カテゴリー「織田信長」の116件の記事

2017年4月 9日 (日)

大良の戦い

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信長も道三聟にて侯間、手合のため木曾川・飛騨川舟渡し、大河打ち越し、大良戸島、東蔵坊構へに至りて御在陣。
(信長公記 首巻「山城道三討死の事」より抜粋)

美濃の斎藤道三が嫡子・義龍と争った弘治2年(1556)4月の長良川の戦い
道三の婿()でもある織田信長は、道三への援軍として木曽川・長良川(飛騨川)を越えて大良(岐阜県羽島市正木町大浦新田)まで進軍します。
※現在の地図で確認する限りに於いては長良川を越えるはずはないのですが、或いは川の流路が大幅に変わっているのかもしれません。

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木曽川に濃尾大橋が架かる辺りが、江戸時代の起渡船場
周辺には他にも、いくつかの渡し場が設けられていたようです。
そこから堤防を越えて西へ・・・

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美濃路の旧道が伸びています。
(上地図赤ライン

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大浦(三ツ屋)の道標

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右 いせみち
左 おこし舟渡


現在、道標は民家の玄関先に建っていますが、この場所には元々、木曽川の堤が南北に走っていたのだそうです。
美濃路はその堤防上を右へ折れ、北に続いていました。

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少し北へ進むと、しだれ桜の足元だけが取り残されるようにして高くなっている場所がありました。
先ほどの道標の位置と南北のラインで繋がりそうですし、これはしだれ桜のお陰で僅かに残された、江戸期の堤防の痕跡かもしれないなと思いました。
更に北へ進むと・・・

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大浦城大浦の寺砦)跡とされる金矮鶏神社があります。
寺砦とは「戦の際に砦として利用される寺院」といったところでしょうか。
この大浦城こそ、信長が布陣した戸島、東蔵坊の構へではないかと推定されています。
東蔵坊という響きもなんとなく、「寺」を連想させますよね。

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石柱に見える「金矮鶏」の文字。

長良川の戦いで勝利した斎藤義龍は、その勢いを駆って大良に陣取る信長の軍勢にも兵を差し向けます。
信長も出撃してこれを迎え撃ち、河原で激戦となりますが、山口取手介や土方喜三郎といった将が戦死、森可成も負傷を負う苦戦に陥りました。
戦いの最中、道三の敗死を知った信長は大浦城に一旦兵を退き、尾張への撤退を決断します。

爰にて大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿は信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ上総介殿めし侯御舟一艘残し置き、おのゝゝ打ち越し侯ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来たり侯。其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近ゞとは参らず。さて、御舟にめされ、御こしなり。
(信長公記 首巻「信長大良より御帰陣の事」より抜粋)

勝ちに乗じて勢いに乗る敵の軍勢が迫る中、まずは雑人や牛馬を退かせた後、信長は
殿(しんがり)は俺がやる
と言って自らの舟一艘だけを残し、あろうことか全軍を先に渡河させてしまうのです・・・なんとも凄まじいエピソードですね。
そこへ義龍方の騎馬武者が追ってきますが、信長が鉄砲で迎撃すると敵の武者は警戒して距離をとったため、信長も舟で無事に渡河することができました。

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この時に信長が木曽川を渡河したポイントですが、やはり江戸時代になって美濃路の渡し場がいくつか設置されることになる、濃尾大橋周辺だったのではないかと考えています。

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この大良の合戦では、(信長の撤退後と思われますが)大浦城も義龍軍の攻撃に晒されています。
いよいよ落城迫った時、大浦城の姫(戸島東蔵坊の娘?)は家宝の金矮鶏を抱えて城内の井戸に身を投げたと云います。これが金矮鶏神社の由来なのだとか・・・。
(大浦の金矮鶏伝説)

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信長の東美濃攻め Ⅲ(加治田城・関城)

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東美濃攻めシリーズ(Ⅰ~Ⅱ)でも度々その名が登場してきた加治田城
その城跡へは城山の南麓、清水寺の奥に伸びる山道を伝って向かっていきます。

ルート図
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よく整備された登山道をひたすら進み、Aのポイントで二股に分かれますが、ここは左が城跡への近道になります・・・直登ですけど(^_^;)

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近道ルートの直登をクリアした先の尾根。
自然地形の鞍部でしょうが、加治田城の西の守りを固める堀切代わりになっていたのではないかと思われます。
ここまで来たら、あと少し・・・向かって左の坂を登ります。

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いくつかの段曲輪を越えると、写真の虎口が出迎えてくれます。
ここから東に向かい、尾根上に城域が続きます。

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加治田城から堂洞城を見下ろす。

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加治田城本丸跡

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本丸から更に東へ進むと、通路に沿って石積みも残っていました。

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本丸東側の斜面下には、いくつかの腰曲輪が点在します。
これらと連動するように・・・

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竪堀も数本落とされていました。

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曲輪(右)の脇を固めるように駆け下る竪堀(左)

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下山後は清水寺の境内にも少しお邪魔しました。

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なかなか年季の入った、趣のあるお寺です。

加治田城…規模こそ大きくはないものの、曲輪や竪堀の配置など、しっかりと作り込まれた印象のお城でした。
堂洞城とは明らかに作り込みが違うかな。

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現在は富加町の東公民館が建つ加治田小学校跡は、佐藤紀伊守屋敷跡の伝承地でもあります。

其の夜は、信長、佐藤紀伊守、佐藤右近右衛門両所へ御出で侯て、御覧じ、則ち右近右衛門所に御泊り。父子感涙をながし、忝しと申す事、中々詞に述べがたき次第なり。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)

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堂洞城を攻略した織田信長はその日(永禄8年9月28日)、佐藤紀伊守右近右衛門両者の屋敷へ出向いて確認した上で、右近右衛門の屋敷に泊っています。
泊った場所こそ違えど信長も一度は紀伊守屋敷に足を運んでいますし、実際に泊った右近右衛門屋敷も、きっと近くにあったのでしょう。

翌29日になると、堂洞を落とされた斉藤勢が反撃に出ます。
関城長井隼人に加え、稲葉山から龍興自身の軍勢も攻めてきたとありますので、かなりの陣容だったことでしょう。

手負いも抱えた信長は一部の兵(斎藤利治=道三息とも)を加治田城の守備に残し、尾張へと撤退します。
この時の撤退戦の手際も見事で、信長を取り逃がした斉藤勢は、絶好の機会をみすみす逃して悔しがった(御敵ほいなき仕合せと申したるの由に侯)と云います。

加治田城も辛うじて斎藤・長井勢の攻撃を退けますが、この戦いで佐藤紀伊守の嫡子・右近右衛門は討死を遂げてしまいます。
これにより、後に前出の斎藤利治が紀伊守の養子となって佐藤家を継承し、隠居した紀伊守は加治田城の麓に龍福寺を開いて佐藤家の菩提寺としました。

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龍福寺
堂洞城で処刑された紀伊守の姫も、こちらに葬られています。
また、池田恒興の槍・鞍・轡・鐙が寺宝として保存されているのだそうです。

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残念ながら佐藤家の墓所は判別できませんでいたが、墓地には美濃岩村藩主となった丹羽氏(丹羽長秀とは血縁関係なし)の後裔の方々の墓所がありました。


さて、無事に撤退した信長は、同年10月、再び美濃へ進攻して長井隼人の関城を攻めます。

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関城跡、安桜山公園への登り口。
ここから10分ほどの登りになります。

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西の曲輪には南北に腰曲輪があり、その北側の腰曲輪には不思議な穴が・・・

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しかも対になっていました。
井戸というよりは溜池?…それとも水路になっていたのでしょうか・・・?

