カテゴリー「織田信長・信長公記」の179件の記事

2022年8月10日 (水)

近衛龍山(前久)の浜松下向

天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変織田信長が亡くなると、信長と親交のあった近衛前久は出家して龍山と号します。
佞人讒訴の企てによって秀吉の嫌疑を受けた龍山は嵯峨て逼塞し、やがては京を離れ、徳川家康を頼って浜松へ向かいました。
茶色字部分は石谷光政・頼辰宛 近衛前久書状より抜粋引用

A20220807a01
東岡崎駅からもほど近い、乙川ほとりの満性寺
毎年8月7~8日の2日間、虫干しを兼ねた宝物展示が行われることを知り訪れてみました。

A20220807a02
龍山は天正10年11月7日付で、浜松へ忍びで下向することになったことを伝え、その道中の宿所提供を依頼する書状(上写真)をこの満性寺宛に発しています。

A20220807a03
後に紹介する同月13日付の書状により、龍山は11月12~13日頃に浜松へ到着したことが知れるので、満性寺に宿泊したのは11月10日前後のことと推定されています。

龍山はこの年、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐に参陣しており、4月には信長の凱旋旅にも同行して岡崎を通行した際にか、彼は過去にも満性寺に立ち寄ったことがあったようです。
11月7日付の書状には、その折に交わした雑談などを忘れ難く思っていること、その後にも満性寺から便り(書札)をもらったことなども書かれており、それに続けて;

A20220807a04
(聖徳)太子の次第を信長にもつぶさ(具)に伝え、内々に聴聞に訪れてみようと話していたところに不慮の儀(本能寺の変)が発生して叶わなくなり、是非もない。
といったことも記されています(上写真部分)。

満性寺では聖徳太子が篤く信仰されてきたようで;

A20220807a05
聖徳太子2歳の時の姿と云う「南無仏太子像」(左/鎌倉期)や「聖徳太子講讃孝養図」(右/天正6年頃)、

A20220807a06
「聖徳太子立像」(童形執笏太子像/江戸期)など、聖徳太子にまつわる品々が多く伝えられています。

A20220807a07
また、本堂脇に建つ太子堂にも・・・

A20220807a08
やはり聖徳太子が祀られています。

龍山は浜松への道中、満性寺に宿泊した際には実際に目にした(江戸期作の聖徳太子立像は別として)ことでしょうし、本能寺の変が起こらなければ織田信長も龍山と一緒に訪れて目にしたかもしれない貴重な品々です。

近衛家と満性寺の関係はその後も続いたようで、満性寺には他に;

A20220807a09
近衛前久(龍山)の「詠十首和歌」

A20220807a10
近衛信尹(前久息)の書簡

A20220807a11
近衛家から拝領の品々なども残されていました。

A20220807a12
また、太子堂には歴代徳川将軍のご位牌も安置され、酒井忠次からの書状や寄進状なども展示されていました。
その他にも数多くの寺宝が本堂や庫裏に展示されていましたが、とても一挙にご紹介しきれるものではありませんので割愛します。

ところ変わって・・・

B2022041701
浜松城の西に位置する西来院

B2022041702
近衛龍山は浜松到着後、11月13日付で岡崎の満性寺に一宿の馳走を謝した書状を出しています。
その文中で徳川家臣・石川家成の手配により、この西来院入ったことを伝えています。

B2022041703
西来院には、西方僅か2㎞ほどの佐鳴湖畔で殺害された築山殿(徳川家康正室)の廟所「月窟廟」や・・・

B2022041704
家康の異父弟・松平康俊の墓所もありました。

C2022041601
JR浜松駅の南1㎞ほど、龍禅寺仁王門跡。最盛期には、この辺りも龍禅寺境内の一角に含まれていたのでしょう。
奥には大きな松の木が見えています。

C2022041602
龍禅寺のクロマツ。
第2次大戦の戦火を免れ、市の保存樹に指定された平成7年の段階で、既に樹高が27mもあったといいます。

C2022041603
龍禅寺山門

C2022041604
龍禅寺境内

C2022041605
金光院龍禅密寺の額

西来院に逗留後、龍山はここ龍禅寺に移り、金光院の北の亭に滞在したと云います。
この亭は後に、龍山公の亭とも称されたとか。

その正確な位置はわかりませんが、境内に建つ松永蝸堂の句碑の説明板に気になる記述がありました。

C2022041606
元亀年間は後水尾天皇の曽祖父・正親町天皇の時代で、後水尾天皇はまだお生まれにもなっていません。
そればかりか、近衛前久が龍山と号したのは既述の通り、天正10年6月2日の本能寺の変後のことですし、徳川和子の入内は龍山没後(慶長17年=1612)の元和6年(1620)のこと。
いろいろなことが全く史実に反しています。きっと、天正10~11年にかけて龍山が滞在した折のことが、その他の諸々と混同して伝えられてきたのではないかと推察します。

C2022041607
近衛龍山が滞在していた亭の跡地だという、松永蝸堂の句碑(中央)

