カテゴリー「織田信長・信長公記」の183件の記事

2022年11月15日 (火)

旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿

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旧東海道、藤川宿の西棒鼻。
8月に旧東海道を御油宿から藤川宿まで歩いてきましたので、今回はその続きとなります。

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出発するとすぐに藤川の松並木が出迎えてくれます。

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松並木を抜けると一旦国道1号線に出ますが、1㎞ほどでまた左へ逸れていきます。

正田の町より大比良川こさせられ、岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、矢はぎの宿を打ち過ぎて、池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月18日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長はこの日、三河の吉田城下を出発して御油や本宿を経由(参照記事)した後、岡崎や矢作を通過して知立(池鯉鮒)まで進みました。

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国道から外れて300mほど進んだ地点。
この辺りの旧街道から左(南西)の方向には名鉄の美合駅がありますが、その北~北西一帯に「美合町生田」という地名があります。

正田の町より大比良川こさせられ、
太田牛一が書き残した正田の町、その名残の地名が美合町生田ではないでしょうか。

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その北西側には美合町生田屋敷という地名もあり、詳細は不明ながら生田城址碑も建っています。

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正田城址碑前から、美合町生田方向。
少し高台になっている辺りが正田の町

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長閑な旧街道をしばらく進み・・・

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藪に遮られえた突き当りが、乙川の渡河地点。

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旧街道は川で途切れていますので、すぐ近くを通る国道1号の橋へ迂回します。

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乙川の流れと旧東海道の渡し場付近。
藤川宿側から川を渡った対岸(北)は「大平」という地名になり、乙川には「大平川」という別名もあります。
そう、牛一が記した「太比良川」です。

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乙川の北岸。
旧街道の名残らしき畦道が見えていますが、その傍らには・・・

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大平川水神社が祀られていました。

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太平の集落を進みます。

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旧街道から少し外れ、西大平藩陣屋跡。
西大平藩は旗本だった大岡越前守忠相が寛延元年(1748)、三河国宝飯・額田・渥美で4,080石の加増を受け、都合1万石の大名となったことでて立藩されました。

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太平一里塚
江戸日本橋から80里になります。

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岡崎IC出入口の下を潜る旧東海道。

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岡崎の城下町(岡崎宿)が近づいてきたところで、少し寄り道して朝日町の若宮八幡宮へ。

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徳川家康の嫡男・信康の首塚にお参りしました。

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さて、旧東海道に復帰して岡崎宿へ。

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岡崎宿内を通る旧東海道は二十七曲りとも呼ばれ、20ヶ所以上もの折れを伴います。

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要所要所にこうした案内表示を建ててくれていますので、これを頼りに丁寧にトレースして行きます。

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岡崎三郎信康も初陣の折に祈願したと云う、聖観世音菩薩を本尊とする根石寺。

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籠田惣門跡
ここから先が、近世岡崎城の惣構の内になります。

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籠田公園の中を通り抜ける旧東海道。
この日はラリー・ジャパンに関連したイベント(お祭り)が開催されていて、凄い賑わいでした。

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いや、そこまで小刻みに案内してくれなくてもわかるって(笑)

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もうすぐ城下を抜けてしまう、という地点まで来てようやく岡崎城天守が見えました。

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旧東海道が国道248号と交錯する辺りが、松葉惣門跡。

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江戸時代、現在の国道248号の西側を沿うような位置に、松葉川という川が南北に流れていました。
岡崎城の西側の惣堀も担っており、旧東海道が松葉川と交錯するこの地点には松葉惣門が構えられ、橋も架けられていたと云います。
「東海道中膝栗毛」でも、弥次・喜多が(宿のはずれの)松葉川を渡って矢作橋へ向かった様子が描かれています。

岡崎城の腰むつ田川矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、

事前にいくら調べても、信長公記に見える「むつ田川」を特定することができませんでした。
しかし、岡崎城の腰の「腰」が何を意味しているのかは判断に悩むところですが、むつ田川・矢はぎ川と連続する既述の並びと、実際の矢作川との位置関係などから、この松葉川をむつ田川に比定しておきたいと思います。

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松葉惣門跡を出てしばらく進むと、八丁味噌で有名な八帖町に入ります。

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岡崎を舞台にした連続テレビ小説「純情きらり」に出演されていた、宮崎あおいさんの手形。

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矢作橋からの矢作川(矢はぎ川)。
江戸時代の矢作橋はもう少し南側(写真の方向)に架かっていたそうですが、天正10年に信長一行のために架けられたと云う橋は、果たして何処にあったのでしょうか。

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矢作橋、西側のすぐ袂に建つ出合乃像。
史実云々は別にして、「絵本太閤記」に描かれた日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いのシーンを再現しています。

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矢作川を越えると、矢作宿の町並みが続いています。
江戸時代に整備された旧東海道の宿駅制度からは外れましたが、矢作川を渡る旅人らの宿場町として栄えたそうです。

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岡崎信康唯一の肖像画を所蔵する勝蓮寺。

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矢はぎの宿を打ち過ぎて、

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矢作宿を抜けると国道1号線に合流し、3㎞ほども退屈な区間が続きますが、安城市に入ったところでようやく国道から右へ逸れてくれました。

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やっぱり松並木はいいですよねぇ~。

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低く横に大きく枝を広げる、永安寺の雲竜の松。

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推定樹齢は約350年・・・さすがに信長一行が通過した天正10年にはまだ生えていませんね。

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猿渡川を越えると、旧東海道はいよいよ知立市に入ります。

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来迎寺一里塚
旧東海道を西向きに歩いてくると、一方(北側)の塚が建物の裏に隠れてわかりづらいのですが・・・

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実は一対で残っています。

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泉蔵寺、吉田忠左衛門夫妻の墓所。

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元禄赤穂事件で有名な吉田忠左衛門。その妻であるりんは、忠左衛門切腹後に身を寄せた娘婿の主家の転封により、宝永七年(1710)に刈谷へ移り住みました。
しかし刈谷入りの僅か半年ほど後に亡くなり、形見として持っていた忠左衛門の歯と共に、この地へ埋葬されました。

