カテゴリー「織田信長・信長公記」の175件の記事

2021年4月13日 (火)

織田信長が初めて目にした富士山(台ケ原宿、他)

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山梨県北斗市白州町白須に建つ自元寺。
付近一帯を治めていた武田家の重臣・馬場美濃守信房(信春)の開基で、菩提寺にもなっています。
写真の総門は、馬場美濃守の屋敷(梨子の木屋敷)からの移築と伝えられているようです。

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馬場美濃守信房墓所

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自元寺門前を通る旧甲州街道
今回は、この旧甲州街道を少し歩いていきます。
写真の奥、突き当りを左(東)へ折れると・・・

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台ケ原宿に入ります。

四月二日、雨降り時雨侯。兼日より仰せ出ださるゝにつきて、諏訪より大ヶ原に至りて御陣を移さる。御座所の御普請、御間叶以下、滝川左近将監に申し付け、上下数百人の御小屋懸け置き、御馳走斜ならず。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

天正10年(1582)4月2日、武田家を滅ぼした織田信長は甲府へ向けて諏訪(上諏訪)を発ち、この日はここ台ケ原に宿陣しました。

※美濃岩村城を出陣し、上諏訪へ至るルートはこちらを参照。
→信長の甲州征伐 信濃路

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一里塚跡の碑。

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信玄餅で有名な金精軒前を通過。
その斜め向かいには・・・

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北原家住宅
銘酒「七賢」で有名な酒蔵です。
寛延3年(1750)、信濃国高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地に分家し、酒造りを始めたと伝わります。
台ケ原宿の脇本陣をも務め、明治13年(1880)には明治天皇御巡幸の際の御在所にもなりました。
奥座敷と中の間境の欄干に彫られた竹林の七賢人が「七賢」の由来になっているようです。

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日本の道100選の碑

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台ケ原宿本陣跡と秋葉大権現常夜石燈籠。
古くから代々、台ケ原の名主を務めてきたのであれば、信長が泊ったのも或いはこちらだったのでしょうか・・・。
台ケ原では小田原の北条氏政から、武蔵野で捕らえた500羽余りもの雉が届けられました。

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宿場の出口付近で見かけた石碑。

四月三日、大ケ原御立ちなされ、五町ばかり御出で侯へば、山あひより名山、是れぞと見えし富士の山、かうゝゝと雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳目を驚かし申すなり。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

翌4月3日、台ケ原を出発した織田信長一行は5町ほど進んだところで、美しい富士山の姿を仰ぎ見て感嘆の声を上げています。
この前日に通行した諏訪から台ケ原までの道中にも富士山を見られるポイントはあったかと思いますが、信長公記によると前日の天候は雨。どんよりとした雲に覆われ、富士山が姿を現すことはなかったのでしょう。

実は今回、台ケ原を訪れた一番の目的こそがこれ。信長らがおそらく初めて目にしたであろう、美しい富士山の姿を同じポイントから眺めてみたかったのです。

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台ケ原宿を出たら国道20号線を渡り、反対側に見えている細い道へ進みます。

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その細い道の入口に建つ古道入口の石碑。
どうやら、江戸時代に旧甲州街道が整備される以前から存在していた道の名残のようです。

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道端に並べられた庚申塔や馬頭観音。

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釜無川の支流、尾白川に沿って進みます。

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こうした道を散策できるよう、ちゃんと整備してくれているのがありがたいです。

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歩いてきた道を少し振り返る。
この写真の右手にある高台に、無銘の巨塔なる石碑が建っているらしいので、ちょっと寄ってみました。

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無銘の巨塔
明治14年(1881)、日蓮上人の600年遠忌に五穀豊穣と国家安泰を祈念し、見法寺(長坂町日野)に碑を建てて「南無妙法蓮華経」と刻む予定でしたが、どうしてもこの巨石を牽いて釜無川を越えることができなかったそうです。
巨石は長年放置されたままでしたが、最近になって無銘のままこの地に建てられたとのこと。

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無銘の巨塔が建つ高台から、古道を見下ろす。
右側の稜線が邪魔をし、まだアングル的に富士山は見えなさそうです
・・・それよりも、遠くの空がかなり霞み、見通しが良くありません・・・嫌な予感。

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古道に戻り、横山の道標。
説明によると、この先で花水坂を登って七里岩に上がり、日野や穴山を経由して甲府へ至る道は、後に「はらぢみち」とも呼ばれた甲州街道整備以前の主要道路だったそうです。
横山の道標は、江戸時代になって甲州街道が整備されたことにより、この地がはらぢみちと甲州街道との分岐点になったことで建てられ、馬頭観音の側面に「右かうふみち」「左りはらぢ通」と記されています。

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古道が終了し、国道20号に出た地点に建てられていた石碑。

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こちらが現在の、甲州街道(右/かうふみち)とはらぢみち(左)の分岐点。
天正10年時点では、七里岩の麓を並行して通る甲州街道はまだ整備前。はらぢみちは花水坂から日野~穴山を経由し、信長らの目指す甲府まで続いていたと云いますし、信長らは道中、新府城の焼け跡も見物しているので、はらぢみちを進み、花水坂で七里岩に上がったものと思われます。

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という訳で、私も正面に七里岩を見据え、花水坂橋で釜無川を越えます。