C2022041608
龍禅寺の梵鐘
文化11年(1814)の鋳造。第2次大戦時に供出されましたが、戦後、無事に還元されたそうです。

天正11年(1583)6月2日、龍山はここ龍禅寺で織田信長の一周忌追善供養を執り行い、南無阿弥陀仏[な・む・あ・み・だ(た)・ぶ(ふ)]の六字名号を冠した追善の歌を詠んだと云います。
彼は5年後の天正16年(1588)、京の報恩寺に奉納された織田信長肖像画の賛にも、同様の歌を詠んでいます。

徳川家康の取り成しもあって天正11年9月、龍山はおよそ10か月ぶりの帰京を果たしました。


※参考図書
「流浪の戦国貴族 近衛前久」谷口研語(中公新書)

| | コメント (0)

2022年8月 9日 (火)

旧東海道、御油宿~藤川宿

2022年8月6~7日は、愛知県岡崎市方面への旅。
まず初日は新幹線を豊橋駅で降り、名鉄線に乗り換えて御油駅へ。
御油宿をスタート地点とし、旧東海道を藤川宿まで歩きます。

2022080601
御油宿、江戸方の入り口となる音羽川と御油橋。

四月十八日、吉田川乗りこさせられ、五位にて御茶屋美々しく立て置かれ、面入口に結構に橋を懸けさせ、御風呂新しく立てられ、珍物を調へ、一献進上。大形ならぬ御馳走なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は、4月18日、吉田城下を出発し、その日は知立(池鯉鮒)まで進んでいます。
その道中、御油(五位)に差し掛かると表()の入口には結構な橋が架けられ、お風呂も新しく用意され、盛大なもてなしを受けています。
信長一行のために表の入口に架けられた結構な橋・・・きっと、旧東海道が通るこの御油橋辺りに架けられていたのではないでしょうか。

2022080602
御油橋を渡り、旧東海道歩きをスタートします。

2022080603
東林寺

2022080604
東林寺には、飯盛女のお墓が建ちます。
ある晩、飯盛女4人が示し合わせて旅籠を抜け出し、世を儚んで入水自殺してしまいました。
これを哀れんだ旅籠の主人や東林寺の住職らが供養のため、これらのお墓を建てたのだと云います。
なお墓石は5基ありますが、残りの1基については詳細を把握できておりません。

2022080605
御油宿は江戸から35番目の宿場で、次の赤坂宿とは僅かに1.7㎞ほどしか離れておらず、東海道の宿駅間では最も短かくなっていました。
飯盛女のエピソードが示す通り、御油と赤坂は歓楽的な宿場としても知られていたようです。

2022080606
御油宿を抜けると、国の天然記念物にも指定される御油の松並木が続きます。
これは見事。

2022080607
松並木を抜けると、そこはもう赤坂宿。
写真のすぐ先、路面の色が少し変わっている辺りが東見附跡になります。
しかし、東見附は寛政8年(1796)、更に先へ150mほど進んだ・・・

2022080608
こちらの関川神社の前に移されたそうです。

2022080609
大橋屋(旧旅籠鯉屋)
文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられており、江戸時代には鯉屋を屋号とする旅籠が営まれました。
その後、所有者の変更もあって屋号を大橋屋と変え、なんと平成27年まで旅館として営業されていました。

2022080610
鯉屋に再現された、歌川広重の東海道五十三次「赤阪 旅舎招婦ノ図」に描かれた蘇鉄と石燈籠。

2022080611
地面には、失われた建物部分の間取りが平面展示されています。

2022080612
なお、近くの浄泉寺境内に、広重が描いた蘇鉄と伝わるものが移植されています。
明治20年頃、道路の拡張工事に伴って移されたそうです。

2022080613
大橋屋を辞し、しばらく進むと景色が一変してきました。
写真は岩略寺城跡辺りを写しています。

2022080614
正面の標識が示す通り、豊川市の長沢町という地名になるのですが・・・

本坂、長沢、皆道、山中にて、惣別石高なり。今度金棒を持ちて岩をつき砕かせ、石を取り退け、平らに申し付けられ、
(同)

この辺りの街道は「山中」で石や岩がゴロゴロしていたものを、信長一行の通行のために金棒でそれらを打ち砕き、取り除いて平らに整備させたと云います。
実際に東海道を歩いてみると、確かに山深い景観ではあるものの、通行する場所は山間といった風情です。

信長の凱旋旅を追って静岡県の丸子城周辺を訪れた際も;

山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(同)

という信長公記の表現に惑わされましたが、太田牛一(或いは当時の人々)は「山の中」でなくとも、山間のことも「山中」と表現していたのかもしれません。
コチラの記事、4月14日の項参照。

或いは近世以前、中世の主要道でもある鎌倉街道は、上の写真に写る山の中腹を通っていたとのこと。
・・・織田信長らが通行したのは、果たしていずれの道であったのか?