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知立の松並木

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松並木の途中に建つ馬市の句碑。
江戸時代、この辺りでは毎年4月25日~5月5日の間、馬市が開かれ、4~500頭もの馬が並べられたと云います。

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歌川広重も、東海道五十三次で馬市の様子を描いています。
「池鯉鮒 首夏馬市」

知立は「池鯉鮒」とも書きましたが、それは当地にあった御手洗池、或いは知立神社の神池に鯉や鮒がたくさんいたため、との由来も伝えられています。
旧東海道の宿場名を示す際は、「池鯉鮒宿」とするのが一般的なようです。

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松並木を抜けた先が池鯉鮒宿。
今回の旧東海道歩き旅のゴールです。

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風情ある細い道を進み・・・

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この突き当りを右へ折れた先が・・・

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知立古城址

池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。

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元々は知立神社の神官・永見氏の居館があった場所で、刈谷城主・水野忠重(宗兵衛)が、その跡地を利用して信長饗応のための御殿御屋形)を整備したと伝わります。
※家康の側室で、結城秀康を生んだ於万の方は永見氏の出

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御殿址の石碑
江戸時代に入ると更に拡張され、徳川将軍が上洛する際の休息用の御殿にもなりました。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、知立一帯は刈谷城を押さえた緒川城主・水野信元の領有となりました。忠重はこの信元の異母弟にあたります。
信元は織田家に従っていましたが、信長に武田方への内通を疑われて死に追いやられ(天正3年/1575)、刈谷を含む彼の旧領は佐久間信盛の手に渡りました。
その佐久間父子の追放(天正8年)後、刈谷は忠重に与えられて水野家に復します。
忠重はこの後、高天神城を包囲する徳川軍の陣中にあり、年が明けた翌天正9年1月には、高天神城の処置についての信長の意向を伝える書状を受け取っています。

慶長5年(1600)、家康から隠居料として与えられた越前へ向かう堀尾吉晴を知立でもてなした際、同席していた加賀井重望によって殺害されました。
堀尾吉晴をもてなし、そして自らの最期をも迎えることになってしまった歓待の席も、或いはこの地にあった御殿が用いられたのかもと想像しています。

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知立付近一帯を描いた屏風絵。
東海道が御殿のところで突き当りになっている様子もよく描かれています。
右下隅の方に描かれているのは、岡崎城とその城下町。こちらも二十七曲りの様子がよく見て取れます。

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旧東海道は更に西へと続きますが、私はここを右(北)へ曲がって・・・

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知立神社にお参り。
写真は永正6年(1509)の再建と伝わる多宝塔。知立神社の別当寺だった神宮寺の遺構とのことです。

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神池には、やはり多くの鯉が。

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七五三シーズンにあたっていたため、この日は多くのお子さん連れで賑わっていました。

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旅の最後は電車で少し移動し、刈谷市の楞厳寺へ。
水野家の菩提寺で、水野忠重画像も所蔵しています。

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水野信元や忠重らが眠る水野家廟所。

本当は刈谷城まで足を延ばしておきたかったのですが、空模様が急激に怪しくなり、疲労もありましたので雨に降られる前に切り上げました。
いずれまた機会があれば・・・。

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2022年10月13日 (木)

「こぬか薬師」を拝観

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医徳山薬師院
毎年10月8日の1日だけ行われる、御本尊の薬師如来像開扉法要に合わせてお参りに来ました。

薬師院の御本尊は、後に比叡山延暦寺(延暦25年/806~)の開祖となる最澄が延暦元年(782)、16歳の時に彫った薬師如来像7体のうちの1つとされていて、伝承によると美濃国横倉の医徳堂に安置されていました。
(現在の薬師院の山号である「医徳山」も、これに由来するものでしょう)
最澄作の薬師如来像で現存するのは、延暦寺のものと当院の僅かに2体のみと伝わります。

寛喜2年(1230)、「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」との薬師如来のお告げがあり、これを知って訪れた人々の病が平癒したことから「不来乎(こぬか)薬師」と呼ばれるようになったのだとか。

その後、評判を知った織田信長により、美濃から京へ勧請されたものと伝えられています。

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法要の後、午後2時頃から順に本堂へ上がらせていただき、実際に至近の距離で御本尊を拝ませていただきました。
想像していたものより遥かに小さく、僅か15~20㎝四方ほどの御厨子の中に本尊の薬師如来をはじめ、日光・月光菩薩、そして十二神将の、合わせて15体の仏様がびっしりと立ち並んでいました

前年までの2年間は、コロナ禍の影響で本堂に上がることは叶わなかったそうです。
そういう意味でも、本当に幸運な参拝になりました。

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2022年10月12日 (水)

島津家久が信長を目撃した場所とは?

天正3年(1575)2月、「島津四兄弟」の一人としても名高い島津家久は薩摩を出発し、伊勢神宮参拝を主な目的とした半年近くに及ぶ旅に出ました。
彼はその道中を、「中務大輔家久公御上京日記」「中書家久公御上京日記」「家久君上京日記」などと呼ばれる日記に事細かく残しているのですが、その4月21日の条は次のようになっています。

廿一日、紹巴へ立入候、やかて心前の亭をかされ宿と定候、さて織田の上総殿、おさかの陣をひかせられ候を心前同心ニて見物、下京より上京のことく、馬まハりの衆打烈、正国寺の宿へつかせられ候、(~中略~)上総殿支度皮衣也、眠候てとをられ候、十七ヶ國の人数にて有し間、何万騎ともはかりかたきよし申候、

京に入った家久は連歌師の里村紹巴を訪ね、その弟子である心前の居宅を宿として提供されました。
そして織田信長が大坂から帰陣するというので、心前と連れ立って見物に向かい、実際に信長を目撃しています。
果たして彼が信長を目撃した場所とは何処であったのか・・・俄かに気になり、ちょっと検討を加えてみました。