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反対の南側の腰曲輪。
こちらの曲輪の外縁には・・・

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ごく一部ですが、2ヶ所ほど小さな石積みが残っています。

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本丸の切岸

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関城本丸跡

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本丸の周囲で1本だけ見つけた竪堀

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関城から見る、堂洞・加治田方面の眺め。

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こちらは猿啄城の方角。

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ところで、天正10年の本能寺の変を受けての混乱期、川中島から旧領の金山(兼山)に復した森長可は、混乱に乗じて離反した国衆を討つため、関城の眼前(南)に見えるこれらの小丘に兵を配し、同城を包囲したと伝わります。

関城を落として東美濃を制圧した織田信長。
彼が稲葉山城を落とし、斎藤龍興を追って美濃を掌握するのは、この僅か2年足らず後のこと。
東美濃の攻略がその画期となったことは、やはり間違いのないところでしょうね。

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2017年4月 8日 (土)

信長の東美濃攻め Ⅱ(高畑山布陣~堂洞合戦)

前回に引き続き、こちらの図を・・・

東美濃攻め関連地図
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鵜沼→猿啄と立て続けに攻略した織田信長は永禄8年9月28日、加治田城の南約2㎞強(「信長公記」では廿五町)に築かれた堂洞城の排除に取り掛かります。

堂洞合戦関係図
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猿啄城から北進した信長が布陣した地について、「堂洞軍記」には;
高畑見へし山
とあります。

事前に各資料や地図等で検討した結果、高畑見へし山とは現在の高畑地区(富加町夕田)の北端に位置し、浄光寺というお寺の背後にそびえる恵日山でいいのではないかと考えています。
※次の記事でご紹介する加治田城本丸跡に設置された案内板でも、信長の布陣地を恵日山としていました。

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織田信長布陣の地、高畑見へし山・・・恵日山

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麓の浄光寺の山号も「恵日山」

この選地は堂洞城攻撃に加え、西方の関城に構える長井隼人と堂洞間の連絡を絶ち、その援軍に備えるためでもあったと思われます。
現に、堂洞城攻めが開始されると長井隼人は手勢を率いて迫ってきますが、堂洞まで廿五町(信長公記)の肥田瀬川(堂洞軍記/津保川か)付近で阻まれ、それ以上先へは兵を出せなかったと云います。
これも、恵日山に信長の軍勢が残っていたためと考えると、堂洞から廿五町という距離感、そして麓を流れる津保川が関と堂洞の間を分かち、その対岸(関側)が肥田瀬という地理的条件からしても、かなり有力な候補地ではないかと思います。
※「堂洞軍記」には「長井勢が肥田瀬川を渡り、信長の軍勢がこれを迎え撃った」とありますが、「信長公記」には「長井勢は堂洞から廿五町のところまで寄せてきたが、足軽さえも出さなかった」とあり、この日は特に長井勢との間で戦闘があったようには思えませんので、実際には津保川を越えられなかったものと思います。

さて、居合わせた浄光寺の檀家の方にもお訊きしたものの登り口がよく分からず、西側にちょっとだけ藪が払われた道らしき痕跡がありましたので、試しにそちらからアタックしてみました。

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道に沿って登っていくと、山腹には何やら祠のようなものが・・・どうやらこの道は、祠のためのものだったようです。

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祠の先は完全に道なき藪を進むしかありません。

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どうにか辿り着いた尾根上には、結構な広さの空間が広がっていました。
ある程度まとまった数の兵数であっても、この広さならば充分なスペースを確保できたように思えます。
なお現在は、鬱蒼と生い茂る樹木で視界は全くききません。

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恵日山の三角点
そのまま尾根上を東へ進みましたが、藪で下山ポイントを探すのにも苦労しました・・・。

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恵日山東側の山腹にある愛宕古墳
写真がヘタすぎて全く分かりませんが、綺麗な前方後円墳になっていました。
(手前が方形、奥が円形)

次はいよいよ堂洞城を攻めます。

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堂洞城南側、土橋状の・・・通路?

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その先には広い空間が広がっていました。
この先の一段高い部分が主郭になります。

合戦当日は風が強かったため、信長は松明を投げ入れさせ、二の丸を焼き落とさせたと云います。

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堂洞城主郭

午の剋に取り寄り、酉の刻まで攻めさせられ、既に薄暮に及び、河尻与兵衛天主構へ乗り入り、丹羽五郎左衛門つゞいて乗り入るところ、岸勘解由左衛門・多治見一党働の事、大形ならず。暫の戦ひに城中の人数乱れて、敵身方見分かず。大将分の者皆討ち果たし畢。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)

猿啄に引き続きここでも、河尻秀隆、そして丹羽長秀の活躍が目立ちますが、彼らが乗り入れた天主構へこそ、この主郭のことでしょう。
堂洞城攻めは昼頃~午後6時頃まで続き、岸勘解由や猿啄から逃れてきた多治見一党らも奮戦しましたが、最後は大将分の者は全て討取られて落城しました。

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主郭の一段下、腰曲輪から見る主郭切岸・・・面白い地層ですね。

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主郭から加治田城の方角にあたる北の尾根へ進むと、古い城道のような通路が折れる虎口状の遺構や、、、

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更に先には、狭いながらも削平された空間がありました。

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この削平地は北麓から登ってくる城道を、足元に押さえて監視できる位置取りになっています。

堂洞城は現地で確認する限り、規模も小さくて明らかに急拵えな印象。やはり「信長公記」にあるように、これは佐藤父子の寝返りを受けての、加治田城に対する付城でしょう。
加治田城が佐藤一族の中心的な拠点で、岸勘解由は姓を佐藤から改めていることからも、その庶流だったのかもしれません。

ところで、この堂洞城攻めでは「信長公記」の作者、太田牛一も活躍を見せています。

二の丸の入口おもてに、高き家の上にて、太田又助、只壱人あがり、黙矢もなく射付け侯を、信長御覧じ、きさじに見事を仕り侯と、三度まで御使に預かり、御感ありて、御知行重ねて下され侯ひき。
(同)

現地でも「牛一の指す“二の丸”とは、いったいどこか?」が話題になりましたが、北には加治田城があって佐藤紀伊守・右近右衛門父子が攻め手を受け持ったでしょうから、信長の手勢は北以外の方角から攻め寄せたのではないかと。
そうなると必然的に主郭北側の狭い削平地は消え、それ以外で二の丸に該当しそうな場所といえば、最初にご紹介した南側の広い空間しか見当たらないので、牛一が活躍した二の丸の入口おもて高き家は、南の広い空間や、そこに続く土橋状の通路の周辺に建っていたのではないか、と想像を膨らませています。

そして、この牛一の活躍を信長が目撃していた場所ですが、「信長公記」天理本には「高き塚」とあります。
「塚」と聞いて連想するのは墳墓、古墳。そして堂洞城の近くに、まさにうってつけのような古墳が存在するとのことなので、早速そちらにもまわってみました。

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堂洞城(左)のすぐ西隣りに位置する夕田茶臼山古墳(右)

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少し木を伐採して整備されているので、下からでも天辺に古墳のあることが分かります。
こうして見ると、まさに「高き塚」そのものです。

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夕田茶臼山古墳
3世紀頃の古墳と推定されている前方後円墳です。

残念ながら樹木に遮られ、堂洞城の方向は全く視界がききませんでしたが、この位置なら二の丸入口おもてで奮戦する牛一の活躍を目撃し、それが牛一であると認識することも可能だったのではないか、と思わせるほどの至近距離でした。
堂洞城攻めが開始され、後詰に出てきた関城の長井勢が攻め掛かってこないと見るや、信長は堂洞城近くまで本陣を移していたのでしょう。
いつだって「懸けまはし御覧じ」ちゃう彼の性格からして、ずっと後方の高畑山に待機していたとも思えないし(笑)

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夕田茶臼山古墳から高畑山の方角
信長が本陣を移してきたであろう経路。

天理本に見える「高き塚
現時点でこれ以上特定する根拠はないものの、現地に立ってみて思うことは、夕田茶臼山古墳説を否定しうる根拠も何一つ存在していないということ。

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堂洞城の北麓、長尾丸山伝承地
岸勘解由の嫡子に嫁していた佐藤紀伊守の姫は、佐藤父子の寝返りが明らかとなって信長の進攻が開始されるに及び、この場所で処刑されたとの伝承が残ります。
その正面には・・・

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実家である加治田城が眼前に・・・。

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2017年4月 7日 (金)

信長の東美濃攻め Ⅰ(伊木山布陣~猿啄城攻略)

2017年4月1~2日、堂洞合戦を中心とした織田信長の東美濃攻め関連地をめぐってきました。
※現在の中濃地区。当初の攻略目標であった「西美濃三人衆」が蟠踞した地域より東方、の意味での「東美濃」