2022080615
こういう風情のある旧街道歩きは、本当に飽きることがないのですが・・・

2022080616
「関屋」という信号の少し先で、国道1号に合流しました。
ここから暫くは、退屈な国道歩きが続きます。

2022080617
岡崎市域に入ったところで本宿に到着です。

2022080618
赤坂宿と藤川宿の中間に位置する本宿村は、徳川家康手習いの寺としても知られる法蔵寺の門前を中心に発展しました。

2022080619
法蔵寺
個人的には、9年ぶりの再訪となりました。

爰に山中の宝蔵寺、御茶屋、面に結構に構へて、寺僧、喝食、老若罷り出で、御礼申さるる。
(同)

ここでいう「山中」は、本宿が所在する山中郷を指しています。
門前のこの辺りに、信長のための御茶屋が築かれたのでしょうか。

2022080620
再び国道1号に合流する手前にも、松並木がありました。

2022080621
既に結構な疲労を感じていましたが、信長たちが向かった池鯉鮒(知立)は、国道1号でまだ25㎞も先。
しかも彼らの出発地は吉田で、私の御油よりも遠い・・・昔の人は凄かった(笑)

2022080622
また旧道が復活するポイント。

2022080623
名鉄の線路沿いを進みます。

2022080624
結構アップダウンのある行程を道なりに進み、国道1号への合流地点手前で再び松並木。

2022080625
山中八幡宮
なかなか興味深い歴史もありそうでしたが、どれくらい登るのかわからず、体力の残量も少なかったので参拝は断念。

2022080626
道の駅藤川宿まで1㎞の看板があるポイントで、国道を左へ逸れます。
すぐ先で・・・

2022080627
歌川広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」に描かれた藤川宿東棒鼻(見附)に到着です。

2022080628
こちらが広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」

2022080629
藤川宿の町並み。

2022080630
宿場内も結構距離がありました。

2022080631
藤川宿脇本陣跡に建つ藤川宿資料館。
門は脇本陣の現存だそうです。

2022080632
藤川宿、西の棒鼻。
このすぐ近くに駅がありますので、今回の歩き旅はここまでといたします。

心配した暑さもこの日だけは若干和らぎ、絶好のコンディションに恵まれて完歩することができ、大満足です。

| | コメント (0)

2022年7月16日 (土)

狩宿の下馬桜と井出家の高麗門・長屋

2022071001
静岡県富士宮市狩宿の下馬桜と、奥には長屋を備えた井出家の高麗門

2022071002
建久4年(1193)の富士の巻狩の際、井出家の屋敷を宿所とした源頼朝が馬を下りた場所との伝承から「下馬桜」、或いは「駒止めの桜」とも呼ばれています。
樹齢800年を超える山桜です。

2022071003
井出家の前庭には、当地を訪れて下馬桜を句に認めた高浜虚子(中央)らの句碑も。

明治期には徳川慶喜も訪れており、
あはれその 駒のミならす 見る人の こころをつなく やまさくらかな
と詠み、書に認めたものが井出家に残っているそうです。

2022071004
両脇に長屋を備えた井出家の高麗門。
幾度かの焼失を経ており、現存するものは嘉永元年(1848)の建立になるそうです。

なお、安永5年(1776)の火災に遭うまで、屋敷は現在地の北東に隣接する区画(元屋敷/写真手前の右手側)に建っていたそうです。
その一角には・・・

2022071005
頼朝の宿所の周囲を幔幕で囲う際に利用されたと云う、「幕張の欅」が1本だけ残っています。

2022071006
高麗門・長屋は、周囲を一周して見学できます。

2022071007
高麗門に並ぶ長屋の内、南側のものは農機具などを収める納屋や、、、

2022071008
馬小屋になっていました。
高麗門を挟んだ北側は、作業小屋として使われていたそうです。

2022071009
高麗門

2022071010
富士の巻狩の様子。

2022071011
その舞台・・・残念ながらこの日は、富士山は殆ど雲に隠れてしまいました。

ところで、富士の巻狩から400年近く後の天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途にある織田信長もこの地域を通過し、土地の者から富士の巻狩に関する旧跡について説明を受けています。
その様子は太田牛一が記した「信長公記」に詳しいのですが、その中で牛一は、頼朝の館が築かれた場所について;

昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。

と記しています。
確かに狩宿は上井出(かみ井手)のすぐ南に隣接する地域で、「狩りの宿」と、なんとも示唆的な地名でもあります。
しかし、地形的には牛一が記すような「丸山」には見えませんし、白糸の滝の東にもあたりません。

曽我兄弟の敵討ちでは殺害された工藤祐経ばかりでなく、頼朝自身も襲撃を受けたと云います。
狩宿の井出家では工藤祐経のお墓や、曽我の隠れ岩などからも少々距離が離れ過ぎているきらいがあります。

富士の巻狩はおよそ1ヶ月にも及んでいますので、その間には頼朝が井出家に滞在したこもあったのでしょう。
しかし、少なくとも太田牛一が書き記した場所、そして或いは狩りの本営として北条時政が用意した場所も、いろいろな条件を突き合わせると、工藤祐経のお墓のすぐ南、麓に若桜神社や光立寺がある丘の辺りを指しているのではないかと、個人的には推察します。
住所も上井出で、「信長公記」の記述と矛盾しません。

以下2022716日追記
twitterでフォロワーさんにご教示いただいたのですが、富士宮市立郷土資料館通信(2011531HP掲載分)では、宿所を狩宿の井出家、「丸山」は白糸の滝北東方向、上井出天神社の北に位置する天神山と推定されています。
いずれにしても、「丸山」と宿所とされる狩宿とは距離がありますので、広大な狩場を一望に見渡せる丸山(天神山か)には宿所とは別に、狩りの本陣のようなものが築かれていたのかもしれません。
牛一が
かりくらの屋形と記したものも或いは宿所ではなく、巻狩の本陣を指していたのではないか、とも思えてきました。

