カテゴリー「織田信長」の122件の記事

2017年7月19日 (水)

450周年の「岐阜」

今年に入って早4度めとなる岐阜への旅。
2017年は織田信長が稲葉山城を攻略して美濃を制圧し、「岐阜」と改めてから450年の節目の年。
それにちなんで岐阜市では、岐阜市信長公450プロジェクトと銘打って様々な試みが実施されています。今回は同プロジェクトに関連するいくつかのイベントに足を運んでみることにしました。

7月16日(日)、岐阜駅前で集合して最初に向かったのは・・・

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ぎふメディアコスモスにて開催されている信長公ギャラリー

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お目当ては「おもてなし劇場」で上映される岐阜城山麓居館のCG
信長の小姓に扮したMCの先導で見学してまわるという設定で、15分ほどの内容でした。
奥御殿や茶室の周辺が中心で、CG自体は素晴らしいのですが、もう少し全体をくまなく紹介して欲しかったなぁ…というのが正直な感想です。

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他にも、自らCGを操作して山麓居館をバーチャル散策できるコーナーなどがありました。

入館無料ですし、私のような遠来者のみならず、地元の方々にも多く足を運んでいただき、改めて信長のいた時代の岐阜城の姿に思いを馳せ、郷土の誇りを感じてもらうきっかけになればいいな、と思える企画でした。

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さて、お次は長良川沿いのとあるホテルへ移動し、川沿いの一室へ通されて・・・

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予め予約を入れておいていただいた、信長の饗応膳にて昼食です。
料理は勿論のこと、天下布武の朱印に織田木瓜紋・・・その全てに目も心も奪われます。

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献立
鯉に鮑、宇治丸(鰻)、巻きするめ・・・更にようひ餅が入っているあたり、やはり信長が天正10年5月15日に、安土城で徳川家康をもてなした際の献立(「続群書類従」)を参考に再現しているようです。

天正十年安土御献立
於安土上様。三河守殿。御申献立。拾伍日をちつき。

本膳
たこ/たいのやき物/な汁/のなます/かうの物
(香の物)/ふなのすし/御めし
二膳
うるか
(鮎のわたの塩辛)うちまる(宇治丸:ぶつ切り鰻の蒲焼)/ほやひや汁/ふとに/かいあわひ(鮑)/はむ(鱧)/こいの汁
三膳
やきとり/やまのいも・つる(鶴)しる/かさめ(がざみ:渡り蟹)/にし(タニシ)/すゝき(鱸)
四膳
まきするめ/しきつほ(鴫の壺焼き)/ふな汁/しゐたけ
五膳
まなかつうを さしみ(真魚鰹の刺身)/しやうかす(生姜酢)/かわらけ入こほう(牛蒡)/かも汁/けつりこふ(削り昆布)
御くハし(御菓子) ふちたか足をつけて(容器の説明)
やうひもち(求肥餅)/まめあめ/ミのかき(美濃柿)/はなにこふ(花昆布)/から花(造花)

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用いられる器の一つ一つにも全て、木瓜紋が入っています。

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鯉の洗は人生初体験でした。

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岐阜城下、長良川の畔で信長の饗応膳を堪能する・・・織田信長を追い求める者にとってはまたとない、贅沢なひと時でした。

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饗応膳を堪能した後は岐阜公園へ移動。
岐阜市歴史博物館で開催中のGifu信長展で;

ルイス・フロイス書簡写(原本/1569)
・フランシスコ・ザビエル書簡(自筆/1549)
※何故か署名部分が切り取られている。
・太田牛一自筆の信長記(岡山大学附属図書館)
・唐物肩衝茶入 銘:勢高
・唐物文琳茶入 銘:本能寺
・織田信長制札 北加納宛(永禄10年9月日)
・数々の織田信長書状類

などを見学してきました。
※後期展示にも必ず足を運びます。

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午前中にCGで見学した山麓居館跡を抜けて・・・

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ロープウェイで金華山の山頂へ。

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岐阜城資料館の特別展信長公の隠れ家

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その中のテーマ展示マンガに描かれた信長公

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7月1日~9月28日までの期間は、宮下英樹氏「センゴク」の複製原画が展示されています。

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織田信長肖像画(長野剛氏)と南蛮胴具足。

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混雑するロープウェイを諦め、猛暑(35度超え!)の中、岐阜城の大手とされる七曲り道で下山。

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暑くて大変でしたが、実は岐阜城の登城路を歩くのは初めてだったので、密かに嬉しかったりする(笑)

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途中、ちょっと気になる痕跡も・・・道?

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岩盤がセットバックに切り開かれている箇所も。
・・・本当はこの、平に整地された岩盤部分が道だったのかな?

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岐阜市街へ戻り、夜は恒例のギフナイト☆
貴重で美味しい日本酒も味わい、2次会まで楽しく過ごしました。

岐阜市信長公450プロジェクト
勿論、私自身も楽しませていただきましたが、これがより多くの岐阜市民の方が歴史に関心を持つきっかけになるといいな、と思いました。地元の関心が高まってこそ、文化財の保護などへの認識も高まるでしょうし。
そういった点でCGやマンガをテーマに用いた展示は、門戸を広げる意味に於いて面白い試みなのかもしれません。応援したいと思います。

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2017年5月14日 (日)

実相寺、正法寺、幡頭神社

GW旅、ラストは太田輝夫先生の著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」で読んで以来、ずっと気になっていたエピソードを確かめるため、三州吉良の地へ向かいました。

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吉良西条の実相寺(西尾市上町下屋敷)
文永8年(1271)、吉良氏の菩提寺として吉良満氏が創建。三河国の初代安国寺として壮大な伽藍を誇りました。
ちなみに満氏の弟・国氏が駿河今川氏の始祖となっています。
やがて吉良西条が今川氏の勢力下に入ると、天文15年(1546…諸説あり)には今川家の軍師として名高い雪斎が住職に就いています。

実はこちらの実相寺、永禄3年(1560)5月5日のまさに桶狭間合戦の直前に、織田信長による焼き討ちに遭っているのです。(「岡崎領主古記」等)
※注:実相寺発行の沿革には「桶狭間の翌年」とある。

