カテゴリー「織田信長・信長公記」の170件の記事

2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

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東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

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2020年1月18日 (土)

岐阜城の石垣発掘現場

岐阜城の天守台北西隅や二ノ門下から出土した石垣が、2020年1月14~18日の間だけ一般に公開されると聞き、矢も楯もたまらずに東京から日帰りで駆け付けてしまいました。

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在来線や路線バスへの乗り継ぎも順調に進み、予定よりも早く到着したので、まずは山麓居館区域を散策。
上の写真は、金箔瓦なども出土したC地区の池跡越しに、巨石が並べられた居館虎口方向。

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居館部の中枢、宮殿のような建物が建っていたのではと考えられているC地区。

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C地区の奥、谷の方へ入り込んだB地区。
こちらからも建物や水路、庭園跡が出土しているようです。

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C地区とB地区の間に並べられた巨石列。

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続いてA地区へ。
A地区では現在、調査結果に基づいて庭園の滝を再現する実験が実施されています。

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滝の再現。
向かって右の滝は、水量も結構ありました。

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令和2年12月末まで、9~17時の毎正時に15分ほど水が流されます。

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発掘の結果、実際にこうした滝の水受けと思われる川原石の集石が見つかっているそうです。

専門家の中には岩盤の上に水源がないとの理由から、滝の存在に懐疑的な意見もあるようです。

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しかし山麓居館には今もこうして、槻谷から豊富な水が流れ込んでいますし・・・

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多くの池や水路跡(写真)も見つかっているように、豊富な水源の下に水をふんだんに利用していたことが窺えます。
山の高い位置で槻谷の水源から樋を回すなどすれば、A地区に滝を演出することも可能だったのではないかと、私のお城仲間の方もtwitter上で提示されていましたが、私も同意です。
川原石の集石など、滝を連想させる遺構が見つかっている以上、水源問題はその存在を完全に否定し去るほどの要件は満たせていないのではないでしょうか。

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さて、それでは山上へ向かいます。
ロープウェイ乗り場では、モックン道三がお出迎えw

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岐阜城 山上部の図

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一ノ門

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一ノ門に残る石垣

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堀切(切通)を横目に通り過ぎ・・・

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二ノ門下の発掘現場へ。
裏込め石もたくさん出ており、野面に積まれた様子から織田信長入城以降の石垣と推定されています。

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二ノ門下から出土した石垣は、江戸時代の絵図にも描かれています。

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ピンクのテープが石垣の推定ラインで、出土した石垣自体はごく一部です。
高さも50㎝ほどしか残っていなかったようですが、江戸期の絵図には「石垣高一丈(約3m)」と書かれています。
瓦もたくさん出土したようで、瓦葺の門があったのではないかと考えられています。

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下台所曲輪への虎口となるニノ門には、他にも大きな石材で積まれた石垣があり、重要な門だったことを窺わせます。

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下台所曲輪

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下台所から上台所へと至る途中に積まれていた石垣。
平たい石をほぼ垂直に、あまり勾配をつけずに積み上げている特徴から、こちらの石垣は道三ら斎藤期のものではないかと思いますが、いかがでしょうか。

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いよいよ天守が近づいてきました。

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天守台北西隅の発掘現場へは、あちらの足場を上って向かいます。

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天守台北西隅から出土した石垣。

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裏込め石や間詰石も確認できます。
こちらも斎藤期の(とされている)石垣にはない野面積みの特徴で、信長の入城(1567)~1600年の廃城までの間に築かれた石垣と考えられます。
江戸期の絵図とも一致するようなので「天守台の石垣」という位置づけで問題はないのでしょうが、それが即ち「信長在城時=安土築城以前の天守台」ということにはならないかと思います。

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こうして見ると本来の石垣の北面は、明治43年に復興天守建造のために築かれた天守台(奥)よりも、50㎝ほど南へ引っ込んでいたようにも見えます。
あの黒い壁の向こう側にも回り込んでみましたが・・・

