カテゴリー「織田信長」の138件の記事

2018年4月 8日 (日)

「織田信長と上野国」展

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今回は高崎市にある群馬県立歴史博物館へ。

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目的は勿論こちら、2018年3月17日~5月13日まで開催されている企画展「織田信長と上野国」です。
関東で信長の特集展示なんて・・・なかなか貴重な機会、見逃すわけにはいきません。

天正10年(1582)3月、織田信長の命による甲州征伐で甲斐武田氏が滅亡に追い込まれると、上野国は織田家の分国に組み込まれました。
織田家の上野国支配は、本能寺の変の勃発~神流川合戦の敗戦により僅か3ヶ月足らずで終焉を迎えるのですが、江戸時代に入ると信長の二男・信雄に上野国甘楽郡2万石が与えられ、その子息によって小幡藩が成立し、7代に渡って織田氏による小幡統治が続きました。

本企画展はこうした信長・織田家と上野国との関わりを中心に、主に3部(章)から構成されています。
詳細は省きますが;

「第一章 信長」では、長篠合戦(天正3年/1575)から甲州征伐に至る間の、(おそらくは対武田戦略を念頭に置いた)信長と東国武士との関わりを、
「第二章 一益」では甲州征伐後、東国の取次役を任されて上野に入国した滝川一益の、上野~関東統治に心を砕く様子などに触れることができました。
また、「第三章 小幡の地」では小幡藩にまつわる工芸品や道具類の他、信雄関連の文書などが展示されていました。

学んできた歴史を当事者たちの生の声で伝えてくれる文書類には、目にする度に興奮を覚えますね。

ちなみに常設展示は原始~古代に関する展示が充実していた印象。
6月24日までの期間限定で
「明智光秀の源流 -沼田藩土岐家の中世文書-」
というテーマ展示(足利尊氏自筆御内書も!)も開催されていました。

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知らなかった信長文書もありましたので、引き続き購入した図録で勉強していきます。
ちなみに横の箱は、ミュージアムショップで見かけて思わず買ってしまった「織田信長と天下布武クッキー」(笑)
蓋を開けてみると・・・

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意外なクオリティの高さにビックリww

展示替えもあるので、会期後半にも足を運びたいのですが・・・時間が取れないかなぁ~

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2018年3月23日 (金)

古木江城

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愛知県愛西市に位置する古木江城

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今も周囲を蓮田が取り囲みますが、この辺りは伊勢長島にも近く、木曽三川が集まる低湿地帯の広がる土地柄でした。

信長公の御舎弟織田彦七、尾州の内こきゑ村に足懸かり拵へ、御居城のところに、志賀御陣に御手塞がりの様体見及び申し、長島より一揆蜂起せしめ、取り懸け、日を逐つて、攻め申し候。既に城内へ攻め込むなり。一揆の手にかゝり侯ては御無念とおぼしめし、御天主へ御上り侯て、
霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり。

(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より抜粋)

元亀元年(1570)11月、織田信長志賀の陣で近江坂本に釘づけにされていると長島の一揆が蜂起し、古木江城を預けられていた信長の弟・伸興は自害に追い込まれました。

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古木江城跡から長島の方角を望む。
右奥に見えている山の麓には、第一次長島攻めでの退却時に、氏家卜全が討死した場所もあります。

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古木江城跡に建つ富岡神社
城の鎮守として、当時から置かれていたものと考えられているようです。

さて、古木江城跡訪問の後は一気に桶狭間まで移動し、太田輝夫先生の講座を拝聴いたしました。
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数年前、太田先生のご著書を参考に古戦場を歩き倒しましたので、ご興味のある方はコチラをご参照ください。

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2018年3月22日 (木)

萩原(天神)の渡しと美濃路

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織田信長斎藤道三と会見した富田の聖徳寺跡付近から、旧美濃路を南東の方角へ向かうとすぐに・・・

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富田の一里塚が見えてきます。
こちらは西側のもので・・・

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美濃路を挟んだ東側にも残ります。

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一里塚が現在もこうして、一対で残っているケースは結構珍しいのではないでしょうか。

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一里塚の脇には、付近の旧道に残っていた道標などが移されていました。

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一里塚から更に南東へ進むと、ほどなく天神神社(一宮市西萩原)に行き当たります。
石碑が示すように、こちらはその昔、木曽川の主流だった日光川の渡し場の一つ、天神の渡しの跡地になります。
天神の渡しは「萩原の渡し」とも呼ばれました。

御立候也、萩原之渡迄廿町計御見送候

「信長公記」天理本によると、聖徳寺での会見を終えた信長と道三は、萩原の渡しまでの廿町計りを同道して見送った、とあります。
廿町は2㎞強で、聖徳寺跡からの距離もほぼ一致します。