紹巴の弟子である心前は後に、明智光秀の発句「時は今~」で有名な愛宕百韻にも、師の紹巴や兄弟弟子の昌叱と共に名を連ねています。
その居宅の所在地は不明ですが、師である紹巴屋敷の隣にあったとの説もあるようなので、下長者町通沿いに所在する紹巴町の付近一帯と推定しました。

そして信長の軍勢は下京から上京へと進んだ後、相国寺に達しています。
このことから、信長の軍勢が通行したルートについては、下京と上京を結んでいた室町通を真っ直ぐに北上してきたものと想定しました。

とすると家久が信長の軍勢を見物したのは、現在の紹巴町から下長者町通を東へ進み、室町通と交差する・・・

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こちらの写真の辺りではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
写真手前から伸びる道が下長者町通で、左右に交錯するのが室町通です。

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相国寺がある北の方角へと続く室町通。

家久が目撃した信長は皮の衣を着し、(馬上で)居眠りをしながら通っていったと云います。
なんだか信長の人間臭い一面が垣間見えて、個人的にはとても好きなエピソードの一つです。

家久は同月28日にも、美濃へ帰国する信長の軍勢を見物しています。
※「信長公記」では、信長の離京は27日。

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2022年10月11日 (火)

織田信長“幻の”京屋敷計画(吉田神社・宗忠神社)

今回は京都への旅です。
調べてみたところ、京都に宿泊するのは5年ぶりになります。

京都駅から電車を乗り継ぎ、出町柳駅から東の方角へ歩くこと10分ほどで・・・

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神楽岡とも呼ばれる吉田山が見えてきました。

永禄11年(1568)9月27日には、織田信長による足利義昭を擁した上洛戦に参陣していた近江北郡衆(浅井勢か)や高島衆(朽木勢か)の8,000ほどの軍勢が、この吉田山に布陣しています(言継卿記)。
なお信長は同日、近江の三井寺に滞陣して義昭と合流し、翌28日に入京を果たしました(信長公記)。

また、建武3年(1336)にも、後醍醐天皇方と対峙する足利尊氏も神楽岡に陣を布いたことがあるようです。

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まずは吉田神社から参拝。

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ところが吉田神社では結婚式が執り行われている真っ最中で、本宮への参拝は叶いませんでした。

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仕方ないので本宮は諦め、大元宮へ。

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大元宮の本殿は八角形のような形をしていますが、これは密教や儒教、陰陽道、道教などの諸宗教・諸思想を統合しようとした吉田神道の理想を形に表したものと考えられているそうです。

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そのまま、大元宮のすぐ裏手から宗忠神社へ。

元亀4年(1573)7月14日、「吉田山に屋敷を建てては如何か」との明智光秀の進言に基づき、織田信長の命を受けた柴田勝家、木下秀吉、滝川一益、丹羽長秀、松井友閑らが検分のため、吉田神社の神主・吉田兼見(この時点では「兼和」。天正14年/1586に「兼見」へ改名)の元を訪れます。
検分の結果、屋敷地には不向きとの結論を以て屋敷建設は結局、沙汰止みになりました。

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これは当の吉田兼見が記した「兼見卿記」に載っているエピソードなのですが、この時に信長屋敷の候補地とされたのが、現在は宗忠神社(文久2年/1862創建)の建つ場所であったと、いつぞやのTV番組で紹介されているのを観た記憶があります。

屋敷地に不向きとされた理由も定かではありませんが、そもそも何故、兼見とも親交の篤かった光秀が、兼見にとって迷惑この上ないような提案を信長にしたのかも謎ですし、これ以降も2人の関係に変化が見られないこととも合わせ、なんとも不思議な顛末に思えます。

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帰りは正参道から下山。

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備前焼の逆立ち狛犬。

翌15日、兼見は信長が宿所としていた妙覚寺に参上しています。屋敷造営の取り止めに対する御礼言上にでも伺候したのでしょうか。

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2022年8月10日 (水)

近衛龍山(前久)の浜松下向

天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変織田信長が亡くなると、信長と親交のあった近衛前久は出家して龍山と号します。
佞人讒訴の企てによって秀吉の嫌疑を受けた龍山は嵯峨て逼塞し、やがては京を離れ、徳川家康を頼って浜松へ向かいました。
茶色字部分は石谷光政・頼辰宛 近衛前久書状より抜粋引用

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東岡崎駅からもほど近い、乙川ほとりの満性寺
毎年8月7~8日の2日間、虫干しを兼ねた宝物展示が行われることを知り訪れてみました。

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龍山は天正10年11月7日付で、浜松へ忍びで下向することになったことを伝え、その道中の宿所提供を依頼する書状(上写真)をこの満性寺宛に発しています。

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後に紹介する同月13日付の書状により、龍山は11月12~13日頃に浜松へ到着したことが知れるので、満性寺に宿泊したのは11月10日前後のことと推定されています。

龍山はこの年、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐に参陣しており、4月には信長の凱旋旅にも同行して岡崎を通行した際にか、彼は過去にも満性寺に立ち寄ったことがあったようです。
11月7日付の書状には、その折に交わした雑談などを忘れ難く思っていること、その後にも満性寺から便り(書札)をもらったことなども書かれており、それに続けて;

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(聖徳)太子の次第を信長にもつぶさ(具)に伝え、内々に聴聞に訪れてみようと話していたところに不慮の儀(本能寺の変)が発生して叶わなくなり、是非もない。
といったことも記されています(上写真部分)。

満性寺では聖徳太子が篤く信仰されてきたようで;

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聖徳太子2歳の時の姿と云う「南無仏太子像」(左/鎌倉期)や「聖徳太子講讃孝養図」(右/天正6年頃)、

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「聖徳太子立像」(童形執笏太子像/江戸期)など、聖徳太子にまつわる品々が多く伝えられています。

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また、本堂脇に建つ太子堂にも・・・

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やはり聖徳太子が祀られています。

龍山は浜松への道中、満性寺に宿泊した際には実際に目にした(江戸期作の聖徳太子立像は別として)ことでしょうし、本能寺の変が起こらなければ織田信長も龍山と一緒に訪れて目にしたかもしれない貴重な品々です。

