つ、小さな穴が開いていました。
永禄11年版は町の往来ではなく、どこか屋内に紐で吊るしていたのかもしれないな、などと考えました。

信長が美濃を制圧したばかりの永禄10年段階では、戦火によって荒廃した市場(町)の復興を企図して楽市楽座を打ち出し、往来に掲げて人々を呼び寄せ、1年を経た永禄11年にはある程度の復興も成って町が形成され、制札をあえて往来に掲げておく必要性も薄れてきたために屋内で保管したのではないか、との説もあるようです。
この辺りに、制札の宛名が「楽市場」→「加納」に変化した理由も潜んでいそうですね。


■以下は私自身の拝観記録のための羅列です。
冗長になってしまうので、詳細は省きます。

・織田信長像 總見寺(名古屋市)
・足利義昭御内書 上杉輝虎宛 (永禄11年)7月12日
・武田信玄(晴信)像 高野山持明院
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)2月10日
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)4月7日
※以上2点、駿河へ侵攻したものの北条家との対立に至って窮した武田信玄が、足利義昭・織田信長へ斡旋を依頼した「甲越和与」へ向けた、信長と上杉方の交渉経過。
・織田信長書状 上杉謙信宛 (元亀2年)9月25日
・太刀 銘長光 名物 津田遠江長光

全体的に、7月に訪問した前期よりも後期の方がより楽しめました。

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2017年7月19日 (水)

450周年の「岐阜」

今年に入って早4度めとなる岐阜への旅。
2017年は織田信長が稲葉山城を攻略して美濃を制圧し、「岐阜」と改めてから450年の節目の年。
それにちなんで岐阜市では、岐阜市信長公450プロジェクトと銘打って様々な試みが実施されています。今回は同プロジェクトに関連するいくつかのイベントに足を運んでみることにしました。

7月16日(日)、岐阜駅前で集合して最初に向かったのは・・・

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ぎふメディアコスモスにて開催されている信長公ギャラリー

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お目当ては「おもてなし劇場」で上映される岐阜城山麓居館のCG
信長の小姓に扮したMCの先導で見学してまわるという設定で、15分ほどの内容でした。
奥御殿や茶室の周辺が中心で、CG自体は素晴らしいのですが、もう少し全体をくまなく紹介して欲しかったなぁ…というのが正直な感想です。

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他にも、自らCGを操作して山麓居館をバーチャル散策できるコーナーなどがありました。

入館無料ですし、私のような遠来者のみならず、地元の方々にも多く足を運んでいただき、改めて信長のいた時代の岐阜城の姿に思いを馳せ、郷土の誇りを感じてもらうきっかけになればいいな、と思える企画でした。

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さて、お次は長良川沿いのとあるホテルへ移動し、川沿いの一室へ通されて・・・

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予め予約を入れておいていただいた、信長の饗応膳にて昼食です。
料理は勿論のこと、天下布武の朱印に織田木瓜紋・・・その全てに目も心も奪われます。

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献立
鯉に鮑、宇治丸(鰻)、巻きするめ・・・更にようひ餅が入っているあたり、やはり信長が天正10年5月15日に、安土城で徳川家康をもてなした際の献立(「続群書類従」)を参考に再現しているようです。

天正十年安土御献立
於安土上様。三河守殿。御申献立。拾伍日をちつき。

本膳
たこ/たいのやき物/な汁/のなます/かうの物
(香の物)/ふなのすし/御めし
二膳
うるか
(鮎のわたの塩辛)うちまる(宇治丸:ぶつ切り鰻の蒲焼)/ほやひや汁/ふとに/かいあわひ(鮑)/はむ(鱧)/こいの汁
三膳
やきとり/やまのいも・つる(鶴)しる/かさめ(がざみ:渡り蟹)/にし(タニシ)/すゝき(鱸)
四膳
まきするめ/しきつほ(鴫の壺焼き)/ふな汁/しゐたけ
五膳
まなかつうを さしみ(真魚鰹の刺身)/しやうかす(生姜酢)/かわらけ入こほう(牛蒡)/かも汁/けつりこふ(削り昆布)
御くハし(御菓子) ふちたか足をつけて(容器の説明)
やうひもち(求肥餅)/まめあめ/ミのかき(美濃柿)/はなにこふ(花昆布)/から花(造花)

