カテゴリー「織田信長・信長公記」の188件の記事

2024年1月18日 (木)

有岡城

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1月中旬の週末、神戸を訪れる予定があり、そのついでに未訪のままになっていた有岡城にも足を延ばしてきました。
JR伊丹駅の周辺一帯が有岡城の主郭部だったようで、駅の横には史跡公園も整備されています。

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有岡城惣構図
図で見ると、不自然に感じるほど主郭部が惣構の東端に寄っていますが、この惣構の東側のラインは伊丹台地の縁で崖になっていたようです。

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有岡城主郭北端に残る石垣や土塁。
建物礎石跡や井戸跡なども復元展示されていました。

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主郭西側の堀跡。

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その南側の土塁、堀跡。

ところで、有岡城といえば荒木村重が織田信長に叛旗を翻して籠城した折、説得の使者として訪れた黒田官兵衛が城内の牢に幽閉されたことでも知られます。
その牢の位置は判明しませんが、黒田家が編纂した「黒田家譜」によると、牢の後ろには溜池があり、官兵衛の家臣・栗山善助は夜陰に紛れて池を泳ぎ渡り、官兵衛と連絡を取っていたそうです。

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江戸時代初期、寛文九年(1669) に成立した「伊丹郷町絵図」には、有岡城主郭の東側に池のようなものが描かれています。

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JR伊丹駅東側の地形。
現在も細い川が流れていますが、堀や池だった名残に見えなくもないですかね。

牢の外に咲く藤の花が幽閉される官兵衛の慰めになった、というエピソードも伝わっていますが、JR伊丹駅北東側の地名は「藤ノ木」・・・なんだか想像を逞しくしてしまいませんか。

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続いて旧石橋家住宅、旧岡田家住宅の前を抜けて・・・

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猪名野神社へ。
有岡城惣構の北端、岸の砦跡になります。

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境内に残る岸の砦土塁。

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その外側。
この小径は堀跡、ということでいいのかな?

この日は冷え込みが厳しく、急な雨もありましたので早々に退散しました。

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2023年5月28日 (日)

安土城、他

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安土駅前に建つ織田信長像。
ここから炎天下の中、徒歩で安土城跡へ向かいます。

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安土城跡では「令和の大調査」と銘打ち、最長20年にも及ぶ発掘調査・整備事業が予定されています。
最終的な調査範囲は広範に渡るようですが、本年度(R5)中には早速、天主台周辺の調査・整備が始まる模様です。
その天主台周辺の整備後のイメージ図に少々不安を覚えたこともあり、景観が変わってしまわないうちにとの思いから、今回の訪問になりました。

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黒金門
途中の遺構はすっ飛ばし、黒金門まで一気に駆け上がってきました。
ここから始まる主郭部を重点的に見ていきます。

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二の丸へ上がる石段。

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二の丸に祀られている織田信長廟。
門構えが新しくなっていました。

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本丸への虎口部と、天主台西面石垣。

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天主台南面石垣。

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本丸

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本丸礎石列

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台所跡へと続く本丸東虎口。

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本丸取付台を経由して天主台へ。

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天主台の石段。

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石段に用いられている切石状の笏谷石

(天正九年)七月十一日、越前より、柴田修理亮、黄鷹六連上せ、進上。並びに、切石数百、是れ又、進上申され候ひしなり。
(信長公記 巻十四「因幡国取鳥城取り詰めの事」より)

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天主台

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しっかりと、今の姿を目に焼き付けておきます。

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天主台の発掘調査は主に、現在我々が目にすることのできない北側が中心になる模様です。

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摠見寺跡から西の湖を望む。

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三重塔と共に貴重な現存建築物、二王門。

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下山後、引き続き徒歩にて安土城考古博物館へ。
令和五年度春季特別展「信長と家康 裏切る者・裏切らざる者」を拝観しました。

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信長と家康(裏切らざる者)、そして「裏切る者」として松永久秀や明智光秀、浅井長政、荒木村重らの関係資料を中心とした内容でした。
最も印象に残っているのは;

天正元年11月29日付 佐久間信盛宛織田信長黒印状
→反旗を翻し抵抗を続けていた松永久秀を、多聞山城の明け渡しと人質の提出を条件に赦免することにした旨を伝える内容。

