カテゴリー「織田信長・信長公記」の152件の記事

2019年10月 1日 (火)

茨木~高槻の史跡めぐり

大阪史跡めぐりの旅、2日目は朝7時に宿を出発して・・・

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茨木城の本丸跡近くに建つ、茨木小学校に復元された櫓門から。
奈良県大和郡山市小泉の慈光院に移設された茨木城の城門を参考に、原寸大で復元されました。

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こちらは、茨木神社に移築された茨木城の搦手門

九月廿八日、御帰洛。其の日、初めて茨木へ御立寄り。
(信長公記 巻十二「北畠中将殿御折檻状の事」より)

天正6年(1578)に叛旗を翻した有岡城の荒木村重を攻める織田信長は、自身も何度か有岡城攻めの拠点となる池田城まで出向いていますが、天正7年9月28日には池田から京への帰路、茨木城にも立ち寄ったようです。

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続いては、高槻市富田町の普門寺
明徳元年(1390)に創建され、永禄9年(1566)には三好氏に擁立された足利義栄が、当寺で室町幕府第14代将軍の宣下を受けています。
境内を囲むようにして土塁も残っているようで、普門寺城とも呼ばれました。
今回は訪れた時間が早過ぎたので拝観は諦めました…いずれまた。

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高槻市郡家新町の今城塚古墳

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史跡公園として綺麗に整備されているので、この時期でも前方後円墳の形状がよく確認できます。

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後円部頂上より。
今城塚古墳は、永禄11年(1568)に上洛した織田信長が、畿内平定戦の過程で陣城として利用したこともあると云われているようですが、不勉強なため詳細はわかりません。

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茨木市との市境を越えて、総持寺へ。
西国三十三所の第二十二番札所でもあります。

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開山堂は、大阪府下では数少ないという懸け造。
阪神淡路大震災で被災し、平成18年に再建されました。

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山門越しに本堂。

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本堂

十一月十五日、信長公、あまより郡山へ御参陣なり。
十一月十八日、信長公、惣持寺へ御出で。
寅十一月廿三日、惣持寺へ重ねて御成り。
寅十一月廿七日、郡山より古池田に至りて御陣を移さる。
(信長公記 巻十一「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」より抜粋)

荒木村重の謀反に連座する形で敵方となった高山父子の高槻城、及び中川清秀の茨木城の攻略を目指す織田信長は天正6年(1578)11月、まずはあま(安満山)に陣を据え、高山右近が恭順して高槻城を開城すると、今度は茨木城の中川清秀に圧力をかけるかの如く、15日に郡山城へ移りました。
郡山在陣中の18、23日と度々、この総持寺にも足を運んでいます。

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総持寺は、攻囲する茨木城から至近の距離。
信長公記には、信長が数々の戦場で度々、「懸けまはし御覧じ」ている姿が記録されています。この時の総持寺行きも自らの目で敵情を確認し、攻囲戦の陣頭指揮を執るためのものだったのでしょう。

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境内では室町期と推定される瓦窯跡(写真)や、江戸期の台所竈跡も保存展示されていました。

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梵鐘
永享6年(1434)の鋳造で、豊臣秀頼の命で総持寺再建の奉行となった片桐且元が、自らの陣中鐘として用いていたものを寄進したと伝わります。

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信長が茨木城攻めの本陣とした郡山城跡
彼が郡山に着陣した翌16日には、高槻城を明け渡した高山右近も御礼のため、郡山の信長の元へ伺候しています。

11月下旬には茨木城の中川清秀も帰順したため、信長は郡山を出て池田まで陣を移し、村重の有岡城へと迫りました。

有岡攻めの関連地はいずれまた、日を改めてじっくりとめぐりたいと思います。ここ数年来の宿願でもあるので・・・。
この後は少し、西国街道を走りました。

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郡山城下を通る西国街道
写真は郡山本陣前より。

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西国街道(写真横方向)と亀岡街道(同縦方向)が交差する地点。古い道標も建っています。

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この辺りは中河原という地で、中川清秀生誕の地とも考えられています。

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白井河原合戦跡の碑

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摂津三守護の一人だった和田惟政は元亀2年(1571)8月、西国街道が茨木川を越える白井河原一帯(写真)で、荒木村重・中川清秀らとの合戦に臨み、敗れて討死を遂げています。
これ以降、摂津では三守護に代わって荒木や中川、そして惟政の死後まもなくして、その子・惟長から高槻城を奪った高山氏(友照・右近父子)らが台頭していくことになりました。

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2019年9月 4日 (水)

松原城の現説と三田城

2019年8月31日は急遽、兵庫県神戸市北区の道場町へ。

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神鉄道場駅の目の前にある松原城(蒲公英城・道場川原城)の発掘調査現地説明会(以下「現説」)に行って参りました。

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松原城跡図
着色されている部分が、今回の現説での公開範囲となります。

松原城は南北朝期、三田城の支城として赤松氏によって築かれたのが始まりとされ、後に赤松氏の流れを汲む松原氏が城主となっていたようです。
城主の娘に鼓の名手がいたとの伝承から「つづみ草」=蒲公英(たんぽぽ)城(※諸説あり)、或いは麓にあった村の名前から道場川原城とも呼ばれました。

有馬郡の御敵さんだの城へ差し向かひ、道場河原・三本松、ニケ所足懸かり拵へ、羽柴筑前守秀吉、人数入れ置き、
(信長公記 巻十一「丹波国波多野館取り巻くの事」より)

天正6年(1578)12月、叛旗を翻した荒木村重を攻める織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、荒木方の三田城に対し、道場河原・三本松に付城を仕立てて兵を入れています。
この松原城こそ秀吉がこの時、三田城に対する付城とした一つ、道場河原に比定されているのです。
※現地案内板には「天正7年に秀吉に攻められて落城した」とありましたが、秀吉が道場河原を付城としたのは天正6年なので、もっと早い段階で松原氏は城を退去していたということになりますでしょうか。

今回の発掘調査は宅地開発計画に伴うもので、開発で城跡が消失する前に一度は見ておかなくては!との思いから、殆ど勢いだけで東京からわざわざ訪れたのです(笑)

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最初に資料を受け取り、出土遺物などを見学。
土器や・・・

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短刀、 弓矢の雁股鏃なども出ているようです。

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曲輪6(写真右上部分)
曲輪2の北西斜面に付けられた帯曲輪のようです。

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順路に沿って麓を曲輪7方向へ歩いていくと、石積みらしき痕跡も見受けられました。

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松原城から南方の眺め。

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曲輪7

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曲輪7の脇を抜け、曲輪2へと続く登城道。

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曲輪2
写真左側の土塁の切れ目が、先ほどの登城道からの虎口になっていたようです。

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曲輪2から出土した石敷きの遺構。
どことなく昨年、愛知県の小牧山城から出土したものと似ている印象を受けました。
なお、今回の発掘調査では建物の痕跡は確認できていないようです。

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曲輪2の土塁上から。

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曲輪2から曲輪1方向。

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改めて曲輪2の全体を俯瞰する。

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曲輪2と1の間を断ち切る堀切(北側)