この焼き討ちについて、「西尾町史」は;
「一説に当時実相寺には多数の僧兵居りしが信長之を以て今川の残党なりとして攻めたりと」
としています。
(「桶狭間合戦 奇襲の真実」より引用)

タイミングから判断するに、今川義元出陣の報を掴んだ信長は、かつて雪斎(弘治元年=1555年に長慶寺にて死去)が住職を務めていたこともある実相寺を今川氏の前線拠点とみなし、これに先制攻撃を加えたものか・・・。

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永禄2年創建の釈迦堂
焼き討ちで荒廃した実相寺再興のため、天正4年(1576)に鳥居元忠が寄進したものです。

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方丈
こちらは慶長8年(1603)の再建。

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八葉宝鐸型梵鐘
南北朝期の作。竜頭は和様の双頭形で、八稜形の口縁には中国式の形状が見られることから、和漢混淆式梵鐘とも呼ばれています。

ところで吉良にはもう一つ、信長と義元に関連して興味深い逸話が残されています。

実相寺の焼き討ち、そして桶狭間合戦より遡ること2ヶ月の永禄3年3月、今川義元は三河を巡視して乙川(吉良町)の正法寺に滞在しています。
やはり知多にいた信長は、義元の三河滞在を知るや舟を仕立て、乙川の沖合にある梶島まで押し寄せてきました。
正法寺住職の誘いで宮崎海岸での舟遊びに興じ、なまこ取りを見物していた義元は信長勢の接近に驚き、岬の高台にある幡頭神社に逃げ込みますが、信長が強襲を諦めて梶島から引き返したので難を逃れました。

この義元の三河巡視~信長の強襲未遂に関するエピソードは、地元の社家に残る旧記に伝えられるものとして「吉良町誌」に掲載され、「桶狭間合戦 奇襲の真実」の中でも取り上げられています。

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義元が滞在していたと云う正法寺
永禄3年の3月という時期からして、やはり同年5月に予定している尾張進攻に向けた準備活動の一環だったのでしょうか。
※門前に建っているのは、明治22年と昭和28年の高潮被害に関する標柱です。

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薬師堂拝殿
宝永3年(1706)の建立で、西尾市の文化財に指定されています。

現地にあった説明板によると、正法寺には義元の朱印状(禁制、もしくは安堵状か)も残されているようです。(正法寺文書)
・・・義元と正法寺の繋がりは確認できました。

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正法寺(の隣り)には古墳も(正法寺古墳)。
古墳公園に建つ、写真奥にチラッと見えている祠は陣屋稲荷・・・江戸時代、この地を治めた吉良氏(元禄赤穂事件で有名な高家)の陣屋の鎮守だったようです。

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こちらは、信長勢の接近を知った義元が逃げ込んだと云う幡頭神社
大宝2年(702)の創建という古い歴史を誇ります。

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本殿は天正8年(1580)の建立で、国の重要文化財。
両サイドはそれぞれ神明社と熊野社の本殿で、やはり天正期の建立と推定されています。いずれも愛知県指定文化財。

幡頭神社の説明板にも「足利尊氏、そして今川義元も参拝したと伝わる」とありました。
義元がこの地まで足を運んだとすると、それはやはり、3月であれ5月(桶狭間への出陣時)であれ、永禄3年のことであった可能性が高いだろうと思います。

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幡頭神社境内から見る梶島

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義元強襲を諦めた信長が、舟の舵を切り直して知多へと引き返したことから、「梶島」の名で呼ばれるようになったとも伝えられています。
当時の海岸線はもっと手前側に入り込んでいたでしょうが、舟遊びをしていた義元からすれば、まさに目と鼻の先・・・相当に慌てたことでしょうね。

この乙川~梶島での1件が、2ヶ月後の実相寺焼き討ちに繋がったのかもしれません。

ここで取り上げた一連のエピソードは、1次史料では一切確認できず、事の真偽は定かではありません
が、実際に訪れた関係各所で着実に義元、或いは信長の痕跡を確かめられた点は大きな収穫で、手応えを得ることができました。

さて、これにて2017年のGW旅も全行程を終了です。最後は名古屋まで送っていただいて解散しました。
お蔭さまで今回も、事前の想定を超える成果の詰まったいい旅になりました。ありがとうございました。

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2017年5月13日 (土)

末森城、桃巌寺

小牧城下町の惣堀探しの後は、名古屋市内へ移動。

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桃巌寺
信長の父・織田信秀の菩提寺(の一つ)で、信秀晩年の居城・末森城を継承した次男・信勝が創建しました。
寺名は信秀の戒名「桃巌道見大禅定門」から採られています。

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現在の境内地は正徳4年(1714)に移転されたものです。
創建当初は城山(末森城)南麓の、穂波町付近にあったようです。

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織田信秀廟所
こちらの五輪塔は、当地へ移転後に建立されたようです。

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こちらが移転前に祀られていた旧墓石。
寺の移転後も墓石は旧地に残されていましたが、昭和になって移設されています。
正面に「前備州太守桃巌道見大禅定門
左側面には「柴田修理勝家」の文字が見えました。
他に3基の小さな五輪塔もありました。

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桃巌寺といえば名古屋大仏・・・なのだそうです。

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続いて末森城跡へ。
織田信秀晩年の居城で、その没後は次男の信勝が継承しました。

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現在、末森城跡には城山八幡宮が鎮座していますが、当社は築城当時から城山の麓に祀られていたようです。
昭和11年に現在地へ遷座されました。

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神域前のこの付近が本丸跡で、拝殿や本殿が並ぶ神域は二の丸跡。
江戸期の古絵図によると、二の丸には丸馬出まであったとのことですが・・・。

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実際に訪れてみて、とにかく驚いたのは横堀の規模
本丸、及び二の丸をグルッと取り巻くように深く、幅広な堀が穿たれています。

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前方に写る同行者との対比からも、その規模を推し量れようというもの。

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名古屋市内にこれほどの遺構が残っていたのか・・・とにかく驚きです。

それと同時に、ふと疑問も持ち上がりました。
織田信長は小牧山にも岐阜にも、そして安土にも山腹には横堀を一切用いていません
末森城は信長の城ではなかったとはいえ、当然その縄張や構造は見知っていたはずです。知った上で、このような横堀は無用と考えたのでしょうか・・・?