松永申分つらにくき子細と表現していますが、個人的な印象としては、そこにあるのは「怒り」というよりも;
憎ったらしくてアッタマ来るけど、しょーもない○○ジジィが多聞山城と孫を人質に差し出すって言うから許したることにした。なのでお前らもこれ以上、四の五の言わないでね重而被申ましく候)。
といった調子で、むしろ反旗を翻した者を赦すのを、他の家臣(この場合は佐久間信盛)に言い訳しているようなニュアンスにさえ感じました。
そして佐久間信盛って、本当に一言多い家臣だったのかも・・・(^m^)

日付は、コチラの記事でご紹介した妙覺寺での茶会の6日後。信長はこの年、12月2日に岐阜に到着するまで京に滞在しています(信長公記)ので、妙覺寺を発つ直前くらいのタイミングで発給された文書とみて間違いないでしょう。

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考古博物館から駅までの道すがら。
今の季節ならではの、逆さ安土城。それにしても暑かったです。。。

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2023年5月25日 (木)

妙覺寺の特別拝観

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今回の京都旅は地下鉄「鞍馬口」駅から徒歩7~8分、妙覺寺からスタート。

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5月31日までの日程で行われている新緑特別拝観。
その一端の特別展示「京都妙覺寺における織田信長の茶会」を目当てに伺いました。

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方丈、書院の間に置かれた展示品。

京での宿所として、妙覺寺を幾度となく利用していた織田信長
朝倉・浅井を滅ぼし、足利義昭を京から追放して間もない天正元年(1573)11月23日、彼はここ妙覺寺で茶会を開きました。
その席で供された初膳~三ノ膳までの本膳料理と引き物2種、菓子9種を加えた計五膳を、列席していた津田宗及が事細かく書き留めていた記録(津田宗及茶湯日記)を元に復元(レプリカ)したものを並べていました。
献立を見ていくと雉や雁、鶉に白鳥と、明らかに鷹狩の獲物と思しき食材も多く使われていました。


もう一つの目当て、妙覺寺が所蔵する弘治2年(1556)4月19日付の斎藤道三書状、いわゆる美濃国譲り状も本堂に展示されていました。

長良川で討死する前日、道三がその一子に宛てて;
美濃国は織田信長の存分に任せることにした。その譲り状を信長にも書き送った。
そなたはかねてからの約束通り、京の妙覺寺に入りなさい。
etc...
などと書き送った書状です。
実際、妙覺寺19世・日饒上人は道三の子息と伝えられています。

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いつかは目にしたいと願っていた、あまりにも著名な文書。
誰にも気兼ねすることなく、一人静かにじっくりと拝観することができて感無量です。
※写真は本堂前の青もみじ

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2023年3月 6日 (月)

大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)

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「京の冬の旅」で初公開されている三玄院参拝の為、大徳寺へやってきました。
案内板にある他の2院にもお参りします。

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まずは三玄院から。

石田三成や浅野幸長、森忠政らが創建した大徳寺塔頭の一つ。
枯山水の昨雲庭を愛でつつ、八方にらみの虎や、一間毎に春夏秋冬を描きわけた襖絵の数々、三成や近衛信尹らの御位牌、古田織部による八窓の茶室・篁庵(外観のみ)などを拝観させていただきました。

今を逃すと次はいつ機会を得られるかわからない、貴重な時間を過ごさせていただきました。

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続けて芳春院へ。

慶長13年(1608)、前田利家夫人の芳春院(まつ)が開創した大徳寺塔頭の一つ。
本堂に安置された芳春院の木像や、金閣・銀閣・飛雲閣と共に「京の四閣」と称される呑湖閣などを拝観しました。
呑湖閣は想像以上に存在感のある建物で、とても印象に残りました。

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そして、10年ぶりの再訪となる総見院

まずは本堂で、案内板に写真が載っている織田信長坐像、そして総見院では初公開となる信長の肖像画を拝観しました。
※総見院所蔵の肖像画は、2017年に大徳寺本坊で狩野永徳の筆による信長の肖像画を拝観した際、一緒に並べられていました。
当時の記事