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堀切の南側は発掘されておらず、見学者のための歩行ルートに充てられていましたが、実際にはこちら側も切られていたことでしょう。

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堀切を塞ぐように見えている土壁は、発掘の際に掘り残した観察用の畦ですが、その先から・・・

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土留めの石積みを伴う閉塞土塁(写真手前)が見つかっており、堀切というよりは箱堀のようになっていたようです(奥は先ほどの観察用畦)。
また、堀底は岩盤を削って平らに整地されていたとのことです。

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堀切の先は曲輪4

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曲輪4の切岸。
下層部分は岩盤を切り開いていました。
この切岸の上は曲輪2になります。

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曲輪4からは、集石土坑も見つかっています。
駐屯する兵たちの生活を窺い知る、貴重な遺構ですね。

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主郭となる曲輪1はまだ調査中で、今回の公開範囲には含まれていませんでした。

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曲輪1から望む曲輪2。
曲輪1側を除く三方を囲む土塁は、麓を通る丹波街道に面した北~東側(写真右半分)の方がより高く、強固に築かれていたようです。

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松原城(道場河原)から、三田城(さんだの城)方面を望む。
・・・丘陵が視界を横切り、見通しは全く利きません。

三田城を攻める(包囲する)ための付城という意味に於いては、横山城や立石城など、より適した立地の城跡がいくつか存在しています。
信長公記に道場河原と並んで出てくる三本松とされる場所は、松原城(道場河原)の遥か南西、三田城からは更に遠く離れ、有馬から三木へと続く湯の山街道沿いの神戸市北区屏風に位置しています。(「摂津名所図会」)
こうした点を踏まえると、信長公記に出てくる道場河原・三本松の2つの砦は、さんだの城へ差し向かひとはあるものの三田城を攻めるためのものというよりは、主要な街道(丹波街道・湯の山街道)を押さえ、敵対した荒木方の三田城を警戒しつつ、この時期の秀吉の主戦場となる三木への兵站線を確保・維持するためのものだったのではないかと思います。

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八多川の対岸から望む松原城。

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松原城下を抜ける丹波街道の旧道。

この後は、松原城の現説でお会いしたお城仲間の方々とご一緒させていただき、三田城へ向かいました。

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三田藩主・九鬼家御下屋敷跡の築山と、家臣が寄進した石燈籠。
(法務局三田出張所)

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金心寺の山門として移築された、御下屋敷の黒門。
金心寺はかつて、織田信長の摂津・播磨攻めの兵火で失われるまでは壮大な七堂伽藍を誇り、本尊の弥勒菩薩像(国重文)の胎内からは、
「金心寺三福田により三田と改める」
と、三田の地名の由来を記した墨書銘が見つかっているそうです。

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九鬼家の菩提寺、心月院。
心月院の山門は、天正13年(1585)の創建。
同寺が九鬼家の菩提寺として心月院と改められたのは、九鬼家の三田入封後の寛永10年(1633)のことなので、この山門はその前身・梅林寺からのものということになりますでしょうか。

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総門の創建は宝暦3年(1753)

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九鬼家歴代の墓所

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心月院には、三田県大参事を務めた白洲退蔵を祖父に持つ白洲次郎・正子夫妻も眠ります。

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旧九鬼家住宅資料館
お隣の三田ふるさと学習館では三田城に関する資料をいただいたり、城跡に立つ有馬高校内の見学についてご教示いただきました。

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三田城(陣屋)図
江戸時代、鳥羽から三田に移封された九鬼家は、旧城域を取り込んで陣屋を構えました。
現在、上の図で「陣屋」とある一帯は三田小学校、「古城」は有馬高校の敷地となっています。

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三田城跡碑(図1

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2の内堀

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満々と水を湛える内堀

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3部分
水路のヘアピン具合が、図の堀とピタリ一致していませんか?

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「古城」北側の地形高低差(図4

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5の竪堀・・・か?

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それにしても「古城」北側の高低差は、横から見ても見事の一言。

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6辺りにある石組みの井戸跡。
五輪塔なども石材として用いられていました。
こちらの井戸からは1582~1601年頃まで三田城に入っていた山崎氏の家紋入りの瓦が発見されていることから、九鬼氏以前からの貴重な遺構である可能性が高そうです。

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鳥羽から内陸の三田へと転封となった九鬼水軍。
それでも、水軍としての技術を忘れないようにと、舟を浮かべて訓練していたと伝わる三田御池。

松原城の現説も期待以上でしたし、ご一緒させていただいたお城仲間の皆様のお陰で、三田城とその周辺めぐりも想定以上の成果を得られました。
週末の天気予報にやきもきし、前日まで迷っていた強硬日帰り旅でしたが、思い切って決行して本当に良かったと思います。

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2019年5月 3日 (金)

(伝)織田信長首塚(西山本門寺)

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土砂降りの雨の中、富士宮市の西山本門寺に到着。
少し境内を散策します。

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大火による被害から本門寺を復興した、第16代・日映上人の墓所。

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鐘楼
梵鐘は寛永21年(1644)の鋳造。

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本堂
西山本門寺は、康永3年(1344)の開創。
歴代住職の中には甲斐武田家や水戸徳川家の出身者もいることから、武田信玄の制札や勝頼の高札、徳川家の朱印状なども残されているようです。

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織田信長の首塚への案内板。

寺伝によると、囲碁の名手としても名高い寂光寺の日海上人(本因坊算砂)の指示により、原志摩守宗安という人物が、炎上する本能寺から信長に殉じた父や兄の首と共に信長の首を運び出し、本門寺本堂の裏手に埋めたとされています。
この伝承は、本門寺第18代・日順上人の内過去帳や、「原家記」という文献にある記述が元になっているようです。
日海(算砂)は本門寺に坊舎(本因坊)を建てて住んでいたこともあるとされ、原氏出身の日順を弟子にして本門寺の住職に就けたとも云われているそうです。

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(伝)織田信長首塚と、県の天然記念物に指定されている柊。
原志摩守はここに3人の首を埋め、その上に柊を植えたのだとか・・・。
ところが、昭和31年(1956)の日付がある説明板によると、柊の推定樹齢は「500年」・・・信長が亡くなったのは1582年ですので、ちょっと年代が合わないのですが・・・?
まぁ、別の場所に設置されていた説明板には「4~500年」とありましたが・・・(;・∀・)

ところで、先程から登場する原志摩守なる人物のことがよくわかりません。
ざっと調べたところ、本能寺や二条御新造で信長や信忠に殉じた家臣の中に「原」という名は確認できませんでした。詳細な史料が手元にないので、確かなことは言えませんが・・・。

京都の阿弥陀寺にも信長の遺骸に関する伝承があります。
それぞれの事の真偽はともかく、こうした伝承が現代まで伝えられることになった、その端緒や背景というものには興味を覚えます。

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2019年4月 7日 (日)

野田・福島攻めと本願寺の蜂起

先日、大阪へ出張する機会がありましたので、そのついで(?)に織田信長による野田・福島攻めの舞台を少しめぐってみました。

元亀元年(1570)、細川昭元・三好長逸・三好康長・安宅信康・十河存保・篠原長房・石成友通・斎藤龍興・長井道利らが立て籠もる摂津の野田・福島両城攻略のため、信長は8月20日に岐阜を出陣して横山城・長光寺城・本能寺・枚方を経由し、同月26日、軍勢を天満ヶ森・川口・渡辺・神崎・上難波・下難波・浜の手などへ配し、自らは天王寺へ着陣しました。
姉川合戦から僅か2ヶ月ほど後のことです。