東美濃攻め関連地図
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当記事では「信長公記」の記述を中心に「堂洞軍記」等の史料も適宜参照しつつ、実際の訪問順とは異なりますが時系列に沿ってご紹介していきます。
なお「信長公記」に関しては基本的に陽明本に則りますが、天理本(天理大学附属天理図書館蔵の写本)には陽明本にはない、重要と思われる記述がいくつか指摘されているため、それらも参考に進めます。
※記事中の引用に関しては、特に断りのない限りは陽明本に拠る。


永禄6年(1563)、織田信長小牧山に新たな城を築き、居城を清須から移転させます。
(小牧山城についてはコチラ
目と鼻の先に着々と城が築かれていく様子を見た犬山城(城主:織田信清=信長従弟)は動揺し、ほどなく和田・中島の両家老が信長方に寝返るに及び、信長の命を受けた丹羽長秀の軍勢に包囲され、降服開城に追い込まれました。
これにて、信長の尾張統一戦も完全に達せられたといえます。

犬山城の陥落は、木曽川を挟んだ対岸に位置する東美濃の諸城に少なからぬ動揺を招きました。
そしてほどなく、情勢を読んだ加治田城佐藤紀伊守右近右衛門父子が崖良沢(岸良沢、梅村良沢とも)を使者に立て、丹羽長秀の取次で信長に接触してくるのです。
美濃攻略の足掛かりを得た信長は佐藤父子の寝返りを喜び、使者の良沢に当座の兵糧代として黄金50枚を遣わしました。

ところが、佐藤父子の寝返りを察知した斎藤家の重臣・長井隼人は、佐藤の同族である岸勘解由(蜂屋佐藤氏)に命じて加治田城の南に堂洞城を築かせ、自らも西方の関城に入って加治田城に対する包囲を強めていきます。
包囲された佐藤父子からの救援要請(天理本)を受けた信長は早速兵を催し、木曽川を越えて美濃国へ進攻しました。

美濃に入った信長はまず、木曽川の河畔、犬山城の対岸に位置する伊木山に陣を布きます。

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伊木山の登山道
我々は北麓の「いこいの広場・伊木の森」から、「心ぞう破りの道」と呼ばれる直登のコースを選択しました。

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「心ぞう破りの道」は、その名の通り結構な急勾配ですが、直接山頂に到達できます。

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山頂が即ち、伊木山城の主郭となります。

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主郭東側の曲輪。
曲輪を囲むように土塁らしきものもありますが、これは第2次大戦中に設置された航空監視哨の跡、とのことで遺構ではないようです。

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同じく西側。

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主郭周囲には一部、石積みらしき痕跡も・・・

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遺構なのか否か、是としていつの時代のものか・・・判断はつきませんでした。

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また、伊木山城跡から尾根を西へ進むと、熊野神社の旧跡があります。

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反対に東の尾根を進むと「キューピーの鼻」と呼ばれる展望所があり、ここからの眺めが素晴らしかった・・・

御敵城宇留摩の城主大沢次郎左衛門、ならびに、猿ぱみの城主多治見とて、両城は飛騨川へ付きて、犬山の川向ひ押し並べて持ち続けこれあり。十町十五町隔て、伊木山とて高山あり。此の山へ取り上り、御要害丈夫にこしらへ、両城を見下し、信長御居陣侯ひしなり。
(信長公記 首巻「濃州伊木山へ御上りの事」より抜粋)

まさにこの時、伊木山に陣取った信長が両城を見下した光景ですね。
宇留摩=鵜沼

犬山城から更に南へ目を転じると・・・

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小牧山の姿も・・・これは確かに近い。

伊木山に布陣する信長の軍勢を目にした鵜沼城の大沢次郎左衛門は、とても支えきれないと観念して城を明け渡しました。
鵜沼城を攻略した信長、次のターゲットは猿啄城へシフトしていきます。

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対岸の犬山城を眺めつつ・・・

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大沢次郎左衛門が明け渡した鵜沼城を通過し・・・

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我々も猿啄城
※写真は坂祝駅前より撮影(2016年7月)

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かなりの急勾配を延々と登り、その途中に出てきた2段の曲輪。
ここまで来れば、もう一息です。。。

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麓から登り始めて30分ほどでしょうか・・・遂に猿啄城跡の展望台に到達です。

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猿啄城跡

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展望台からの眺め~南西方向。
右に伊木山、中央奥には小さく小牧山も見えています。
ここから反時計回りに・・・

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坂祝の町並み

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そしてこの後、戦局が移っていくことになる堂洞~加治田方面。

一、猿ばみの城、飛騨川へ付きて、高山なり。大ぽて山とて、猿ばみの上には、生茂りたる「かさ」(山かんむりに則)あり。或る時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ、水の手を御取り侯て、上下より攻められ、即時につまり、降参、退散なり。
(同)

猿啄城を攻める信長は、猿啄城のにあるという大ぼて山に丹羽長秀を差し向けています。
この大ぼて山に関してはまだ、具体的な場所は特定できていないらしいのですが・・・

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猿啄城跡からこの光景を目にした時、瞬時に「これでしょ!」と直感しました。
明らかに猿啄城跡よりも高所()になりますし・・・長秀の手勢が姿を現した時の緊迫感が目に浮かぶようなロケーションでした。
猿啄城跡とは尾根続きで道も付いていましたので早速、(推定/以下略)大ぼて山に向かってみます。

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猿啄城の切岸で見かけた石積み

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そして大ぼて山へと続く尾根を断ち切る堀切、土橋。
ここでも間違いなく、戦闘が行われたことでしょう。

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大ぼて山のピークから見下ろす猿啄城
高所側から見ると、これほどの高低差があります。猿啄城へ攻め掛かるには絶好の位置です。

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大ぼて山から見る堂洞~加治田方面。
左の方には猿啄攻略後、信長が堂洞攻めの陣を布く高畑山も見えています。

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ところで、大ぼて山は樹木こそ生茂りたる山でしたが、地表面はご覧のようなチャートの岩肌がそこかしこに剥き出しになった岩盤層で、それだけに「信長公記」に書かれている水の手が果たしてどこにあったのか?が謎でした。
・・・が、同行者たちと話し合った結果、「大ぼて山を押さえる」ことと「水の手を切る」ことはイコールではなく、別個の部隊による別々の作戦行動だったのではないか、という結論に至りました。
もう一度「信長公記」の該当箇所を引用しますが;

大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ水の手を御取り侯て、上下より攻められ、

大ぼて山に攻めのぼったのは間違いなく、丹羽長秀。
但し、その後に続く御人数を上げられ水の手を御取り侯ての二つの主語は長秀ではなく織田信長・・・彼の命令・作戦を表しているのではないでしょうか。
つまり、丹羽長秀を先懸に軍勢を大ぼて山に上げて攻め下らせ、且つ、別の部隊には麓側の水の手を切らせて山の下から攻め上らせたのではないか・・・。
(天理本には、信長自らも大ぼて山に登ったと明記されており、御人数を上げられ、は丹羽の先陣に続く信長自らの手勢を指しているのかもしれません)
それに続く上下より攻められ、の一節がそれを物語っているように思えますし、現に文化13年成立の「美濃雑事記」では城山の南麓を「水ノ手」とし、「山七合目ニ古井戸アリ」の文字も見えます。

一般には、丹羽長秀が大ぼて山に上がって水の手を押さえた、と解釈されがちですが、ここはあえて別の解釈を提示しておきたいと思います。
(但し、天理本には「上下より攻められ、」の一節が見られず、信長軍がさも山の上からのみ攻めたような表現になっているのが気にかかりますが・・・)

また、信長は戦後、猿啄城を勝山と改めて功のあった河尻秀隆(鎮吉)に与えていますが、或いはこの時、大ぼて山の「上」から攻めたのが丹羽長秀ならば、水の手を切って「下」から攻め上った先陣が河尻だったのかもしれません。

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そういえば猿啄城跡登山口に、「河尻碑肥前守」の碑が建っていました。

猿啄城を攻略した織田信長は、同城を守備していた多治見一党を堂洞城へと追い落としつつ、いよいよその堂洞城攻めに移っていきます。

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2017年3月13日 (月)