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用いられる器の一つ一つにも全て、木瓜紋が入っています。

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鯉の洗は人生初体験でした。

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岐阜城下、長良川の畔で信長の饗応膳を堪能する・・・織田信長を追い求める者にとってはまたとない、贅沢なひと時でした。

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饗応膳を堪能した後は岐阜公園へ移動。
岐阜市歴史博物館で開催中のGifu信長展で;

ルイス・フロイス書簡写(原本/1569)
・フランシスコ・ザビエル書簡(自筆/1549)
※何故か署名部分が切り取られている。
・太田牛一自筆の信長記(岡山大学附属図書館)
・唐物肩衝茶入 銘:勢高
・唐物文琳茶入 銘:本能寺
・織田信長制札 北加納宛(永禄10年9月日)
・数々の織田信長書状類

などを見学してきました。
※後期展示にも必ず足を運びます。

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午前中にCGで見学した山麓居館跡を抜けて・・・

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ロープウェイで金華山の山頂へ。

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岐阜城資料館の特別展信長公の隠れ家

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その中のテーマ展示マンガに描かれた信長公

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7月1日~9月28日までの期間は、宮下英樹氏「センゴク」の複製原画が展示されています。

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織田信長肖像画(長野剛氏)と南蛮胴具足。

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混雑するロープウェイを諦め、猛暑(35度超え!)の中、岐阜城の大手とされる七曲り道で下山。

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暑くて大変でしたが、実は岐阜城の登城路を歩くのは初めてだったので、密かに嬉しかったりする(笑)

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途中、ちょっと気になる痕跡も・・・道?

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岩盤がセットバックに切り開かれている箇所も。
・・・本当はこの、平に整地された岩盤部分が道だったのかな?

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岐阜市街へ戻り、夜は恒例のギフナイト☆
貴重で美味しい日本酒も味わい、2次会まで楽しく過ごしました。

岐阜市信長公450プロジェクト
勿論、私自身も楽しませていただきましたが、これがより多くの岐阜市民の方が歴史に関心を持つきっかけになるといいな、と思いました。地元の関心が高まってこそ、文化財の保護などへの認識も高まるでしょうし。
そういった点でCGやマンガをテーマに用いた展示は、門戸を広げる意味に於いて面白い試みなのかもしれません。応援したいと思います。

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2017年5月14日 (日)

実相寺、正法寺、幡頭神社

GW旅、ラストは太田輝夫先生の著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」で読んで以来、ずっと気になっていたエピソードを確かめるため、三州吉良の地へ向かいました。

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吉良西条の実相寺(西尾市上町下屋敷)
文永8年(1271)、吉良氏の菩提寺として吉良満氏が創建。三河国の初代安国寺として壮大な伽藍を誇りました。
ちなみに満氏の弟・国氏が駿河今川氏の始祖となっています。
やがて吉良西条が今川氏の勢力下に入ると、天文15年(1546…諸説あり)には今川家の軍師として名高い雪斎が住職に就いています。

実はこちらの実相寺、永禄3年(1560)5月5日のまさに桶狭間合戦の直前に、織田信長による焼き討ちに遭っているのです。(「岡崎領主古記」等)
※注:実相寺発行の沿革には「桶狭間の翌年」とある。

この焼き討ちについて、「西尾町史」は;
「一説に当時実相寺には多数の僧兵居りしが信長之を以て今川の残党なりとして攻めたりと」
としています。
(「桶狭間合戦 奇襲の真実」より引用)

タイミングから判断するに、今川義元出陣の報を掴んだ信長は、かつて雪斎(弘治元年=1555年に長慶寺にて死去)が住職を務めていたこともある実相寺を今川氏の前線拠点とみなし、これに先制攻撃を加えたものか・・・。

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永禄2年創建の釈迦堂
焼き討ちで荒廃した実相寺再興のため、天正4年(1576)に鳥居元忠が寄進したものです。

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方丈
こちらは慶長8年(1603)の再建。

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八葉宝鐸型梵鐘
南北朝期の作。竜頭は和様の双頭形で、八稜形の口縁には中国式の形状が見られることから、和漢混淆式梵鐘とも呼ばれています。