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やはり改変が著しく、実際の石垣がどのように続いていたかは判然としませんでした。

なお、発掘調査は岐阜城資料館の南斜面でも行われていますが、そちらは非公開でした。
やはり、石垣と裏込め石を確認しているとのことです。

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リニューアルされた天守内部の展示も観てから・・・

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裏門跡へ。

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裏門跡
右手前に、上の復元イメージ図Aの巨石列が倒れた状態で見えています。

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現在の登山道を挟んだ反対側にも巨石列。イメージ図のB部分と思われます。
右寄りの尖った石は、石垣の角とのこと。

門の周囲に集中して巨石を連ねる趣向は、山麓居館とも通じるものがありますね。

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イメージ図Cの石垣。
こちらは斎藤期のものと推定されています。

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最後に天守の南下、井戸上の石垣。

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下山後は岐阜市歴史博物館に開設された「麒麟がくる」の大河ドラマ館にも立ち寄り。

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諸事情で放映開始は遅れましたが、キャストの皆さんには頑張っていただきたいと思います。

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2019年12月16日 (月)

飯道寺

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行場巡りを無事にクリアした後は、飯道寺跡へ。

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飯道神社(図左上)の眼前にはかつて、神仏習合の飯道寺として栄えた時代の名残として数多くの僧院跡が残っています。

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1枚目の写真の石段を上がった先は東照宮跡。

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明治の神仏分離・廃仏毀釈で寺院(仏教)関連は廃され、今はこうした痕跡を留めるのみとなっています。

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思いのほか立派な石垣も。

十月九日、伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊り
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」)

天正9年(1581)、次男・信雄を総大将とした軍勢を派遣して伊賀国を制圧(第二次天正伊賀の乱)した織田信長は、嫡男の信忠、甥の信澄を同道して伊賀の視察へ向かいます。
その道中、伊賀入り前日の10月9日にはここ、飯道寺に泊まりました。

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参道を挟んで左に梅本院跡、右奥に智積院跡。
信長らが泊まった僧院は果たして、いずれにあったのか・・・想像を膨らませながらめぐります。

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智積院跡

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高野山を再興したことでも知られる木食応其上人は、晩年を飯道寺で過ごしました。
智積院跡の向かいには、彼の入定窟も残ります。

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岩本院跡に残る石積み。

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岩本院跡
この岩本院と先ほどの梅本院は、醍醐寺三宝院を本寺とする真言宗本山派に属す寺院で、山内でも特に有力な存在だったようです。

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不思議な切石状の石積みも。

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岩本院跡から見る、智績院跡の石垣。
左の下段は行満院跡。

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鳥居坊跡

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飯道寺跡(飯道神社)からは、紫香楽宮跡などを見渡すことができます。
まさに、飯道寺に上がった織田信長が御覧じ国中の躰の光景。
数年来の念願叶い、飯道寺跡を訪れることができて感無量です。

※現在、甲賀市水口町に所在する飯道寺は、天台宗の本覚院が明治25年に廃寺となっていた飯道寺の寺号を継承したものです。
御本尊は飯道山から移されたものとか。

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折角なので山頂まで足を延ばします。
山頂からは杖の権現を経由して飯道寺跡まで戻り、その後に下山します。

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飯道山山頂
飯道寺跡から山頂までは7~800m。緩やかな登りの尾根道が続きました。

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山頂からの眺め。
辛うじて近江富士の姿も確認できました。

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杖の権現
山頂から杖の権現までは、急勾配な直線の尾根を一気に下ります。

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飯道寺跡まで戻りました。

行場巡りに、念願の飯道寺跡・・・とても楽しい山歩きになりました。

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2019年12月14日 (土)

弥高寺

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上平寺城跡から山中を少し北へ回り込み、西の尾根へ雪中行軍・・・(;^_^A