末森城に残る横堀遺構の規模や雰囲気には、後に徳川家康が小牧山に築かせたものと通じるものがあるようにも思えます。
末森城の二の丸にあったとされる丸馬出にも、年代的・地域的な観点から違和感を覚えるし、そう考えていくと、この横堀は(丸馬出も)信秀・信勝時代の遺構ではなく、後の、例えば小牧長久手合戦などでの改修によるものと考えた方がいいように思えてきました。
※但し文献上では、末森城跡の小牧長久手時の再利用は確認されていないそうです。

いずれにしても想定外に素晴らしい遺構でした。

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末森城をあとにして、道三・信長の会見で有名な聖徳寺跡や・・・

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加賀野井城跡・・・

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「名人久太郎」こと、堀秀政生誕の地と伝わる上茜部城跡などに立ち寄りつつ、岐阜駅へ。
夜は同行者たちとの恒例、ギフナイト☆

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実はこの日は私の誕生日。
サプライズにプレゼントまでいただき、嬉しい1日になりました♪
・・・その分、翌朝がちょっと大変だったけど(笑)←

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2017年5月12日 (金)

小牧山城(城下町)の惣堀

GW旅2日目。
この日のスタートは、3月にも訪れている小牧山城です。

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3月には発掘調査後の埋め戻し作業で通れなかった、本丸手前の大手道。
スロープ状の大手道に沿って現れた石の壁も、すっかり埋め戻されています。
参照記事

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小牧山城本丸から、信長が清須から居城を移す際、最初に候補地として挙げた二宮山を見る。
・・・いずれあちらにも登ろう(・ω・)

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しかし、今回の一番の目的は城山ではなく、信長が城山の南麓に整備した城下町を覆う惣堀
まずは城下町の南東端外れに位置する神明社から。

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小牧市外堀地区にあることから、外堀神社とも呼ばれています。
境内にちょっと気になる高まり(土盛り)はあったものの・・・まぁ、考え過ぎですね(^_^;)

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次は同行者が地図で見つけ、名前が気になった織田井戸公園。

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付近で縄文時代の遺跡が発掘されたようですが・・・「織田井戸」の名の由来は分からず仕舞い。

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最後に、予め地図でアタリを付けておいたポイントへ。
現在は単なる用水路になっていますが、こちらは小牧城下町の南面にあたる惣堀の名残です…その名も「惣堀用水」。
用水を境に北が小牧市元町、南が同小木と町域も分かれています。

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近くに惣堀に関する説明板も設置されていました。
この付近には、城下町への虎口も設置されていたようです。
説明板の奥に見える道路は・・・

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信長が整備した城下町の道筋の一つ、紺屋町筋。

時間があればもう少し詳しく、広範に城下町や惣堀の痕跡を訪ね歩いてみたいものです。

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2017年5月11日 (木)

呂久の渡し(中山道)

美濃金山城や可成寺を訪問した後は、一気に瑞穂市と大垣市の境界付近まで移動。
中山道が揖斐川を越える呂久の渡しを目指します。

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小簾紅園

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小簾紅園に建つ和宮の歌碑

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幕末の公武合体政策により、徳川14代将軍・家茂に嫁すことになった皇女和宮。
和宮降嫁の行列は中山道を進み、呂久の渡しを御座船で越えた際、彼女は綺麗に紅葉した楓を目にし、
おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と詠みました。
小簾紅園は、この折の渡河を記念して築かれたものです。

江戸期に入って五街道の一つとして整備された中山道ですが、この付近では岐阜や安土を本拠とした織田信長により、赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納というルートが整備されていました。
そのため、呂久の渡しも「信長公記」に登場します。

三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。其の日、江州の内、柏原上菩提院に御泊り。翌日、仁科五郎が頸もたせ参り侯を、ろくの渡りにて御覧じ、岐阜へ持たせられ、長良の河原に懸け置かれ、上下見物仕り侯。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」より抜粋)

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向かう織田信長は、呂久の渡しで届けられた仁科盛信の首を実検しています。
また、甲州からの帰路にはやはり呂久の渡しを、稲葉一鉄が用意した御座船で渡りました。
・・・つまり、私が呂久の渡しを訪れた動機もこれ(笑)

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小簾紅園の隅、旧中山道沿いに佇む地蔵堂。

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旧中山道

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明治天皇御小休所跡の石碑が建つ建物。

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小簾紅園から中山道を伝い、東の方角へ進むと揖斐川が姿を現します。
私も初めは、この辺りが呂久の渡し跡だと思っていました。
ところが、小簾紅園に設置されている説明板をよく見てみると・・・

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揖斐川は大正14年の新川付替工事により、付近の流路が大幅に変えられていました
当時の揖斐川は、小簾紅園の西側を流れていたようです。

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小簾紅園から旧中山道を西へ向かい、その先から振り返った様子。
遠くの窪んだ地形が、揖斐川の名残を伝えてくれるかのようです。

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更に西へ進み、小簾紅園にあった地図で旧揖斐川の対岸付近に該当すると思われる地点まで来ると、平野井川という用水の川に当たり、ここが瑞穂市と大垣市との市境になっていました。

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平野井川の畔にはお地蔵さんも。
まるで小簾紅園にあった地蔵堂と対になっているかのようです。
この両地蔵の間が、旧揖斐川流域とその河川敷だったのではないかと思います。現在の揖斐川ではなく、この付近が市境になっていることも、それを暗示しているような気がします。

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平野井川脇の土手には、中山道の古い道標も。

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その道標から旧揖斐川、即ち呂久の渡し跡を眺め渡す。
織田信長が仁科盛信の首を実検し、帰路には稲葉一鉄の用意した御座船で渡河した地。