 

| | コメント (0)

2021年7月10日 (土)

九十九髪茄子を拝観

21070901
東京、丸の内の三菱一号館美術館へ。

21070902
当館では2021年6月31日~9月12日まで、三菱創業150周年を記念した特別展、三菱の至宝展が開催されています。
本特別展に於いて、織田信長も所持していたと云う九十九髪茄子(付藻茄子)が出展されていることを知り、いてもたってもいられずに駆けつけました。

当初、本特別展は2020年に予定されていたものの、新型コロナウィルス感染症の影響で1年間の延期となっていました。従って、私にとっても1年越しの念願となっていたのです。
初対面への期待に胸を膨らませつつ、いざ入館してみると、目的の九十九髪茄子は最初のコーナーに展示されており、いとも呆気ない念願成就となりました(笑)

戦国時代終盤、松永久秀から織田信長へ献上され、更には豊臣秀吉や徳川家康らの手を経て現在に伝えられた九十九髪茄子。本能寺の変にも遭遇し、大坂夏の陣で壊れてしまったものを拾い出され、漆で修繕されたのだとか。。。
大きさは女性の拳くらいでしたでしょうか。時の流れの重みも感じさせる美しい立ち姿でした。
※九十九髪茄子は8月9日まで、前期のみの展示となります。

さて、他にも素晴らしい展示品が目白押しでしたが、中でも目玉は曜変天目になりますでしょうか。
展示されている静嘉堂文庫美術館所蔵の本品は、徳川家から春日局、淀藩稲葉家へと伝えられたようです。
曜変天目の完品は世界中でも三碗しかなく、その全てが日本で所蔵されているのだそうです。

21070903
館内には、こんな撮影用のプレートも。
フラッシュを焚いて撮影すると、何の変哲もない無地のプレートに曜変天目の模様が浮かび上がるというものでした。

その他で個人的に印象に残っているものといえば、やはり;
太刀 銘 高綱
ですね。
武田家追討の功により、滝川一益が織田信長より拝領したと伝わることから「滝川高綱」とも号されています。


三菱を創業した岩崎家四代による収蔵品の数々。
そのバリエーションは多岐に渡っており、とてもご紹介しきれるものではありません。
(中には、かのマリー・アントワネットが旧蔵したと云う「イエズス会士書簡集」なども)

ご興味をお持ちの方は、未だ感染症の収束を見ない昨今の状況もありますので、公式サイトで開館情報などを事前にご確認の上、訪れてみてください。

| | コメント (0)

2021年4月13日 (火)

織田信長が初めて目にした富士山(台ケ原宿、他)

2021040801
山梨県北斗市白州町白須に建つ自元寺。
付近一帯を治めていた武田家の重臣・馬場美濃守信房(信春)の開基で、菩提寺にもなっています。
写真の総門は、馬場美濃守の屋敷(梨子の木屋敷)からの移築と伝えられているようです。

2021040802
馬場美濃守信房墓所

2021040803
自元寺門前を通る旧甲州街道
今回は、この旧甲州街道を少し歩いていきます。
写真の奥、突き当りを左(東)へ折れると・・・

2021040804
台ケ原宿に入ります。

四月二日、雨降り時雨侯。兼日より仰せ出ださるゝにつきて、諏訪より大ヶ原に至りて御陣を移さる。御座所の御普請、御間叶以下、滝川左近将監に申し付け、上下数百人の御小屋懸け置き、御馳走斜ならず。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

天正10年(1582)4月2日、武田家を滅ぼした織田信長は甲府へ向けて諏訪(上諏訪)を発ち、この日はここ台ケ原に宿陣しました。

※美濃岩村城を出陣し、上諏訪へ至るルートはこちらを参照。
→信長の甲州征伐 信濃路

2021040805
一里塚跡の碑。

2021040806
信玄餅で有名な金精軒前を通過。
その斜め向かいには・・・

2021040807
北原家住宅
銘酒「七賢」で有名な酒蔵です。
寛延3年(1750)、信濃国高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地に分家し、酒造りを始めたと伝わります。
台ケ原宿の脇本陣をも務め、明治13年(1880)には明治天皇御巡幸の際の御在所にもなりました。
奥座敷と中の間境の欄干に彫られた竹林の七賢人が「七賢」の由来になっているようです。

2021040808
日本の道100選の碑

2021040809
台ケ原宿本陣跡と秋葉大権現常夜石燈籠。
古くから代々、台ケ原の名主を務めてきたのであれば、信長が泊ったのも或いはこちらだったのでしょうか・・・。
台ケ原では小田原の北条氏政から、武蔵野で捕らえた500羽余りもの雉が届けられました。

2021040810
宿場の出口付近で見かけた石碑。

四月三日、大ケ原御立ちなされ、五町ばかり御出で侯へば、山あひより名山、是れぞと見えし富士の山、かうゝゝと雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳目を驚かし申すなり。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