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伊吹山も心なしか、少し近くなってきました。

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尾根の北側から弥高寺跡へアプローチすると、最初に出迎えてくれる大堀切。
この先(南)にある本坊の背後を断ち切っています。

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大堀切の近くには、これも規模の大きな畝状竪堀も。

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更に南へ進むと、規模は小さいながら堀切や・・・

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竪堀が続きます。

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弥高寺の墓地跡。
発掘調査で、火葬された人骨が数十体も納められた大きな甕が出土しているそうです。
寺の長い歴史の中である時期、墓地が手狭になってまとめて改葬されたものではないかとのことでした。

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いよいよ本坊跡が見えてきました。
雪に埋もれてはいますが、周囲を囲む土塁や虎口もはっきりと見て取れます。

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本坊手前に切られた竪堀。

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弥高寺本坊跡

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本坊の虎口から真っ直ぐに伸びる参道。
参道の両側には、数多くの削平地が見受けられます。

弥高寺は仁寿年間(851~854)に創建された伊吹山寺を前身とし、後に分立した伊吹山四ヶ寺の一つ。
弥高百坊とも呼ばれ、この大きな本坊跡をはじめ、60をも超える坊跡が残る巨大な山岳寺院の跡です。

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本坊から南の方角。
2本の鉄塔の先には上平寺城の記事で触れた、件の長比城がありました。

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弥高寺本坊から見る上平寺城。
つい先ほどまでは、あちらから弥高寺跡を見ていました。

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琵琶湖に浮かぶ竹生島も見えています。

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それでは本坊をあとにし、こちらの参道伝いに下りていきます。

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少し下った先から本坊を振り返る。
土塁の高さがよくわかります。

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弥高寺の玄関口でもある大門跡に差し掛かりました。
右へグイッと曲げた枡形になっています。

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大門跡
高い土塁で仕切られた見事な枡形、そして土橋。

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大門の脇には横堀も掘られています。

本坊背後の堀切や竪堀群、そして大門の枡形や横堀・・・弥高寺が城郭として改修されていることは明らかです。
現地説明板にも、京極氏や浅井氏らによる改修が想定される、といったことが書かれていました。
直に遺構を目にした個人的な印象としては、元亀元年(1570)に敵対する織田軍に備え、上平寺城と共に浅井氏や越前衆が改修した痕跡ではないかと感じました。

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大門の南西、登山道を林道まで下り、更に林道を伝って下山する途中に現れる2本の大きな竪堀。
やはりこれは、歴とした軍事施設です。

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そのまま林道を下っていくと、悉地院(弥高護国寺)に至ります。ここが今回のゴール地点。
所要4時間強、山中は積雪の中での行程となりましたが、見応えのある素晴らしい遺構を堪能し、参加16名全員無事に下山いたしました。
なお、悉地院は伊吹山四大護国寺の一つで、弥高寺の法灯を現在に伝えているお寺とのことです。

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下山後は伊吹山文化資料館にお邪魔して、上平寺城の模型や・・・

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弥高寺跡で出土した、火葬された人骨が納められていた大きな甕などを見学させていただきました。

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夕暮れの伊吹山。

夜は彦根駅前へ移動し、これまた恒例の忘年会。
踏査会に参加した皆さんと、2次会まで楽しく盛り上がりました。

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2019年12月13日 (金)

上平寺城

年末の恒例行事となった城友山城踏査会(& 忘年会)
2019年の舞台は・・・

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滋賀県米原市の上平寺城です。

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上平寺城絵図(江戸時代前期)

上平寺城は16世紀の初頭、北近江守護の京極高清が築いた京極氏の城館。
山麓に平時の居館を置いて守護所とし、伊吹山から伸びる背後の尾根上には詰の山城が築かれていました。
大永3年(1523)、高清は自らの後継をめぐって浅見氏や浅井氏、三田村氏らの国人衆と対立して上平寺を追われ、北近江では浅井氏が台頭するようになります。
以降、眼前に北国脇往還(越前街道)を扼する上平寺城は、美濃・近江の国境を押さえる境目の城として機能したものと考えられています。