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玉川4丁目交差点付近に建つ野田城跡の石碑。

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野田御坊極楽寺

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こちらは極楽寺前に建つ野田城址碑。
周辺には最早、かつてここに城が存在した痕跡は残っていません。
福島城に至っては、その位置すらもよく判っていないようです。

天王寺に着陣した信長は、ろうの岸川口に砦を築かせて諸将を配備した後、

九月九日、信長公、天満ケ森へ御大将陣を寄せさせられ、次の日、諸手より、うめ草をよせ、御敵城近辺にこれある江堀を填めさせられ、
(信長公記 巻四「野田・福島御陣の事」より。以下、青文字引用同)

本陣を天満ケ森まで移し、包囲を狭めていきます。
「細川両家記」にも日付こそ違えど;
七日に、信長天王寺より中島天満森へ陣替候なり。(以下、緑文字引用同)
とあります。

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大阪天満宮近くに残る星合の池

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案内板によると「石山軍記」天正二年(1574)の項に;
「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」
と記されているようですが、天正2年は4月に一度、本願寺周辺を刈田・放火させたことはあるものの、それ以外に大坂での目立った戦陣は記録されていません。
本願寺を攻める際、地形的にも上町台地の先端に位置する本願寺から見下ろされるような位置にわざわざ本陣を布くとは考えづらく、むしろ野田・福島攻めの時と混同しているのかもしれません。

九月十二日、野田・福島の十町ばかり北に、ゑび江と申す在所侯。公方様・信長公、御一所に詰め陣に御陣を居ゑさせられ、

九月十二日に、中島の内浦江と申所に、御所様入城なり。(中略)信長は、御所様御近所に御陣取由候なり。諸勢は敵近に堤田の中に陣屋かけられ候と申候。
※浦江=海老江

9月12日、信長は本陣を更に移動し、中島城に着陣していた足利義昭と共に野田・福島両城から僅か1㎞ほど北に位置する海老江に布陣しました。

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海老江八坂神社
村の旧記で永徳3年(1383)の霜月に社殿が再建されたことが確認できるため、それよりも古い歴史を有します。
野田・福島攻めの際、織田信長は荒木村重を遣わし、陣馬・陣刀を奉納して戦勝を祈願させたと伝えられています。

ところで、織田軍の諸勢は堤田の中に布陣しています。
天満ヶ森へ本陣を移した際にも、敵城近くにあった江堀うめ草を集めて埋めさせたとありましたが、当時、この辺り一帯は大小の河川が複雑に入り組む湿地帯でした。
現在も、八坂神社のすぐ近くには淀川が流れています。

ここで織田方に雑賀・根来・湯川などから、鉄砲3,000挺を含む20,000の援軍も参陣し、天王寺や住吉、遠里小野に陣取って野田・福島攻めに加わりました。
敵味方が放つ鉄砲の音で、戦場は日夜天地も響くばかりであったと云います。

然れば、野田・福島種々懇望致し、無事の儀申し扱ひ侯と雖も、迚も程あるべからずの間、攻め干さるべきの由侯て、御許容これなく、

織田の大軍による猛攻に耐えかねた籠城側は和議を申し入れますが、もはや攻略にそれほど時間もかからないと判断した信長は、これを認めずに攻城を続けました。
すると・・・

野田・福島落去侯はぱ大坂滅亡の儀と存知侯歟、
九月十三日夜中に手を出し、ろうの岸・川口両所の御取出へ大坂より鉄炮を打ち入れ、一揆蜂起侯と雖も、異る子細なく侯。

野田・福島が落城すれば、大坂=本願寺も滅亡すると考えたのか、突如として本願寺が蜂起し、織田方の陣所へ攻撃を加えてきました。

「細川両家記」にも;
野田福島一途以後は、大阪へ可被取懸候由風聞候也。

とあることから、野田・福島の後は本願寺が攻撃される、という風聞は確かに流れていたようです。
牛一は「信長公記」に異る子細なく=別にたいしたことはなかった、と記していますが、「細川両家記」には;

九月十二日夜半に、寺内の鐘撞かれ候へば、即人数集けり。信長方仰天也と云。

とあります。
本願寺の目と鼻の先、足元のような天満ヶ森に布陣したり、ろうの岸に砦を築いたりしていることからも、信長は本願寺の蜂起を全く予期していなかったように思えます。
※ここでも両史料間に日付の相違がありますが、本願寺の蜂起は9月12日が定説になっているようです。

河端の堤をわざと切ければ、水内へ入候得ば、信長方の陣屋共悉つかり、難儀に及候由。

本願寺勢に堤を切られ、堤田の中に布陣していた織田方の陣屋はことごとく水に浸かって難儀しました。
その後も何度か衝突があったようですが、22日になって信長の元に、近江で朝倉・浅井の軍勢が南進して京に迫っている、との急報が届き、信長は23日に摂津の陣を引き払って京へと急ぎ引き返し、朝倉・浅井勢に対処することにします。
こうして戦局は摂津から、志賀の陣へと移っていくのでした。


ところで、東淀川区にある定専坊というお寺には、本願寺で使われていた鐘が残っているというので、そちらにも足を運んでみました。

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今里筋線「だいどう豊里」駅から西へ800m、こうした趣ある路地を抜けて・・・

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定専坊に到着。
行基菩薩による創建とされ、元は真言宗に属する西光寺というお寺でしたが、本願寺第八代法主蓮如に帰依した当時の住職浄賢によって浄土真宗に改宗され、寺号も定専坊に改められました。
浄賢の孫了賢は、織田信長と本願寺による石山戦争において本願寺側に立って活躍したことが、古い文献にも記されているようです。
顕如上人の消息の他、荒木村重や鈴木孫一の書簡なども残されているそうです。

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こちらが天正8年(1580)、教如らが退去した後に出火した本願寺から運び出されたと云う鐘

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先程も「細川両家記」から引用しましたが、本願寺は信長に対して蜂起する際、鐘を撞いて軍勢を集めたと云います。
或いはこの鐘がその時の・・・と考えると、なんだか身の震える思いがします。

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境内には楠一族の墓碑もありました。
楠木正成の孫にあたる正勝がこの地に隠棲したことによるもので、正勝とその子の正盛・信盛を供養する五輪塔とのことです。
浄賢や了賢は楠(楠木)氏を祖としていたようです。

2014年に、天王寺の戦いの関連地をめぐって以来に訪れた大阪。不慣れな身には電車の移動ルート選択ですら、なかなかハードルが高かったです。
今回は日帰りで時間もあまり取れなかったので、いずれまた地形や詳細な位置関係を把握しつつ、じっくりと検討を加えながらめぐってみたいと思います。

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2019年3月14日 (木)