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3つある茶室も見学。

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信長の木像を運んできた輿。

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加藤清正が船底石として船に積み込み、朝鮮から持ち帰ったと云う大石を囲いに用いた掘り抜き井戸。
井戸自体はもっと古くからあったようで、天正13年(1585)の大徳寺大茶会では、秀吉自らこの井戸の水で茶を点てたとも伝えられているようです。

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いまだ現役の井戸で、石組みも綺麗に積まれています。

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大石を運ぶ時にあけられたものか、鉤状の穴も確認できます。

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可憐な姿で境内を飾っていたボケの花。
ボケを漢字で書くと「木瓜」・・・なるほどね♪

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最後に織田家墓所へご挨拶して、総見院、及び大徳寺を辞します。

所変わって・・・

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こちらは妙心寺の壽聖院
石田三成が父・正継の菩提寺として創建しました。

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庭は狩野永徳の設計とも伝わります。
瓢箪池は秀吉の馬標をモチーフとしているそうですが、植木に隠れて形はよく見えませんでした。

本堂では;
石田正継肖像画(複製)
石田三成や正継、その妻女らの御位牌
朝鮮出兵先からの石田三成書状
などを拝観しましたが、中でも印象に残ったのは、細川忠興が藪内匠頭正照の子息を召し抱える際に発給した目録で、日付の下にtada/uoqui
と彫られた小さな丸い朱印が捺されていました。
妻ガラシャが敬虔なキリスト教徒だった影響では、との説明でしたが、確かにラテン系っぽいスペルではありますね。

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石田三成と一族の墓所。

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その隣には、関ヶ原合戦後も壽聖院を支援した藪内匠頭正照のお墓も。

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妙心寺では7年ぶり玉鳳院にも再訪、狩野安信による襖絵花園法皇玉座の間に据えられた徳川家康(東照大権現)の御位牌織田信長・信忠、武田信玄・勝頼・信勝・信豊らの供養塔などを拝観しました。

この日はここまで、大徳寺と妙心寺で合わせて5つの塔頭を拝観しました。
拝観料だけでも4,000円・・・さすがにお財布も厳しくなってきましたので、これにて打ち止めです(;^_^A

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2022年12月 7日 (水)

別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)

2022年12月3~4日は、静岡県への旅。
運動不足に陥りがちな愛車のためのドライブが主な目的で、いくつかのお城をのんびりとめぐります。
が、その前に・・・

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まずは藤枝市郷土博物館・文学館へ。
先日発表された新発見文書、織田信長黒印状羽柴秀吉宛(天正6年)三月十三日付が、天下人と東海の戦国大名展で公開されるという情報を得、タイミング良く静岡への旅を予定していたので立ち寄りました。

文書は;
別所長治と問題があったよう(別所小三郎与申事有之由候)だが、別所はずっと忠節を尽くしている者である(別所之儀、連々忠節之者候)から、穏便に対処して報告するように。

と秀吉に伝える内容で天正6年(1578)に比定され、秀吉による別所長治の三木城攻め(三木の干殺し)が始まる直前にあたります。

思えば信長は、浅井長政の寝返りが明るみになった際も「浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべし」(信長公記)と、なかなか離反を信じようとしなかったですし、武田信玄が織田・徳川同盟との対決を期して遠江へ侵攻した元亀3年(1572)10月の時も、信玄本人が甲府を出陣(10/3)した後に至ってもなお、武田×上杉間の甲越和与の実現に向けて奔走(10/5付書状)しており、当初は先に動いていた武田別動隊(山県)の軍事行動の切っ先が、己の側を向いているとは露ほども疑っていませんでした。
また、荒木村重離反の際も「不実におぼしめされ、何篇の不足候や、存分を申し上げ候はば、仰せ付けらるべき」(同)とあります。

今回の新発見文書も信長のそんな、同盟者や配下を疑わない、疑いたがらない性分の一端が垣間見えるような史料で、とても興味深く感じました。

その信長が最後の最後、明智光秀の謀反を知った瞬間だけは;
是非に及ばず
の一言を発しただけだったと云うのは・・・推して知るべし、といったところでしょうか。

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2022年11月15日 (火)

旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿

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旧東海道、藤川宿の西棒鼻。
8月に旧東海道を御油宿から藤川宿まで歩いてきましたので、今回はその続きとなります。