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今回のスタート地点となる居館区域の目の前(南)を流れる用水路は、居館と城下町との間を隔てる堀跡。上の絵図にも「ホリ」と記されています。
この写真の方向に、「諸士屋敷」や「町屋敷」などとある城下町が広がっていました。

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伊吹神社(「伊吹大権現」)の参道に沿って進み、「弾正屋敷」跡・・・

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「蔵屋敷」跡

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「隠岐屋敷」跡と順に見ていき・・・

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一番奥、伊吹神社の社殿手前に、京極氏の居館となる「御屋形」跡。

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御屋形には池を伴う庭園の跡も残ります。
奥に見える巨石の先にも・・・

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池の跡がもう一つ。
付近からはかわらけも出土しているそうで、庭園を鑑賞しながらの宴や儀式が行われていたことを連想させます。

各屋敷や庭園跡の配置、伊吹神社(社殿)の位置や参道の曲がり方に至るまでが、江戸時代の絵図とピタリと一致していることに驚かされました。

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京極氏一族の墓。
伊吹神社の社殿横にあります。

上平寺を追われた高清は、後に浅井氏と和睦して小谷城に迎え入れられましたが、晩年には上平寺へ戻っていたようです。
そのため、彼のお墓もこの地にありましたが、寛文12年(1672)に丸亀藩主・京極高豊が清瀧寺徳源院(米原市清滝)を復興した際、歴代の墓所も整備しており、その時に高清の墓石も徳源院へ移されたものと考えられています。

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山麓の居館跡から山城までは、およそ30分ほどの登山。
写真は、絵図に「七曲」と書かれている辺り。文字通り九十九折の登山道が続きます。

ところで、絵図に「七曲」と書かれている箇所の近くに「刈安尾」という文字も見えます。

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべかりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取り敢へず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。
(信長公記 巻三「たけくらべ・かりやす取出の事」)

織田信長との対決の道を選んだ浅井長政は元亀元年(1570)、自らの領国である北近江と信長の領国・美濃との境に位置し、東山道を押さえる長比と、北国脇往還(越前街道)を押さえる刈安に要害を構え、織田軍の襲来に備えました。
絵図にある「刈安尾」とは「刈安の尾根」の意で、上平寺城こそがこの時、長政が要害に構えさせた「かりやすの要害」に比定されています。

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南側から城域に至り、最初に出迎えてくれる大きな竪堀。
登山道のすぐ右手に現れます。

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南西側の斜面には、連続する畝状竪堀群も。

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三の丸
広い削平地が2段に築かれていました。

上平寺城は南北に伸びる尾根上に、南から北へ三の丸→二の丸→本丸と連なる連郭式の城郭です。

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スロープ状の坂の先に、三の丸2段目への虎口。
うっすらと通路に積もった雪が示す通り、虎口の土塁は食違いになっているようでした。

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こちらは二の丸への虎口周辺。
三の丸⇔二の丸間は、堀切で隔てられています。

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その堀切。

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二の丸虎口。
土橋の先で少し左へ曲げてから、虎口の先へと誘導しています。
虎口の先は縦に細長い枡形のようになっており、奥の方で土塁が立ち塞がっている様子も見て取れます。

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二の丸虎口の枡形。
先を行く同行者のように右へ折れた先が・・・

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二の丸
奥に切岸が見えていますが、二の丸もやはり複数の段に分かれていました。
但し三の丸とは違い、周囲をグルッと土塁が取り巻いています。

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本丸
降り積もった雪がより一層、深くなっていました・・・。

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本丸南東側の虎口。
その先の遠景は、関ヶ原方面。

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本丸の背後には、雪を被った伊吹山の姿も。

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西の方角には、この後に向かう弥高寺跡も綺麗に見えていました。