天正10年4月17日の織田信長

四月十七日、浜松払暁に出でさせられ、今切の渡り、御座船飾り、御舟の内にて一献進上申さるゝ。其の外、御伴衆の舟数余多寄せさせ、前後に舟奉行つけ置かれ、由断なくこさせらる。御舟御上りなされ、七、八町御出で候て、右手に、はまなの橋とて、卒度したる所なれども、名にしおふ名所なり。(中略)しほみ坂に御茶屋、御厩立て置き、夫ゝの御普請候て、一献進上候なり。晩に及びて雨降り、吉田に御泊り。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月17日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は明け方に浜松を出発し、この日は吉田(愛知県豊橋市)まで進んでいます。
私もその旅の足跡を歩いて辿ってみることにしましたが、浜松からでは距離が長くなってしまうため、少し西へ進んだ舞阪駅をスタート地点に選びました。

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舞阪駅から少し南へ向かって旧東海道へ出ると、それは見事な松並木が出迎えてくれました。
この松並木は約700mも続き、旧東海道の風情を楽しませてくれます。

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松並木が終わると国道301号(右)との交差点に出ますが、旧東海道は松並木からの直進方向、左の道を進みます。

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見付石垣
舞坂宿の東の玄関口にあたります。

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舞阪一里塚と新町常夜燈
日本橋より68里目の一里塚のあった場所で、常夜燈は文化12年(1815)の建立。

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舞坂宿脇本陣

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そのまま真っ直ぐ進み、浜名湖畔に出た突き当りが今切の渡し、舞阪側の渡船場の一つ、本雁木跡。
舞阪側には南雁木・本雁木・北雁木と三つの渡船場がありましたが、南は荷物の運搬用、北は主に大名や幕府公用人が利用し、こちらの本雁木が一般の旅人が最も多く利用した渡船場でした。

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本雁木から、浜名湖畔を少し北上した先に北雁木。
石垣も残り(一部は昭和に修復)、石畳が水際まで敷き詰められています。

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今切の渡しは明応7年(1498)、そして永正7年(1510)の度重なる震災で浜名湖から遠州灘へ流れ込んでいた浜名川が決壊し、湖と海が繋がったことにより設けられた渡船場でした。

弁天島駅の辺りで国道301号に出て、しばらくは延々と退屈な国道歩きが続きます。

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新居町駅前を過ぎ、(現代の)浜名橋を越えると・・・
※なお、この先は豊橋の一つ手前、二川駅まで旧東海道は鉄道路線を大きく逸れてしまうため、覚悟を決めて歩き切らなければなりません(;・∀・)

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今切の渡しを往来する旅人らを監視した、新居関所が待ち受けます。
元禄12年(1699)、宝永4年(1707)の災害による2度の移転を経て現在地に至り、嘉永7年(1854)の地震で倒壊したものの、安政2~5年(1855~1858)にかけて再建された建物が現存しています。主要街道の関所建物では、唯一の現存なのだそうです。
手前は新居関所がこの地に移って以降の、今切の渡し新居側の渡船場跡(復元)。

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旅人らを取り締まる関所役人らが居並びます。

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壁には徳富蘇峰の墨跡も。

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無事に関所を通過した後は、あちらの突き当りを左へ進みます。

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新居宿の旅籠、紀伊国屋。

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愛宕山の麓を回り込み、橋本で県道417号に出た先に、風炉の井の石碑。
建久元年(1190)、源頼朝が上洛の折に、この井戸の水を茶の湯に用いたとされています。

ここで一旦旧東海道を離れ、県道417号の更に南へ向かいました。

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浜名橋跡
その昔、浜名川に架けられていた橋で、古くから歌枕にも詠まれる風光明媚な景勝地として知られていましたが、明応7年の地震による川の決壊で流失しました。
旧東海道の橋本から2~300mほど南に位置します。

御舟御上りなされ、七、八町御出で候て、右手に、はまなの橋とて、卒度したる所なれども、名にしおふ名所なり。

牛一は舟から上がった後、7~8町(約760~870m)進んだ先の右手はまなの橋があったと書いていますが、江戸期の旧東海道からは左手になります。
この時の信長一行は、もっと南の海岸寄りを通行したのでしょうか・・・?

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浜名橋跡から南、海岸寄りの方向を見た様子。

それとも、そもそも浜名橋は天正10年の時点でとっくに失われていたはずなので、どこか別の場所に架けられていた橋をはまなの橋としていたのか、はたまた単なる左右の記憶違いか・・・?

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さて、旧東海道に戻ります。
写真は県道417号の橋本西交差点。ここで県道を離れ、右へ進路をとります。

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紅葉寺跡
室町幕府6代将軍・足利義教が永享4年(1432)、富士遊覧の際に立ち寄って紅葉を鑑賞したことから紅葉寺と呼ばれるようになったとか。
建久元年、橋本に宿泊した源頼朝の寵愛を受けた娘が後に出家して妙相と号し、高野山から毘沙門天立像を勧請して創建した寺と伝えられています。

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また松並木が出てきました。
この時点で既にかなり足や腰にきていましたが、この松並木のお陰で気持ちは癒されました。

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新居宿と、この先の白須賀宿の間に設けられていた立場(旅人や人足らの休憩のための茶屋)跡。

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明治天皇御野立所址
明治元年(1868)10月1日、東京へ行幸する明治天皇が豊橋から新居へ向かう際に休憩した地。

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微妙なアップダウンを繰り返しながら続く旧東海道。

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立派な門構えのお屋敷もありました。

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ひたすら西へと歩を進め、国道42号や潮見バイパスの高架が視界に近づく辺りまで来ると、いよいよこの日、私が最も楽しみにしていたポイントに差し掛かります。
この路地を右へ曲がった先が・・・

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旧東海道の名所の一つ、潮見坂への登り口です。

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1月に登った小夜の中山ばりの急傾斜・・・疲れ切った足腰にはかなり堪えます・・・。

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歌川広重が描いた潮見坂・・・

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その現代版。

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潮見坂上からの眺め。
海の青さがとても沁みました。。。

しほみ坂に御茶屋、御厩立て置き、夫ゝの御普請候て、一献進上候なり。

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潮見坂公園跡
ここの案内板にも;
「天正一〇年(一五八二)織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張へ帰る時、徳川家康が茶亭を新築してもてなした場所が、ここ潮見坂上です。」
とありました(尾張というよりは安土へ、だと思うけど・・・)。
信長もこうして、この付近のどこかに用意された茶屋から太平洋の大海原を愉しんだことでしょうね。

また、潮見坂上は明治天皇が東京への行幸の折、初めて太平洋をご覧になった場所でもあるのだそうです。

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潮見坂の先、白須賀宿の曲尺手(かねんて)
鉤の手状に曲げられた道のことで、防衛上の理由の他に、参勤交代の大名行列が鉢合わせをしないようにする役割もあったのだとか。
物見役が曲尺手の先へ先行し、他の大名行列と鉢合わせしそうな時は、格下の大名一行は休憩を装って最寄りの寺に避難したりしたそうです。

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白須賀宿を抜け、この先の緩やかな坂を上りきると県道173号、更に先の一里山東交差点で国道1号に出ます。

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旧東海道が国道1号に合流してすぐの地点、一里山の一里塚。
藪で見えづらいですが、よくぞこんな国道沿いに残っていたものです。