一般的に用いられることの多い「信長公記」陽明本では「どこまで」の記述がなく、文意から信長が道三を見送った、と解釈していました(参照記事)が、聖徳寺跡から南東の方角へ進んだとなると、むしろ道三の方が、清須への帰路につく信長を見送った、と理解した方が良さそうです。

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萩原の渡しは尾西市にある天神社との間を結ぶ、直線距離480mほどの渡船場でした。
つまり、この480mがほぼ、当時の日光川の川幅だったことになります。

尾西市の天神社は写真左奥に見える工場の煙突の、更にずっと向こうに位置しています。
この写真に見えている光景は、少なくとも天正14年(1586)の洪水で流路が大きく変わる以前までは、全て川の流れだったことになります。

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日光川の対岸、尾西市の天神社
道三に見送られた信長が日光川を渡り終えた地点、ということになります。

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こちらにも天神の渡し跡の碑が建っていました。

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尾西市側から日光川の旧流域越しに、一宮市の天神神社の方角を望む。
工場の煙突が目印です。

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こちらは現在の日光川。
江戸時代に整備された美濃路は、あちらの橋を通っていました。

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美濃路が通る「はぎわら波志(橋)」
度重なる洪水による流路の変更で日光川の川幅は狭まり、渡船場も廃止されて橋が架けられるようになりました。

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美濃路歩きは桶狭間へ出陣する信長よろしく、清洲から熱田までを歩いたことがありますが、どのポイントも風情があっていいですね。
いずれ、もっと本格的に歩いてみたいと思います。

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2018年3月20日 (火)

高桑城

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岐阜県岐阜市柳津町の高桑城跡

高桑城は鎌倉時代、高桑氏による築城と推定されています。
高桑氏は代々、美濃国守護の土岐氏に仕えていましたが、大永7年(1527)、斎藤道三に通じた武山氏に城を占拠されて越前へ逃れています。
その数年後には土岐氏も道三に追われ、高桑城はそのまま武山氏の居城となりました。

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現地案内板には「土盛りが残る」とありましたが、どれを指しているのかがわからず、竹藪の周囲も探ってみたのですが・・・とても突入できそうにはないですね、これは(^_^;)

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高桑城跡の近くにある、慈恩寺の観音堂

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この観音堂の基礎部分には、高桑城の城石(石垣?)が用いられているそうです。

高桑城はその後、永禄10年(1567)に織田信長の軍勢によって落城したと云います。

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織田勢に攻められ、この地で自刃した武山氏一党の16名を供養する無念塔。
正面に「永禄戊辰武山党一六士自刃各霊供養塔」と彫られていました。

ちなみに、永禄の戊辰年は永禄11年にあたり、城が落城したと云う同10年とは1年のズレが生じます。
また、無念塔の現地案内板には、高桑城を攻めたのは織田信忠とありましたが、この時点での信忠は11~13歳くらいで、しかも元服前・・・ちょっと考えづらいように思えます。

なかなか史料も少なくて難しそうですが、この辺りはもう少し丁寧に検証してみる必要がありそうですね。

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2018年3月19日 (月)

「小熊」の地蔵菩薩

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今回の旅のスタートはこちら・・・岐阜県羽島市小熊町西小熊にある、小熊山一乗寺からです。

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一乗寺は弘仁10年(819)の創建で、開基はかの弘法大師空海と伝えられる古刹です。
当寺には空海自らが、墨俣川(現長良川)の橋杭を用いて彫ったと云う地蔵菩薩が安置されていました。
源頼朝も文治3年(1187)、その地蔵菩薩に武運長久を祈願し、本堂をはじめとする伽藍の再建にも尽力しています。

ところが永禄11年(1568)12月、地蔵菩薩は織田信長によって岐阜城下へと移されていきました

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一乗寺の地蔵堂
現在の地蔵菩薩像は、慈覚大師による2代目のものと伝えられています。

ちなみに地蔵堂の手前に並べられているのは、源平による墨俣川の戦い(治承5年/1181)に於ける戦死者たちの供養塔です。
合戦は墨俣~西小熊の辺りまでが主戦場となり、一乗寺(西小熊)の近くにあった寺で供養されていましたが、天正14年(1586)の洪水で寺ごと五輪塔も流されて散逸し、後の境川改修工事の際に出土したものが一乗寺に集められました。

・・・話しを地蔵菩薩に戻します。
天正2年(1574)3月初旬のとある夜、地蔵菩薩は信長の枕頭に立って
「元の小熊へ戻りたい」
と告げます。
ところが、これを帰すことを惜しんだ信長は、地蔵菩薩を安置していた城下の地を「小熊」に改めたと云います。