解明されゆく小牧山城

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旅のラストは小牧山城へ。
前の晩のトークイベントで、小牧山城に関する貴重なお話を伺った直後とあっては、訪れない訳にはいかないでしょう(笑)

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城下大手口(南麓)に建てられている市役所庁舎内。
床を1本の線が走っています。

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そのまま庁舎を抜け、小牧山の麓まで続いて大手道に繋がっています。
これは庁舎建設前の発掘調査で明らかとなった、城下町大手筋の道のラインを示しているのです。

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復元された大手口の土塁と横堀

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主郭部手前までは一直線に伸びる大手道

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現在の遊歩道は突き当たりで左へ折れますが、本来の大手道は右(東)へ
ここが山上の主郭部との境界で、この先はクネクネと九十九折れに本丸へと続いていきます。

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この境界線に沿って、徳川家康が小牧長久手合戦時に築かせた横堀が走っています。

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本丸へと続く大手道
大手道はこの先も折れを繰り返してスロープ状に本丸へと至るのですが、2016年度の発掘調査でそのルート上から、自然の岩盤を切り開いて削平した石の壁」(その上には石垣も積まれていた)が発見されています。

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発掘された大手道の石の壁(写真提供:にのさん)
※訪問時には既に埋め戻し作業中につき立入禁止

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イメージ図(写真提供:にのさん)
こうした「折れ」は、枡型の原型とも言えそうです。また、切り落とした岩は当然、石垣の石材として用いたのでしょう。

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本丸を見上げる。
一部残存している石垣も覗いています。
小牧山に於ける石垣は、直線の大手道が九十九折れに変わる主郭部より上からしか発見されていません。山麓から山腹までは土造りのお城、山腹から山頂が石垣造りのお城だったことになります。

ここで小牧山城のエキスパートの方と合流して、コアな小牧山城をご案内いただけることになりました♪

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本丸周辺に転がる石垣の転落石。

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こうして石垣が崩れていても発掘の成果で裏込石が出ているので、その位置から石垣面の位置も確定できるのだそうです。
ただ、石垣推定面積に対して残存+転落石材の数が少な過ぎることから、おそらくは名古屋城築城の際に持ち出されたものと考えられています。が、名古屋城に小牧山のチャート材を多用した石垣が見当たらず、具体的にどの部分に用いられたのかは謎なのだそうです。

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裏込石の崩落石材は、まるで石垣のように積まれています。
最初の頃は適当に積んでいたものの、年々作業員の方々にもこだわりができてきたようで、最近では算木積みなんかも・・・(笑)

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本丸北西面の石垣

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小牧山の石垣石材は先にも書きましたが、殆どがチャート石矢穴は見つかっていないそうです。
手前の丸く飛び出た石は数少ない花崗岩。小牧山周辺で花崗岩が採れるのは岩崎山のみで、同山は小牧長久手合戦時は秀吉方の勢力下にありました。従って家康が用いることは叶わず、必然的にこの石垣がそれ以前の時代、信長による築城時に築かれたことの証明にもなっています。

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同じく北西側に残る、もう一つの石垣面。

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隙間から裏込石も見えています。

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奥に飛び出た石(花崗岩)が見えている部分が、先にご紹介した石垣面。
本来はここに道(階段)は存在せず、表出している石垣面の前後(写真では左右)のズレは、本丸の地表面が突出した部分(櫓台か)に当たります。
つまり、横矢が掛けられていた、とも言える構造になっていました。

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その突出部分
現在は昭和天皇がこの地に立たれたことを記念する御野立聖蹟の碑が建っているため、調査は叶いません。
※本来は復興天守の真裏にあったそうですが、建物の裏は失礼にあたるとのことで現在地に移されたとか。
※なお天守閣風の資料館は、どうやら盛り土をした上に建てられたらしいことが分かってきて、僅かながらも遺構がまだ地中に眠っている可能性も出てきているそうです。

小牧山城は「信長公記」にも書かれている通り、敵対するようになった犬山城、そしてその先の東美濃に対して築かれた城(このことが犬山城の攻略、東美濃の動揺~加治田城の寝返り~堂洞合戦へと繋がっていきます)ですが、この突出部は稲葉山城(後の岐阜城)の方角に向けて築かれています。

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小牧山城本丸から眺める、稲葉山城の方角。
写真中央、紅白の鉄塔左奥にうっすらと金華山が見えていました。

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本丸南虎口に建つ銅像の足元に横たわる岩(花崗岩)は、矢穴の位置が一致することから、本来は銅像横(奥)に見えている岩と一つのものだったことが分かっています。
矢穴の形状により、割られたのは慶長期と推定されることから、名古屋城築城の際、その石垣用の石材として割ったものの、何らかの理由で持ち出しを断念したものと考えられています。
また、岩に残るの刻印は、加賀前田家お抱えの石工集団のものだそうです。

また、この位置から本丸に向かって階段を登った正面に、鏡岩のように大きな石が据えられていますが、調査の結果これは当時からの石垣遺構ではなく、階段整備の際に積み直されていることが判明しているそうです。

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西側曲輪地区の尾根が二股に分かれる分岐点に位置する曲輪。
奥向きの御殿跡かも…とのことでしたが、ある時いきなり桜を無秩序に植樹されてしまい、現状では発掘調査の目処は立っていないようでした。

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石切り場のチャート材岩盤。
地層面に沿って岩が剥ぎ取られている様子がよく分かります。

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また、岩を切り取ることで岩盤は切岸状になり、足元は腰曲輪のようになっていました。石を調達できて、切岸を作れて、腰曲輪を作れて・・・一石三鳥?(笑)
※現在、我々が目にすることのできる近世城郭の石垣は、その殆どが花崗岩で積まれています。小牧山の矢穴のない石垣石材を見ても分かる通り、切り出しも楽なチャート材が姿を消した理由・・・この辺りには徐々に大型化した上物、つまり石垣に乗せる建築物の重量も関係しているように思いました。

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最初に見た横堀の上に位置する曲輪跡。
手前に見える窪みから、以前は井戸跡と紹介されていたこともあるようですが、これは井戸ではなく、横堀をドン突きで直角に折った痕跡とのことでした。
折れた部分が殆ど埋まり、天辺だけが窪みとして残ったために井戸のように見えているのだそうです。

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この土塁は横堀を掘った土で盛られたもの。
調査の結果、中からちょっとした石積みが出てきたそうです。信長時代の築地塀の基台跡ではないかと推測されています。

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土塁上から見下ろす横堀。かなりの高低差です。

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横堀
信長時代に階段状に築かれた曲輪(堀の左右で若干の高低差がある)の一部を潰し、家康が掘ったものと考えられています。

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調査で掘ったみたところ、この付近の体積土は皮一枚で遺構面がすぐに出てきたそうです。即ち、ほぼ家康が掘らせた当時のままの形状ということになります。

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見事な堀底。
左右の曲輪間での高低差も確認できます。

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横堀のドン突き。
今でこそ土塁が削れて通路のようになっていますが、当時は土塁で塞がれ、堀は向かって左に折れて終わっていました
そう、先ほど上から見た井戸のような形状をした部分です。

いやぁ~現地で貴重なことをたくさん教えていただけたし、本当に再訪してよかった!小牧山城!!