翌4月3日、台ケ原を出発した織田信長一行は5町ほど進んだところで、美しい富士山の姿を仰ぎ見て感嘆の声を上げています。
この前日に通行した諏訪から台ケ原までの道中にも富士山を見られるポイントはあったかと思いますが、信長公記によると前日の天候は雨。どんよりとした雲に覆われ、富士山が姿を現すことはなかったのでしょう。

実は今回、台ケ原を訪れた一番の目的こそがこれ。信長らがおそらく初めて目にしたであろう、美しい富士山の姿を同じポイントから眺めてみたかったのです。

2021040811
台ケ原宿を出たら国道20号線を渡り、反対側に見えている細い道へ進みます。

2021040812
その細い道の入口に建つ古道入口の石碑。
どうやら、江戸時代に旧甲州街道が整備される以前から存在していた道の名残のようです。

2021040813
道端に並べられた庚申塔や馬頭観音。

2021040814
釜無川の支流、尾白川に沿って進みます。

2021040815
こうした道を散策できるよう、ちゃんと整備してくれているのがありがたいです。

2021040816
歩いてきた道を少し振り返る。
この写真の右手にある高台に、無銘の巨塔なる石碑が建っているらしいので、ちょっと寄ってみました。

2021040817
無銘の巨塔
明治14年(1881)、日蓮上人の600年遠忌に五穀豊穣と国家安泰を祈念し、見法寺(長坂町日野)に碑を建てて「南無妙法蓮華経」と刻む予定でしたが、どうしてもこの巨石を牽いて釜無川を越えることができなかったそうです。
巨石は長年放置されたままでしたが、最近になって無銘のままこの地に建てられたとのこと。

2021040818
無銘の巨塔が建つ高台から、古道を見下ろす。
右側の稜線が邪魔をし、まだアングル的に富士山は見えなさそうです
・・・それよりも、遠くの空がかなり霞み、見通しが良くありません・・・嫌な予感。

2021040819
古道に戻り、横山の道標。
説明によると、この先で花水坂を登って七里岩に上がり、日野や穴山を経由して甲府へ至る道は、後に「はらぢみち」とも呼ばれた甲州街道整備以前の主要道路だったそうです。
横山の道標は、江戸時代になって甲州街道が整備されたことにより、この地がはらぢみちと甲州街道との分岐点になったことで建てられ、馬頭観音の側面に「右かうふみち」「左りはらぢ通」と記されています。

2021040820
古道が終了し、国道20号に出た地点に建てられていた石碑。

2021040821
こちらが現在の、甲州街道(右/かうふみち)とはらぢみち(左)の分岐点。
天正10年時点では、七里岩の麓を並行して通る甲州街道はまだ整備前。はらぢみちは花水坂から日野~穴山を経由し、信長らの目指す甲府まで続いていたと云いますし、信長らは道中、新府城の焼け跡も見物しているので、はらぢみちを進み、花水坂で七里岩に上がったものと思われます。

2021040822
という訳で、私も正面に七里岩を見据え、花水坂橋で釜無川を越えます。

2021040823
花水坂橋の欄干にあった句碑。
立ちおほふ霞にあまる富士の嶺におもひをかはす山桜かな
細川幽斎から古今伝授を受けた烏丸光廣が詠みました。

2021040824
坂を少し登り、七里岩の中腹に建つ花水坂の碑。
(実際のはらぢみちは、石碑の建つ現在の台ケ原富岡線とは少しルートがズレているようなのですが、詳細はまだ調べきれておりません)

日本武尊が東征の折、富士や清流(釜無川か)の絶景にしばし足を止めて休息し、ここを「花水坂」と命名したと伝えられています。休息した場所を「休み平(やすまんていら)」といい、今でもこの一帯に地名が残っているようです。
花水坂は「山水の富士」として、甲斐国の富士見三景の一つにも数えられています。

台ケ原宿を出てからここまで、アングル的に富士山を仰ぎ見ることが出来そうなポイントはありませんでしたし、太田牛一も信長公記に「台ケ原を出発して五町ほど進んだら、美しい富士山が見えた」と書き残しています。
台ケ原宿から花水坂までの距離は1㎞強。5町は約550m弱ほどなので距離感は一致しませんが、甲斐の富士見三景にも数えられる花水坂付近こそ信長らが富士山を目にし、その姿に感嘆の声を漏らした地点だったのだろうと判断しました。

その、花水坂からの富士山の眺めこそが・・・

2021040825
こちら・・・って、やっぱり見えねーっっ!!
事前に天気予報も確認した上で訪問したのですが・・・ガッカリ。
今年(2021年)は特に暖かくなるのが早い気がしますので、その辺りも影響したのかもしれません。

2021040826
写真をアップにし、少し彩度を調整しても辛うじて山容を認識できる程度・・・。
旧暦の天正10年4月3日は、現在のグレゴリオ暦に換算すると5月5日になります。温暖化の進む令和の今、5月にかうゝゝと雪つもった富士山をこの距離で拝むことは至難の業ですよね・・・。
信長たちと時期を合わせて富士山を拝みたかったのですが・・・次は季節を選んで再度チャレンジしてみたいと思います。