果たして、信長によって岐阜城下へと移された小熊の地蔵菩薩は今、どこにあるのか・・・俄然興味をそそられて調べてみることにしました。
ポイントは信長が、地蔵菩薩を移した岐阜城下の地を「小熊」に改めたという点。

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ここから岐阜市小熊町の存在を知り、更に調べていくうちに・・・

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辿り着いたのが、圓龍寺の山門前に建つ慈恩寺
住所こそ岐阜市大門町になりますが、そのすぐ西側、目の前に小熊町があります。

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織田信長が気に入り、小熊の一乗寺から持ち帰ったと伝えられる木像延命地蔵菩薩
慈恩寺の本尊で、様式からは藤原時代(遣唐使廃止の894年~平家滅亡の1185年まで)後期の作と推定されており、それが本当であれば、835年に亡くなった空海の作とするには無理があるようにも思えるのですが・・・?

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また、前出の圓龍寺の山号は「一乗山」。
なんとなく、一乗寺に通じるものがあるように思えませんか?

小熊から持ち帰った地蔵を安置したからこそ、この地を「小熊」としたのであって、地蔵菩薩が「戻りたい」と言った~云々はそこに尾ひれがつけられたものでしょうが、しかし伝承を辿ることで実際に地蔵菩薩と出会い、そして、やはり伝承通りに地名が残っていたことに、えも言われぬ興奮を覚えました。

ところで、岐阜城周辺では他にも、織田家に関連する史跡をめぐりました。

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こちらは西野不動尊の脇に佇む、濃姫のものと伝わる墓石
現地案内板によると、本能寺の変で信長と運命を共にした濃姫の遺髪を家臣の一人が持ち帰り、この地に埋葬したものとか・・・。

濃姫に関しては確たる記録が殆ど残っておらず、その生涯は多くの謎に包まれたままです。
本能寺で亡くなったとするのも、江戸中期頃に成立した歌舞伎や浄瑠璃の世界でのみで、私も濃姫が本能寺にいた可能性は極めて低いと考えていますが、土地に伝わる伝承の一つとしてご紹介します。

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織田塚
天文16年、織田信秀(信長の父)は稲葉山城を攻めますが、斎藤道三の手痛い反撃に遭って敗走します。
織田塚は、この敗戦による織田方将兵の戦死者たちを、浄泉防(円徳寺の前身)に埋葬したものとも伝えられています。
円徳寺が現在の場所へ移されると織田塚も改装されましたが、その一部が何故、元の場所に残されたままになっているのかは、不勉強につき定かではありません。

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2018年3月 5日 (月)

大河内城の戦い (後編)

前編からのつづきになります。

信長懸け廻し御覧じ、東の山に信長御陣を居ゑさせられ、其の夜、先、町を破らせ、焼き払ひ、

大河内城へ迫った織田信長は、自らの本陣を(大河内城の)東の山に据えました。
公記には東の山とあるだけですが、軍記では;

信長勢陣四方之山々。本陣東方桂瀬山也。

としています。
桂瀬山は松阪市桂瀬町にある丘陵。大河内城跡からは北東2km弱、方角もほぼ一致します。

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桂瀬山、伝織田信長本陣跡。
麓からは15分ほどで登ることができます。

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織田信長腰掛石
元々古墳があったようで、この石もその一部らしいです。

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桂瀬山から大河内城を眺める。
写真ほぼ中央辺りに大河内城跡があります。

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本陣跡から大河内城方向へ放射状に伸びる尾根上には、古道や虎口のような痕跡がそこかしこにありました。

廿八日に四方を懸けまはし御覧じ、

8月28日、信長は諸将を四方の山々に配して大河内城を包囲しました。

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大河内城遠景
写真右(北)が大手、左(南)が搦手になります。

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大河内城略図
今回、我々は大手から登ることにしました。

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大手口
谷底を登っていくような感じで、略図に櫓と書かれた曲輪に左右から見下ろされています。

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東側の櫓先端部
三段ほどの平坦地が階段状に連なっていました。

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東側から大手道を見下ろした様子。

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続いて西側へ。
右の谷底が、先ほど登ってきた大手道。こうして左右の高所から大手口を、監視・防衛する構造になっています。

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西側の櫓先端部へ向かう途中に切られた堀切。

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この堀切から尾根の側面を回り込むようにして進むと・・・

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西側の櫓先端部へ出ます。
東西共に、先端部は一段低くなっていました。
振り返った時の切岸がなかなか見事です。

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こちらは火薬庫跡手前に切られた堀切。
薬研状の鋭利な角度がとても美しい堀切でした。

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火薬庫跡
写真左の土塁上にもう一段あり、二段構成になっていました。高い土塁で保護してあり、如何にもといった印象です。
写真正面の土塁の奥が、先ほどの堀切になります。

包囲完了後、大河内城をめぐる攻防戦は;