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出発するとすぐに藤川の松並木が出迎えてくれます。

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松並木を抜けると一旦国道1号線に出ますが、1㎞ほどでまた左へ逸れていきます。

正田の町より大比良川こさせられ、岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、矢はぎの宿を打ち過ぎて、池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月18日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長はこの日、三河の吉田城下を出発して御油や本宿を経由(参照記事)した後、岡崎や矢作を通過して知立(池鯉鮒)まで進みました。

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国道から外れて300mほど進んだ地点。
この辺りの旧街道から左(南西)の方向には名鉄の美合駅がありますが、その北~北西一帯に「美合町生田」という地名があります。

正田の町より大比良川こさせられ、
太田牛一が書き残した正田の町、その名残の地名が美合町生田ではないでしょうか。

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その北西側には美合町生田屋敷という地名もあり、詳細は不明ながら生田城址碑も建っています。

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正田城址碑前から、美合町生田方向。
少し高台になっている辺りが正田の町

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長閑な旧街道をしばらく進み・・・

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藪に遮られえた突き当りが、乙川の渡河地点。

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旧街道は川で途切れていますので、すぐ近くを通る国道1号の橋へ迂回します。

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乙川の流れと旧東海道の渡し場付近。
藤川宿側から川を渡った対岸(北)は「大平」という地名になり、乙川には「大平川」という別名もあります。
そう、牛一が記した「太比良川」です。

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乙川の北岸。
旧街道の名残らしき畦道が見えていますが、その傍らには・・・

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大平川水神社が祀られていました。

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太平の集落を進みます。

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旧街道から少し外れ、西大平藩陣屋跡。
西大平藩は旗本だった大岡越前守忠相が寛延元年(1748)、三河国宝飯・額田・渥美で4,080石の加増を受け、都合1万石の大名となったことでて立藩されました。

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太平一里塚
江戸日本橋から80里になります。

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岡崎IC出入口の下を潜る旧東海道。

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岡崎の城下町(岡崎宿)が近づいてきたところで、少し寄り道して朝日町の若宮八幡宮へ。

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徳川家康の嫡男・信康の首塚にお参りしました。

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さて、旧東海道に復帰して岡崎宿へ。

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岡崎宿内を通る旧東海道は二十七曲りとも呼ばれ、20ヶ所以上もの折れを伴います。

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要所要所にこうした案内表示を建ててくれていますので、これを頼りに丁寧にトレースして行きます。

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岡崎三郎信康も初陣の折に祈願したと云う、聖観世音菩薩を本尊とする根石寺。

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籠田惣門跡
ここから先が、近世岡崎城の惣構の内になります。

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籠田公園の中を通り抜ける旧東海道。
この日はラリー・ジャパンに関連したイベント(お祭り)が開催されていて、凄い賑わいでした。

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いや、そこまで小刻みに案内してくれなくてもわかるって(笑)

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もうすぐ城下を抜けてしまう、という地点まで来てようやく岡崎城天守が見えました。

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旧東海道が国道248号と交錯する辺りが、松葉惣門跡。

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江戸時代、現在の国道248号の西側を沿うような位置に、松葉川という川が南北に流れていました。
岡崎城の西側の惣堀も担っており、旧東海道が松葉川と交錯するこの地点には松葉惣門が構えられ、橋も架けられていたと云います。
「東海道中膝栗毛」でも、弥次・喜多が(宿のはずれの)松葉川を渡って矢作橋へ向かった様子が描かれています。

岡崎城の腰むつ田川矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、

事前にいくら調べても、信長公記に見える「むつ田川」を特定することができませんでした。
しかし、岡崎城の腰の「腰」が何を意味しているのかは判断に悩むところですが、むつ田川・矢はぎ川と連続する既述の並びと、実際の矢作川との位置関係などから、この松葉川をむつ田川に比定しておきたいと思います。

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松葉惣門跡を出てしばらく進むと、八丁味噌で有名な八帖町に入ります。

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岡崎を舞台にした連続テレビ小説「純情きらり」に出演されていた、宮崎あおいさんの手形。

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矢作橋からの矢作川(矢はぎ川)。
江戸時代の矢作橋はもう少し南側(写真の方向)に架かっていたそうですが、天正10年に信長一行のために架けられたと云う橋は、果たして何処にあったのでしょうか。