何から何まで充実して、大満足な2泊3日の旅。これも偏に誘っていただき、連れて行ってくださる仲間の存在の賜物ですね、感謝です。

次は・・・小牧山築城から続く歴史の舞台へ。
今回はひとまず、これにて筆を置きます。ありがとうございました。

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2017年3月12日 (日)

浮野古戦場と岩倉城

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浮野の合戦は永禄元年(1558)7月、織田信長と犬山城の織田信清の連合軍が、岩倉城の織田伊勢守信賢の軍勢と争った戦い。
信長の居城・清須から岩倉城へは三十町に過ぎませんでしたが、此の表は節所たるに依つて、信長は岩倉城の背後(北西)、足場の良い浮野へ回り込んで布陣し、辰巳(南東)の方角へ向かって攻め掛かりました。
これには北方の犬山勢と合流するという意図もあったように思います。
※定説による浮野合戦の年次比定(永禄元年説)は「甫庵信長記」に拠っていますが、他に弘治3年(1557)とする史料もあり、信長が永禄2年に上洛していることから、合戦の翌年に岩倉城を包囲していることと考え合わせ、永禄元年説だと岩倉城包囲中に上洛したことになってしまうことから、弘治3年説を採用する見解があることも書き添えておきます。
まぁ確かに、岩倉城を制圧して尾張を(ほぼ)掌握した後に上洛して、足利義輝から尾張領有のお墨付きを貰った、とする方が流れとしては自然かもしれませんね。

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信長軍が討ち取った首級を埋葬したと伝わる、浮野の鶯塚

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鶯塚に建つ石碑
この碑では定説通り、永禄元年説を採っていました。

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鶯塚から岩倉城の方向・・・織田信長の軍勢が攻め掛かった方角。

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鶯塚すぐ近く、「浮野」交差点。

ところで、「信長公記」にはこの時、浅野村で信長の鉄砲の師でもあった橋本一巴が、敵方の弓の名手・林弥七郎と戦うシーンも描写されています。
相討ちとなったところへ佐脇藤八(信長の小姓、前田利家弟)が駆け寄り、左手を負傷しながら林の頸を獲るのですが、この浅野という地名、今も浮野の南西方向に存在しています。
戦線がかなり横に広がっていたことが窺われます。

折角だから浅野にも行ってみよう、ということで何処かいい場所はないかと地図で確認していたら、何やら気になる形をした公園が目に付いたので、早速向かってみると・・・

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なんと浅野長政の宅址とあるではないですか!?
なるほど、その「浅野」でしたか!

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浅野長政顕彰碑

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祢々(おね)の水

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公園の周囲には、何やら思わせぶりな水路が・・・
そう、明らかにお堀っぽくなっているのが地図でも見て取れたので、来てみたのです。

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何もない場所にわざわざ生活用水でもない水路を引くこともないでしょうから、或いはうっすらとでも堀の痕跡が残っていたのかな?

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公園前には「寛永八年辛未九月廿一日」の日付も刻まれた、キリシタン殉教の碑も建っていました。

浮野の合戦は信長方の勝利に終わり、岩倉勢は城に逼塞することになります。

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浮野と岩倉の間を流れる青木川。
勿論当時とは流路も多少違うでのしょうが、この川が開戦時の境界線、防衛ラインになったのかもしれません。

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岩倉城跡

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右端の織田伊勢守城址碑は、安政7年(1860)に建てられたものです。

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岩倉城跡図
浮野合戦に敗れた伊勢守織田家の岩倉城は信長によって包囲され、合戦の翌年3月、遂に落城します。

現在、城跡の周辺は完全に宅地化されていますが、上の図を元に道路などの区画に僅かながらに残った往時の名残を辿ることができます。

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a地点から南の方角を見た旧五条川の名残

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同じ地点から北側の旧五条川跡。
よく見ると道は暗渠になっており、今でもかすかに水の流れが残っているようです。

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こちらの道路は、aから西側を見た横堀跡。

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そのまま旧五条川の跡を北へ辿って、神明生田神社へ。

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神明生田神社境内に建つ、山内一豊生誕地の碑。
※一豊の生誕地については諸説あります。

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神社前を通る岩倉街道の旧道。

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b地点の横堀の痕跡と思われる段差。

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cの「おしろ道」

今回、同行者が旧五条川の名残などに気づいてくれたお陰で、思わぬ収穫がありました。
立派な土塁や堀などの遺構もいいですが、こういったお城散策もまた楽しいですね。

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2016年12月23日 (金)

織田信長の凱旋旅

天正10年(1582)3月、甲斐武田家征伐を終えた織田信長は、翌4月には甲府を発って駿河へ向かい、東海道を西へ安土までの凱旋の途に就きます。
その道中は天下の名峰・富士山遊覧に始まり、各地の名所を尋ね歩きながらのゆったりとしたものであったことが、「信長公記」巻十五、「信長公甲州より御帰陣の事」に詳しく綴られています。

本記事ではその「信長公記」に則りながら、日付毎に信長の凱旋旅を追っていきたいと思います。


■天正10年(以下同)4月10日
・甲府を発って笛吹川を越え、この日は右左口(うば口)に宿陣。

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国道358号の右左口交差点(甲府市)
ここから南西4~500m程に、右左口の集落があります。

武田家征伐の功により、駿河国は(一部を除いて)徳川家康に与えられます。
従って駿河以降、遠江~三河と領国内に信長を迎えることになった家康は、その歓待に心を砕きます。
道を広々と整備し、石を除いて水を撒き、道の左右には隙間なく警護の兵を配置しました。また、各所に休憩のための御茶屋や、二重三重に塀を廻らせた宿泊用の御殿(御陣屋御屋形)を設け、御殿の四方には随行する諸卒のための小屋も千軒以上築くという念の入れようであったとか。


4月11日
・払暁に右左口を出発。
この日の行程は峠越えとなりますが、ここでも家康は鬱蒼と茂る左右の大木を伐り伏せて道を開き、警護の兵を並べていました。

・峠に用意された御茶屋で休憩。
・本栖に宿陣。

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本栖湖


4月12日
・未明に本栖を出発。
富士山御覧じ、人穴も見物。

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信長が御覧じた場所とはちょっと違うけど・・・御殿場からの富士山。

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人穴浅間神社(富士宮市)

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信長が見物した人穴

人穴にも御茶屋が建てられていました。
そこへ富士山本宮浅間大社の神官らが、この先の道筋の清掃を手配しつつ挨拶に訪れます。

昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、

人穴の近くには昔、源頼朝が富士の巻狩りを挙行した折に館を建てたと云う上井出の丸山があり、その西の山には白糸の滝があります。
信長は神官らに対し、この辺りのことを詳しく尋ねています。

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上井出(かみ井出)交差点(富士宮市)

頼朝の富士の巻狩りといえば、日本三大仇討ちにも数えられる曽我兄弟の仇討ちが有名です。
それを証明するかのように、上井出交差点近くには・・・

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曽我の隠れ岩や、

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兄弟に討たれた工藤祐経のお墓があります。

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また、白糸の滝のすぐ脇の崖上には、頼朝がこの水面に自らを映して鬢のほつれを直したとの言い伝えが残るお鬢水。

この辺りは天正の頃にも既に、頼朝の旧跡として認識されていたことが分かるエピソードで興味深いです。

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白糸の滝

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太田牛一も「名所」と記すだけあって、幾筋もの滝が横にずらっと並ぶ姿は壮観で見応えがありました。

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こちらは音止めの滝。

・この日は富士山本宮浅間大社(大宮)に宿陣。

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富士山本宮浅間大社

この時、浅間大社は北条の手勢によって諸伽藍悉くを焼失していましたが、家康は一夜の御陣宿たりといへども手を抜くことなく、同地に金銀を鏤めた見事な御殿を用意していました。

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また、浅間大社近くには、信長が腰を掛けて富士山を眺めたと云う富士見石もあります。
(富士宮市立中央図書館前)


4月13日
・払暁に浅間大社を出発。
・浮島ヶ原から愛鷹山(足高山)を左に見て富士川を渡り、蒲原(神原)に用意された御茶屋で休憩。
ここで少し馬を使い、土地の者から吹上の松、六本松、和歌の宮、伊豆浦、妻良ヶ崎のことなどを聞き、興国寺・吉原・三枚橋・鐘突免・天神川・深沢の各城についても尋ねました。

・蒲原の浜辺から由井では磯辺の波に袖を濡らし、清見関、興津の白波、田子の浦、三保ヶ崎、三保の松原、羽衣の松・・・天下も治まって長閑な中、各地の名所をゆったりと見物して進みます。

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信長も袖を濡らした?…由比の磯辺(PAより)

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この時は波打ち際の道を通って峠は越えていないかもしれませんが・・・薩た峠からの富士山。

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清見寺

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清見寺に転用されている清見関の血天井

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三保の松原

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羽衣の松

・江尻の南の山を越えて久能城を訪ね、この日は江尻城泊。

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久能山東照宮

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江尻城本丸跡


4月14日
・夜の内に江尻を出発。
・駿府の町口に設けられた御茶屋で休息。
ここで今川氏の旧跡や千本桜のことを詳しく尋ね、安倍川を越えました。

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安倍川

山中路次通り
まりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。


この山城とは、丸子川の川端という立地からしても丸子城を指していると思われますが、表現からしてこの時の通行路が山中を通って丸子城を経由するルートだったと推測できます。