9月8日
夜に稲葉一鉄、池田恒興、丹羽長秀らに搦手からの攻撃を命じるも、雨で鉄砲を用いることができずに撤退。

9月9日
滝川一益に命じて、北畠氏の本拠・多芸城(霧山城)を焼き討ち。

といった経過を辿りますが、この後の両軍が和睦するまでの一ヶ月間については、公記は何ら両軍の動きを伝えてはくれません。
しかし軍記には10月上旬、滝川一益が西方の魔虫谷(マムシ谷)と呼ばれる谷間から攻め登ったとあります。

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そのマムシ谷
火薬庫と西の丸の間の谷間になります。

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谷底を進むと、城内側との圧倒的な高低差が眼前に迫ります。
こうして大きな高低差のある城内から際限なく弓・鉄砲を撃ちかけられ、滝川勢は斃れた人馬が谷を埋めたと表現されるほどの苦戦にも立ち向かい、何度も攻め登る激戦となったようです。

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マムシ谷から見上げる西の丸先の堀切。
あそこから登って城内へ戻ります。

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その堀切

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城内側から見下ろすマムシ谷。
攻め寄せる滝川勢を迎え撃つ籠城兵の目線。

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西の丸と本丸間の堀切。
マムシ谷の最奥でもあります。マムシ谷を攻略されると、こうしてすぐに主郭部へ迫られてしまうのですから、防戦する側も必死だったでしょうね。

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西の丸
高低差や曲輪の配置からは、むしろこちらの方が本丸のようにも感じられました。

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本丸に建つ大河内合戦四百年記念

つづいて出丸方面へ向かいます。

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本丸南側の谷を挟み、西へ張り出した稜線の先端に築かれた、見張り台のような小曲輪との間を断ち切る堀切。

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その小曲輪
狭いながらもちゃんと、城外に向けてΓ字に土塁が築かれていました。

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最南端部へ向かう手前に切られた二重?の堀切。
どこが二重?と言われると・・・

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よ~く見ると、堀底に土塁のようなものが1本、竪に通っているから・・・(^_^;)

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城域最南端部の曲輪跡

2時間以上かけてじっくりと、ほぼ全域を観てまわることができました。
大河内城、なかなか見応えがあります。

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麓の西蓮寺に建つ、北畠氏の供養碑。

下山した後、伊勢自動車道を挟んだ南西側の尾根上にも出城のような痕跡があるとのことなので、今度はそちらにも行ってみました。

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歩道橋で高速道路を渡り、獣除けのフェンスから10分ほど登った先のピークには、いかにも急拵えといった印象の甘い削平地がいくつかあり、写真のような堀切も確認できました。
更には・・・

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削平地間を連結するかのように、土塁のようなものが渡されている様子も確認できました。
これらの土塁は、大河内城の方向に面しています。
大河内城の外郭になるのかもしれませんが、それにしてはあまりに急拵えな感が否めず、城内の遺構に比しても造成・作り込みが甘いことなどから、これらの遺構は織田方の包囲陣の痕跡、いわゆる仕寄ではないかと思えてきました。

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そうなると、大河内城に面して築かれたこれらの土塁のようなものは、ひょっともすると・・・

四方しゝ垣二重三重結はせられ、緒口の通路をとめ、

大河内城包囲のために信長が築かせたと云う、二重三重しゝ垣の一部である可能性も出てくるのではないでしょうか・・・とても興味深い遺構に出会えました。
※しし垣…害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に石や土などで築いた垣のこと。

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ピークは藪で視界が効かないため、少し下った場所からの大河内城の眺め。

既に端々餓死に及ぶに付いて、種々御侘言して、信長公の御二男、お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
十月四日、大河内の城、滝川左近・津田掃部両人に相渡し、国司父子は、笠木・坂ないと申す所へ退城侯ひしなり。


見てきたように、織田方は無理な城攻めを繰り返して焦りのようなものも感じられますし、決して公記が記すように北畠氏側が一方的に種々御侘言するような戦況ではなかったと思われますが、籠城側も兵糧の不安があったのは事実だったようで、織田の大軍を向こうにまわして戦い続けるのも成り難く、信長の次男・茶筅丸(後の信雄)を具房の養嗣子とすることで和睦が成立しました。

和睦成立後、信長は田丸城を始めとする伊勢国中の城の破却(田丸城は後に信雄が拠点を移して改修)、及び人々の往来の妨げとなっていた関所・関銭(通行税)の撤廃などを命じ、自身は伊勢神宮へ参拝してから岐阜へと帰りました。

茶筅丸は一旦、船江の薬師寺へ預けられますが、和睦成立後も件の船江勢が抵抗を続けていたため、滝川一益も同じ船江の浄泉寺に入ってその処置にあたりました。

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茶筅丸が最初に預けられた薬師寺
伊勢路に面して建てられています。