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北端の土塁上から本丸。
曲輪の真ん中で赤い服を着た同行者が丸まっていますが・・・日の丸弁当のつもりのようです(笑)
まぁ、周囲を囲む土塁が弁当箱に見えなくもない、か・・・(;^_^A

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本丸が城域の北端となり、その背後は高い切岸と深い堀切で遮断されています。

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本丸北側の堀切に架かる土橋。

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圧倒的な堀切感。

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土橋を渡り、城外側から本丸方向。
本丸の高い切岸が攻め手を圧倒します。

現在に残る遺構のどこまでが、元亀元年の浅井、及び越前衆の手によるものかは定かではありませんが、とても見応えのある城跡でした。
なお、中世山岳寺院上平寺の跡地については、伊吹山中腹に位置する山城部分と、山麓の居館跡地との2説あるようです。

こうした要害を構えて織田軍に備えた長政でしたが、長比の守備に就いていた堀秀村・樋口直房主従が織田方へ寝返ったため、城兵は退去し、両城共に信長の手に落ちました。
ここから歴史は、姉川の合戦へと続いていくのでした。

この後は雪山の中を移動し、先ほど遠望した弥高寺跡へ向かいます。

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2019年11月21日 (木)

二俣城、清瀧寺(信康切腹事件について)

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二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、天竜川が足元を洗う段丘上に築かれていました。
元亀~天正年間には武田×徳川間の攻防の舞台にもなり、元亀3年(1572)には西上作戦の途にある武田信玄が徳川方にあった二俣城を攻略し、天正3年(1575)になると、今度は長篠で武田軍に勝利した徳川家康が奪還しています。

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北曲輪と本丸間に落とされた竪堀。
すぐ眼下には天竜川の流れも見えていました。

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同じく、北曲輪と本丸間の堀切。

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北曲輪(右)と、左に竪堀。
北曲輪には現在、旭ヶ丘神社が祀られています。

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本丸北側の喰違い虎口。
奥に天守台も見えています。

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本丸

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本丸南側の枡形虎口。

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ニノ曲輪へ通じる大手(追手)虎口。

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天守台

二俣城は天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた徳川家康の嫡男・信康が最期を遂げた地としても知られています。
麓には信康の菩提を弔うため、家康が建立した清瀧寺があります。

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その清瀧寺に復元された、二俣城の水の手櫓。
元亀3年に二俣城を包囲した武田軍は、城兵が天竜川に架けた汲み上げ用の櫓を破壊し、水の手を断つことで攻略に成功したと云います。

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信康堂

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信康堂に安置されている信康の木像。

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清瀧寺本堂
手前には、家康お手植えの蜜柑…の分木も。

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二俣尋常高等小学校に通う幼き日の本田宗一郎が、正午を知らせる寺の鐘を30分早く衝き、まんまと早弁にありつけたとの逸話も残る梵鐘。
(清瀧寺のお隣には、本田宗一郎ものづくり伝承館があります)

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岡崎三郎信康の廟所

信康の死については一般的に「織田信長の命によって切腹に追い込まれた」(三河物語)とされ、長らく定説化してきました。現地(二俣城跡や清瀧寺)に設置された案内板もことごとく、この説を採用しています。
しかし、武田家がまだ健在であるこの時期に、対武田の戦略上、重要な存在である徳川家との同盟関係を破綻させかねない要求を、確たる理由もなく信長が家康に強いるとは少々考えづらいものがあります。

他の文献を見ると信長は、信康問題で安土に赴いた酒井忠次に対し、
「如何様にも存分次第」(松平記)
「家康存分次第ノ由返答有」(当代記)
つまり、「家康の考え次第だ」「家康の判断に任せる」と答えています。