近衛家と満性寺の関係はその後も続いたようで、満性寺には他に;

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近衛前久(龍山)の「詠十首和歌」

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近衛信尹(前久息)の書簡

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近衛家から拝領の品々なども残されていました。

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また、太子堂には歴代徳川将軍のご位牌も安置され、酒井忠次からの書状や寄進状なども展示されていました。
その他にも数多くの寺宝が本堂や庫裏に展示されていましたが、とても一挙にご紹介しきれるものではありませんので割愛します。

ところ変わって・・・

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浜松城の西に位置する西来院

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近衛龍山は浜松到着後、11月13日付で岡崎の満性寺に一宿の馳走を謝した書状を出しています。
その文中で徳川家臣・石川家成の手配により、この西来院入ったことを伝えています。

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西来院には、西方僅か2㎞ほどの佐鳴湖畔で殺害された築山殿(徳川家康正室)の廟所「月窟廟」や・・・

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家康の異父弟・松平康俊の墓所もありました。

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JR浜松駅の南1㎞ほど、龍禅寺仁王門跡。最盛期には、この辺りも龍禅寺境内の一角に含まれていたのでしょう。
奥には大きな松の木が見えています。

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龍禅寺のクロマツ。
第2次大戦の戦火を免れ、市の保存樹に指定された平成7年の段階で、既に樹高が27mもあったといいます。

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龍禅寺山門

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龍禅寺境内

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金光院龍禅密寺の額

西来院に逗留後、龍山はここ龍禅寺に移り、金光院の北の亭に滞在したと云います。
この亭は後に、龍山公の亭とも称されたとか。

その正確な位置はわかりませんが、境内に建つ松永蝸堂の句碑の説明板に気になる記述がありました。

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元亀年間は後水尾天皇の曽祖父・正親町天皇の時代で、後水尾天皇はまだお生まれにもなっていません。
そればかりか、近衛前久が龍山と号したのは既述の通り、天正10年6月2日の本能寺の変後のことですし、徳川和子の入内は龍山没後(慶長17年=1612)の元和6年(1620)のこと。
いろいろなことが全く史実に反しています。きっと、天正10~11年にかけて龍山が滞在した折のことが、その他の諸々と混同して伝えられてきたのではないかと推察します。

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近衛龍山が滞在していた亭の跡地だという、松永蝸堂の句碑(中央)

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龍禅寺の梵鐘
文化11年(1814)の鋳造。第2次大戦時に供出されましたが、戦後、無事に還元されたそうです。

天正11年(1583)6月2日、龍山はここ龍禅寺で織田信長の一周忌追善供養を執り行い、南無阿弥陀仏[な・む・あ・み・だ(た)・ぶ(ふ)]の六字名号を冠した追善の歌を詠んだと云います。
彼は5年後の天正16年(1588)、京の報恩寺に奉納された織田信長肖像画の賛にも、同様の歌を詠んでいます。

徳川家康の取り成しもあって天正11年9月、龍山はおよそ10か月ぶりの帰京を果たしました。


※参考図書
「流浪の戦国貴族 近衛前久」谷口研語(中公新書)

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2022年8月 9日 (火)

旧東海道、御油宿~藤川宿

2022年8月6~7日は、愛知県岡崎市方面への旅。
まず初日は新幹線を豊橋駅で降り、名鉄線に乗り換えて御油駅へ。
御油宿をスタート地点とし、旧東海道を藤川宿まで歩きます。

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御油宿、江戸方の入り口となる音羽川と御油橋。

四月十八日、吉田川乗りこさせられ、五位にて御茶屋美々しく立て置かれ、面入口に結構に橋を懸けさせ、御風呂新しく立てられ、珍物を調へ、一献進上。大形ならぬ御馳走なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は、4月18日、吉田城下を出発し、その日は知立(池鯉鮒)まで進んでいます。
その道中、御油(五位)に差し掛かると御茶屋が美しく建てられており、表()の入口には結構な橋が架けられ、お風呂も新しく用意されて盛大なもてなしを受けています。
信長一行のために表の入口に架けられた結構な橋・・・きっと、旧東海道が通るこの御油橋辺りに架けられていたのではないでしょうか。

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御油橋を渡り、旧東海道歩きをスタートします。

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東林寺

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東林寺には、飯盛女のお墓が建ちます。
ある晩、飯盛女4人が示し合わせて旅籠を抜け出し、世を儚んで入水自殺してしまいました。
これを哀れんだ旅籠の主人や東林寺の住職らが供養のため、これらのお墓を建てたのだと云います。
なお墓石は5基ありますが、残りの1基については詳細を把握できておりません。

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御油宿は江戸から35番目の宿場で、次の赤坂宿とは僅かに1.7㎞ほどしか離れておらず、東海道の宿駅間では最も短かくなっていました。
飯盛女のエピソードが示す通り、御油と赤坂は歓楽的な宿場としても知られていたようです。

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御油宿を抜けると、国の天然記念物にも指定される御油の松並木が続きます。
これは見事。

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松並木を抜けると、そこはもう赤坂宿。
写真のすぐ先、路面の色が少し変わっている辺りが東見附跡になります。
しかし、東見附は寛政8年(1796)、更に先へ150mほど進んだ・・・

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こちらの関川神社の前に移されたそうです。

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大橋屋(旧旅籠鯉屋)
文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられており、江戸時代には鯉屋を屋号とする旅籠が営まれました。
その後、所有者の変更もあって屋号を大橋屋と変え、なんと平成27年まで旅館として営業されていました。

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鯉屋に再現された、歌川広重の東海道五十三次「赤阪 旅舎招婦ノ図」に描かれた蘇鉄と石燈籠。

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地面には、失われた建物部分の間取りが平面展示されています。

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なお、近くの浄泉寺境内に、広重が描いた蘇鉄と伝わるものが移植されています。
明治20年頃、道路の拡張工事に伴って移されたそうです。