手元に資料が乏しく、旧揖斐川の流路などの位置関係については多分に推量を多く含む内容となっていることはご容赦ください。

すっかり日も暮れてきたところで、初日の行程はおしまい。
夜は勿論、岐阜駅前で盛り上がりましたとさ☆

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2017年5月10日 (水)

美濃金山城(信長の休石)

2017年のGW旅は、岐阜~愛知方面にお邪魔して参りました(5/4~6)。

初日。
岐阜駅から車を飛ばし、まず最初に連れて行って貰ったのは、可児市の金山(兼山)です。

永禄8年(1565)、東美濃へ侵攻して鵜沼・猿啄・堂洞・関の各城を攻略した織田信長は、斎藤家の東美濃に於ける旗頭的存在だった長井隼人の拠点の一つ、烏峰城を森可成に与えました。この時、城の名も金山城に改められています。
※信長の東美濃攻め参照記事→Part

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出丸跡の駐車場に車を停め、こちらから城攻めをスタート。

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三の丸から見る、二の丸西面の石垣。
のっけから味わいのある、いい石垣です。

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看板には「水の手」とありますが、パンフレットによると麓にあった米蔵跡から続く三の丸の虎口。
岩盤を切り出して成形した枡形のようになっています。

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二の丸

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二の丸の南面に残っていた石積

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二の丸から、本丸を取り巻く腰曲輪群へと続く虎口を見上げる。

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この虎口がまた素晴らしかった・・・石垣造りの見事な枡形形状を残しています。
こちらの虎口より左が西腰曲輪、右が南腰曲輪となります。

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枡形虎口を俯瞰で。

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本丸櫓台の石垣

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櫓台の奥に残る、本丸への石段跡

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金山城本丸
地表面には多くの礎石が並んでいました。

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金山城址碑

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本丸から木曽川を眼下に収める眺め。

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本丸北面の石積
こうして低く積まれた石垣に武者走り状の平面が付き、セットバックさせている構造が多く見受けられました。

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本丸搦手口、東腰曲輪への枡形。

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こちらの枡形も見事でした。

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東腰曲輪から、本丸東面の石垣。
足元に長方形に区画された石列がありました。穴倉、或いは貯水池の跡とも考えられているようです。

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少し斜面を下って回り込んだ先から見上げる、東腰曲輪北面の石垣。

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東腰曲輪の更に東、尾根を下った先にある左近屋敷跡へは、ご覧のような切岸を下ることになります。
※訪城後に気がついたのですが、左近屋敷跡方面は現地案内パンフに「危険につき立入禁止」とありました。ご注意ください。

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左近屋敷跡の石積
こちらも2段のセットバックになっています。

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左近屋敷はその名の通り、森家の家老だった細野左近という人物の屋敷跡と考えられています。

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一旦、元来た駐車場近くの林道まで引き返し、左近屋敷跡の先にある大堀切へ。
写真左手の斜面を上がった先が左近屋敷になります。

ところでこちらの金山城、天正10年(1582)3月9日には甲州征伐へ向かう織田信長も、その軍旅の途中に一泊しています。
上写真の大堀切の、右手の斜面を上がっていった先にはこの時、信長が腰を掛けて休んだと云われる「信長の休石」があるというので、私も向かってみることにしました。
・・・というより、金山城に来た一番の動機がコレだったりします(笑)

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大堀切からの道中は山道が付いて案内板もありますが、現地までの距離感が分からず、結構不安になります。

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最初に現れた大岩。
現地には何の説明もありませんでしたが・・・座禅石かな?

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大堀切から10分ほども歩くと、可成寺跡の削平地に出ます。
可成寺はその名が示す通り、元亀元年(1570)の近江宇佐山での合戦(対浅井・朝倉連合軍)で命を落とした森可成の菩提を弔うため、跡を継いだ次男・長可が創建したお寺です。
現在は麓に移されているため、山上の当地には何も残りません。

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可成寺跡の案内板も朽ち果て、地面に転がっていますので見落としにはご注意…(^_^;)

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可成寺跡まで来たら進行方向左側に注意していると、こちらの案内板が目に入ってきます。
ここから少し下った先に・・・

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織田信長の休石

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休石や可成寺跡は金山城の東の稜線(寺が峰)に位置し、休石の先からは勾配もきつくなって、ずっと下っていました
休石の伝承が真実だとすると、信長は金山城に入る前に可成寺での可成の墓参を決め、寺が峰の急坂を登りきったところで一旦休憩した、といったことになるでしょうか。
翌日は高野(信長公記/旧神箆こうの村)の鶴ヶ城へ向かっていますが、まさか金山城を出発してすぐの地点で休憩するとも思えませんし…(笑)

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この岩に腰掛けた信長・・・その時、彼の目にはどのような光景が映っていたのでしょうか。

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さて、下山後は麓に建つ現在の可成寺へ。
慶長5年(1600)、森忠政(可成6男)が川中島の海津城へ移封されると金山城は廃城となり、可成寺も寺が峰からこちらへ移されました。
長可愛用の脛当を収蔵しているようです。

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森家墓所

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左から長可、可成、可行(可成父)、可隆(可成長男。元亀元年の手筒山攻めで戦死)

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こちらは本能寺の変で信長に殉じた乱(中央/可成3男)、坊(左/同4男)、力(右/同5男)

森家では次男の長可も、天正12年(1584)の小牧長久手合戦で討死を遂げています。

・・・群生するシャガの花が墓所を囲むように咲き誇り、とても綺麗でした。

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2017年4月 9日 (日)

大良の戦い

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信長も道三聟にて侯間、手合のため木曾川・飛騨川舟渡し、大河打ち越し、大良戸島、東蔵坊構へに至りて御在陣。
(信長公記 首巻「山城道三討死の事」より抜粋)

美濃の斎藤道三が嫡子・義龍と争った弘治2年(1556)4月の長良川の戦い
道三の婿()でもある織田信長は、道三への援軍として木曽川・長良川(飛騨川)を越えて大良(岐阜県羽島市正木町大浦新田)まで進軍します。
※現在の地図で確認する限りに於いては長良川を越えるはずはないのですが、或いは川の流路が大幅に変わっているのかもしれません。