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丸子城の三日月堀と長大竪堀

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山中を通り、丸子城を経由する旧道らしき痕跡。

※但し、「信長公記」のまりこの川端にという表現からは、文字通り丸子川の畔から城を見ている印象も受け、若干の違和感も覚えます。
丸子川沿いを走る近世東海道は確かに麓を通りますが、安倍川を越えて丸子に近づくにつれ、前方や左右には山並みが迫ってくるようになります。今でこそ開発されて雰囲気も変わってしまっていますが、当時の景観を想像すると、この山並みが近づいてくる景色山中路次と表現したのかもしれない、とも思い直しています…これもちょっと無理がありますが。
或いは木枯森~牧ヶ谷を経由して歓昌院坂を南下してくる古道は、丸子城とは尾根違いなので直接は経由せず、丸子の集落(麓)へ下って旧東海道に合流するようなので、仮にの道(路次)を通ったとすると、こちらのルートだったかもしれません。
2017年1月追記

※2017年1月14日、実際に牧ヶ谷~歓昌院坂峠までのルートを歩いてみましたが、とても細くて険しい山道で、わざわざ家康が信長を案内するには、あまりに心許ないと感じました。
やはり現状では、素直に旧東海道を通ってきたと考えるのが妥当なのかもしれません。

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山麓を通る近世東海道、丸子宿。

名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、

宇津ノ谷峠には蔦の細道と呼ばれる古代~中世までの道とされるものと、天正18年に豊臣秀吉が小田原征伐のために開いたのが始まり(後に家康が整備)とされる旧東海道が通っています。
(明治以降に設けられた道を除く)

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こちらは道の駅脇にある、蔦の細道の登り口(静岡口)
旧東海道が天正18年以降の道ということであれば、この時、信長一行が通ったのは蔦の細道ということにもなり・・・

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家康が信長のために用意した御屋形があったと云う宇津の山辺の坂口とは、道の駅付近ということにもなりそうですが・・・。

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蔦の細道の宇津ノ谷峠

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蔦の細道(岡部口)

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変わってこちらは旧東海道
蔦の細道とはうって変わって道幅も広く、旧街道の姿をしっかりと留めています。

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旧東海道の宇津ノ谷峠

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旧東海道の静岡側麓に佇む宇津ノ谷の集落

仮に信長一行が通ったのが旧東海道のルートだった場合は、宇津の山辺の坂口はこの宇津ノ谷の集落を指すことになりそうです。

果たして信長はどちらの道を通ったのか・・・
これに関してはコチラの記事で触れていますので、合わせてご参照ください。

藤枝の宿入り口に、誠に卒渡したる偽之橋とて、名所あり。

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偽之橋が架けられていたという、藤枝市「本町」交差点。

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この時はお店が開いていたので確認できませんでしたが、実は交差点近くのとある商店のシャッターには偽之橋の絵が描かれていたりします。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。

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東海道が朝比奈川を渡る地点に架けられた横内橋。

この橋から、かい道より左を見ると・・・
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花沢城の城山(左手前、尾根先端付近)や、遠くには虚空蔵山(奥の尾根先端部)を望むこともできます。
とう目とは当目で、虚空蔵山がある辺りの焼津市の地名です。その山頂には当目山香集寺があり、虚空蔵菩薩を祀っています。
正確な地点を知る術はもはやありませんが、織田信長も同様の光景を眺めていることは確かです。

・この日は田中城泊。

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田中城本丸跡

ここでちょっと、「信長公記」の記述に違和感が・・・。
本記事はあくまで「信長公記」の記載順にご紹介しているのですが、偽之橋は東から西へ向かうと、田中城を少し通り越した場所に位置しています。
無論、街道の左手に花沢城跡や虚空蔵山が見えたであろう地点も、遥かに通り過ぎているはず・・・或いは翌日、田中城を出発してすぐ藤枝宿を通過する際に見たものと、記憶を混同させているのかもしれません。


4月15日
・未明に田中城を出発。
・藤枝宿を越え、瀬戸川の川端に建てられた御茶屋で休息。
・瀬戸川を渡って島田を経由し、大井川を越える。

瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。

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今も売られている瀬戸の染飯

真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、

真木のゝ城とは牧野城、即ち諏訪原城のこと。

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真木のゝ城右に見て、

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諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、

間違いなく太田牛一は、これら旧東海道からの光景を描写しています。

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諏訪原城を通過して旧東海道を下っていくと、その先には確かに菊川(きく川)が流れています。
430年以上前の描写が、現代の地理・地形とも一致して感動すら覚えます。

・菊川を渡り、坂を登って小夜ノ中山の御茶屋で休憩。
・日坂を越え、この日は掛川に宿陣。

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掛川城


4月16日
・払暁に掛川を出発。

みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、

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太田川を渡る三ヶ野(みかの)橋

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旧東海道松並木と、奥に三ヶ野坂

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三ヶ野坂上に建つ大日堂
旧東海道沿いで坂を登った台地の縁、高天神などがある東方への眺望も開けていますので、御屋形立て置かれていたのもこの辺りではないかと思われます。(鎌田はここより少し南)
但し・・・

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距離的に高天神城や馬伏塚(まむし塚)砦、ましてや小山城が手に取るように見えたとは、とても思えないのですが・・・(^_^;)

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高天神城

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小山城

また、みつけの国府の上ともありますが、見付は三ヶ野から更に西へ行った先で、国府もそちらにあったものと考えられています・・・なぜ牛一は、三ヶ野の前にこのフレーズを挿し込んだのでしょうか…?
後年「信長公記」を編纂する際、国府や見付が三ヶ野坂の下にあったと記憶違いしたのでしょうかね。

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見付の遠江国分寺跡
国府もこの付近にあったと推定されています。

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それを示すように、周辺の地名は「国府台」

池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

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天竜川、池田の渡し碑

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池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、ここになんと舟橋を架け渡していました。
天竜川は甲斐・信濃の川が集まる大河で、本来であればとても舟橋など架けられるような川ではありませんでした。太田牛一も、上古よりの初めなり。といって驚いています。

天竜川に架け渡された舟橋によほど感動したのか、牛一はここで改めて;
遠国まで道を作らせ、
川には舟橋を渡し、
道端には警固を申し付け、
泊まる先々の御殿や、道々の御茶屋・厩の見事な普請、
諸国の珍奇を集めた御膳の用意、
諸卒の賄いや1500軒ずつの小屋の準備、、、
これら家康の心尽くしのもてなしを並べ立て、その苦労に思いを馳せて称賛の言葉を述べています。
信長公の御感悦、申すに及ばず。
とも・・・。

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天竜川

・天竜川の舟橋を渡り、この日は浜松に宿陣。

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浜松城

浜松で小姓・馬廻衆には暇を出して先に帰らせ、弓・鉄砲衆のみを残しました。
また、黄金50枚で用意させた兵糧8000俵余りを、もはや不要として家康やその家臣らに分け与えています。
きっと、道中のもてなしに報いる心づもりもあったのではないでしょうか。


4月17日
・払暁に浜松を出発。
・今切の渡しを、用意された御座船に乗って浜名湖(浜名川)を越える。

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浜名湖

舟を下りて少しすると、右手に浜名の橋という名所があり、徳川家臣・渡辺弥一郎が機転を利かせ、浜名の橋や今切の由来、舟方のことなどを説明しました。
これに感心した信長は、弥一郎に黄金を与えています。

・潮見坂の御茶屋で休憩。
・晩に及んで雨となり、この日は吉田に宿陣。

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吉田城


4月18日
・吉田川を越え、御油(五位)の御茶屋で休憩。
この御茶屋には、表に結構な橋が架けられ、風呂も用意されていました。

・本坂、長沢の街道は山中で岩が露出していましたが、それも今回、金棒で岩を砕いて取り除き、平に均してありました。
・山中(地名/岡崎市本宿町)の法蔵寺(宝蔵寺)にも御茶屋が構えられていて、寺僧・喝食悉くが挨拶に出向きました。

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法蔵寺
家康幼少期の手習いの寺、そして新選組局長・近藤勇の首塚とされるものがあることでも知られます。

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法蔵寺前を通る旧東海道
当然この時、信長らが通った道でもあります。