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大橋屋を辞し、しばらく進むと景色が一変してきました。
写真は岩略寺城跡辺りを写しています。

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正面の標識が示す通り、豊川市の長沢町という地名になるのですが・・・

本坂、長沢、皆道、山中にて、惣別石高なり。今度金棒を持ちて岩をつき砕かせ、石を取り退け、平らに申し付けられ、
(同)

この辺りの街道は「山中」で石や岩がゴロゴロしていたものを、信長一行の通行のために金棒でそれらを打ち砕き、取り除いて平らに整備させたと云います。
実際に東海道を歩いてみると、確かに山深い景観ではあるものの、通行する場所は山間といった風情です。

信長の凱旋旅を追って静岡県の丸子城周辺を訪れた際も;

山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(同)

という信長公記の表現に惑わされましたが、太田牛一(或いは当時の人々)は「山の中」でなくとも、山間のことも「山中」と表現していたのかもしれません。
コチラの記事、4月14日の項参照。

或いは近世以前、中世の主要道でもある鎌倉街道は、上の写真に写る山の中腹を通っていたとのこと。
・・・織田信長らが通行したのは、果たしていずれの道であったのか?

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こういう風情のある旧街道歩きは、本当に飽きることがないのですが・・・

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「関屋」という信号の少し先で、国道1号に合流しました。
ここから暫くは、退屈な国道歩きが続きます。

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岡崎市域に入ったところで本宿に到着です。

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赤坂宿と藤川宿の中間に位置する本宿村は、徳川家康手習いの寺としても知られる法蔵寺の門前を中心に発展しました。

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法蔵寺
個人的には、9年ぶりの再訪となりました。

爰に山中の宝蔵寺、御茶屋、面に結構に構へて、寺僧、喝食、老若罷り出で、御礼申さるる。
(同)

ここでいう「山中」は、本宿が所在する山中郷を指しています。
門前のこの辺りに、信長のための御茶屋が築かれたのでしょうか。

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再び国道1号に合流する手前にも、松並木がありました。

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既に結構な疲労を感じていましたが、信長たちが向かった池鯉鮒(知立)は、国道1号でまだ25㎞も先。
しかも彼らの出発地は吉田で、私の御油よりも遠い・・・昔の人は凄かった(笑)

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また旧道が復活するポイント。

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名鉄の線路沿いを進みます。

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結構アップダウンのある行程を道なりに進み、国道1号への合流地点手前で再び松並木。

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山中八幡宮
なかなか興味深い歴史もありそうでしたが、どれくらい登るのかわからず、体力の残量も少なかったので参拝は断念。

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道の駅藤川宿まで1㎞の看板があるポイントで、国道を左へ逸れます。
すぐ先で・・・

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歌川広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」に描かれた藤川宿東棒鼻(見附)に到着です。

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こちらが広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」

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藤川宿の町並み。

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宿場内も結構距離がありました。

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藤川宿脇本陣跡に建つ藤川宿資料館。
門は脇本陣の現存だそうです。

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藤川宿、西の棒鼻。
このすぐ近くに駅がありますので、今回の歩き旅はここまでといたします。

心配した暑さもこの日だけは若干和らぎ、絶好のコンディションに恵まれて完歩することができ、大満足です。

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2022年7月16日 (土)

狩宿の下馬桜と井出家の高麗門・長屋

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静岡県富士宮市狩宿の下馬桜と、奥には長屋を備えた井出家の高麗門

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建久4年(1193)の富士の巻狩の際、井出家の屋敷を宿所とした源頼朝が馬を下りた場所との伝承から「下馬桜」、或いは「駒止めの桜」とも呼ばれています。
樹齢800年を超える山桜です。

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井出家の前庭には、当地を訪れて下馬桜を句に認めた高浜虚子(中央)らの句碑も。

明治期には徳川慶喜も訪れており、
あはれその 駒のミならす 見る人の こころをつなく やまさくらかな
と詠み、書に認めたものが井出家に残っているそうです。

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両脇に長屋を備えた井出家の高麗門。
幾度かの焼失を経ており、現存するものは嘉永元年(1848)の建立になるそうです。

なお、安永5年(1776)の火災に遭うまで、屋敷は現在地の北東に隣接する区画(元屋敷/写真手前の右手側)に建っていたそうです。
その一角には・・・

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頼朝の宿所の周囲を幔幕で囲う際に利用されたと云う、「幕張の欅」が1本だけ残っています。

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高麗門・長屋は、周囲を一周して見学できます。

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高麗門に並ぶ長屋の内、南側のものは農機具などを収める納屋や、、、

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馬小屋になっていました。
高麗門を挟んだ北側は、作業小屋として使われていたそうです。

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高麗門

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富士の巻狩の様子。

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その舞台・・・残念ながらこの日は、富士山は殆ど雲に隠れてしまいました。

ところで、富士の巻狩から400年近く後の天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途にある織田信長もこの地域を通過し、土地の者から富士の巻狩に関する旧跡について説明を受けています。
その様子は太田牛一が記した「信長公記」に詳しいのですが、その中で牛一は、頼朝の館が築かれた場所について;

昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。

と記しています。
確かに狩宿は上井出(かみ井手)のすぐ南に隣接する地域で、「狩りの宿」と、なんとも示唆的な地名でもあります。
しかし、地形的には牛一が記すような「丸山」には見えませんし、白糸の滝の東にもあたりません。

曽我兄弟の敵討ちでは殺害された工藤祐経ばかりでなく、頼朝自身も襲撃を受けたと云います。
狩宿の井出家では工藤祐経のお墓や、曽我の隠れ岩などからも少々距離が離れ過ぎているきらいがあります。

富士の巻狩はおよそ1ヶ月にも及んでいますので、その間には頼朝が井出家に滞在したこもあったのでしょう。
しかし、少なくとも太田牛一が書き記した場所、そして或いは狩りの本営として北条時政が用意した場所も、いろいろな条件を突き合わせると、工藤祐経のお墓のすぐ南、麓に若桜神社や光立寺がある丘の辺りを指しているのではないかと、個人的には推察します。
住所も上井出で、「信長公記」の記述と矛盾しません。