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矢作橋、西側のすぐ袂に建つ出合乃像。
史実云々は別にして、「絵本太閤記」に描かれた日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いのシーンを再現しています。

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矢作川を越えると、矢作宿の町並みが続いています。
江戸時代に整備された旧東海道の宿駅制度からは外れましたが、矢作川を渡る旅人らの宿場町として栄えたそうです。

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岡崎信康唯一の肖像画を所蔵する勝蓮寺。

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矢はぎの宿を打ち過ぎて、

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矢作宿を抜けると国道1号線に合流し、3㎞ほども退屈な区間が続きますが、安城市に入ったところでようやく国道から右へ逸れてくれました。

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やっぱり松並木はいいですよねぇ~。

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低く横に大きく枝を広げる、永安寺の雲竜の松。

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推定樹齢は約350年・・・さすがに信長一行が通過した天正10年にはまだ生えていませんね。

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猿渡川を越えると、旧東海道はいよいよ知立市に入ります。

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来迎寺一里塚
旧東海道を西向きに歩いてくると、一方(北側)の塚が建物の裏に隠れてわかりづらいのですが・・・

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実は一対で残っています。

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泉蔵寺、吉田忠左衛門夫妻の墓所。

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元禄赤穂事件で有名な吉田忠左衛門。その妻であるりんは、忠左衛門切腹後に身を寄せた娘婿の主家の転封により、宝永七年(1710)に刈谷へ移り住みました。
しかし刈谷入りの僅か半年ほど後に亡くなり、形見として持っていた忠左衛門の歯と共に、この地へ埋葬されました。

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知立の松並木

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松並木の途中に建つ馬市の句碑。
江戸時代、この辺りでは毎年4月25日~5月5日の間、馬市が開かれ、4~500頭もの馬が並べられたと云います。

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歌川広重も、東海道五十三次で馬市の様子を描いています。
「池鯉鮒 首夏馬市」

知立は「池鯉鮒」とも書きましたが、それは当地にあった御手洗池、或いは知立神社の神池に鯉や鮒がたくさんいたため、との由来も伝えられています。
旧東海道の宿場名を示す際は、「池鯉鮒宿」とするのが一般的なようです。

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松並木を抜けた先が池鯉鮒宿。
今回の旧東海道歩き旅のゴールです。

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風情ある細い道を進み・・・

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この突き当りを右へ折れた先が・・・

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知立古城址

池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。

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元々は知立神社の神官・永見氏の居館があった場所で、刈谷城主・水野忠重(宗兵衛)が、その跡地を利用して信長饗応のための御殿御屋形)を整備したと伝わります。
※家康の側室で、結城秀康を生んだ於万の方は永見氏の出

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御殿址の石碑
江戸時代に入ると更に拡張され、徳川将軍が上洛する際の休息用の御殿にもなりました。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、知立一帯は刈谷城を押さえた緒川城主・水野信元の領有となりました。忠重はこの信元の異母弟にあたります。
信元は織田家に従っていましたが、信長に武田方への内通を疑われて死に追いやられ(天正3年/1575)、刈谷を含む彼の旧領は佐久間信盛の手に渡りました。
その佐久間父子の追放(天正8年)後、刈谷は忠重に与えられて水野家に復します。
忠重はこの後、高天神城を包囲する徳川軍の陣中にあり、年が明けた翌天正9年1月には、高天神城の処置についての信長の意向を伝える書状を受け取っています。

慶長5年(1600)、家康から隠居料として与えられた越前へ向かう堀尾吉晴を知立でもてなした際、同席していた加賀井重望によって殺害されました。
堀尾吉晴をもてなし、そして自らの最期をも迎えることになってしまった歓待の席も、或いはこの地にあった御殿が用いられたのかもと想像しています。

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知立付近一帯を描いた屏風絵。
東海道が御殿のところで突き当りになっている様子もよく描かれています。
右下隅の方に描かれているのは、岡崎城とその城下町。こちらも二十七曲りの様子がよく見て取れます。

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旧東海道は更に西へと続きますが、私はここを右(北)へ曲がって・・・