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木曽川に濃尾大橋が架かる辺りが、江戸時代の起渡船場
周辺には他にも、いくつかの渡し場が設けられていたようです。
そこから堤防を越えて西へ・・・

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美濃路の旧道が伸びています。
(上地図赤ライン

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大浦(三ツ屋)の道標

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右 いせみち
左 おこし舟渡


現在、道標は民家の玄関先に建っていますが、この場所には元々、木曽川の堤が南北に走っていたのだそうです。
美濃路はその堤防上を右へ折れ、北に続いていました。

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少し北へ進むと、しだれ桜の足元だけが取り残されるようにして高くなっている場所がありました。
先ほどの道標の位置と南北のラインで繋がりそうですし、これはしだれ桜のお陰で僅かに残された、江戸期の堤防の痕跡かもしれないなと思いました。
更に北へ進むと・・・

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大浦城大浦の寺砦)跡とされる金矮鶏神社があります。
寺砦とは「戦の際に砦として利用される寺院」といったところでしょうか。
この大浦城こそ、信長が布陣した戸島、東蔵坊の構へではないかと推定されています。
東蔵坊という響きもなんとなく、「寺」を連想させますよね。

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石柱に見える「金矮鶏」の文字。

長良川の戦いで勝利した斎藤義龍は、その勢いを駆って大良に陣取る信長の軍勢にも兵を差し向けます。
信長も出撃してこれを迎え撃ち、河原で激戦となりますが、山口取手介や土方喜三郎といった将が戦死、森可成も負傷を負う苦戦に陥りました。
戦いの最中、道三の敗死を知った信長は大浦城に一旦兵を退き、尾張への撤退を決断します。

爰にて大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿は信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ上総介殿めし侯御舟一艘残し置き、おのゝゝ打ち越し侯ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来たり侯。其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近ゞとは参らず。さて、御舟にめされ、御こしなり。
(信長公記 首巻「信長大良より御帰陣の事」より抜粋)

勝ちに乗じて勢いに乗る敵の軍勢が迫る中、まずは雑人や牛馬を退かせた後、信長は
殿(しんがり)は俺がやる
と言って自らの舟一艘だけを残し、あろうことか全軍を先に渡河させてしまうのです・・・なんとも凄まじいエピソードですね。
そこへ義龍方の騎馬武者が追ってきますが、信長が鉄砲で迎撃すると敵の武者は警戒して距離をとったため、信長も舟で無事に渡河することができました。

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この時に信長が木曽川を渡河したポイントですが、やはり江戸時代になって美濃路の渡し場がいくつか設置されることになる、濃尾大橋周辺だったのではないかと考えています。

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この大良の合戦では、(信長の撤退後と思われますが)大浦城も義龍軍の攻撃に晒されています。
いよいよ落城迫った時、大浦城の姫(戸島東蔵坊の娘?)は家宝の金矮鶏を抱えて城内の井戸に身を投げたと云います。これが金矮鶏神社の由来なのだとか・・・。
(大浦の金矮鶏伝説)

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信長の東美濃攻め Ⅲ(加治田城・関城)

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東美濃攻めシリーズ(Ⅰ~Ⅱ)でも度々その名が登場してきた加治田城
その城跡へは城山の南麓、清水寺の奥に伸びる山道を伝って向かっていきます。

ルート図
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よく整備された登山道をひたすら進み、Aのポイントで二股に分かれますが、ここは左が城跡への近道になります・・・直登ですけど(^_^;)

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近道ルートの直登をクリアした先の尾根。
自然地形の鞍部でしょうが、加治田城の西の守りを固める堀切代わりになっていたのではないかと思われます。
ここまで来たら、あと少し・・・向かって左の坂を登ります。

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いくつかの段曲輪を越えると、写真の虎口が出迎えてくれます。
ここから東に向かい、尾根上に城域が続きます。

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加治田城から堂洞城を見下ろす。

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加治田城本丸跡

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本丸から更に東へ進むと、通路に沿って石積みも残っていました。

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本丸東側の斜面下には、いくつかの腰曲輪が点在します。
これらと連動するように・・・

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竪堀も数本落とされていました。

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曲輪(右)の脇を固めるように駆け下る竪堀(左)

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下山後は清水寺の境内にも少しお邪魔しました。

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なかなか年季の入った、趣のあるお寺です。

加治田城…規模こそ大きくはないものの、曲輪や竪堀の配置など、しっかりと作り込まれた印象のお城でした。
堂洞城とは明らかに作り込みが違うかな。

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現在は富加町の東公民館が建つ加治田小学校跡は、佐藤紀伊守屋敷跡の伝承地でもあります。

其の夜は、信長、佐藤紀伊守、佐藤右近右衛門両所へ御出で侯て、御覧じ、則ち右近右衛門所に御泊り。父子感涙をながし、忝しと申す事、中々詞に述べがたき次第なり。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)

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堂洞城を攻略した織田信長はその日(永禄8年9月28日)、佐藤紀伊守右近右衛門両者の屋敷へ出向いて確認した上で、右近右衛門の屋敷に泊っています。
泊った場所こそ違えど信長も一度は紀伊守屋敷に足を運んでいますし、実際に泊った右近右衛門屋敷も、きっと近くにあったのでしょう。

翌29日になると、堂洞を落とされた斉藤勢が反撃に出ます。
関城長井隼人に加え、稲葉山から龍興自身の軍勢も攻めてきたとありますので、かなりの陣容だったことでしょう。

手負いも抱えた信長は一部の兵(斎藤利治=道三息とも)を加治田城の守備に残し、尾張へと撤退します。
この時の撤退戦の手際も見事で、信長を取り逃がした斉藤勢は、絶好の機会をみすみす逃して悔しがった(御敵ほいなき仕合せと申したるの由に侯)と云います。