・大平川(大比良川)を越え、岡崎城下のむつた川(乙川か?)・矢作川には橋が架けられていました。

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岡崎城

・矢作宿を過ぎ、知立(池鯉鮒)に宿陣。


4月19日
・清州着

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清州城

これ以降、信長の凱旋旅は中山道を経由し、近江鳥居本からは下街道を進むことになります。


4月20日
・岐阜へ移動

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岐阜城


4月21日
・呂久の渡し(揖斐川/瑞穂市)を、稲葉一徹の用意した御座船で渡る。
・垂井では、ごぼう殿(五坊/織田勝長)が用意した御屋形で一献進上。
・今須(関ヶ原町)では、不破直光が用意した御茶屋で一献進上。
・柏原でも、菅屋長頼が御茶屋を建てて一献進上。

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中山道、柏原宿

・佐和山城に御茶屋を建て、丹羽(惟住)長秀が一献進上。

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佐和山城

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佐和山城内に引き入れられた下街道(朝鮮人街道)
頭上の太鼓丸か、その下段の曲輪辺りに、丹羽長秀が用意した御茶屋が建っていたのではないかと思われます。

・山崎山城に御茶屋を建て、山崎源太左衛秀家が一献進上。

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山崎山城

・同日、安土に帰陣
最終日は家臣たちによる、接待漬けの道中だったようですね…(^_^;)

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安土城天主跡

天正10年4月10日~21日の12日間に及ぶ、織田信長の凱旋旅
今後も新たに沿道の関連地を訪れた際には、本記事に写真などを追加していきたいと思います。

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2016年12月22日 (木)

丸子城を経由した“街道”の存在について

静岡旅2日目。
サイガさんと朝イチで駿府城を散策した後、ゆっきーとも合流して丸子城へ。

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丸子城は今年の1月に続いて2度目の訪問。
勿論、前回は見逃した本丸南の尾根を少し下った先の竪堀や・・・

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丸馬出&長大竪堀などの素晴らしい遺構も堪能しましたが、個人的な今回の訪問テーマは、丸子城を経由していたのではないかと思われる山中の旧街道探しにありました。

山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(信長公記 巻十五「信長公、甲州より御帰陣の事」より)

これは天正10年(1582)、甲州征伐を終えた織田信長が、東海道を安土へ向けて凱旋した際の「信長公記」の記述です。これを読む限り、著者の太田牛一(即ち織田信長も)は、山中の道を通って丸子城に至ったように受け取れます。

1月に丸子城を訪れた際にも城山に道らしき痕跡を見つけ、サイガさんらと「街道っぽいよね…」と話していました。
そして後日、上記「信長公記」の記述を見つけ、これはいよいよ可能性がある!と思い、この機会に探索してみることにしたのです。

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北曲輪の堀切にあった案内表示。

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北曲輪の堀切を越えた先の尾根には道がついており、ここから北へ進んだ後、丸子の谷戸を迂回するように稜線沿いに東へ向かうと、今川義元の祖母・北川殿の菩提寺である徳願寺に繋がります。

東から西へ進んできた信長一行は、安倍川を越えて川沿いに少し北上し、そこから西へ舵を切って山中に取りついたのではないでしょうか。

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北曲輪の堀切に下りたら城内には入らず、城の右側面(西)へ進み・・・

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横堀の一段下を通ります。
※この写真は少し進んだ先から進行方向の反対を見ていますので、横堀は右上。

実際、街道を取り込んだ山城などでは堀切を道とし、城内から往来を監視する構造を持たせたものもあります。

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旧街道(と思われる位置)から見上げる、丸子城の横堀。

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この土塁に当たったら右へ下り・・・

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城域南西端にある長大竪堀を越えます。
道の痕跡から続く長大竪堀の堀底は、人が通って渡れるように土を盛って平らに均してありました。竪堀の傾斜が急に変わっているのがお分かりいただけますでしょうか。
土塁も切れています。

実は、道がこの長大竪堀を越えたのか否か、越えたとして如何に?が分からなかったのですが、ゆっきーが竪堀の土塁に接続している道の痕跡を、藪の中から発見してくれたお陰で堀底の渡し場も含め、全てが繋がりました。

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まぁ、北曲輪の堀切から長大竪堀までの間も、既述した横堀脇だろうと推定するまでは、その更に下の急斜面をさまよったりして、かなり大変でしたが…(^o^;)

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横堀脇から逸れ、竪堀に向かってくる道の跡。
写真だとアレですが、現地に立てばハッキリ「道」でしたよ(^-^;

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竪堀を越えた先。
この後は一旦、 城跡西側の谷戸に下ったのではないかと思われます。

この付近の山中には、駿府に繋がる間道がいくつか走っていたことは確かなようです。
それらと、主街道たる東海道との(近世以前に於ける)規模や用途の違いといったことについては把握できておりませんが、少なくとも天正10年の4月14日、織田信長の一行が通った道が丸子城を経由していた可能性は、「信長公記」の記述が示唆しているのではないかと考えています。

※以下2017年1月追記
但し、「信長公記」のまりこの川端にという表現からは、文字通り丸子川の畔から城を見ている印象も受け、若干の違和感も覚えます。
丸子川沿いを走る近世東海道は確かに麓を通りますが、安倍川を越えて丸子に近づくにつれ、前方や左右には山並みが迫ってくるようになります。今でこそ開発されて雰囲気も変わってしまっていますが、当時の景観を想像すると、この山並みが近づいてくる景色山中路次と表現したのかもしれない、とも思い直しています…これもちょっと無理がありますが。
或いは木枯森~牧ヶ谷を経由して昌院坂を南下してくる古道は、丸子城とは尾根違いなので直接は経由せず、丸子の集落(麓)へ下って旧東海道に合流するようなので、仮にの道(路次)を通ったとすると、こちらのルートだったかもしれません。

※2017年1月14日、実際に牧ヶ谷~歓昌院坂峠までのルートを歩いてみましたが、とても細くて険しい山道で、わざわざ家康が信長を案内するには、あまりに心許ないと感じました。
やはり現状では、素直に旧東海道を通ってきたと考えるのが妥当なのかもしれません。

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2016年12月20日 (火)

摺針峠に残る中山道の旧道

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ひとしきり佐和山城を堪能した後は、すぐ近くの摺針峠へ移動。
峠のピークに建つ神明宮から散策を開始し、鳥居本側へ旧中山道を下っていきます。

※摺針峠の街道を整備し、中山道の元となる東山道のメイン・ルートをこちらへ移したのは織田信長です。
この辺りのことはコチラの記事で詳しく触れていますので、合せてご参照ください。

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峠に建つ明治天皇磨針峠御小休所碑。
ここには江戸時代、望湖堂という茶屋が設けられて、参勤交代の大名や朝鮮通信使、皇女和宮降嫁の際にも立ち寄るなど、大変繁盛していたようです。
そのあまりの繁盛ぶりに、峠を挟む番場と鳥居本の両宿場から奉行所へ、望湖堂の本陣まがいの営業を慎ませるよう、訴えが出されたこともあるとか。
望湖堂は平成3年の火災で残念ながら焼失し、こちらの建物は後に望湖堂を模して再建されたものだそうです。

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中山道の碑

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まずは車道に沿って下っていきます。

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少しすると、車道から逸れる階段が出てきます。
これが中山道の旧道入口。

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摺針峠の中山道

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手すりや柱が邪魔ですが、峠の旧道特有の堀底道になっている様子は、よく見てとれるかと思います。

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一旦車道に分断されますが、ちゃんと車道の反対側へ繋がっています。

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車道を渡って再び旧道へ。

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織田信長が整備させた摺針峠の街道について、奈良東大寺金堂の僧侶の日記「東金堂万日記」には;
スリハリ峠ヨコ三間、深サ三尺ニホラル。人夫二万余、岩ニ火ヲタキカケ、上下作之。濃刕よりハ三里ホトチカクナルト也。
とあります。
横三間(約5.5m)×深さ三尺(90cm)・・・なんとなく雰囲気が伝わってきませんか?
この街道整備によって、美濃からの距離が三里(約12km)も短縮されました。

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旧道に沿うように、脇には細い水路も設けられていました。

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織田信長や皇女和宮も間違いなく通った道です。

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現在の車道と違い、旧道はほぼ一直線に峠を下っていきます。

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雰囲気を楽しみながら歩いていると、あっさりと麓に達しました。

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いつまでも歩いていたい気分になります。

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国道8号線脇の車道に合流するポイントに出ました。

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国道沿いに建つ摺針峠の碑。

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ところで、中山道の旧道は国道には合流せず、下ってきた峠道から真っすぐ先へ続きます。

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そのまま、この細い路地?を抜けると・・・

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なんと、中山道と北国街道の追分の石碑が建っていました。
こんな人目にもつかないような狭い路地が、2つの街道の追分だったとは・・・驚きました。

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さて、中山道はここで一旦途切れますので、我々も国道へ。
しかしすぐにまた、あちらのY字路左から再開されます。

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Y字路の中山道入口付近に建っていました。
後で調べたところ、米原市と彦根市の境は1kmほども北側・・・何故この場所に?