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終盤に来てのこの、延々7㎞近くも続く国道1号歩きがとにかく退屈でしんどかった・・・。

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疲労と足腰の痛み、そして退屈さに倦みながらもようやく辿り着いた二川ガード南交差点を右へ折れて新幹線の線路をくぐり、更に東海道本線の踏切を越えた先が・・・

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東海道五十三次中、お江戸日本橋から33番目の宿駅となる二川宿です。

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二川宿本陣跡

あわよくば豊橋まで歩き切ってやろうかとも考えていましたが、気力も体力も時間も残っていなかったので、この日の旧東海道歩きは二川宿でゴールとしました。
後で計測したところ約22㎞、6時間かけての行程となりました。

二川駅から豊橋まで東海道本線で移動し、路面電車を乗り継いで・・・

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吉田城へ。

晩に及びて雨降り、吉田に御泊り。


吉田城で友人の車に拾ってもらい、夜は岐阜で懇親会♪
翌日は岐阜から、まるで信長の凱旋旅最終日のように旧中山道を押さえつつ安土へ移動、文芸の郷セミナリヨで開催されたシンポジウム「信長の城と戦国近江」に参加してきました。

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2019年1月31日 (木)

天正10年4月15日の織田信長

四月十五日、田中を未明に出でさせられ、…(中略)…真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、のぼれば、さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。是れより、につ坂こさせられ、懸川に御泊り。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月15日、甲州征伐からの帰路にある織田信長は、未明に田中(藤枝市)を出発し、この日は掛川まで進んでいます。
その旅路を追うため、私も金谷駅から旧東海道を掛川まで歩いてみることにしました。

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まずは金谷坂の石畳で牧之原台地へ上がり、諏訪原城跡の方へ向かいます。
※金谷~諏訪原城跡までのルートは、3年前のコチラの記事で詳しく触れていますので今回は割愛します。

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諏訪原城跡の案内標識が見えてきました。
旧東海道は諏訪原城のすぐ真横を通っています。

真木のゝ城右に見て、
真木のゝ城=牧野城=諏訪原城

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諏訪原城を過ぎ、今度は菊川坂の石畳で台地を下っていきます。

諏訪の原を下り、

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石畳に沿って下っていくと、やがて金谷と日坂の間の宿・菊川の里へ至ります。

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きく川を御通りありて、

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菊川の里の外れで旧東海道は左へ鉤型に折れ、いよいよ小夜(佐夜)の中山峠への急坂に差し掛かります。

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のぼれば、

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半分ほど登って振り返った様子。
結構な急勾配をほぼ直登していきます。

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辺り一面の茶畑・・・とっても静岡な光景。
やや右寄り、遠くに鉄塔のようなものが見えている辺りがピークになります。

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ようやく登りきったところに建つ久延寺
山号は佐夜中山です。ちょっと寄らせていただきました。

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久延寺夜泣石
三位良政と月小夜姫の娘・小石姫の供養塔とのこと。
詳しいことはわかりませんが、小石姫は妊娠していたものの、どういった事情からか、小夜の中山の松の根元で自害したと伝えられているそうです。

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小石姫の父母、三位良政と月小夜姫の供養墓も。

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慶長5年(1600)には会津の上杉征伐へ向かう徳川家康を、時の掛川城主・山内一豊が久延寺に茶亭を設けてもてなしています。
写真の碑には「松平土佐守」とありましたので、天明9年(1789)の正月に山内一豊の子孫にあたる土佐藩主が、この時のことを記念して建碑したものでしょう。
※山内家の藩主は代々「松平」を称していました。

境内には他に、家康のお手植えと伝わる五葉松や、茶亭跡の碑などもあります。

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また、久延寺から50mほど離れた場所には、家康に供する茶に使用した御上井戸も。

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小夜の中山公園
最高点の標高は252m。小夜の中山は古くから箱根や鈴鹿峠と列び、東海道の三大難所として知られてきました。

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さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。

なお、右に見えている円筒状のものは西行の歌碑です。

年たけてまた越ゆべしとおもひきや
命なりけりさやの中山


平安末期の歌人・西行法師の、新古今和歌集にも収録されている一首。
晩年になって、生涯2度目の小夜の中山峠越えをすることになった感慨を謡ったものです。

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さて、ピークに登り切った先はなだらかな尾根道が続きますので、しばらくは景色を楽しみながらのんびりと西へ進みます。

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佐夜鹿一里塚
一つ前(江戸寄り)は、この日のスタート地点である金谷一里塚になりますので、ようやく一里(約4㎞)歩いたことになります。

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佐夜鹿神明社

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尾根上を真っ直ぐに伸びる旧東海道。

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白山神社の前を通過・・・長閑です。

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東海道屈指の難所であった小夜の中山。
東海道を旅した多くの人々が当時の情景を歌や句に残しており、路傍には歌碑や句碑が点在していました。

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涼み松広場

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昔、ここには大きな松が生えていて、松尾芭蕉がその下で、

命なりわずかの笠の下涼み

と詠んだことから、「涼み松」と呼ばれるようになりました。

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小石姫の墓
涼み松広場の向かいにひっそりと佇んでいました。
すると小石姫は、涼み松の根元で亡くなったということになるのでしょうか。

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路傍に建つ夜泣石跡の碑
こちらにあった夜泣石は、久延寺の夜泣石とは別のものになりますが、やはり同じような伝説が残されています。

その昔、とある身重の女性が小夜の中山で山賊に襲われて亡くなります。
この時、女性の傷口から子供が生まれました。すると、女性の霊がそばにあった丸石に乗り移って泣いたため、泣き声に気付いた久延寺の僧が駆けつけて赤ん坊を発見し、保護しました。
赤ん坊は乳の代わりに水飴で育てられて成長し、やがて母の敵を討ったとも云われています。
(赤ん坊を育てた水飴は、現在では「子育飴」として小夜の中山の名物にもなっているようです)

共に妊娠していたとされる点で、小石姫のお話との関連も気になるところですね。

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安藤(歌川)広重の絵碑
絵に描かれている通り、夜泣石は旧東海道の真ん中にありました。
明治天皇行幸の折りに道の脇(つまり現在の碑の位置か)に寄せられ、その後、博覧会に出品された後に現在置かれている小夜の中山北麓の県道沿いへ移されたようです。

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まさしくここが、広重が描いた「東海道五拾三次 日坂 佐夜ノ中山」の絵の場所ということになります。

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沓掛の集落まで来ました。
「沓掛」とは、旅人が峠の急坂に差し掛かった時、草鞋や馬の沓を捧げて安全を祈ったことに由来する地名なのだそうです。

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確かに集落を抜けると、旧東海道は急激な下り坂に差し掛かりました。
このクネクネと曲がりながら下っていく坂は「二の曲り」と呼ばれていました。

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坂の途中に建つ日之坂神社。
「日之坂」という名に、この先の日坂宿との所縁を感じます。

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東海道、江戸から数えて25番目の宿場町・日坂宿が見えてきました。

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こちらのマップでいうと、下の小夜の中山から沓掛や日之坂神社を抜け、国道や県道を越えて日坂宿に入ります。