加治田城も辛うじて斎藤・長井勢の攻撃を退けますが、この戦いで佐藤紀伊守の嫡子・右近右衛門は討死を遂げてしまいます。
これにより、後に前出の斎藤利治が紀伊守の養子となって佐藤家を継承し、隠居した紀伊守は加治田城の麓に龍福寺を開いて佐藤家の菩提寺としました。

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龍福寺
堂洞城で処刑された紀伊守の姫も、こちらに葬られています。
また、池田恒興の槍・鞍・轡・鐙が寺宝として保存されているのだそうです。

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残念ながら佐藤家の墓所は判別できませんでいたが、墓地には美濃岩村藩主となった丹羽氏(丹羽長秀とは血縁関係なし)の後裔の方々の墓所がありました。


さて、無事に撤退した信長は、同年10月、再び美濃へ進攻して長井隼人の関城を攻めます。

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関城跡、安桜山公園への登り口。
ここから10分ほどの登りになります。

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西の曲輪には南北に腰曲輪があり、その北側の腰曲輪には不思議な穴が・・・

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しかも対になっていました。
井戸というよりは溜池?…それとも水路になっていたのでしょうか・・・?

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反対の南側の腰曲輪。
こちらの曲輪の外縁には・・・

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ごく一部ですが、2ヶ所ほど小さな石積みが残っています。

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本丸の切岸

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関城本丸跡

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本丸の周囲で1本だけ見つけた竪堀

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関城から見る、堂洞・加治田方面の眺め。

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こちらは猿啄城の方角。

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ところで、天正10年の本能寺の変を受けての混乱期、川中島から旧領の金山(兼山)に復した森長可は、混乱に乗じて離反した国衆を討つため、関城の眼前(南)に見えるこれらの小丘に兵を配し、同城を包囲したと伝わります。

関城を落として東美濃を制圧した織田信長。
彼が稲葉山城を落とし、斎藤龍興を追って美濃を掌握するのは、この僅か2年足らず後のこと。
東美濃の攻略がその画期となったことは、やはり間違いのないところでしょうね。

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2017年4月 8日 (土)

信長の東美濃攻め Ⅱ(高畑山布陣~堂洞合戦)

前回に引き続き、こちらの図を・・・

東美濃攻め関連地図
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鵜沼→猿啄と立て続けに攻略した織田信長は永禄8年9月28日、加治田城の南約2㎞強(「信長公記」では廿五町)に築かれた堂洞城の排除に取り掛かります。

堂洞合戦関係図
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猿啄城から北進した信長が布陣した地について、「堂洞軍記」には;
高畑見へし山
とあります。

事前に各資料や地図等で検討した結果、高畑見へし山とは現在の高畑地区(富加町夕田)の北端に位置し、浄光寺というお寺の背後にそびえる恵日山でいいのではないかと考えています。
※次の記事でご紹介する加治田城本丸跡に設置された案内板でも、信長の布陣地を恵日山としていました。

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織田信長布陣の地、高畑見へし山・・・恵日山

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麓の浄光寺の山号も「恵日山」

この選地は堂洞城攻撃に加え、西方の関城に構える長井隼人と堂洞間の連絡を絶ち、その援軍に備えるためでもあったと思われます。
現に、堂洞城攻めが開始されると長井隼人は手勢を率いて迫ってきますが、堂洞まで廿五町(信長公記)の肥田瀬川(堂洞軍記/津保川か)付近で阻まれ、それ以上先へは兵を出せなかったと云います。
これも、恵日山に信長の軍勢が残っていたためと考えると、堂洞から廿五町という距離感、そして麓を流れる津保川が関と堂洞の間を分かち、その対岸(関側)が肥田瀬という地理的条件からしても、かなり有力な候補地ではないかと思います。
※「堂洞軍記」には「長井勢が肥田瀬川を渡り、信長の軍勢がこれを迎え撃った」とありますが、「信長公記」には「長井勢は堂洞から廿五町のところまで寄せてきたが、足軽さえも出さなかった」とあり、この日は特に長井勢との間で戦闘があったようには思えませんので、実際には津保川を越えられなかったものと思います。

さて、居合わせた浄光寺の檀家の方にもお訊きしたものの登り口がよく分からず、西側にちょっとだけ藪が払われた道らしき痕跡がありましたので、試しにそちらからアタックしてみました。

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道に沿って登っていくと、山腹には何やら祠のようなものが・・・どうやらこの道は、祠のためのものだったようです。

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祠の先は完全に道なき藪を進むしかありません。

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どうにか辿り着いた尾根上には、結構な広さの空間が広がっていました。
ある程度まとまった数の兵数であっても、この広さならば充分なスペースを確保できたように思えます。
なお現在は、鬱蒼と生い茂る樹木で視界は全くききません。

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恵日山の三角点
そのまま尾根上を東へ進みましたが、藪で下山ポイントを探すのにも苦労しました・・・。

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恵日山東側の山腹にある愛宕古墳
写真がヘタすぎて全く分かりませんが、綺麗な前方後円墳になっていました。
(手前が方形、奥が円形)

次はいよいよ堂洞城を攻めます。

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堂洞城南側、土橋状の・・・通路?

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その先には広い空間が広がっていました。
この先の一段高い部分が主郭になります。

合戦当日は風が強かったため、信長は松明を投げ入れさせ、二の丸を焼き落とさせたと云います。

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堂洞城主郭

午の剋に取り寄り、酉の刻まで攻めさせられ、既に薄暮に及び、河尻与兵衛天主構へ乗り入り、丹羽五郎左衛門つゞいて乗り入るところ、岸勘解由左衛門・多治見一党働の事、大形ならず。暫の戦ひに城中の人数乱れて、敵身方見分かず。大将分の者皆討ち果たし畢。
(信長公記 首巻「堂洞の取出攻めらるゝの事」より抜粋)

猿啄に引き続きここでも、河尻秀隆、そして丹羽長秀の活躍が目立ちますが、彼らが乗り入れた天主構へこそ、この主郭のことでしょう。
堂洞城攻めは昼頃~午後6時頃まで続き、岸勘解由や猿啄から逃れてきた多治見一党らも奮戦しましたが、最後は大将分の者は全て討取られて落城しました。