2021040827
この後は、台ケ原の金精軒本店が定休日だったので韮崎店まで足を運び・・・

2021040828
更には甲府の山梨県立博物館で、特別展「生誕500年 武田信玄の生涯」を拝観してから帰路に就きました。

| | コメント (0)

2020年12月10日 (木)

池田近道(姫街道)

今回は古道・旧街道歩きで静岡県西部、遠江への旅です。
まずはJR磐田駅で下車し、旧東海道をしばらく北上し・・・

2020120501
西光寺へ。
西光寺の表門は、徳川家康によって築かれた中泉御殿(天正~寛文期)の表門を移築したものと伝えられています。

2020120502
東福山西光寺
文永2年(1265)に真言宗の寺院として創建され、建治・弘安年間に一遍上人がこの地を訪れたことで時宗に改宗した歴史を持つ古刹です。
近年は縁結び・恋愛成就のパワースポットとしても人気なのだとか・・・(;^_^A

2020120503
本堂に祀られている日限地蔵尊(厨子の中)は、後水尾天皇の后・東福門院和子(徳川秀忠息女)の念持仏。
元和6年(1620)、入内のため江戸から京へと向かう途次、西光寺で休息した際に寄進されました。
山号の「東福山」も和子后に由来します。

2020120504
旧東海道、見付宿の西木戸付近。
江戸時代に整備された旧東海道はここで左に折れ、前出の中泉御殿のあった南の方へと向かい、天竜川の渡し場である池田までは大きく迂回する行程となりますが、旧東海道の整備以前は直進方向、池田へ直接向かう道がメインルートだったようです。

2020120505
旧東海道との分岐点に「これより姫街道」の案内(道標)が建っていますが、地元では「池田近道」とも呼ばれてきたようです。
南へ迂回する東海道に対して、直接池田へ向かう近道・・・確かに(笑)

天正10年(1582)4月、甲州征伐から安土への凱旋の途についた織田信長
そのルートは「信長公記」の記述を追う限り、現在の静岡県富士市辺りから先はほぼ旧東海道に沿って進んでいます。
そして4月16日、掛川を発った信長一行は見付を経由し、池田から天竜川を渡河しました。
この時はまだ、見付から南へ大きく迂回する旧東海道は整備されていませんので、信長一行が池田までの行程に利用したのも「池田近道」だったのではないかと思い、実際に歩いてみることにしました。

2020120506
池田近道の概略図
現在では大部分が消失(水色線)しているようなので、消失箇所は何となく方角を調整しながら通れる道を歩いてみます。

2020120507
池田近道に入ってすぐ、常夜灯の建つ二股。
ここは右へ進んで坂を上ります。

2020120508
坂を上った先から見付宿を見下ろす。
結構、急勾配な坂でした。

2020120509
右にかぶと塚公園を見ながら。
この先は行き止まりになりますので、一旦、県道413号線に出ます。

2020120510
磐田市一言の立体歩道橋のすぐ先で右斜め方向へ。

2020120511
ここは左の坂を下ります。
この坂こそ・・・

2020120512
有名な一言坂
元亀3年(1572)の三方原の戦いの前哨戦ともいえる、一言坂の戦いのあった場所です。
写真の碑は県道413号線沿いに建てられていますが、徳川×武田の両軍も通ったであろう池田近道は、奥に見える雑木林の方を通っています。

2020120513
本多平八郎忠勝が徳川軍の殿を務めて見事な武勇を発揮し、敵方の武田軍から;
家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八
と讃えられたのも、一言坂での戦いのことでした。

2020120514
池田近道沿いにも「一言坂戦跡」の案内板が建っています。

2020120515
坂を下ると、道路脇に池田近道の案内板がありました。
下ってきた車道を折り返すようにして、この未舗装の道に入っていくようです。

2020120516
一言坂の段丘の縁を添うようにして進みます。

2020120517
その段丘を見上げる。

2020120518
古道はこの先で消失しているようなので、ここは左へ折れ、豊田野球場の南側を西へ進みます。

2020120519
一つ目の交差点は斜め北西方向へ。

2020120520
更に、寺谷用水を跨ぐ交差点も斜め北西方向へ。

2020120521
智恩斎
山門は、すぐ南にあった皆川陣屋からの移築と伝わります。
そして、山門脇の小屋の中に・・・

2020120522
一言観音が祀られています。
一生に一度、一言だけ願いを叶えてくれるという観音様。
一言坂から敗走する徳川家康も、一言だけ願っていったと云います・・・「無事に逃げ切らせて!」とでも願ったのでしょうか?(;^_^A

2020120523
智恩斎から先も、池田近道は消失しています。
実際の古道は写真の右斜め前方へ伸びていたようなので、方向を調整しながら農道を歩きました。

2020120524
人っ子ひとりいない長閑な道をのんびりと・・・。

2020120525
森岡ICの下を潜って一つ目の交差点を左折すると、すぐにまた池田近道の案内があります。

2020120526
高い生垣は遠州のからっ風除けでしょうか。

2020120527
豊田上新屋ポケットパーク(左)の先で、池田近道はまた消失しています。
ここもやはり方角を調整しながら、写真の右斜め方向へ向かいます。

2020120528
豊田西保育園に行き当たった所で右折し、ずっと北上していくと・・・

2020120529
門前市通りに出ます。
ここを左折すると、いよいよ池田の渡しになるのですが、その前に・・・

2020120530
行興寺に立ち寄り。
平宗盛の寵愛を受けた熊野(ゆや)御前が母の菩提を弔うため、この地に庵を結んだのが始まりとされています。
池田に生まれた熊野御前は、遠江の国司だった平宗盛に見初められて上京しましたが、故郷の母の病を知ると、
いかにせん 都の春も 惜しけれど なれしあずまの 花やちるらん
と詠み、母を想う心に打たれた宗盛の許しを得て池田に戻りました。