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日坂宿本陣跡

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是れより、につ坂こさせられ、

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日坂宿高札場

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日坂宿を抜けると、旧東海道は県道415号に合流します。
(写真左が、日坂宿から続く旧東海道)

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県道に合流する地点に建つ事任八幡宮。
遠江國の一之宮だそうです。

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延々と続く県道歩き・・・時折こうして旧道へ逸れることもありますが、すぐにまた合流します。
日坂を過ぎてからの後半は、結構退屈な道のりとなりました。

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伊達方一里塚
この日スタートしてから2里の地点。

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再び県道から少し離れます。

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こういう道なら多少は歩いていて楽しいのですが、やはりここもすぐに県道へ戻されました。
そして驚いたことに大きな道路沿いにもかかわらず、飲食店はおろかコンビニにすらなかなか行き当らず、昼食の確保にも苦労しました。

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葛川一里塚
スタートしてから3里。葛川一里塚を過ぎると、いよいよ掛川の城下町が近づいてきます。

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七曲りに差し掛かりました。
江戸時代、掛川の城下へ入った旧東海道は、防衛上の理由からか幾重にも鉤型に折られていました。

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こちらのマップを参考に、七曲りを辿っていきます。
(見づらいですが、赤いラインが旧東海道)

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道を間違えないように慎重に進みます。

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趣のあるクランクですね。

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そして・・・ついに掛川城に到着!

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懸川に御泊り。

金谷からはおよそ15㎞、寄り道などをしながらのんびりと5時間弱の行程でした。
小夜の中山越えもなかなかのハードさでしたけど、何より日坂から先の長くて退屈な県道歩きが堪えました・・・。
太田牛一も「信長公記」で、田中を出発してから大井川や小夜の中山を越え、日坂に至るまでの道中は詳しく述べているのに、その先の掛川までの道中については一言も触れていません。
或いは当時も、さして取り上げるほどのものがなかったのでしょうか・・・?
それはさておき、400年以上の時を経てもなお牛一を介し、信長と同じ光景を共有していることを実感できる光景の連続に、大満足な歩き旅となりました。

この日は私も、懸川(掛川)に御泊り。(笑)

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2018年12月14日 (金)

壺笠山城、他

城友山城踏査会・忘年会明けの2日目(12月9日)は壺笠山城へ。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より)

宇佐山城の記事でも触れましたが、壺笠山城は元亀元年(1570)の志賀の陣に於いて、朝倉・浅井勢が立て籠もった地の一つです。
なお、あほ山は青山で壺笠山のすぐ北峰、はちヶ峰は日吉大社の奥宮が建つ八王子山付近と比定する説もありますが、壺笠山の辺りを通る古くからの白鳥越え(京の一条寺と穴太を結んでいた)のルート上には他にもいくつかの城郭遺構が残り、確かなことはわかりません。

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穴太野添古墳群近くの駐車スペースに車を停め、緩やかな傾斜の続く荒れた林道を西へ約1.5㎞、ダラダラと30分ほど登っていきます。
落石が多いようで、道中の至る所に岩が散乱していました。少々注意を要します。

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趣のある古い橋を渡り・・・

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こちらの分岐点を左手前方向へ進むと・・・

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壺笠山(右)と青山(左)間の林道切通に出ます。
ここを少し進んで壺笠山の北東側へ回り・・・

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目印となるテープが巻かれている箇所から斜面に取り付き、僅かな踏み跡のような山道?を頼りに山頂部を目指します。

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山道分岐点。
何の気なしに歩いていると左へ向かいそうになりますが、左ルートは最終的に斜面直登になってしまうようなので、ここは右に見えている土塁のような高まりを越えた先へ進みます。

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5分ほどで尾根に出ました。
この尾根は白鳥越えのルートとも推定されており、尾根に出て右(西)へ向かった先にも城郭遺構があるらしいのですが、この日は強風注意報も出ていたほどで、山の上では爆風が吹き荒れ、細尾根を渡るのは危険と判断して諦めました。

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反対に、尾根を左(東)へ進むと壺笠山城に至ります。

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いよいよ城域が近付いてきました。
斜面を遮断する竪土塁のようなものが見えます。

壺笠山の山頂には元々前方後円墳が築かれていて、写真手前側が前方部、奥の主郭側が後円部になっていたようです。
竪土塁の先、前方部にはいくつかの削平地が連なっていました。

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主郭を取り巻く腰曲輪の、更に南西下段の斜面にあった石垣。

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僅かではありますが、このような石垣がいくつか散見されました。

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主郭を囲む腰曲輪。

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主郭・・・壺笠山の山頂です。
残念ながら宇佐山城方向はおろか、四方の眺望は全く利きませんでした。

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主郭北東側の虎口。

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北東虎口には、かつては石段だったのでは?と思わせる痕跡も。

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北東虎口を下りた先の腰曲輪。

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その足元の切岸を覗くと、やはり石垣がありましたが・・・どことなく城の遺構には思えないような違和感を覚えました。

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引き続き、腰曲輪下の斜面を反時計回りに西へ回り込み、石垣を捜し歩きました。

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主郭北西虎口下付近にあった石垣。

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主郭北西虎口
こちらは完全に石段の跡ですね。

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壺笠山から青山を見る。
青山にも削平された空間があるようですが、いずれにしても朝倉・浅井合わせて3万とも云う大軍が数ヶ月に渡って駐屯するには、壺笠山も青山もあまりに手狭な感じがします。
太田牛一が信長公記に列挙した三山だけでなく、実際にはもう少し広範に渡って滞陣していたのではないでしょうか。

壺笠山城
・・・確かに朝倉・浅井勢が籠った際に陣城として改修してはいるのでしょうが、各所に残る石垣や虎口の石段までもが陣城に由来するものだったのかとなると、正直なところ釈然とはしません。
そもそも特定の合戦のためだけに築く陣城に、それも元亀元年の段階で石垣を積むものなのか・・・やはり疑問を禁じえません。

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下山後、穴太野添古墳群から望む琵琶湖。

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壺笠山城の後は日吉大社へ。(写真は東本宮)
私にとっては4年ぶりの再訪となりました。

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東本宮に建つ摂社、樹下神社の本殿は文禄4年(1595)の建立。
その床下には全国的にも珍しく・・・

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なんと、霊泉湧き出づる井戸が掘られていました。

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日吉三橋の一つ、走井橋。
他の二橋と同様、豊臣秀吉が天正年間に寄進したものと伝わりますが、元来のものは木橋で、寛文9年(1669)に現在の石橋に架け換えられています。

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志賀の陣の折、朝倉・浅井勢が籠った山の一つとして挙げられているはちヶ峰に比定される八王子山を振り仰ぐ。
奥宮の社殿が小さく見えています。

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お昼に近江ちゃんぽんで冷えた体を温め、今度は近江国一之宮・建部神社に参拝。

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建部神社に安置されていた菊花石・・・どこから見ても本物の菊の花にしか見えませんね。

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頼朝の出世水
源頼朝も伊豆へ流される道中、建部神社にお参りしていたようです。