以下2022716日追記
twitterでフォロワーさんにご教示いただいたのですが、富士宮市立郷土資料館通信(2011531HP掲載分)では、宿所を狩宿の井出家、「丸山」は白糸の滝北東方向、上井出天神社の北に位置する天神山と推定されています。
いずれにしても、「丸山」と宿所とされる狩宿とは距離がありますので、広大な狩場を一望に見渡せる丸山(天神山か)には宿所とは別に、狩りの本陣のようなものが築かれていたのかもしれません。
牛一が
かりくらの屋形と記したものも或いは宿所ではなく、巻狩の本陣を指していたのではないか、とも思えてきました。

 

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2021年7月10日 (土)

九十九髪茄子を拝観

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東京、丸の内の三菱一号館美術館へ。

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当館では2021年6月31日~9月12日まで、三菱創業150周年を記念した特別展、三菱の至宝展が開催されています。
本特別展に於いて、織田信長も所持していたと云う九十九髪茄子(付藻茄子)が出展されていることを知り、いてもたってもいられずに駆けつけました。

当初、本特別展は2020年に予定されていたものの、新型コロナウィルス感染症の影響で1年間の延期となっていました。従って、私にとっても1年越しの念願となっていたのです。
初対面への期待に胸を膨らませつつ、いざ入館してみると、目的の九十九髪茄子は最初のコーナーに展示されており、いとも呆気ない念願成就となりました(笑)

戦国時代終盤、松永久秀から織田信長へ献上され、更には豊臣秀吉や徳川家康らの手を経て現在に伝えられた九十九髪茄子。本能寺の変にも遭遇し、大坂夏の陣で壊れてしまったものを拾い出され、漆で修繕されたのだとか。。。
大きさは女性の拳くらいでしたでしょうか。時の流れの重みも感じさせる美しい立ち姿でした。
※九十九髪茄子は8月9日まで、前期のみの展示となります。

さて、他にも素晴らしい展示品が目白押しでしたが、中でも目玉は曜変天目になりますでしょうか。
展示されている静嘉堂文庫美術館所蔵の本品は、徳川家から春日局、淀藩稲葉家へと伝えられたようです。
曜変天目の完品は世界中でも三碗しかなく、その全てが日本で所蔵されているのだそうです。

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館内には、こんな撮影用のプレートも。
フラッシュを焚いて撮影すると、何の変哲もない無地のプレートに曜変天目の模様が浮かび上がるというものでした。

その他で個人的に印象に残っているものといえば、やはり;
太刀 銘 高綱
ですね。
武田家追討の功により、滝川一益が織田信長より拝領したと伝わることから「滝川高綱」とも号されています。


三菱を創業した岩崎家四代による収蔵品の数々。
そのバリエーションは多岐に渡っており、とてもご紹介しきれるものではありません。
(中には、かのマリー・アントワネットが旧蔵したと云う「イエズス会士書簡集」なども)

ご興味をお持ちの方は、未だ感染症の収束を見ない昨今の状況もありますので、公式サイトで開館情報などを事前にご確認の上、訪れてみてください。

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2021年4月13日 (火)

織田信長が初めて目にした富士山(台ケ原宿、他)

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山梨県北斗市白州町白須に建つ自元寺。
付近一帯を治めていた武田家の重臣・馬場美濃守信房(信春)の開基で、菩提寺にもなっています。
写真の総門は、馬場美濃守の屋敷(梨子の木屋敷)からの移築と伝えられているようです。

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馬場美濃守信房墓所

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自元寺門前を通る旧甲州街道
今回は、この旧甲州街道を少し歩いていきます。
写真の奥、突き当りを左(東)へ折れると・・・

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台ケ原宿に入ります。

四月二日、雨降り時雨侯。兼日より仰せ出ださるゝにつきて、諏訪より大ヶ原に至りて御陣を移さる。御座所の御普請、御間叶以下、滝川左近将監に申し付け、上下数百人の御小屋懸け置き、御馳走斜ならず。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

天正10年(1582)4月2日、武田家を滅ぼした織田信長は甲府へ向けて諏訪(上諏訪)を発ち、この日はここ台ケ原に宿陣しました。

※美濃岩村城を出陣し、上諏訪へ至るルートはこちらを参照。
→信長の甲州征伐 信濃路

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一里塚跡の碑。

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信玄餅で有名な金精軒前を通過。
その斜め向かいには・・・

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北原家住宅
銘酒「七賢」で有名な酒蔵です。
寛延3年(1750)、信濃国高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地に分家し、酒造りを始めたと伝わります。
台ケ原宿の脇本陣をも務め、明治13年(1880)には明治天皇御巡幸の際の御在所にもなりました。
奥座敷と中の間境の欄干に彫られた竹林の七賢人が「七賢」の由来になっているようです。

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日本の道100選の碑

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台ケ原宿本陣跡と秋葉大権現常夜石燈籠。
古くから代々、台ケ原の名主を務めてきたのであれば、信長が泊ったのも或いはこちらだったのでしょうか・・・。
台ケ原では小田原の北条氏政から、武蔵野で捕らえた500羽余りもの雉が届けられました。

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宿場の出口付近で見かけた石碑。

四月三日、大ケ原御立ちなされ、五町ばかり御出で侯へば、山あひより名山、是れぞと見えし富士の山、かうゝゝと雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳目を驚かし申すなり。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

翌4月3日、台ケ原を出発した織田信長一行は5町ほど進んだところで、美しい富士山の姿を仰ぎ見て感嘆の声を上げています。
この前日に通行した諏訪から台ケ原までの道中にも富士山を見られるポイントはあったかと思いますが、信長公記によると前日の天候は雨。どんよりとした雲に覆われ、富士山が姿を現すことはなかったのでしょう。

実は今回、台ケ原を訪れた一番の目的こそがこれ。信長らがおそらく初めて目にしたであろう、美しい富士山の姿を同じポイントから眺めてみたかったのです。

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台ケ原宿を出たら国道20号線を渡り、反対側に見えている細い道へ進みます。