この事件は信康拘束後の家康の動きを見る限り、信康を担ぐ岡崎衆の浜松への反発と、そうした動きに対して家康が警戒心・危機感を募らせた結果と、個人的には考えています。その背景には、4年前の天正3年に発覚した大賀(大岡)弥四郎事件(岡崎衆の中から武田家への内通を画策する動きが発覚して粛清された事件)の記憶も影響したかもしれません。
いずれにしても、(家臣団を含む)徳川家内部の事情に起因しているのではないでしょうか。
安土に酒井忠次が派遣されたのは、信康の岳父で偏諱も受けている信長を憚り、信康の処分について事前に相談し、伺いを立てておくためだったものと思います。

家康は信長側近の堀秀政へ宛てた八月八日付の(信長への)披露状で、
「三郎不覚悟付而去四日岡崎を追出申候」
(徳川家康堀久太郎宛/信光明寺文書)
と報告しています。
「不覚悟付而」…信康の処断を決めたのがあくまでも家康自身だったことを、この一言が伺わせている気がしてなりません。

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2019年11月18日 (月)

高遠城・一夜の城・法華寺 …信長の甲州征伐 信濃路④

三月十八日、信長公、高遠の城に御陣を懸けられ、
三月十九日、上の諏訪法花寺に御居陣。諸手の御陣取り段々に仰せ付けられ侯なり。
(信長公記 巻十五「人数備への事」)

天正10年(1582)3月18日、飯島を出立した織田信長高遠城に宿陣し、次いで翌19日、信濃での最後の陣所となる上諏訪の法華寺に到着しました。

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高遠城
個人的には6年ぶりの再訪となりました。

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高遠城に設置されていた、織田信忠による高遠城攻めの案内板。

三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾の城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。中将信忠卿は御ほろの衆十人ぱかり召し列れ、仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。
(信長公記 巻十五「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」)

3月1日、飯島から高遠へ向かった織田信忠は、貝沼原に陣を置き、母衣衆10人ばかりを召し連れ、川手前の高遠城を見下ろす高山へ自ら物見に出ています。
この時、信忠が貝沼原に布いた陣がいずれの地にあったのか、具体的には定かではありませんが・・・

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その候補地の一つとされるのが、伊那市富県貝沼一夜の城
こちらも6年ぶりの再訪です。

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一夜の城については、6年前の記事をご参照ください。

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右に高遠城、川(アーチ橋が見える)を挟んだ左が、信忠が物見に出た川よりこなた高山
高遠城に籠る仁科盛信は降伏を拒み、3月2日、信忠軍の猛攻撃の前に城と共に華々しく散りました。

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高遠城を出た信長の軍勢が、どのルートで諏訪へ向かったかはわかりませんが、我々は杖突峠を越えて・・・

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法華寺へ。
吉良義周の墓所にもお参りさせていただきました。

上諏訪に到着した信長は4月2日まで当地に滞在し、諸々の戦後処理を施した後、雄大な富士山や新府城の焼け跡を眺めつつ、翌3日に甲斐の甲府へ入りました。
甲府を出て安土への凱旋の途に就くのは7日後、4月10日のことです。
※なおこの間には、天正2年の明知城落城の要因となった飯羽間右衛門尉が捕らえられ、処刑されていることも添えておきます。

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旅の最後に、諏訪大社上社にもお参り。

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上諏訪駅で解散し、帰路はスーパーあずさにて。

私の希望を叶え、旅に同行して車を出してくれた友人には感謝しかありません。
いずれまた、今度はちょっと視点を変えて中馬街道を旅しましょう。

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2019年11月17日 (日)

大島城・飯島城 …信長の甲州征伐 信濃路③

三月十七日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」)

天正10年(1582)3月17日、飯田を出立した織田信長大島を通過し、飯島まで陣を進めました。

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大島城縄張図

元亀2年(1571)3月、武田信玄は大島城に大修築を加え、伊那における一大拠点としたと云います。
今日に残る遺構も、その大部分はこの時の縄張によるものだそうです。

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の馬出
三の丸とは木橋で繋がっていたと考えられています。

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三の丸

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丸馬出への枡形は・・・。

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三の丸東端部

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二の丸から三の丸へせり出す馬出(左)
の堀がまた見事なこと。