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主郭の一段下、腰曲輪から見る主郭切岸・・・面白い地層ですね。

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主郭から加治田城の方角にあたる北の尾根へ進むと、古い城道のような通路が折れる虎口状の遺構や、、、

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更に先には、狭いながらも削平された空間がありました。

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この削平地は北麓から登ってくる城道を、足元に押さえて監視できる位置取りになっています。

堂洞城は現地で確認する限り、規模も小さくて明らかに急拵えな印象。やはり「信長公記」にあるように、これは佐藤父子の寝返りを受けての、加治田城に対する付城でしょう。
加治田城が佐藤一族の中心的な拠点で、岸勘解由は姓を佐藤から改めていることからも、その庶流だったのかもしれません。

ところで、この堂洞城攻めでは「信長公記」の作者、太田牛一も活躍を見せています。

二の丸の入口おもてに、高き家の上にて、太田又助、只壱人あがり、黙矢もなく射付け侯を、信長御覧じ、きさじに見事を仕り侯と、三度まで御使に預かり、御感ありて、御知行重ねて下され侯ひき。
(同)

現地でも「牛一の指す“二の丸”とは、いったいどこか?」が話題になりましたが、北には加治田城があって佐藤紀伊守・右近右衛門父子が攻め手を受け持ったでしょうから、信長の手勢は北以外の方角から攻め寄せたのではないかと。
そうなると必然的に主郭北側の狭い削平地は消え、それ以外で二の丸に該当しそうな場所といえば、最初にご紹介した南側の広い空間しか見当たらないので、牛一が活躍した二の丸の入口おもて高き家は、南の広い空間や、そこに続く土橋状の通路の周辺に建っていたのではないか、と想像を膨らませています。

そして、この牛一の活躍を信長が目撃していた場所ですが、「信長公記」天理本には「高き塚」とあります。
「塚」と聞いて連想するのは墳墓、古墳。そして堂洞城の近くに、まさにうってつけのような古墳が存在するとのことなので、早速そちらにもまわってみました。

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堂洞城(左)のすぐ西隣りに位置する夕田茶臼山古墳(右)

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少し木を伐採して整備されているので、下からでも天辺に古墳のあることが分かります。
こうして見ると、まさに「高き塚」そのものです。

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夕田茶臼山古墳
3世紀頃の古墳と推定されている前方後円墳です。

残念ながら樹木に遮られ、堂洞城の方向は全く視界がききませんでしたが、この位置なら二の丸入口おもてで奮戦する牛一の活躍を目撃し、それが牛一であると認識することも可能だったのではないか、と思わせるほどの至近距離でした。
堂洞城攻めが開始され、後詰に出てきた関城の長井勢が攻め掛かってこないと見るや、信長は堂洞城近くまで本陣を移していたのでしょう。
いつだって「懸けまはし御覧じ」ちゃう彼の性格からして、ずっと後方の高畑山に待機していたとも思えないし(笑)

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夕田茶臼山古墳から高畑山の方角
信長が本陣を移してきたであろう経路。

天理本に見える「高き塚
現時点でこれ以上特定する根拠はないものの、現地に立ってみて思うことは、夕田茶臼山古墳説を否定しうる根拠も何一つ存在していないということ。

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堂洞城の北麓、長尾丸山伝承地
岸勘解由の嫡子に嫁していた佐藤紀伊守の姫は、佐藤父子の寝返りが明らかとなって信長の進攻が開始されるに及び、この場所で処刑されたとの伝承が残ります。
その正面には・・・

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実家である加治田城が眼前に・・・。

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2017年4月 7日 (金)

信長の東美濃攻め Ⅰ(伊木山布陣~猿啄城攻略)

2017年4月1~2日、堂洞合戦を中心とした織田信長の東美濃攻め関連地をめぐってきました。
※現在の中濃地区。当初の攻略目標であった「西美濃三人衆」が蟠踞した地域より東方、の意味での「東美濃」

東美濃攻め関連地図
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当記事では「信長公記」の記述を中心に「堂洞軍記」等の史料も適宜参照しつつ、実際の訪問順とは異なりますが時系列に沿ってご紹介していきます。
なお「信長公記」に関しては基本的に陽明本に則りますが、天理本(天理大学附属天理図書館蔵の写本)には陽明本にはない、重要と思われる記述がいくつか指摘されているため、それらも参考に進めます。
※記事中の引用に関しては、特に断りのない限りは陽明本に拠る。


永禄6年(1563)、織田信長小牧山に新たな城を築き、居城を清須から移転させます。
(小牧山城についてはコチラ
目と鼻の先に着々と城が築かれていく様子を見た犬山城(城主:織田信清=信長従弟)は動揺し、ほどなく和田・中島の両家老が信長方に寝返るに及び、信長の命を受けた丹羽長秀の軍勢に包囲され、降服開城に追い込まれました。
これにて、信長の尾張統一戦も完全に達せられたといえます。

犬山城の陥落は、木曽川を挟んだ対岸に位置する東美濃の諸城に少なからぬ動揺を招きました。
そしてほどなく、情勢を読んだ加治田城佐藤紀伊守右近右衛門父子が崖良沢(岸良沢、梅村良沢とも)を使者に立て、丹羽長秀の取次で信長に接触してくるのです。
美濃攻略の足掛かりを得た信長は佐藤父子の寝返りを喜び、使者の良沢に当座の兵糧代として黄金50枚を遣わしました。

ところが、佐藤父子の寝返りを察知した斎藤家の重臣・長井隼人は、佐藤の同族である岸勘解由(蜂屋佐藤氏)に命じて加治田城の南に堂洞城を築かせ、自らも西方の関城に入って加治田城に対する包囲を強めていきます。
包囲された佐藤父子からの救援要請(天理本)を受けた信長は早速兵を催し、木曽川を越えて美濃国へ進攻しました。

美濃に入った信長はまず、木曽川の河畔、犬山城の対岸に位置する伊木山に陣を布きます。

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伊木山の登山道
我々は北麓の「いこいの広場・伊木の森」から、「心ぞう破りの道」と呼ばれる直登のコースを選択しました。