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その細い道の入口に建つ古道入口の石碑。
どうやら、江戸時代に旧甲州街道が整備される以前から存在していた道の名残のようです。

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道端に並べられた庚申塔や馬頭観音。

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釜無川の支流、尾白川に沿って進みます。

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こうした道を散策できるよう、ちゃんと整備してくれているのがありがたいです。

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歩いてきた道を少し振り返る。
この写真の右手にある高台に、無銘の巨塔なる石碑が建っているらしいので、ちょっと寄ってみました。

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無銘の巨塔
明治14年(1881)、日蓮上人の600年遠忌に五穀豊穣と国家安泰を祈念し、見法寺(長坂町日野)に碑を建てて「南無妙法蓮華経」と刻む予定でしたが、どうしてもこの巨石を牽いて釜無川を越えることができなかったそうです。
巨石は長年放置されたままでしたが、最近になって無銘のままこの地に建てられたとのこと。

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無銘の巨塔が建つ高台から、古道を見下ろす。
右側の稜線が邪魔をし、まだアングル的に富士山は見えなさそうです
・・・それよりも、遠くの空がかなり霞み、見通しが良くありません・・・嫌な予感。

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古道に戻り、横山の道標。
説明によると、この先で花水坂を登って七里岩に上がり、日野や穴山を経由して甲府へ至る道は、後に「はらぢみち」とも呼ばれた甲州街道整備以前の主要道路だったそうです。
横山の道標は、江戸時代になって甲州街道が整備されたことにより、この地がはらぢみちと甲州街道との分岐点になったことで建てられ、馬頭観音の側面に「右かうふみち」「左りはらぢ通」と記されています。

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古道が終了し、国道20号に出た地点に建てられていた石碑。

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こちらが現在の、甲州街道(右/かうふみち)とはらぢみち(左)の分岐点。
天正10年時点では、七里岩の麓を並行して通る甲州街道はまだ整備前。はらぢみちは花水坂から日野~穴山を経由し、信長らの目指す甲府まで続いていたと云いますし、信長らは道中、新府城の焼け跡も見物しているので、はらぢみちを進み、花水坂で七里岩に上がったものと思われます。

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という訳で、私も正面に七里岩を見据え、花水坂橋で釜無川を越えます。

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花水坂橋の欄干にあった句碑。
立ちおほふ霞にあまる富士の嶺におもひをかはす山桜かな
細川幽斎から古今伝授を受けた烏丸光廣が詠みました。

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坂を少し登り、七里岩の中腹に建つ花水坂の碑。
(実際のはらぢみちは、石碑の建つ現在の台ケ原富岡線とは少しルートがズレているようなのですが、詳細はまだ調べきれておりません)

日本武尊が東征の折、富士や清流(釜無川か)の絶景にしばし足を止めて休息し、ここを「花水坂」と命名したと伝えられています。休息した場所を「休み平(やすまんていら)」といい、今でもこの一帯に地名が残っているようです。
花水坂は「山水の富士」として、甲斐国の富士見三景の一つにも数えられています。

台ケ原宿を出てからここまで、アングル的に富士山を仰ぎ見ることが出来そうなポイントはありませんでしたし、太田牛一も信長公記に「台ケ原を出発して五町ほど進んだら、美しい富士山が見えた」と書き残しています。
台ケ原宿から花水坂までの距離は1㎞強。5町は約550m弱ほどなので距離感は一致しませんが、甲斐の富士見三景にも数えられる花水坂付近こそ信長らが富士山を目にし、その姿に感嘆の声を漏らした地点だったのだろうと判断しました。

その、花水坂からの富士山の眺めこそが・・・

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こちら・・・って、やっぱり見えねーっっ!!
事前に天気予報も確認した上で訪問したのですが・・・ガッカリ。
今年(2021年)は特に暖かくなるのが早い気がしますので、その辺りも影響したのかもしれません。

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写真をアップにし、少し彩度を調整しても辛うじて山容を認識できる程度・・・。
旧暦の天正10年4月3日は、現在のグレゴリオ暦に換算すると5月5日になります。温暖化の進む令和の今、5月にかうゝゝと雪つもった富士山をこの距離で拝むことは至難の業ですよね・・・。
信長たちと時期を合わせて富士山を拝みたかったのですが・・・次は季節を選んで再度チャレンジしてみたいと思います。

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この後は、台ケ原の金精軒本店が定休日だったので韮崎店まで足を運び・・・

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更には甲府の山梨県立博物館で、特別展「生誕500年 武田信玄の生涯」を拝観してから帰路に就きました。

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2020年12月10日 (木)

池田近道(姫街道)

今回は古道・旧街道歩きで静岡県西部、遠江への旅です。
まずはJR磐田駅で下車し、旧東海道をしばらく北上し・・・

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西光寺へ。
西光寺の表門は、徳川家康によって築かれた中泉御殿(天正~寛文期)の表門を移築したものと伝えられています。

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東福山西光寺
文永2年(1265)に真言宗の寺院として創建され、建治・弘安年間に一遍上人がこの地を訪れたことで時宗に改宗した歴史を持つ古刹です。
近年は縁結び・恋愛成就のパワースポットとしても人気なのだとか・・・(;^_^A

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本堂に祀られている日限地蔵尊(厨子の中)は、後水尾天皇の后・東福門院和子(徳川秀忠息女)の念持仏。
元和6年(1620)、入内のため江戸から京へと向かう途次、西光寺で休息した際に寄進されました。
山号の「東福山」も和子后に由来します。

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旧東海道、見付宿の西木戸付近。
江戸時代に整備された旧東海道はここで左に折れ、前出の中泉御殿のあった南の方へと向かい、天竜川の渡し場である池田までは大きく迂回する行程となりますが、旧東海道の整備以前は直進方向、池田へ直接向かう道がメインルートだったようです。

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旧東海道との分岐点に「これより姫街道」の案内(道標)が建っていますが、地元では「池田近道」とも呼ばれてきたようです。
南へ迂回する東海道に対して、直接池田へ向かう近道・・・確かに(笑)