ところで吉良にはもう一つ、信長と義元に関連して興味深い逸話が残されています。

実相寺の焼き討ち、そして桶狭間合戦より遡ること2ヶ月の永禄3年3月、今川義元は三河を巡視して乙川(吉良町)の正法寺に滞在しています。
やはり知多にいた信長は、義元の三河滞在を知るや舟を仕立て、乙川の沖合にある梶島まで押し寄せてきました。
正法寺住職の誘いで宮崎海岸での舟遊びに興じ、なまこ取りを見物していた義元は信長勢の接近に驚き、岬の高台にある幡頭神社に逃げ込みますが、信長が強襲を諦めて梶島から引き返したので難を逃れました。

この義元の三河巡視~信長の強襲未遂に関するエピソードは、地元の社家に残る旧記に伝えられるものとして「吉良町誌」に掲載され、「桶狭間合戦 奇襲の真実」の中でも取り上げられています。

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義元が滞在していたと云う正法寺
永禄3年の3月という時期からして、やはり同年5月に予定している尾張進攻に向けた準備活動の一環だったのでしょうか。
※門前に建っているのは、明治22年と昭和28年の高潮被害に関する標柱です。

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薬師堂拝殿
宝永3年(1706)の建立で、西尾市の文化財に指定されています。

現地にあった説明板によると、正法寺には義元の朱印状(禁制、もしくは安堵状か)も残されているようです。(正法寺文書)
・・・義元と正法寺の繋がりは確認できました。

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正法寺(の隣り)には古墳も(正法寺古墳)。
古墳公園に建つ、写真奥にチラッと見えている祠は陣屋稲荷・・・江戸時代、この地を治めた吉良氏(元禄赤穂事件で有名な高家)の陣屋の鎮守だったようです。

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こちらは、信長勢の接近を知った義元が逃げ込んだと云う幡頭神社
大宝2年(702)の創建という古い歴史を誇ります。

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本殿は天正8年(1580)の建立で、国の重要文化財。
両サイドはそれぞれ神明社と熊野社の本殿で、やはり天正期の建立と推定されています。いずれも愛知県指定文化財。

幡頭神社の説明板にも「足利尊氏、そして今川義元も参拝したと伝わる」とありました。
義元がこの地まで足を運んだとすると、それはやはり、3月であれ5月(桶狭間への出陣時)であれ、永禄3年のことであった可能性が高いだろうと思います。

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幡頭神社境内から見る梶島

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義元強襲を諦めた信長が、舟の舵を切り直して知多へと引き返したことから、「梶島」の名で呼ばれるようになったとも伝えられています。
当時の海岸線はもっと手前側に入り込んでいたでしょうが、舟遊びをしていた義元からすれば、まさに目と鼻の先・・・相当に慌てたことでしょうね。

この乙川~梶島での1件が、2ヶ月後の実相寺焼き討ちに繋がったのかもしれません。

ここで取り上げた一連のエピソードは、1次史料では一切確認できず、事の真偽は定かではありません
が、実際に訪れた関係各所で着実に義元、或いは信長の痕跡を確かめられた点は大きな収穫で、手応えを得ることができました。

さて、これにて2017年のGW旅も全行程を終了です。最後は名古屋まで送っていただいて解散しました。
お蔭さまで今回も、事前の想定を超える成果の詰まったいい旅になりました。ありがとうございました。

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2017年5月13日 (土)

末森城、桃巌寺

小牧城下町の惣堀探しの後は、名古屋市内へ移動。

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桃巌寺
信長の父・織田信秀の菩提寺(の一つ)で、信秀晩年の居城・末森城を継承した次男・信勝が創建しました。
寺名は信秀の戒名「桃巌道見大禅定門」から採られています。

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現在の境内地は正徳4年(1714)に移転されたものです。
創建当初は城山(末森城)南麓の、穂波町付近にあったようです。

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織田信秀廟所
こちらの五輪塔は、当地へ移転後に建立されたようです。

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こちらが移転前に祀られていた旧墓石。
寺の移転後も墓石は旧地に残されていましたが、昭和になって移設されています。
正面に「前備州太守桃巌道見大禅定門
左側面には「柴田修理勝家」の文字が見えました。
他に3基の小さな五輪塔もありました。