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本堂は承応2年(1653)の創建と伝わります。

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そして一益が入った浄泉寺
前編の記事でも書いた通り、現在のお寺は船江城跡に建っていますが、浄泉寺は永禄12年当時も場所こそ違え、すぐ近くにあったようです。

和睦成立後、北畠父子が船江に出向き、薬師寺において茶筅丸との対面を果たしました。

さて、大河内城の戦いをめぐる旅も終了です。
今回もご案内いただいた方や、同行の方々にもお世話になりました。ありがとうございました。

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2018年3月 4日 (日)

大河内城の戦い (前編)

2月最後の週末は三重県にお邪魔し、織田信長と伊勢国司・北畠氏との間で行われた大河内城の戦い関連地をめぐってきました。
信長公記(以下:公記)」の記述を中心にしつつも、続群書類従に収録されている「勢州軍記(以下:軍記)」には公記とはまた違った合戦の様子が描かれており、そちらの内容も織り交ぜつつ、旅の行程とは順序が異なりますが、合戦の経過に沿って進めていきたいと思います。
※記事中、公記からの引用は青文字、軍記は緑文字で記します。

織田信長は永禄11年(1568)頃までに伊坂・市場・釆女などの各城を落とし、伊勢北部を押さえていきます。
そして翌永禄12年5月には、木造城主で北畠一族でもある木造具政が織田方へ寝返りました。

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本丸跡地に建つ木造城址

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その城址碑のある土盛・・・土塁の残欠か?

木造城跡めぐりには、1620年代頃に描かれたと思われる古絵図を用いました。

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本丸の南西、光(興)正院跡周囲の堀の名残り。

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そして光正院を取り巻いていた土塁。
右奥の竹藪の部分も全て土塁です。

木造具政の寝返りには、源浄院主玄(後の滝川雄利)や柘植三郎左衛門の献策があったと云われていますが、古絵図には本丸の近くに柘植の屋敷や、主玄がいたであろう源浄院も描かれています。

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民家の塀代わりになっている、城域南西端の土塁。
この先に雲出川が流れています。

木造氏の離反を知った北畠氏は、柘植の息女らを木造近邊雲出川端にて処刑し、木造城を攻撃しました。

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木造城跡から雲出川方向の眺め。
この視線の先に、処刑された人質たちの姿があったのでしょうか・・・。

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木造氏の菩提寺、引接寺。

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境内にはキリシタン灯篭もありました。

北畠軍による木造城攻めは、籠城側に織田方からの援軍もあって攻略には至らず、信長が出陣する頃までには引き上げて、大河内城を中心とした防戦体制へと移っています。

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木造城跡めぐりの後、松阪市の須賀城跡にも連れて行っていただきましたので、そちらもちょっとご紹介。

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立派な土塁が残っていました。

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残存する土塁はごく一部で、城域全体の規模は推測の域を出ませんが、それにしても立派な土塁でした。

木造氏の寝返りを受けて織田信長は同年8月20日、7万とも云われる大軍を擁して岐阜を出陣しました。
その日は桑名まで進軍し、そこで2日間逗留した後、更に南へ進みます。

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近鉄白子駅より、伊勢路を南の方向へ歩いてみます。
桑名を出た信長も、おそらくは通ったであろう旧街道です。

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街道沿いには紀州藩白子代官所跡も。
この辺りは紀州藩の飛び地だったようです。

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伊勢神宮へお参りする人々が道に迷わないように、と建てられた道標。

廿二日、白子観音寺に御陣を懸けられ、

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織田信長が永禄12年8月22日に宿陣した白子観音寺白子山子安観音寺
聖武天皇の時代に創建された勅願寺です。

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子安観音寺は、伊勢路から少し北へ入った場所にあります。

廿三日、小作に御着陣。

子安観音寺を出た信長は、翌23日には先にご紹介した木造城に入ります。
近くを伊勢路が通っていますので、信長も木造城まではおおよそ伊勢路のルートで進軍してきたものと思われます。

木造城で北畠氏攻めの具体的な作戦を決定、指示していったのでしょう。
源浄院、柘植の案内で八田城を包囲・攻略し、阿坂城へは使者を派遣して降伏を迫りますが、阿坂城側はこれを拒否します。(軍記)

勧告拒否を受けて信長は8月26日(軍記では27日)、木下秀吉を先陣として阿坂城を攻めます。
この攻城戦は、秀吉自ら堀際まで攻め寄せて薄手を被るほどの激しいものとなり、阿坂城は即日降伏開城しました。

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阿坂城へは行程の都合で行きませんでしたが、その出城と考えられている高城には行ってきました。
写真は、高城付近から見上げる阿坂城。