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「心ぞう破りの道」は、その名の通り結構な急勾配ですが、直接山頂に到達できます。

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山頂が即ち、伊木山城の主郭となります。

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主郭東側の曲輪。
曲輪を囲むように土塁らしきものもありますが、これは第2次大戦中に設置された航空監視哨の跡、とのことで遺構ではないようです。

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同じく西側。

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主郭周囲には一部、石積みらしき痕跡も・・・

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遺構なのか否か、是としていつの時代のものか・・・判断はつきませんでした。

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また、伊木山城跡から尾根を西へ進むと、熊野神社の旧跡があります。

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反対に東の尾根を進むと「キューピーの鼻」と呼ばれる展望所があり、ここからの眺めが素晴らしかった・・・

御敵城宇留摩の城主大沢次郎左衛門、ならびに、猿ぱみの城主多治見とて、両城は飛騨川へ付きて、犬山の川向ひ押し並べて持ち続けこれあり。十町十五町隔て、伊木山とて高山あり。此の山へ取り上り、御要害丈夫にこしらへ、両城を見下し、信長御居陣侯ひしなり。
(信長公記 首巻「濃州伊木山へ御上りの事」より抜粋)

まさにこの時、伊木山に陣取った信長が両城を見下した光景ですね。
宇留摩=鵜沼

犬山城から更に南へ目を転じると・・・

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小牧山の姿も・・・これは確かに近い。

伊木山に布陣する信長の軍勢を目にした鵜沼城の大沢次郎左衛門は、とても支えきれないと観念して城を明け渡しました。
鵜沼城を攻略した信長、次のターゲットは猿啄城へシフトしていきます。

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対岸の犬山城を眺めつつ・・・

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大沢次郎左衛門が明け渡した鵜沼城を通過し・・・

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我々も猿啄城
※写真は坂祝駅前より撮影(2016年7月)

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かなりの急勾配を延々と登り、その途中に出てきた2段の曲輪。
ここまで来れば、もう一息です。。。

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麓から登り始めて30分ほどでしょうか・・・遂に猿啄城跡の展望台に到達です。

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猿啄城跡

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展望台からの眺め~南西方向。
右に伊木山、中央奥には小さく小牧山も見えています。
ここから反時計回りに・・・

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坂祝の町並み

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そしてこの後、戦局が移っていくことになる堂洞~加治田方面。

一、猿ばみの城、飛騨川へ付きて、高山なり。大ぽて山とて、猿ばみの上には、生茂りたる「かさ」(山かんむりに則)あり。或る時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ、水の手を御取り侯て、上下より攻められ、即時につまり、降参、退散なり。
(同)

猿啄城を攻める信長は、猿啄城のにあるという大ぼて山に丹羽長秀を差し向けています。
この大ぼて山に関してはまだ、具体的な場所は特定できていないらしいのですが・・・

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猿啄城跡からこの光景を目にした時、瞬時に「これでしょ!」と直感しました。
明らかに猿啄城跡よりも高所()になりますし・・・長秀の手勢が姿を現した時の緊迫感が目に浮かぶようなロケーションでした。
猿啄城跡とは尾根続きで道も付いていましたので早速、(推定/以下略)大ぼて山に向かってみます。

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猿啄城の切岸で見かけた石積み

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そして大ぼて山へと続く尾根を断ち切る堀切、土橋。
ここでも間違いなく、戦闘が行われたことでしょう。

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大ぼて山のピークから見下ろす猿啄城
高所側から見ると、これほどの高低差があります。猿啄城へ攻め掛かるには絶好の位置です。

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大ぼて山から見る堂洞~加治田方面。
左の方には猿啄攻略後、信長が堂洞攻めの陣を布く高畑山も見えています。

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ところで、大ぼて山は樹木こそ生茂りたる山でしたが、地表面はご覧のようなチャートの岩肌がそこかしこに剥き出しになった岩盤層で、それだけに「信長公記」に書かれている水の手が果たしてどこにあったのか?が謎でした。
・・・が、同行者たちと話し合った結果、「大ぼて山を押さえる」ことと「水の手を切る」ことはイコールではなく、別個の部隊による別々の作戦行動だったのではないか、という結論に至りました。
もう一度「信長公記」の該当箇所を引用しますが;

大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ水の手を御取り侯て、上下より攻められ、

大ぼて山に攻めのぼったのは間違いなく、丹羽長秀。
但し、その後に続く御人数を上げられ水の手を御取り侯ての二つの主語は長秀ではなく織田信長・・・彼の命令・作戦を表しているのではないでしょうか。
つまり、丹羽長秀を先懸に軍勢を大ぼて山に上げて攻め下らせ、且つ、別の部隊には麓側の水の手を切らせて山の下から攻め上らせたのではないか・・・。
(天理本には、信長自らも大ぼて山に登ったと明記されており、御人数を上げられ、は丹羽の先陣に続く信長自らの手勢を指しているのかもしれません)
それに続く上下より攻められ、の一節がそれを物語っているように思えますし、現に文化13年成立の「美濃雑事記」では城山の南麓を「水ノ手」とし、「山七合目ニ古井戸アリ」の文字も見えます。

一般には、丹羽長秀が大ぼて山に上がって水の手を押さえた、と解釈されがちですが、ここはあえて別の解釈を提示しておきたいと思います。
(但し、天理本には「上下より攻められ、」の一節が見られず、信長軍がさも山の上からのみ攻めたような表現になっているのが気にかかりますが・・・)

また、信長は戦後、猿啄城を勝山と改めて功のあった河尻秀隆(鎮吉)に与えていますが、或いはこの時、大ぼて山の「上」から攻めたのが丹羽長秀ならば、水の手を切って「下」から攻め上った先陣が河尻だったのかもしれません。

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そういえば猿啄城跡登山口に、「河尻碑肥前守」の碑が建っていました。

猿啄城を攻略した織田信長は、同城を守備していた多治見一党を堂洞城へと追い落としつつ、いよいよその堂洞城攻めに移っていきます。

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