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知立神社にお参り。
写真は永正6年(1509)の再建と伝わる多宝塔。知立神社の別当寺だった神宮寺の遺構とのことです。

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神池には、やはり多くの鯉が。

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七五三シーズンにあたっていたため、この日は多くのお子さん連れで賑わっていました。

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旅の最後は電車で少し移動し、刈谷市の楞厳寺へ。
水野家の菩提寺で、水野忠重画像も所蔵しています。

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水野信元や忠重らが眠る水野家廟所。

本当は刈谷城まで足を延ばしておきたかったのですが、空模様が急激に怪しくなり、疲労もありましたので雨に降られる前に切り上げました。
いずれまた機会があれば・・・。

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2022年10月13日 (木)

「こぬか薬師」を拝観

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医徳山薬師院
毎年10月8日の1日だけ行われる、御本尊の薬師如来像開扉法要に合わせてお参りに来ました。

薬師院の御本尊は、後に比叡山延暦寺(延暦25年/806~)の開祖となる最澄が延暦元年(782)、16歳の時に彫った薬師如来像7体のうちの1つとされていて、伝承によると美濃国横倉の医徳堂に安置されていました。
(現在の薬師院の山号である「医徳山」も、これに由来するものでしょう)
最澄作の薬師如来像で現存するのは、延暦寺のものと当院の僅かに2体のみと伝わります。

寛喜2年(1230)、「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」との薬師如来のお告げがあり、これを知って訪れた人々の病が平癒したことから「不来乎(こぬか)薬師」と呼ばれるようになったのだとか。

その後、評判を知った織田信長により、美濃から京へ勧請されたものと伝えられています。

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法要の後、午後2時頃から順に本堂へ上がらせていただき、実際に至近の距離で御本尊を拝ませていただきました。
想像していたものより遥かに小さく、僅か15~20㎝四方ほどの御厨子の中に本尊の薬師如来をはじめ、日光・月光菩薩、そして十二神将の、合わせて15体の仏様がびっしりと立ち並んでいました

前年までの2年間は、コロナ禍の影響で本堂に上がることは叶わなかったそうです。
そういう意味でも、本当に幸運な参拝になりました。

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2022年10月12日 (水)

島津家久が信長を目撃した場所とは?

天正3年(1575)2月、「島津四兄弟」の一人としても名高い島津家久は薩摩を出発し、伊勢神宮参拝を主な目的とした半年近くに及ぶ旅に出ました。
彼はその道中を、「中務大輔家久公御上京日記」「中書家久公御上京日記」「家久君上京日記」などと呼ばれる日記に事細かく残しているのですが、その4月21日の条は次のようになっています。

廿一日、紹巴へ立入候、やかて心前の亭をかされ宿と定候、さて織田の上総殿、おさかの陣をひかせられ候を心前同心ニて見物、下京より上京のことく、馬まハりの衆打烈、正国寺の宿へつかせられ候、(~中略~)上総殿支度皮衣也、眠候てとをられ候、十七ヶ國の人数にて有し間、何万騎ともはかりかたきよし申候、

京に入った家久は連歌師の里村紹巴を訪ね、その弟子である心前の居宅を宿として提供されました。
そして織田信長が大坂から帰陣するというので、心前と連れ立って見物に向かい、実際に信長を目撃しています。
果たして彼が信長を目撃した場所とは何処であったのか・・・俄かに気になり、ちょっと検討を加えてみました。

紹巴の弟子である心前は後に、明智光秀の発句「時は今~」で有名な愛宕百韻にも、師の紹巴や兄弟弟子の昌叱と共に名を連ねています。
その居宅の所在地は不明ですが、師である紹巴屋敷の隣にあったとの説もあるようなので、下長者町通沿いに所在する紹巴町の付近一帯と推定しました。

そして信長の軍勢は下京から上京へと進んだ後、相国寺に達しています。
このことから、信長の軍勢が通行したルートについては、下京と上京を結んでいた室町通を真っ直ぐに北上してきたものと想定しました。

とすると家久が信長の軍勢を見物したのは、現在の紹巴町から下長者町通を東へ進み、室町通と交差する・・・

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こちらの写真の辺りではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
写真手前から伸びる道が下長者町通で、左右に交錯するのが室町通です。