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高城の主郭には、規模の大きな土塁が廻らされていました。

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主郭北西端の櫓台跡から、西側の虎口。

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北へ伸びる細くて急勾配な尾根を下ると、二重の堀切もありました。
高城、なかなか見応えのある遺構が残されています。

是れよりわきゝゝの小城へは御手遣もなく、直ちに奥へ御通り侯て、国司父子楯籠られ侯大河内の城とり詰め、

公記には阿坂城攻略後、他の小城には目もくれずに北畠氏の籠る大河内城へ向かったとあり、その間の動きについては特に触れられていません。
ところが、軍記には阿坂城攻めの前夜(昨二十六日夜…25日か)、進軍していた先鋒の軍勢を阿坂城攻めのために呼び戻した際(攻阿坂城告先勢呼返之時)に、船江城から出撃した北畠方の軍勢が小金塚という地で織田勢を襲撃し、痛手を負わせたエピソードが載っていて、この船江勢は翌日廿七日夜(26日か)にも織田軍が大河内城へ向かう際(つまり、公記でいう直ちに奥へ御通り侯ている際)、やはり小金塚で待ち受けて戦闘になったとあります。
この時は、さすがに信長も用心していたので奇襲は失敗し、今度は船江勢が不覚をとる番になったのだとか。

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小金塚近くに建つ法蔵寺(松阪市深長町)

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その山門前に移設された「小金塚」の五輪塔。
江戸時代の正保年間に建立されたようです。深長町と伊勢寺町の境付近に建っていましたが、周辺の開発に伴い、こちらへ移されてきました。
移設前の場所は法蔵寺の西方にあたるのですが、北方にも「小金」という地名があり、そこに黄金塚神社という名の神社もあります・・・まだ謎が残りますが、いずれにしても法蔵寺付近一帯を指しているのは間違いなさそうです。

※その後、フォロワーのるーちんさんの調べにより、合戦のあった場所について地元の地誌類には、「曲(村)と深長(村)の間」「上ノ庄の内」などとあることが判りました。
これらから判断する限り、やはり法蔵寺北方の黄金塚神社の辺りが古戦場であった可能性が高そうです。
(2018年3月追記)

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法蔵寺前から眺める阿坂城。

船江(松阪市船江町)は伊勢路も通る地域で、軍記も船江通南方(すなわち大河内城方面)への通路としています。
そのため、城主・本田氏の他にも多くの援軍が加わっていました。

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船江を通る伊勢路。

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道中、立派な常夜灯も見かけました。

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伊勢路のほど近くに建つ浄泉寺
ここが船江城の跡地と伝えられています。遺構は残りませんが、寺の周囲が堀の名残りを思わせる楕円形の区画になっていて、側溝が通っていました。

奇襲もあってか信長は船江城を警戒し、あえて攻略しようとはせずに伊勢路を避け、西方の山際を通って大河内城へ向かったようです。
これが、公記のいうわきゝゝの小城へは御手遣もなく、直ちに大河内城へ向かった真相になりますでしょうか。
※先にご紹介した須賀城も、わきゝゝの小城の一つになるのかもしれませんね。

軍記によれば船江衆はこの後、9月上旬にも丹生寺に布陣していた氏家卜全の陣所に夜襲をかけて痛手を負わせる活躍をしています。
丹生寺は後編の記事で触れる信長本陣のすぐ近く・・・事実であれば、織田方にとっては忌々しき事態です。
(但し、公記では卜全の布陣地を大河内城の西としており、全く一致しません

更には和睦成立後、信長は伊勢神宮へ参拝するのですが、船江衆はその帰路にも鉄砲を少々撃ちかけたとあります。
まさに獅子奮迅といった活躍ぶりで、北畠勢の中でも傑出した存在のように語られています。

(後編へつづきます)

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2018年1月20日 (土)

圧切長谷部と対面

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久しぶりの空の旅で、5年ぶりに福岡へお邪魔します。
空から見下ろす富士山がまた綺麗でした。

日本海側を覆う寒波の影響で雪の降りしきる福岡へ到着後、まず最初に向かったのは福岡市博物館です。

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母里太兵衛が福島正則から呑み獲ったとの逸話でも有名な名鎗・日本号
元々は朝廷の御物で、正親町天皇から足利義昭、織田信長、豊臣秀吉の手を経て正則へと渡りました。

その日本号の横に、今回の福岡旅を決めた最大の目的のものが・・・

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国宝・圧切長谷部
膳棚の下に逃げ込んだ茶坊主を、織田信長が棚ごとへし切ったとの逸話からその名で呼ばれています。
黒田官兵衛が天正3年(1575)に岐阜で信長に謁見した際に拝領したとも、信長から秀吉の手を経て伝わったとも云われますが、以降は黒田家の家宝として伝来しました。