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の馬出を別角度から。

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二の丸に残る土塁。奥にの櫓台。

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二の丸と本丸間の堀。
手前の二の丸側の切岸には、小さな腰曲輪も。
堀底を写真左方向へ下っていくと井戸曲輪へと繋がっており、井戸への出入りを見張る役割があったと考えられています。

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本丸

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本丸虎口の木戸跡。

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本丸の櫓台。

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本丸東側の腰曲輪。
稲荷神社が祀られていた痕跡も。

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城跡のすぐ脇を流れる天竜川。

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井戸曲輪へ。

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井戸

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付近の堀。

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南側の外堀。

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大島城の代名詞ともいえる三日月堀

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天正10年2月、大島城は信玄弟の信廉(逍遙軒信綱)らが守備していましたが、織田信忠率いる軍勢が攻め入って来ると夜陰に紛れて逃亡し、大島城は呆気なく落城しました。

続いて飯島城へ。

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飯島城の北西に位置する西岸寺。
鎌倉末創建の古刹で、城主・飯島氏ともゆかりが深いと云います。

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飯島町の名勝にも指定されている西岸寺の参道。

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飯島城縄張図

飯島城は武田家に従う信濃源氏・飯島氏の居城。
本城・登城からなる中世後期の城域と、その東方に広がる前期のものとに分かれています。

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登城北側の堀跡。

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本城の堀と土塁。
手前は虎口に架かる土橋のようにも見えますが、後世に車両の通行のために架けられたものかもしれません。

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本城北西側の堀跡。

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本城北側の堀跡。

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思いがけず鮮明な遺構と出会い、興奮を覚えました。

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本城郭内
天正10年2月、飯島城は織田信忠軍の侵攻によって落城しました。
飯島城を落とした信忠は、この地から仁科盛信の籠る高遠城攻略へと向かっています。
織田信長、そして信忠もこの郭に滞在したのでしょうか。

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2019年11月15日 (金)

飯田城 …信長の甲州征伐 信濃路②

十五日午の刻より雨つよく降り、其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り侯。十六日、御逗留。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽斑忠節の事」)

天正10年(1582)3月15日、現阿智村の浪合を出立した織田信長の軍勢は飯田まで進み、同地で武田勝頼父子の首を改めて晒しています。

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飯田城が築かれていた台地の遠景。
先端付近(右)が本丸跡になります。

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偶然見つけた外堀跡。

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長姫神社境内から柳田國男館、日夏耿之介記念館の建つ辺り一帯が本丸跡とのこと。
(写真は長姫神社境内)

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長姫神社の社殿裏手、この石積み土塁も城の遺構とのことでしたが・・・う~む。

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本丸と二の丸間を断ち切る堀切。

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あまり近づけなかったので写真はいまいちですが、堀切は見事な遺構でした。

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本丸付近から北側の地形高低差。

ちなみに、台地の先端に建つ三宜亭本館は山伏丸跡。
築城前、修験者の修行所があったことに由来しているそうです。

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移築された桜丸御門。

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城跡から少し離れ、長閑な町中の民家に移築された八間門。

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明治4年(1871)に払い下げを受けた、飯田城の二の丸にあった門とのことです。
左右四間ずつの長屋も城内いずれかからの移築とのことでしたので、てっきり私は、そのために八間門と呼ばれるようになったものだと思い込んでいましたが、移築前の江戸期の絵図に八間門の表記があるようです・・・。
そもそも、左右で長さも全然違う気がするし・・・どういうこと?