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瀬田の唐橋

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唐橋近くに建つ龍王宮秀郷社。
竜宮の乙姫と、百足退治の伝説で知られる藤原秀郷(俵藤太)を祀ります。
※百足退治の伝説の真相は、敵の軍勢の列(=たくさんの足が連なる)を百足に擬え、それを瀬田川の要害性を利して撃退した、といったところのようです。

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瀬田城跡碑

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旅の最後は近江国庁跡へ。
付近の住宅街を、旧東海道(写真)が通り抜けています。

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近江国庁(国衙)跡碑

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かなり広範に渡って史跡として整備されているようですが、周辺は道幅も狭い住宅街で、駐車スペースに辿り着けなくて難儀しました。

さて、これにて2018年の遠征も終了です。
今年も多くの仲間に大変お世話になりました。
来年はどのくらい遠征に出られるか・・・いろいろと事情があって現段階では不透明ですが、これからもどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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2018年12月13日 (木)

宇佐山城、聖衆来迎寺、坂本城

12月8日(土)は、年末恒例の城友山城踏査会。2018年の舞台は大津市の宇佐山城跡です。
集合時間直前に発生した人身事故の影響で電車に遅延が生じたものの、午前11時過ぎには大津駅に集合して車3台に分乗、近江神宮から歩き始めました。

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山麓から見上げる宇佐山城跡
白いアンテナ(TV局の中継所)が見えている辺りが主郭になります。

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まずは、宇佐山中腹に建つ宇佐八幡宮の参道を登っていきます。

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宇佐八幡宮の社殿手前辺りから、登城路は本格的な山道に入ります。
これが結構な急勾配で、ハードな登山になりました。

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城山の東側に落とされた大きな竪堀。

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主郭と、その北側に位置する曲輪(以下「北曲輪」)間の鞍部・・・堀切でいいのかな?
まずは写真左手の主郭へ上がってみます。

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宇佐山城主郭
TV局の施設が、曲輪を埋め尽くすように並んでいます。一番奥の建物の先には・・・

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枡形虎口があります。
写真の左手前方向に先ほどの建物があるのですが、その縁の下(?)には・・・

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枡形で折られた導入路の延長線上と思われる位置に、石列が綺麗に並んでいました。

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主郭からの西の眺望。
眼下に山中越えのルートをしっかりと収めています。

宇佐山城は元亀元年(1570)、織田信長の命を受けた森可成によって築かれました。
敵対する朝倉・浅井勢に備え、山中越えや逢坂越えといった京へのルートを押さえるための措置だったと思われます。

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主郭から、一段下がった南の曲輪(以下「南曲輪」)を見下ろす。
主郭の南端に位置する枡形の土塁に沿って、不思議な“溝”がありました。

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反対に南曲輪より主郭方向。
写真で溝の右側が、先ほどの枡形へと続くルートと思われますので、溝は主郭への導入路を限定するための堀、と考えてもいいのかもしれませんが、それならば左側は掘り切ってしまえば良さそうな気がするのですが、現状は縁を残して溜池のようになっています。

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南曲輪東下の腰曲輪に残る石垣。

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こちらは主郭の東下に残る石垣。

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続いて主郭の北東側、三角に張り出した小曲輪に残る石垣。

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同じ石垣を反対側から。

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隅の部分は欠損していました。

宇佐山城は元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、志賀郡を与えられた明智光秀が坂本城を築いた後に廃城になったとされていますが、これほどの石垣が残っていることから、織田方の軍事施設として引き続き機能していたのではないか、とする見解もあるようです。

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主郭北側の横堀・・・というよりは塹壕?

辛末九月十六日、越前の朝倉・浅井備前、三万ぱかり坂本ロヘ相働くなり。森三左衛門、宇佐山の坂を下々り懸け向かひ、坂本の町はづれにて取り合ひ、纔千の内にて足軽合戦に少々頸を取り、勝利を得。翌日、
九月十九日、浅井・朝倉両手に備へ、又取り懸け侯。町を破らせ侯ては無念と存知られ、相拘へられ侯のところ、大軍両手よりどう(口へんに童)とかゝり来たり、手前に於いて粉骨を尽さると雖も、御敵猛勢にて、相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死。森三左衛門、織田九郎、青地駿河守、尾藤源内、尾藤叉八。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より。以下引用同)

元亀元年9月、信長が摂津の野田・福島城攻めに出ている隙を衝き、朝倉・浅井勢が坂本まで南進してきました。いわゆる志賀の陣の始まりです。
宇佐山城将・森可成は坂を駆け下って出撃し、一度は勝利を収めるものの衆寡敵せず、9月19日に再び大軍で押し寄せた朝倉・浅井勢との戦闘で森以下、織田信治ら主だった将兵は枕を並べて討死しました。

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森可成らが坂を駆け下り、朝倉・浅井勢と戦いを繰り広げた坂本の町を眼下に収める北曲輪からの眺め。
この日は晴天に恵まれ、琵琶湖の湖面が青く輝いてとても綺麗でした。

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ご覧のような急斜面を、まるで敵の迎撃に向かう森可成の如くに駆け下り、北曲輪から尾根伝いに更に北へと移動します。

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5分ほど進み、とてもスリッピーな急斜面を登った先に・・・

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北出丸があります。
※北曲輪と北出丸間の鞍部付近の西の斜面に、2本の連続竪堀らしきものもありましたが、逆光で写真が全く使えなかったので割愛します・・・。

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北出丸には石垣は一切見当たらず、複数の削平地が山の斜面に合わせて折り重なるように連なっていました。

宇佐山の城、端城まで攻め上り、放火候と雖も、武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門両人これありて、堅固に相拘へ候。

城将・森可成を失った宇佐山城でしたが、城に籠った家臣らが奮闘し、朝倉・浅井勢の猛攻をなんとか凌いで落城は免れました。
この時、朝倉・浅井勢が攻め上って放火したと云う端城こそ、この北出丸ではなかったでしょうか
北から進攻してきた朝倉・浅井勢が攻城戦に臨み、尾根の傾斜が比較的緩やかな北側から攻め上ったと考えるのは、至って自然な流れとも思えます。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。

宇佐山城の攻略には至らなかった朝倉・浅井勢でしたが、9月20日には逢坂を越え、醍醐・山科の辺りまで侵攻しました。
9月22日、摂津で急報に接した信長は急ぎ軍勢を返し、24日には逢坂を越えて坂本へと駆けつけます。信長の転進を知った朝倉・浅井勢は、はちケ峰あほ山つぼ笠山に登って立て籠もりました。

廿五日、叡山の麓を取りまかせ、(略)信長公志賀の城宇佐山に御居陣なり。

対する信長は諸将に比叡山を包囲させ、自らは宇佐山城へ入っています。

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北出丸から壺笠山(右の頂部)、そして比叡山方面の眺め。
多少の小競り合いを挟みつつ、和議が成立する12月まで続く志賀の陣で、両軍が対峙した距離感です。

また、この志賀の陣に於ける延暦寺の対応が、翌元亀2年の焼き討ちへと繋がっていくのですが、それについてはコチラの記事を参照ください。

志賀の陣の舞台となった宇佐山城
石垣などの遺構にも興味深いものがありましたが、何より織田信長も一時在城したこの城跡に立って、周辺の景観を眺めることができて感無量でした。