大太刀を磨り上げて短くしています(刃長64.8cm/茎長16.7cm)。
考えてみれば信長は、宗三左文字(義元左文字)も義元から接収後に磨り上げ、大太刀を刃長67cmの打刀に改めています。
一概には言えないのかもしれませんが、大太刀よりも振り易くて実戦的な打刀を好んだのかもしれません。

圧切長谷部は「黒田家名宝展示」の中で、平成30年1月5日~2月4日まで展示されています。

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新春特別企画「黒田家の刀剣と甲冑展」(同1月7日~2月12日)では、圧切長谷部の拵(国宝)も展示されています。

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長谷部の拵の隣りには、やはり官兵衛の愛刀だった安宅切の拵(右/重要文化財)も並べて展示されていました。
共に金霰鮫青漆打刀拵という様式ですが、反りの違いが一目瞭然です。

ようやく念願叶って対面した圧切長谷部・・・寒さも忘れる至福のひと時。
平日とあって想定外に人も少なく、ゆっくりと拝観することができました。

※金印もちゃんと拝観してきました。

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2017年12月24日 (日)

釆女城

旅の2日目は三重県へ移動し、四日市~亀山の城をめぐります。

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移動途中、桑名で旧東海道七里の渡し碑を眺めつつ・・・

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浄土寺へ立ち寄り。
徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の墓所にお参りします。

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浄土寺の近代的な山門。
鹿角脇立兜に蜻蛉切・・・洒落てますね。

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本多忠勝墓所
彼を追って殉死した家臣らの墓碑も建っていました。

四日市駅前で他の参加者とも合流し、総勢9名で向かった先は・・・

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四日市市の釆女城

永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛戦の前に織田信長は伊勢に進攻、伊坂城や市場城などに続き、釆女城を攻略して北伊勢を制圧していきます。
この北伊勢攻めをきっかけに神戸具盛や長野具藤が織田方に降伏し、信長は息子の信孝を神戸家へ、弟の信包を長野家へ養子として送り込み、伊勢攻略の地歩を固めていきました。

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五の郭への枡形虎口

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その枡形虎口を上から・・・綺麗な四角(枡形)をしています。

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五の郭と一の郭間の空堀

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一の郭の井戸跡

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一の郭北面の土塁
郭のコーナー部分(写真奥)は土塁が厚くなっており、櫓が建っていたのではないかと思われます。

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一の郭から空堀越しに、二の郭を見る。

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一の郭と二の郭間の空堀・・・かなりの規模です。
尾根を分断する「堀切」でいいのでしょうが、不思議と両サイドの縁を削り残して土橋のようにしていたので、あえて「空堀」としました。

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二の郭にも土塁が明瞭に残り・・・

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やはりコーナー部分には櫓台がありました。
写真は櫓台の上から、三の郭方向を見ています。案内板の奥に空堀が見えています。

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二の郭と三の郭間の空堀

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三の郭から東の斜面を下り、斜面下に残る遺構を見ていきます。
上写真正面は、先の縄張図aの土塁(横から)。

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一の郭~二の郭間の空堀下には、静岡の丸子城にもあるような半円状の橋頭保bが築かれていました。
横堀と土橋の先に続く半円状の削平地が、写真でおわかりいただけますでしょうか・・・?

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こちらは四の郭への虎口
ちょっとわかりづらいですが、やはり左へ折っています。
この虎口の先にはもう一つ、北側の斜面からのルートに繋がる虎口があり、そちらは内枡形のように土塁で受けていました。差し詰め「二重枡形虎口」と言ったところでしょうか。

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四の郭西面の土塁
あちらの土塁の先は・・・

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深い堀切になっています。

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その堀切から北側の斜面には、竪堀も落とされています。
写真は竪堀を横から撮影したもので、水色の服の同行者が立っている辺りが竪堀の底。

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四の郭からしばらく何もない尾根をダラダラと下った先、cの削平地に転がっていた五輪塔などの石材。
専門の方によると、宝篋印塔の形状から16世紀頃のものではないか、とのことでした。

九の郭を含めた山麓付近の削平地には寺院、或いは畑の跡のような雰囲気も感じ、四の郭との間に何もなかったことも踏まえ、果たして城の遺構としていいのかは参加者一同、少々懐疑的でした。
dの辺りには、池・滝・弁天島などを備えた庭園跡とも受け取れる痕跡がありました。

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六の郭の幅広な土塁上から、五の郭との間の堀切を見る。

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最後に八の郭へ。
写真は一の郭(左)と八の郭間の堀切。
ここには土橋がなく、一の郭の切岸との高低差から橋を架けることもできそうにないので、八の郭は完全に独立した郭だったことになります。