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桃巌寺といえば名古屋大仏・・・なのだそうです。

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続いて末森城跡へ。
織田信秀晩年の居城で、その没後は次男の信勝が継承しました。

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現在、末森城跡には城山八幡宮が鎮座していますが、当社は築城当時から城山の麓に祀られていたようです。
昭和11年に現在地へ遷座されました。

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神域前のこの付近が本丸跡で、拝殿や本殿が並ぶ神域は二の丸跡。
江戸期の古絵図によると、二の丸には丸馬出まであったとのことですが・・・。

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実際に訪れてみて、とにかく驚いたのは横堀の規模
本丸、及び二の丸をグルッと取り巻くように深く、幅広な堀が穿たれています。

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前方に写る同行者との対比からも、その規模を推し量れようというもの。

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名古屋市内にこれほどの遺構が残っていたのか・・・とにかく驚きです。

それと同時に、ふと疑問も持ち上がりました。
織田信長は小牧山にも岐阜にも、そして安土にも山腹には横堀を一切用いていません
末森城は信長の城ではなかったとはいえ、当然その縄張や構造は見知っていたはずです。知った上で、このような横堀は無用と考えたのでしょうか・・・?

末森城に残る横堀遺構の規模や雰囲気には、後に徳川家康が小牧山に築かせたものと通じるものがあるようにも思えます。
末森城の二の丸にあったとされる丸馬出にも、年代的・地域的な観点から違和感を覚えるし、そう考えていくと、この横堀は(丸馬出も)信秀・信勝時代の遺構ではなく、後の、例えば小牧長久手合戦などでの改修によるものと考えた方がいいように思えてきました。
※但し文献上では、末森城跡の小牧長久手時の再利用は確認されていないそうです。

いずれにしても想定外に素晴らしい遺構でした。

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末森城をあとにして、道三・信長の会見で有名な聖徳寺跡や・・・

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加賀野井城跡・・・

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「名人久太郎」こと、堀秀政生誕の地と伝わる上茜部城跡などに立ち寄りつつ、岐阜駅へ。
夜は同行者たちとの恒例、ギフナイト☆

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実はこの日は私の誕生日。
サプライズにプレゼントまでいただき、嬉しい1日になりました♪
・・・その分、翌朝がちょっと大変だったけど(笑)←

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2017年5月12日 (金)

小牧山城(城下町)の惣堀

GW旅2日目。
この日のスタートは、3月にも訪れている小牧山城です。

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3月には発掘調査後の埋め戻し作業で通れなかった、本丸手前の大手道。
スロープ状の大手道に沿って現れた石の壁も、すっかり埋め戻されています。
参照記事

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小牧山城本丸から、信長が清須から居城を移す際、最初に候補地として挙げた二宮山を見る。
・・・いずれあちらにも登ろう(・ω・)

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しかし、今回の一番の目的は城山ではなく、信長が城山の南麓に整備した城下町を覆う惣堀
まずは城下町の南東端外れに位置する神明社から。

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小牧市外堀地区にあることから、外堀神社とも呼ばれています。
境内にちょっと気になる高まり(土盛り)はあったものの・・・まぁ、考え過ぎですね(^_^;)

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次は同行者が地図で見つけ、名前が気になった織田井戸公園。

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付近で縄文時代の遺跡が発掘されたようですが・・・「織田井戸」の名の由来は分からず仕舞い。

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最後に、予め地図でアタリを付けておいたポイントへ。
現在は単なる用水路になっていますが、こちらは小牧城下町の南面にあたる惣堀の名残です…その名も「惣堀用水」。
用水を境に北が小牧市元町、南が同小木と町域も分かれています。

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近くに惣堀に関する説明板も設置されていました。
この付近には、城下町への虎口も設置されていたようです。
説明板の奥に見える道路は・・・

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信長が整備した城下町の道筋の一つ、紺屋町筋。

時間があればもう少し詳しく、広範に城下町や惣堀の痕跡を訪ね歩いてみたいものです。

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2017年5月11日 (木)

呂久の渡し(中山道)