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相国寺がある北の方角へと続く室町通。

家久が目撃した信長は皮の衣を着し、(馬上で)居眠りをしながら通っていったと云います。
なんだか信長の人間臭い一面が垣間見えて、個人的にはとても好きなエピソードの一つです。

家久は同月28日にも、美濃へ帰国する信長の軍勢を見物しています。
※「信長公記」では、信長の離京は27日。

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2022年10月11日 (火)

織田信長“幻の”京屋敷計画(吉田神社・宗忠神社)

今回は京都への旅です。
調べてみたところ、京都に宿泊するのは5年ぶりになります。

京都駅から電車を乗り継ぎ、出町柳駅から東の方角へ歩くこと10分ほどで・・・

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神楽岡とも呼ばれる吉田山が見えてきました。

永禄11年(1568)9月27日には、織田信長による足利義昭を擁した上洛戦に参陣していた近江北郡衆(浅井勢か)や高島衆(朽木勢か)の8,000ほどの軍勢が、この吉田山に布陣しています(言継卿記)。
なお信長は同日、近江の三井寺に滞陣して義昭と合流し、翌28日に入京を果たしました(信長公記)。

また、建武3年(1336)にも、後醍醐天皇方と対峙する足利尊氏も神楽岡に陣を布いたことがあるようです。

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まずは吉田神社から参拝。

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ところが吉田神社では結婚式が執り行われている真っ最中で、本宮への参拝は叶いませんでした。

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仕方ないので本宮は諦め、大元宮へ。

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大元宮の本殿は八角形のような形をしていますが、これは密教や儒教、陰陽道、道教などの諸宗教・諸思想を統合しようとした吉田神道の理想を形に表したものと考えられているそうです。

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そのまま、大元宮のすぐ裏手から宗忠神社へ。

元亀4年(1573)7月14日、「吉田山に屋敷を建てては如何か」との明智光秀の進言に基づき、織田信長の命を受けた柴田勝家、木下秀吉、滝川一益、丹羽長秀、松井友閑らが検分のため、吉田神社の神主・吉田兼見(この時点では「兼和」。天正14年/1586に「兼見」へ改名)の元を訪れます。
検分の結果、屋敷地には不向きとの結論を以て屋敷建設は結局、沙汰止みになりました。

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これは当の吉田兼見が記した「兼見卿記」に載っているエピソードなのですが、この時に信長屋敷の候補地とされたのが、現在は宗忠神社(文久2年/1862創建)の建つ場所であったと、いつぞやのTV番組で紹介されているのを観た記憶があります。

屋敷地に不向きとされた理由も定かではありませんが、そもそも何故、兼見とも親交の篤かった光秀が、兼見にとって迷惑この上ないような提案を信長にしたのかも謎ですし、これ以降も2人の関係に変化が見られないこととも合わせ、なんとも不思議な顛末に思えます。

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帰りは正参道から下山。

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備前焼の逆立ち狛犬。

翌15日、兼見は信長が宿所としていた妙覚寺に参上しています。屋敷造営の取り止めに対する御礼言上にでも伺候したのでしょうか。

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2022年8月10日 (水)

近衛龍山(前久)の浜松下向

天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変織田信長が亡くなると、信長と親交のあった近衛前久は出家して龍山と号します。
佞人讒訴の企てによって秀吉の嫌疑を受けた龍山は嵯峨て逼塞し、やがては京を離れ、徳川家康を頼って浜松へ向かいました。
茶色字部分は石谷光政・頼辰宛 近衛前久書状より抜粋引用

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東岡崎駅からもほど近い、乙川ほとりの満性寺
毎年8月7~8日の2日間、虫干しを兼ねた宝物展示が行われることを知り訪れてみました。

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龍山は天正10年11月7日付で、浜松へ忍びで下向することになったことを伝え、その道中の宿所提供を依頼する書状(上写真)をこの満性寺宛に発しています。

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後に紹介する同月13日付の書状により、龍山は11月12~13日頃に浜松へ到着したことが知れるので、満性寺に宿泊したのは11月10日前後のことと推定されています。

龍山はこの年、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐に参陣しており、4月には信長の凱旋旅にも同行して岡崎を通行した際にか、彼は過去にも満性寺に立ち寄ったことがあったようです。
11月7日付の書状には、その折に交わした雑談などを忘れ難く思っていること、その後にも満性寺から便り(書札)をもらったことなども書かれており、それに続けて;