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八の郭南端の虎口の先には土橋が架かり、土橋の左は切岸、右は空堀になっていました。
この土橋を進み、空堀に沿って右へカーブした先は・・・

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土塁を広げたような削平地が設けられていました。
右が八の郭との間の空堀。

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その空堀から、正面に八の郭からの土橋を見る。

さて、これにて釆女城攻めは終了です。
一通り観てまわった印象としては、とにかく規模がデカい!とても一土豪・国人クラスのお城とは思えませんでした。
やはり織田軍が占拠した後、自らの軍事拠点として改修の手を加えたのではないでしょうか。

この後は亀山市の峯城へ向かいます。

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2017年12月21日 (木)

白鬚神社 (道三・信長別れの地)

またまた岐阜への旅です。
2017年は本当によく岐阜県にお邪魔しました。数えたところ、今年だけで8回目とか・・・(笑)

いつもお世話になっている流星☆さんと岐阜羽島で待ち合わせ、まず最初に連れて行ってもらったのは・・・

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笠松町田代の白鬚神社

又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。
(信長公記 首巻「山城道三と信長御参会の事」より抜粋)

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天文22年(1553)4月20日、富田の正徳寺斎藤道三と会見した織田信長は、会見終了後、道三を廿町許り見送って、この地で別れの儀式を執り行ったと伝えられています。

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白鬚神社の北方2㎞を流れる境川
美濃・尾張の国境となる木曽川の、この当時の本流はこちらの境川でした(まさに“国境の川”)。つまり、笠松は今でこそ岐阜県ですが、当時は尾張の一部だったということになります。
信長は美濃へ帰る道三を、国境ギリギリまで見送りに来た、ということになるのでしょう。
※天正13年の洪水でほぼ現在の流路に変わる。但し天正10年の段階で、美濃を領する織田信孝と尾張の信雄が、国境を木曽川(現境川)にするか「大川(現木曽川)」にするかで揉めているので、この段階で既に現在の木曽川も遜色ない規模を誇っていたものと考えられる。

但し、1点疑問もあります。
太田牛一は「信長公記」の中で、(正徳寺から)廿町許り御見送りした、と記しています。廿町とはおよそ2.2㎞
ところが、正徳寺(聖徳寺)跡から白鬚神社までは7~8㎞ほどもあり、いくらなんでも距離が一致しません

ちなみに正徳寺から2㎞前後の距離には後年(1556)、道三が嫡子の義龍と対立した際、その救援のために出撃した信長が、義龍軍との戦闘(大良の戦い参照記事)に備えて着陣した大浦の寺砦があります。大浦の寺砦に入った信長軍はその北方、現在の笠松町北及の辺りで義龍軍との戦闘に及んだと云われています。
その北及は白鬚神社のすぐ南。正式な(当時の)国境は越えていますが、この近辺まで斎藤家の勢力が既に及んでいたのだとすれば、案外、会見後に信長が道三を見送ったのも大良(大浦)の辺りまでだった可能性もあるのでは?・・・などと、勝手に想像を膨らませています。

※「信長公記」天理本には、

萩原之渡廿町計御見送候

とあり、聖徳寺を出た二人が同道して別れた場所を、日光川(木曽川支流)の萩原の渡し(天神の渡し)としています。
萩原の渡し跡は聖徳寺から美濃路を南東へ2㎞ほど行った先で、廿町計という牛一の記述とも距離は一致します。
しかし、聖徳寺を起点にすると白鬚神社とはまるで反対の方角で、むしろ道三の方が信長を見送ったような印象さえ受けます。
「信長公記」の史料価値は周知のところなので、そうなると白鬚神社で別れたとする伝承の信憑性を量る上でも、その典拠を知りたいところです。

あかなべ
と申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

(同)

信長と別れて美濃に入った道三は、あかなべ(岐阜市茜部)まで来たところで、
「信長はやはり“たわけ”でしたな」
と言う猪子に対し、
「ならば無念なことだ。私の子供は将来、その“たわけ”の門前に馬を繋ぐことになる(家来になる)であろう」
と呟いたとか。
その後の歴史は・・・周知の通りです。

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ところで、白鬚神社の境内には蓮台寺遺蹟の石碑が建っていました。
付近の笠松町長池東流地区で昭和32年、土地改良工事によって古代寺院(蓮台寺、或いは東流廃寺とも)のものと思われる塔の礎石が出土しています。

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白鬚神社の境内に安置されている塔の出土礎石(半分)
この礎石の大きさから、塔の高さは30mほどもあったのではないかと考えられています。
何故か半分に割られ、もう一方は東別院(西宮町)に保管されているようです。

そういえば白鬚神社の所在地である「田代」は「でんだい」と読むそうです。
「蓮台(寺)」⇒「でんだい」と、地名の由来になっていたのかもしれませんね。

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