美濃金山城や可成寺を訪問した後は、一気に瑞穂市と大垣市の境界付近まで移動。
中山道が揖斐川を越える呂久の渡しを目指します。

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小簾紅園

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小簾紅園に建つ和宮の歌碑

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幕末の公武合体政策により、徳川14代将軍・家茂に嫁すことになった皇女和宮。
和宮降嫁の行列は中山道を進み、呂久の渡しを御座船で越えた際、彼女は綺麗に紅葉した楓を目にし、
おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と詠みました。
小簾紅園は、この折の渡河を記念して築かれたものです。

江戸期に入って五街道の一つとして整備された中山道ですが、この付近では岐阜や安土を本拠とした織田信長により、赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納というルートが整備されていました。
そのため、呂久の渡しも「信長公記」に登場します。

三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。其の日、江州の内、柏原上菩提院に御泊り。翌日、仁科五郎が頸もたせ参り侯を、ろくの渡りにて御覧じ、岐阜へ持たせられ、長良の河原に懸け置かれ、上下見物仕り侯。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」より抜粋)

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向かう織田信長は、呂久の渡しで届けられた仁科盛信の首を実検しています。
また、甲州からの帰路にはやはり呂久の渡しを、稲葉一鉄が用意した御座船で渡りました。
・・・つまり、私が呂久の渡しを訪れた動機もこれ(笑)

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小簾紅園の隅、旧中山道沿いに佇む地蔵堂。

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旧中山道

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明治天皇御小休所跡の石碑が建つ建物。

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小簾紅園から中山道を伝い、東の方角へ進むと揖斐川が姿を現します。
私も初めは、この辺りが呂久の渡し跡だと思っていました。
ところが、小簾紅園に設置されている説明板をよく見てみると・・・

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揖斐川は大正14年の新川付替工事により、付近の流路が大幅に変えられていました
当時の揖斐川は、小簾紅園の西側を流れていたようです。

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小簾紅園から旧中山道を西へ向かい、その先から振り返った様子。
遠くの窪んだ地形が、揖斐川の名残を伝えてくれるかのようです。

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更に西へ進み、小簾紅園にあった地図で旧揖斐川の対岸付近に該当すると思われる地点まで来ると、平野井川という用水の川に当たり、ここが瑞穂市と大垣市との市境になっていました。

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平野井川の畔にはお地蔵さんも。
まるで小簾紅園にあった地蔵堂と対になっているかのようです。
この両地蔵の間が、旧揖斐川流域とその河川敷だったのではないかと思います。現在の揖斐川ではなく、この付近が市境になっていることも、それを暗示しているような気がします。

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平野井川脇の土手には、中山道の古い道標も。

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その道標から旧揖斐川、即ち呂久の渡し跡を眺め渡す。
織田信長が仁科盛信の首を実検し、帰路には稲葉一鉄の用意した御座船で渡河した地。

手元に資料が乏しく、旧揖斐川の流路などの位置関係については多分に推量を多く含む内容となっていることはご容赦ください。

すっかり日も暮れてきたところで、初日の行程はおしまい。
夜は勿論、岐阜駅前で盛り上がりましたとさ☆

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2017年5月10日 (水)

美濃金山城(信長の休石)

2017年のGW旅は、岐阜~愛知方面にお邪魔して参りました(5/4~6)。

初日。
岐阜駅から車を飛ばし、まず最初に連れて行って貰ったのは、可児市の金山(兼山)です。

永禄8年(1565)、東美濃へ侵攻して鵜沼・猿啄・堂洞・関の各城を攻略した織田信長は、斎藤家の東美濃に於ける旗頭的存在だった長井隼人の拠点の一つ、烏峰城を森可成に与えました。この時、城の名も金山城に改められています。
※信長の東美濃攻め参照記事→Part

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出丸跡の駐車場に車を停め、こちらから城攻めをスタート。

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三の丸から見る、二の丸西面の石垣。
のっけから味わいのある、いい石垣です。

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看板には「水の手」とありますが、パンフレットによると麓にあった米蔵跡から続く三の丸の虎口。
岩盤を切り出して成形した枡形のようになっています。

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二の丸

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二の丸の南面に残っていた石積

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二の丸から、本丸を取り巻く腰曲輪群へと続く虎口を見上げる。