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下山後は森可成の墓所がある聖衆来迎寺へ。
聖衆来迎寺の山門は、明智光秀が築いた坂本城の移築門と云われています。

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この山門、平成22年に保存修理工事が施されたそうです。

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国の重要文化財に指定されている客殿。
寛永16年(1639)頃の創建と伝えられています。

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朝倉・浅井勢との戦闘で散った森可成の墓所
彼は聖衆来迎寺が建つ比叡辻の辺りで戦死したと伝えられています。

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織田信忠の室で、秀信の母となった寿々のお墓もありました。

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続いて坂本城跡へ。
坂本城址公園には、見慣れた明智光秀の像も建ちますが・・・

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こちらの図面が示す通り、公園は実際の城域からは外れています。

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城址公園の100mほど北、現在は廃墟となっているこちらの建物が建つ辺りが本丸跡。

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本丸跡の裏手、琵琶湖岸に残る坂本城の石垣石列。
運よく水位が下がっていたので、間近で観ることができました。

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よ~く目を凝らすと、水中で横方向に連なる石列も見えていたのですが・・・写真ではわかりづらいですかね。

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琵琶湖の対岸には、「近江富士」三上山も綺麗に見えていました。

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これにて、この日も踏査会も無事に終了となりました。
この後は大津駅周辺で各々チェックイン等を済ませ、こちらのお店で忘年会。

私は2次会まで参加し、午前0時頃まで楽しく盛り上がりました。
・・・お蔭で翌朝は、少々しんどい思いをする羽目に陥るのですが(笑)

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2018年12月 6日 (木)

信貴山城

城友会2018、ラストは生駒郡平群町の信貴山城です。

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朝護孫子寺の参道を伝って城山へアタック。
途中で雄嶽と雌嶽の分岐点に出ます。雌嶽にも出城のような曲輪がありますが、まずは主城の雄嶽へ向かいました。

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信貴山城本丸

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信貴山城図

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城内最高所に建つ空鉢堂。

十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間、羽柴、惟任、惟住、諸口仰せつけられ、信貴の城へ攻め上られ、夜責めにさせらる。防戦、弓折れ矢尽き、松永、天主に火を懸け、焼死候。
(信長公記 巻十「信貴城攻め落さるゝの事」より)

織田信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もった松永久秀。
天正5年(1577)10月10日、織田信忠率いる大軍の総攻撃を受け、信貴山城は落城しました。
久秀が火を放って命を絶ったと云う天主も、或いはこの空鉢堂の辺りに建っていたのかもしれませんね。

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信貴山城本丸からの眺望。
手前に丸い頭が出ているのが、後で登る雌嶽の山頂です。

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本丸から舗装された山道伝いに北の方角へ下っていくと、いくつかの小曲輪を経てAの曲輪に達します。
A曲輪の更に北へ続くのが・・・

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松永屋敷の曲輪群です。

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松永屋敷から見上げるAの切岸。

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松永屋敷は最近整備されたようで、整備の度合いもやり過ぎず適度な感じで、とても気持ちよく見学できました。

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段違いに4~5の削平地から成り、土塁なども見受けられました。

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松永屋敷北端から南を振り返る。
土橋状の虎口が明瞭に残っていました。

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松永屋敷西の谷を越え、Bの竪堀。

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Cの辺りにあった堀切と土橋。

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Dの食違虎口を抜け、最北端の曲輪を目指します。

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Eの虎口・・・枡形になっていたように思います。
この虎口を出た東側の斜面に・・・

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ご覧のような石垣が残っていました。

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一旦本丸まで登り直し、最後に雌嶽曲輪へ。

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雌嶽曲輪
細長い削平地が広がっています。

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雌嶽曲輪先端は一段低くなり、虎口のような痕跡も見られました。

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虎口の先、尾根を下った地点に堀切のようなものも見えていましたが、もはや下って確かめる気力も残っていなかったので・・・引き返しました。←

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信貴山城遠景

これにて城友会2018も終了です。
今回めぐった奈良のお城はどれも素晴らしく、スケールの大きさに驚きの連続でした。
来年は・・・どこになったのかな?そういえば、まだちゃんと聞いていなかったな・・・想像はついているけど。
(翌年の行先は夜のカラオケで決定するのが恒例←今年パスした)

来年もまた、みんなで集まれますように。

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2018年12月 1日 (土)

多聞山城

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城友会2018、前哨戦の2城目は多聞山城です。
現在、城跡には若草中学校が建っています。「職員の方がいれば多聞山城の冊子を購入できる」という情報をいただいたのでインターフォンを鳴らしてみましたが、残念ながら応答はありませんでした。

三月廿七日、信長、奈良の多門に至りて御出で。(略)
三月廿八日、辰の刻、御蔵開き候ひ訖んぬ。彼の名香、長さ六尺の長持に納まりこれあり。則ち、多門へ持参され、御成りの間、舞台において御目に懸け、本法に任せ、一寸八分切り捕らる。
(信長公記 巻七「蘭奢待切り捕らるゝの事」より)

天正2年(1574)3月、前年末に松永久秀・久通父子から多聞山城を接収した織田信長は、上洛して朝廷へ蘭奢待の切り取りを奏聞し、勅許を得るとすぐに多聞山城へ向かいました。
そして、東大寺の正倉院から長持に入った蘭奢待を運ばせ、この多聞山城で一寸八分(5㎝強)切り取っています。

写真の階段の上が主郭にあたりますので、まさに織田信長による蘭奢待切り取りの舞台、ということになります。

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多聞山城跡から見る東大寺の大仏殿。正倉院は写真で、大仏殿の少し左方向にあります。
天正2年3月28日、長持に収められた蘭奢待が往復した距離。
(写真提供:こばたかさん)

残念ながら城内(校内)を見学することは叶いませんが、周辺からも城の痕跡を探れそうなので少し散策してみます。

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主郭(左)と、その東の曲輪(グランド)の間を断ち切る東堀切。

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主郭北側の切岸
よ~く目を凝らして見てみると・・・

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土塁らしきものが見えている気もするのですが・・・如何せん近づくことができないので確証はありません。

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こちらは、主郭の一部として取り込まれていたであろう仁正皇太后の佐保山東陵(左)と、やはり城に利用されていたと思われる聖武天皇の佐保山南陵(右)の間の西堀切。
無論、敷地内に立ち入ることはできませんが、何とか目視できるポイントまで辿り着くことができました。

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眉間寺遺跡から見る佐保山南陵の西面。
何かしらの痕跡がありそうでしたが、城に関係するものかどうかは定かではありません。

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佐保山陵の参道
正面が聖武天皇の南陵になります。

実際に城を見学した宣教師ルイス・デ・アルメイダに;
世界中どこにもこの城の如く、善且つ美なるものはないと考える。
と讃えられた多聞山城。
僅かばかりでも、その痕跡に触れることができて良かったと思います。

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初日のラストは興福寺にも立ち寄り。

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今年(平成30年)落慶したばかりの中金堂。

この後は宿にチェックインしてから、最寄り駅近くで乾杯☆彡
・・・宿にもいろいろとネタがあるのですが・・・もう忘れることにします(笑)

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