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中山道鳥居本宿

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佐和山城の城門(門扉)転用と伝わる、専宗寺太鼓門の天井を眺めつつ・・・

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中山道(左)と朝鮮人街道(彦根道/右)との追分へ。
※専宗寺以降、誰も付いてきていなくて、気が付いたら一人になっていました…(^_^;)

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追分の道標

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追分から見る朝鮮人街道方向。
奥に見えるのが佐和山。朝鮮人街道は前記事でも書いた通り、そのまま佐和山城内(太鼓丸下)を通過して、彦根側へと続いていきます。

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鳥居本の南、小野の集落。
小野小町の生誕地とも伝わり、集落内には小野小町塚があります。

さて、山城踏査会 & 忘年会からの1泊2日の旅も、これにて無事終了。
今回も、織田信長の歴史に関わり深い地をたくさんめぐることができ、念願だった佐和山城や朝鮮人街道の切通、摺針峠の旧道も歩けて大変充実した旅になりました。参加させていただき、本当にありがとうございました。
最後は私の希望に付き合わせちゃって、スミマセンでした…(^_^;)

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2016年12月18日 (日)

佐和山城

楽しく更けた前夜の余韻をどっぷりと残しつつ、ど~んよりと目覚めた2日めの朝・・・。
どうにか身支度を整え、9時前にホテルを出発しました。

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集合場所は佐和山城下、龍潭寺。
実は私、毎年コンスタントに滋賀県を訪れているにも関わらず、佐和山城に登るのはこれが初めて。どうした訳か後回しになっていたんですよね…その分、とても楽しみです。

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佐和山城絵図

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佐和山城縄張図

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佐和山城といえば、やはりこの方…という訳で、登城前にご挨拶。
※なのに私にかかると佐和山城も、カテゴリー分類は「織田信長」(笑)…その理由は後半で。

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今回は龍潭寺の墓地を抜け、かもう坂通り往還(龍潭寺越え)で塩硝櫓跡~西の丸を経由し、本丸を目指すルート。
写真の切通が龍潭寺越えの峠。ここから右手へ進んでいきます。

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峠の脇には竪堀も落とされていました。

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塩硝櫓跡

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塩硝櫓跡には、古そうな瓦の破片がたくさん転がっていました。

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そして早くも、本丸を見晴らすこともできました。

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西の丸の切岸。

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西の丸下には横堀らしき痕跡も。

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本丸の枡形虎口

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いい枡形♪

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佐和山城本丸

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佐和山城址

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彦根八景「武士の夢 佐和山」

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本丸からは、前日に訪れた菖蒲嶽城(写真中央)が見えました。

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同じく前日に訪れた、佐和山城包囲のための砦北の山=物生山城は何故か、手前の尾根に邪魔されて見通せず・・・。
物生山城側からは佐和山が見えていたのにねぇ…?

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南西方向に目をやると、和田山から観音寺城までもが一望のもと。
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛を控えた織田信長は佐和山まで出向き、7日間も滞在して観音寺城の六角氏との交渉に臨んでいます。
この光景がまさに、その7日間に及ぶ上洛前夜の歴史を語る眺め、とも言えそうですね。

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よ~く目を凝らすと、近江富士・三上山の姿もハッキリと。

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なかなかにサディスティックな急斜面を下る参加者たち…(^_^;)
赤や黒い服の方が覗き込む先には・・・

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石垣跡と思われる石列があったのですが、写真は見事に失敗…(´-ω-`)
↑つまり私も斜面を下りたww

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これが有名な佐和山城の隅石垣ですね。

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本丸から南側へ下った先にある千貫井。

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千貫井横の、本丸切岸にも石垣が見えていました。

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千貫井前から、南の方角を見る。
頂部が平坦(ゴルフ場)になっている山が里根山
物生山城の記事でもご紹介しましたが、姉川合戦後に織田信長が築かせた佐和山城包囲線。その南の山と「信長公記」に記された砦(水野信元)が築かれていたと考えられる山です。

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法華丸(右)と太鼓丸(左)への分岐点。

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その分岐点に築かれた竪堀。
ここの竪堀は、尾根の左右で喰い違いになっていました。

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法華丸への入り口付近には石垣らしき跡も見えましたが、この先は私有地のため立入禁止。
仕方ないので太鼓丸へと進みます。

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太鼓丸へと続く尾根道。右側には土塁が盛られていました。

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太鼓丸

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太鼓丸の先、北東方向に切岸を下るともう一つ曲輪跡があり、その更に先には・・・

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国道8号線に切り落とされた斜面の護岸がありました。高所恐怖症にはお薦めしません・・・。

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太鼓丸下の曲輪には、なかなか立派な枡形虎口が2つありました。
上写真は北東端の枡形で・・・

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こちらは南東側の枡形。
図面によっては竪堀と表現されているものもあるようですが、曲輪を取り巻く城道に繋がりますし、形状からしても虎口でしょう。

さて、ここまででも充分に佐和山城を堪能しましたが、実は私が一番観たかった遺構は、まだこの先にあるのです・・・

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太鼓丸南側の斜面を下ると、その先に足元の岩盤が恐ろしく落ち込んだ箇所があります。
写真だと暗くて分かりませんが、ほぼ直角で足がすくむほどの高さです。

この場所から脇の急斜面をなんとか下りていくと・・・

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ズッドーン!!と現れた切通!
(写真提供:サイガさん)

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反対側から
(写真提供:サイガさん)

実はこの切通、信長が佐和山城攻略後、岐阜⇔安土・京往来のルートとして整備した下街道(後の朝鮮人街道/彦根道)の痕跡なのです。
※下街道(朝鮮人街道)については、コチラの記事参照。

鳥居本で上街道(東山道/後の中山道)と分岐したこの下街道は、往還の重要拠点である佐和山城内に引き込まれ、彦根側へと抜けていました。

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西の方から見ていくと、彦根側から伸びてきた下街道が・・・

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件の切通を抜けて・・・
(写真提供:流星☆さん)

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その先で少しカーブし・・・

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鳥居本側へと下っていきます。

佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門一献進上。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

信長から佐和山城を預けられていた丹羽(惟住)長秀は天正10年(1582)、佐和山に御茶屋を建て、甲州征伐を終えて安土へ帰還する信長をもてなしています。
その御茶屋は、果たしてどこに建てられていたのか・・・個人的な推測に過ぎませんが、私は太鼓丸か、或いは先ほどご紹介した枡形虎口を2つ備える曲輪が気になります。
切通道からの高低差、枡形にも連なる曲輪を取り巻く城道などを考えると・・・後者か?

織田信長が整備し、佐和山城内へ引き入れられた下街道。
膨らみ続けた期待をも遥かに超越する巨大な遺構に、心底圧倒されました。観に来れて本当に良かった。

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一旦本丸まで引き返し、彦根城や琵琶湖の美しい風景を眺めながら昼休憩・・・♪

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下山後は、佐和山城の大手口へ。

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大手口に残る土塁。

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同じく大手口の土塁と堀跡。

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少し城山側へ近づくと、1mほどの段差の残る部分があります。

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大手口の土塁や堀が築かれる前は、この段差部分が防衛の最前線に想定されていたのではないかと考えられているそうです。

佐和山城、素晴らしい訪問になりました。
旅も大詰め、ラストは摺針峠へ向かいます。

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