天正10年(1582)4月、甲州征伐から安土への凱旋の途についた織田信長
そのルートは「信長公記」の記述を追う限り、現在の静岡県富士市辺りから先はほぼ旧東海道に沿って進んでいます。
そして4月16日、掛川を発った信長一行は見付を経由し、池田から天竜川を渡河しました。
この時はまだ、見付から南へ大きく迂回する旧東海道は整備されていませんので、信長一行が池田までの行程に利用したのも「池田近道」だったのではないかと思い、実際に歩いてみることにしました。

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池田近道の概略図
現在では大部分が消失(水色線)しているようなので、消失箇所は何となく方角を調整しながら通れる道を歩いてみます。

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池田近道に入ってすぐ、常夜灯の建つ二股。
ここは右へ進んで坂を上ります。

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坂を上った先から見付宿を見下ろす。
結構、急勾配な坂でした。

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右にかぶと塚公園を見ながら。
この先は行き止まりになりますので、一旦、県道413号線に出ます。

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磐田市一言の立体歩道橋のすぐ先で右斜め方向へ。

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ここは左の坂を下ります。
この坂こそ・・・

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有名な一言坂
元亀3年(1572)の三方原の戦いの前哨戦ともいえる、一言坂の戦いのあった場所です。
写真の碑は県道413号線沿いに建てられていますが、徳川×武田の両軍も通ったであろう池田近道は、奥に見える雑木林の方を通っています。

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本多平八郎忠勝が徳川軍の殿を務めて見事な武勇を発揮し、敵方の武田軍から;
家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八
と讃えられたのも、一言坂での戦いのことでした。

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池田近道沿いにも「一言坂戦跡」の案内板が建っています。

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坂を下ると、道路脇に池田近道の案内板がありました。
下ってきた車道を折り返すようにして、この未舗装の道に入っていくようです。

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一言坂の段丘の縁を添うようにして進みます。

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その段丘を見上げる。

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古道はこの先で消失しているようなので、ここは左へ折れ、豊田野球場の南側を西へ進みます。

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一つ目の交差点は斜め北西方向へ。

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更に、寺谷用水を跨ぐ交差点も斜め北西方向へ。

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智恩斎
山門は、すぐ南にあった皆川陣屋からの移築と伝わります。
そして、山門脇の小屋の中に・・・

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一言観音が祀られています。
一生に一度、一言だけ願いを叶えてくれるという観音様。
一言坂から敗走する徳川家康も、一言だけ願っていったと云います・・・「無事に逃げ切らせて!」とでも願ったのでしょうか?(;^_^A

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智恩斎から先も、池田近道は消失しています。
実際の古道は写真の右斜め前方へ伸びていたようなので、方向を調整しながら農道を歩きました。

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人っ子ひとりいない長閑な道をのんびりと・・・。

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森岡ICの下を潜って一つ目の交差点を左折すると、すぐにまた池田近道の案内があります。

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高い生垣は遠州のからっ風除けでしょうか。

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豊田上新屋ポケットパーク(左)の先で、池田近道はまた消失しています。
ここもやはり方角を調整しながら、写真の右斜め方向へ向かいます。

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豊田西保育園に行き当たった所で右折し、ずっと北上していくと・・・

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門前市通りに出ます。
ここを左折すると、いよいよ池田の渡しになるのですが、その前に・・・

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行興寺に立ち寄り。
平宗盛の寵愛を受けた熊野(ゆや)御前が母の菩提を弔うため、この地に庵を結んだのが始まりとされています。
池田に生まれた熊野御前は、遠江の国司だった平宗盛に見初められて上京しましたが、故郷の母の病を知ると、
いかにせん 都の春も 惜しけれど なれしあずまの 花やちるらん
と詠み、母を想う心に打たれた宗盛の許しを得て池田に戻りました。

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境内には熊野御前が生前に愛したと云う藤棚(熊野の長藤)が、本堂を取り囲むようにして広がっていました。

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こちらは国の天然記念物にも指定されている1本で、推定樹齢は850年とのこと。

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本堂横には熊野と母を供養する墓所もありました。

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さて、それでは池田の渡しへ向かいます。

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行興寺門前から門前市通りを西へ向かった突き当りが、池田の渡し跡になります。
水量などによって使い分けていた上・中・下3ヶ所の渡し場のうち、こちらは上の渡し跡。
(中の渡しは天白神社付近、下の渡しは「天龍川渡船場跡」の碑が建っている辺りにありました)

写真左手は池田の渡し歴史風景館。
渡し場の様子を伝える簡単な展示がありました。

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「池田橋の跡」碑。
明治に入ってから、ここには橋が架けられていたそうです。

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池田の渡し(上の渡し)から眺める天竜川。
織田信長も徳川家康が架けさせた舟橋で、ここを渡っていったのですね。

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私は新天竜川橋で渡河。
遠くに見える赤い橋の少し手前辺りが、先ほどまでいた上の渡しになります。

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天竜川を越えた後は、信長一行と同じように旧東海道を浜松宿まで歩きました。
※このルートは以前にも歩きましたので、詳細は省きます。

2020120540
松林禅寺の薬師堂。
徳川家光が命じて建立させたと伝わります。
2度の火災にも焼失を免れたのだそうです。

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本坂通(姫街道)安間起点。
東海道と姫街道の追分です。付近には江戸から64里目の安間一里塚もありました。

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遠くにアクトシティー浜松が見えてきました。
終盤は国道152号線沿いを歩くことになり、退屈な区間が疲労に追い打ちをかけました・・・(;^_^A

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そしてようやくのゴール地点、馬込橋手前、浜松宿東木戸門跡に到着。
午前11時に磐田駅を出発してから、およそ4時間の行程でした。

なお、早朝に掛川を出発した織田信長一行も天竜川を越え、その日は浜松に宿泊しています。
私も浜松に宿を取り、翌日は袋井から東へ旧東海道を歩くことにします。

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