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この虎口がまた素晴らしかった・・・石垣造りの見事な枡形形状を残しています。
こちらの虎口より左が西腰曲輪、右が南腰曲輪となります。

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枡形虎口を俯瞰で。

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本丸櫓台の石垣

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櫓台の奥に残る、本丸への石段跡

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金山城本丸
地表面には多くの礎石が並んでいました。

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金山城址碑

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本丸から木曽川を眼下に収める眺め。

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本丸北面の石積
こうして低く積まれた石垣に武者走り状の平面が付き、セットバックさせている構造が多く見受けられました。

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本丸搦手口、東腰曲輪への枡形。

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こちらの枡形も見事でした。

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東腰曲輪から、本丸東面の石垣。
足元に長方形に区画された石列がありました。穴倉、或いは貯水池の跡とも考えられているようです。

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少し斜面を下って回り込んだ先から見上げる、東腰曲輪北面の石垣。

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東腰曲輪の更に東、尾根を下った先にある左近屋敷跡へは、ご覧のような切岸を下ることになります。
※訪城後に気がついたのですが、左近屋敷跡方面は現地案内パンフに「危険につき立入禁止」とありました。ご注意ください。

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左近屋敷跡の石積
こちらも2段のセットバックになっています。

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左近屋敷はその名の通り、森家の家老だった細野左近という人物の屋敷跡と考えられています。

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一旦、元来た駐車場近くの林道まで引き返し、左近屋敷跡の先にある大堀切へ。
写真左手の斜面を上がった先が左近屋敷になります。

ところでこちらの金山城、天正10年(1582)3月9日には甲州征伐へ向かう織田信長も、その軍旅の途中に一泊しています。
上写真の大堀切の、右手の斜面を上がっていった先にはこの時、信長が腰を掛けて休んだと云われる「信長の休石」があるというので、私も向かってみることにしました。
・・・というより、金山城に来た一番の動機がコレだったりします(笑)

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大堀切からの道中は山道が付いて案内板もありますが、現地までの距離感が分からず、結構不安になります。

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最初に現れた大岩。
現地には何の説明もありませんでしたが・・・座禅石かな?

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大堀切から10分ほども歩くと、可成寺跡の削平地に出ます。
可成寺はその名が示す通り、元亀元年(1570)の近江宇佐山での合戦(対浅井・朝倉連合軍)で命を落とした森可成の菩提を弔うため、跡を継いだ次男・長可が創建したお寺です。
現在は麓に移されているため、山上の当地には何も残りません。

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可成寺跡の案内板も朽ち果て、地面に転がっていますので見落としにはご注意…(^_^;)

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可成寺跡まで来たら進行方向左側に注意していると、こちらの案内板が目に入ってきます。
ここから少し下った先に・・・

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織田信長の休石

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休石や可成寺跡は金山城の東の稜線(寺が峰)に位置し、休石の先からは勾配もきつくなって、ずっと下っていました
休石の伝承が真実だとすると、信長は金山城に入る前に可成寺での可成の墓参を決め、寺が峰の急坂を登りきったところで一旦休憩した、といったことになるでしょうか。
翌日は高野(信長公記/旧神箆こうの村)の鶴ヶ城へ向かっていますが、まさか金山城を出発してすぐの地点で休憩するとも思えませんし…(笑)

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この岩に腰掛けた信長・・・その時、彼の目にはどのような光景が映っていたのでしょうか。

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さて、下山後は麓に建つ現在の可成寺へ。
慶長5年(1600)、森忠政(可成6男)が川中島の海津城へ移封されると金山城は廃城となり、可成寺も寺が峰からこちらへ移されました。
長可愛用の脛当を収蔵しているようです。

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森家墓所

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左から長可、可成、可行(可成父)、可隆(可成長男。元亀元年の手筒山攻めで戦死)

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こちらは本能寺の変で信長に殉じた乱(中央/可成3男)、坊(左/同4男)、力(右/同5男)

森家では次男の長可も、天正12年(1584)の小牧長久手合戦で討死を遂げています。

・・・群生するシャガの花が墓所を囲むように咲き誇り、とても綺麗でした。

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