2020120531
境内には熊野御前が生前に愛したと云う藤棚(熊野の長藤)が、本堂を取り囲むようにして広がっていました。

2020120532
こちらは国の天然記念物にも指定されている1本で、推定樹齢は850年とのこと。

2020120533
本堂横には熊野と母を供養する墓所もありました。

2020120534
さて、それでは池田の渡しへ向かいます。

2020120535
行興寺門前から門前市通りを西へ向かった突き当りが、池田の渡し跡になります。
水量などによって使い分けていた上・中・下3ヶ所の渡し場のうち、こちらは上の渡し跡。
(中の渡しは天白神社付近、下の渡しは「天龍川渡船場跡」の碑が建っている辺りにありました)

写真左手は池田の渡し歴史風景館。
渡し場の様子を伝える簡単な展示がありました。

2020120536
「池田橋の跡」碑。
明治に入ってから、ここには橋が架けられていたそうです。

2020120537
池田の渡し(上の渡し)から眺める天竜川。
織田信長も徳川家康が架けさせた舟橋で、ここを渡っていったのですね。

2020120538
私は新天竜川橋で渡河。
遠くに見える赤い橋の少し手前辺りが、先ほどまでいた上の渡しになります。

2020120539
天竜川を越えた後は、信長一行と同じように旧東海道を浜松宿まで歩きました。
※このルートは以前にも歩きましたので、詳細は省きます。

2020120540
松林禅寺の薬師堂。
徳川家光が命じて建立させたと伝わります。
2度の火災にも焼失を免れたのだそうです。

2020120541
本坂通(姫街道)安間起点。
東海道と姫街道の追分です。付近には江戸から64里目の安間一里塚もありました。

2020120542
遠くにアクトシティー浜松が見えてきました。
終盤は国道152号線沿いを歩くことになり、退屈な区間が疲労に追い打ちをかけました・・・(;^_^A

2020120543
そしてようやくのゴール地点、馬込橋手前、浜松宿東木戸門跡に到着。
午前11時に磐田駅を出発してから、およそ4時間の行程でした。

なお、早朝に掛川を出発した織田信長一行も天竜川を越え、その日は浜松に宿泊しています。
私も浜松に宿を取り、翌日は袋井から東へ旧東海道を歩くことにします。

| | コメント (0)

2020年11月11日 (水)

当目の虚空蔵菩薩

20201108b01
焼津市浜当目の虚空蔵山。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

花沢城の記事織田信長が田中城近くから花沢城を眺めていたことをご紹介しましたが、「信長公記」にはとう目(当目)の虚空蔵についても言及されています。

20201108b02
虚空蔵菩薩は聖徳太子作とも伝わる日本三大虚空蔵菩薩尊の一つ。
現在は麓の功徳院に安置されているようですが、元々は虚空蔵山々頂の香集寺(現在は無住)に祀られていました。

20201108b03
虚空蔵山の登り口ともなる、香集寺参道。

20201108b04
参道から眺める当目砦方向。
武田軍が築き、徳川家康によって攻略されたと伝えられます。

20201108b05
想像以上に急勾配な参道が20分ほども続き、さすがに息が上がります。

20201108b06
ようやく最後の階段前まで到着。
この辺りには市の文化財にも指定されていた仁王門が建っていたようですが、老朽化が著しく、倒壊の恐れもあることから2017年頃に撤去されたようです。
今では礎石が、その痕跡を残すのみとなっています。

20201108b07
ようやく香集寺に到着。
ご本尊はいなくとも、しっかりとお参りさせていただきました。

20201108b08
市指定文化財の石燈籠。
「寛永二年五月十三日」の刻銘を有する、焼津市内最古の燈籠だそうです。

20201108b09
香集寺跡の碑。
こちらにも、お寺に関する建物が存在していたのでしょう。

20201108b10
虚空蔵山からの眺め。
本来であれば富士山も見えるらしいのですが、生い茂る樹木に遮られて叶いませんでした。

20201108b11
織田信長の甲州征伐凱旋旅を追いかけ始めた時から、ずっと気になっていたとう目の虚空蔵
期せずして訪問の機会を得られて良かったと思います。

| | コメント (0)

2020年11月10日 (火)