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(聖徳)太子の次第を信長にもつぶさ(具)に伝え、内々に聴聞に訪れてみようと話していたところに不慮の儀(本能寺の変)が発生して叶わなくなり、是非もない。
といったことも記されています(上写真部分)。

満性寺では聖徳太子が篤く信仰されてきたようで;

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聖徳太子2歳の時の姿と云う「南無仏太子像」(左/鎌倉期)や「聖徳太子講讃孝養図」(右/天正6年頃)、

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「聖徳太子立像」(童形執笏太子像/江戸期)など、聖徳太子にまつわる品々が多く伝えられています。

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また、本堂脇に建つ太子堂にも・・・

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やはり聖徳太子が祀られています。

龍山は浜松への道中、満性寺に宿泊した際には実際に目にした(江戸期作の聖徳太子立像は別として)ことでしょうし、本能寺の変が起こらなければ織田信長も龍山と一緒に訪れて目にしたかもしれない貴重な品々です。

近衛家と満性寺の関係はその後も続いたようで、満性寺には他に;

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近衛前久(龍山)の「詠十首和歌」

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近衛信尹(前久息)の書簡

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近衛家から拝領の品々なども残されていました。

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また、太子堂には歴代徳川将軍のご位牌も安置され、酒井忠次からの書状や寄進状なども展示されていました。
その他にも数多くの寺宝が本堂や庫裏に展示されていましたが、とても一挙にご紹介しきれるものではありませんので割愛します。

ところ変わって・・・

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浜松城の西に位置する西来院

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近衛龍山は浜松到着後、11月13日付で岡崎の満性寺に一宿の馳走を謝した書状を出しています。
その文中で徳川家臣・石川家成の手配により、この西来院入ったことを伝えています。

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西来院には、西方僅か2㎞ほどの佐鳴湖畔で殺害された築山殿(徳川家康正室)の廟所「月窟廟」や・・・

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家康の異父弟・松平康俊の墓所もありました。

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JR浜松駅の南1㎞ほど、龍禅寺仁王門跡。最盛期には、この辺りも龍禅寺境内の一角に含まれていたのでしょう。
奥には大きな松の木が見えています。

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龍禅寺のクロマツ。
第2次大戦の戦火を免れ、市の保存樹に指定された平成7年の段階で、既に樹高が27mもあったといいます。

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龍禅寺山門

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龍禅寺境内

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金光院龍禅密寺の額

西来院に逗留後、龍山はここ龍禅寺に移り、金光院の北の亭に滞在したと云います。
この亭は後に、龍山公の亭とも称されたとか。

その正確な位置はわかりませんが、境内に建つ松永蝸堂の句碑の説明板に気になる記述がありました。

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元亀年間は後水尾天皇の曽祖父・正親町天皇の時代で、後水尾天皇はまだお生まれにもなっていません。
そればかりか、近衛前久が龍山と号したのは既述の通り、天正10年6月2日の本能寺の変後のことですし、徳川和子の入内は龍山没後(慶長17年=1612)の元和6年(1620)のこと。
いろいろなことが全く史実に反しています。きっと、天正10~11年にかけて龍山が滞在した折のことが、その他の諸々と混同して伝えられてきたのではないかと推察します。

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近衛龍山が滞在していた亭の跡地だという、松永蝸堂の句碑(中央)

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龍禅寺の梵鐘
文化11年(1814)の鋳造。第2次大戦時に供出されましたが、戦後、無事に還元されたそうです。

天正11年(1583)6月2日、龍山はここ龍禅寺で織田信長の一周忌追善供養を執り行い、南無阿弥陀仏[な・む・あ・み・だ(た)・ぶ(ふ)]の六字名号を冠した追善の歌を詠んだと云います。
彼は5年後の天正16年(1588)、京の報恩寺に奉納された織田信長肖像画の賛にも、同様の歌を詠んでいます。

徳川家康の取り成しもあって天正11年9月、龍山はおよそ10か月ぶりの帰京を果たしました。


※参考図書
「流浪の戦国貴族 近衛前久」谷口研語(中公新書)

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