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門に付随する鬼瓦や懸魚などは、国の重要美術品に認定されているそうです。

飯田逗留中には勝頼や仁科盛信の馬、勝頼の刀などが信長の元に届けられ、武田信豊の首も運ばれてきました。
信長はここで武田勝頼父子・信豊・仁科盛信の首を家臣に持たせて京へ送り、獄門にかけるよう指示しています。
・・・仁科盛信が高遠城で最期を遂げたのは3月2日のことで、呂久の渡しで信長がその首を実検したのは同6日のこと。それ以降、飯田までの道中ずっと運んできたということでしょうか。。。

信長の行軍はなおも続き、3月17日には飯島へ向かいます。

次回は一旦、信長の足跡を離れ、とあるお寺からお届けします。
信長の足跡の続きは、その次の記事から再開します。

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2019年11月14日 (木)

根羽・平谷・浪合 …信長の甲州征伐 信濃路①

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向けて安土を出陣した織田信長は、その日は柏原の成菩提院、翌6日は呂久の渡しで仁科盛信(天正9年頃から「信盛」に改名していた可能性も指摘されていますが、以降も「盛信」で統一します)の首を実検しつつ岐阜まで移動、7日も岐阜に逗留します。
8日に岐阜を出発した後は犬山、金山神箆を経由し、11日には岩村城まで進みました。

ここからは岩村を出発後~上諏訪に至るまでの信長の足跡を中心に辿り、中馬街道(伊那街道)を北上する旅になります。
前回の記事でご紹介した明知城跡をあとにし、まずは愛知県豊田市にある道の駅「どんぐりの里いなぶ」付近まで南下して、そこから国道153号に進路を取って中馬街道めぐりをスタートしました。

三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」 以下引用同)

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岩村を出発した織田信長が、3月13日に宿陣した禰羽根(ねばね)。
写真は根羽村役場前より。

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根羽村は今でこそ「ねばむら」と読みますが、「甲陽軍鑑」などでも「ねばね」と表記されており、当時は「根羽=ねばね」という呼称だったようです。

十四日、平谷を打ち越し、なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。則ち、矢部善七郎に、仰せ付けられ、飯田へ持たせ遣はさる。

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十四日、平谷を打ち越し、
(平谷村)

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平谷から北上を続けると、興味深い看板が目に入ってきたので急遽立ち寄りました。
武田方はこの、平谷村の滝之澤という地に城郭(防塁)群を設け、織田軍の侵攻に備えていたようです。
今回は行程上の都合で確認しに行く時間が取れず、後ろ髪を引かれる思いで立ち去りましたが、いずれ必ず再訪してみたいと思います。

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なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。
写真は阿智村浪合の集落と、平谷から続く中馬街道。

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武田勝頼父子首実検の地
信長はここ浪合で、甲斐の田野で打ち取られて運ばれてきた勝頼・信勝父子の首と対面しました。

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両人の首は家臣に命じ、先行して飯田へと送られたようです。

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中馬街道の標柱

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翌14日、浪合を出立した信長は飯田へと向かいます。
きっと、この道を更に北へと進んだことでしょう。

ところで、勝頼父子首実検の地から中馬街道を平谷方面へ少し戻った地点に、波合関所跡が残っているらしいことを知り、立ち寄ってみることにしました。

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石畳らしき痕跡も残る、中馬街道の旧道。

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波合関所跡
中馬街道(伊那街道)に残る関所跡で、武田信玄が滝の沢(先ほどの滝之澤城郭の看板にあった「とつばせ関所跡」か?)に設置したのを皮切りに、何度かの移転を経て、享保7年(1722)以降は明治初期の関所廃止令まで当地に置かれていたようです。

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関所の建物が建っていた痕跡でしょうか、苔むしていい雰囲気でしたが、暗かったので写真は・・・(;^_^A

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門の先、平谷方面へと続く中馬街道。
平谷を打ち越し、北上を続ける信長の軍勢が今にも姿を現しそうな風情です。

浪合をあとにし、我々もこの日の宿泊地である飯田へ向かいましたが、到着時にはすっかり日も暮れていたので、飯田城めぐりは翌日に。
城攻め4つに、山間の街道筋大移動。なかなかハードな行程を組んでしまいましたが、クリアできたのも偏に同行者のお陰・・・感謝。

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