花沢城、花沢の里

20201108a01
花沢の里観光駐車場からの花沢城(静岡県焼津市)遠景。

20201108a02
花沢城は駿府の西の守りとして、今川氏によって築城されたものと考えられています。

永禄11年(1568)の暮れから駿河侵攻を開始した武田信玄は、永禄13年(1570)の正月、抵抗を続けていた花沢城へ攻め寄せます。
花沢城を守備する今川家臣・大原肥前守資良(小原鎮実)以下の城兵は懸命に戦いますが、14日間に及ぶ籠城の末に降伏開城しました。
永禄13年の時点で既に主君の今川氏真は駿府を追われ、逃げ込んだ先の掛川城も徳川軍によって包囲されて開城し、小田原の北条氏の元に身を寄せています。
大原らは主君が去った後も城を離れず、駿河を占拠した武田家に抗い続けていたのですね。

20201108a03
花沢城縄張図
花沢の里観光駐車場から車道伝いに進み、A地点を目指します。
※五の曲輪を示す線に違和感を覚えるので、実際に歩いてみた感触として赤線を加えてみました。

20201108a04
A地点の遊歩道入口。
ここから一の曲輪(本丸)まで、10分ほどの登山になります。

20201108a05
途中で見かけた気になる岩。
しかし、城の遺構ではなさそうです。

20201108a06
城域に近づいてきました。
ここまでの道のりの鬱蒼とした雰囲気とは変わり、下草が刈られてとても見易くなっていました。

20201108a07
一の曲輪(本丸)

20201108a08
一の曲輪に建つ城址碑

20201108a09
一の曲輪からの眺め(南西方向)
辺りには田中城があります。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

天正10年(1582)4月、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は同月14日、江尻城を発って田中城へと至る道中、田中城近くからこの花沢城を眺めています。(関連記事
従ってこの眺めは、天正10年4月14日の信長視点の正反対からの光景、ということになりますね。

なお、「信長公記」著者の太田牛一は武田信玄が花沢城攻めに随分と手こずり、然も負けたかのような書き方をしていますが、或いはこれは案内役の徳川家の人間が、武田家に対する信長の感情に忖度してこのような説明をしたため、と考えますがいかがでしょうか。

20201108a10
三の曲輪

20201108a11
一の曲輪(手前)とニの曲輪(奥)を隔てる堀切。
花沢城跡で一番の見所でしょう。

20201108a12
白い土嚢を積んだ箇所は、2~3年前に行われた発掘調査の痕跡のようです。

20201108a13
ニの曲輪サイドから見下ろす堀切。

20201108a14
二の曲輪

20201108a15
五の曲輪

20201108a16
五の曲輪は緩やかにカーブしつつ、結構先まで細長く続いているようでした。
そのまま曲輪の先を下っていくと・・・

20201108a17
六の曲輪に出ます。
このままB地点まで下って、花沢城攻めは終了とします。

20201108a18
折角なので、花沢の里も散策させていただきます。

20201108a19
花沢の里は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

20201108a20
日本坂峠へと続く古代の官道(古代東海道)と考えられる旧街道が、集落を通り抜けていきます。

20201108a21
沢の水もとても綺麗でした。

20201108a22
集落の最北端に位置する法華寺。
武田軍による花沢城攻めの際には法華寺も兵火に遭い、伽藍を焼失しているそうです。
折角なので是非とも参拝したいところでしたが・・・新型コロナウィルス感染症の影響で、残念ながら現在は拝観停止になっていました。

20201108a23
花沢の里で企画展「寺社からたどる戦国の焼津」のチラシを見かけ、武田軍による花沢城攻めの様子を描いた陣形図も展示されていることを知ったので、歴史民俗資料館にもお邪魔させていただきました。
今川氏や武田氏関連の文書類などの他、小川城の発掘調査記録や出土遺物展示が目を引きました。
珍しそうなところでは、文明の内訌の際に本中根(焼津市)に陣を張った太田道灌の愛馬の轡と伝わる品(個人蔵)なども展示されています。
また、学芸員の方には焼津市内の遺跡分布状況と、諸河川の流域や地形の変遷との関係性、古代の街道などについても教えていただきました。

この後は浜当目の虚空蔵山へ向かいます。

| | コメント (0)

2020年10月24日 (土)

特別展「桃山―天下人の100年」拝観

2020102201
今回はトーハクの平成館へ。

2020102202
2020年10月6日~11月29日まで開催されている特別展「桃山―天下人の100年」を拝観させていただきました。

屏風絵や茶器、甲冑、刀剣、文書類、etc...
あらゆるものが国宝・重文のオンパレードで、「さすがはトーハク」といった規模の充実した展示内容。
「なるべく90分以内でご観覧ください」との掲示を見かけましたが、一つ一つの展示品拝観にあまり時間をかける方でもない私ですら、気がつけば1時間を優に超えていましたので、なかなかハードルが高いかも(笑)…それほどの展示ボリュームです。

なお感染症対策のため、入館は30分刻みで人数制限されており、web等での事前予約(購入)が必要となります。
前後期など期間内に展示替えもありますので、ご興味をお持ちの方は公式サイトでご確認の上、お出かけになってみてください。

2020102203
個人的には山形の致道博物館が所蔵する;
太刀 銘 真光(梨地糸巻太刀)
を拝観できたことも嬉しかったです。
そう、天正10年(1582)の甲州征伐からの凱旋の折、酒井忠次が織田信長から拝領したと伝えられる一振です。
迷わず絵葉書もゲット♪

| | コメント (0)

2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

2020032201
東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