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花水坂橋の欄干にあった句碑。
立ちおほふ霞にあまる富士の嶺におもひをかはす山桜かな
細川幽斎から古今伝授を受けた烏丸光廣が詠みました。

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坂を少し登り、七里岩の中腹に建つ花水坂の碑。
(実際のはらぢみちは、石碑の建つ現在の台ケ原富岡線とは少しルートがズレているようなのですが、詳細はまだ調べきれておりません)

日本武尊が東征の折、富士や清流(釜無川か)の絶景にしばし足を止めて休息し、ここを「花水坂」と命名したと伝えられています。休息した場所を「休み平(やすまんていら)」といい、今でもこの一帯に地名が残っているようです。
花水坂は「山水の富士」として、甲斐国の富士見三景の一つにも数えられています。

台ケ原宿を出てからここまで、アングル的に富士山を仰ぎ見ることが出来そうなポイントはありませんでしたし、太田牛一も信長公記に「台ケ原を出発して五町ほど進んだら、美しい富士山が見えた」と書き残しています。
台ケ原宿から花水坂までの距離は1㎞強。5町は約550m弱ほどなので距離感は一致しませんが、甲斐の富士見三景にも数えられる花水坂付近こそ信長らが富士山を目にし、その姿に感嘆の声を漏らした地点だったのだろうと判断しました。

その、花水坂からの富士山の眺めこそが・・・

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こちら・・・って、やっぱり見えねーっっ!!
事前に天気予報も確認した上で訪問したのですが・・・ガッカリ。
今年(2021年)は特に暖かくなるのが早い気がしますので、その辺りも影響したのかもしれません。

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写真をアップにし、少し彩度を調整しても辛うじて山容を認識できる程度・・・。
旧暦の天正10年4月3日は、現在のグレゴリオ暦に換算すると5月5日になります。温暖化の進む令和の今、5月にかうゝゝと雪つもった富士山をこの距離で拝むことは至難の業ですよね・・・。
信長たちと時期を合わせて富士山を拝みたかったのですが・・・次は季節を選んで再度チャレンジしてみたいと思います。

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この後は、台ケ原の金精軒本店が定休日だったので韮崎店まで足を運び・・・

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更には甲府の山梨県立博物館で、特別展「生誕500年 武田信玄の生涯」を拝観してから帰路に就きました。

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2020年12月10日 (木)

池田近道(姫街道)

今回は古道・旧街道歩きで静岡県西部、遠江への旅です。
まずはJR磐田駅で下車し、旧東海道をしばらく北上し・・・

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西光寺へ。
西光寺の表門は、徳川家康によって築かれた中泉御殿(天正~寛文期)の表門を移築したものと伝えられています。

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東福山西光寺
文永2年(1265)に真言宗の寺院として創建され、建治・弘安年間に一遍上人がこの地を訪れたことで時宗に改宗した歴史を持つ古刹です。
近年は縁結び・恋愛成就のパワースポットとしても人気なのだとか・・・(;^_^A

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本堂に祀られている日限地蔵尊(厨子の中)は、後水尾天皇の后・東福門院和子(徳川秀忠息女)の念持仏。
元和6年(1620)、入内のため江戸から京へと向かう途次、西光寺で休息した際に寄進されました。
山号の「東福山」も和子后に由来します。

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旧東海道、見付宿の西木戸付近。
江戸時代に整備された旧東海道はここで左に折れ、前出の中泉御殿のあった南の方へと向かい、天竜川の渡し場である池田までは大きく迂回する行程となりますが、旧東海道の整備以前は直進方向、池田へ直接向かう道がメインルートだったようです。

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旧東海道との分岐点に「これより姫街道」の案内(道標)が建っていますが、地元では「池田近道」とも呼ばれてきたようです。
南へ迂回する東海道に対して、直接池田へ向かう近道・・・確かに(笑)

天正10年(1582)4月、甲州征伐から安土への凱旋の途についた織田信長
そのルートは「信長公記」の記述を追う限り、現在の静岡県富士市辺りから先はほぼ旧東海道に沿って進んでいます。
そして4月16日、掛川を発った信長一行は見付を経由し、池田から天竜川を渡河しました。
この時はまだ、見付から南へ大きく迂回する旧東海道は整備されていませんので、信長一行が池田までの行程に利用したのも「池田近道」だったのではないかと思い、実際に歩いてみることにしました。

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池田近道の概略図
現在では大部分が消失(水色線)しているようなので、消失箇所は何となく方角を調整しながら通れる道を歩いてみます。

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池田近道に入ってすぐ、常夜灯の建つ二股。
ここは右へ進んで坂を上ります。

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坂を上った先から見付宿を見下ろす。
結構、急勾配な坂でした。

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右にかぶと塚公園を見ながら。
この先は行き止まりになりますので、一旦、県道413号線に出ます。

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磐田市一言の立体歩道橋のすぐ先で右斜め方向へ。

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ここは左の坂を下ります。
この坂こそ・・・

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有名な一言坂
元亀3年(1572)の三方原の戦いの前哨戦ともいえる、一言坂の戦いのあった場所です。
写真の碑は県道413号線沿いに建てられていますが、徳川×武田の両軍も通ったであろう池田近道は、奥に見える雑木林の方を通っています。

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本多平八郎忠勝が徳川軍の殿を務めて見事な武勇を発揮し、敵方の武田軍から;
家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八
と讃えられたのも、一言坂での戦いのことでした。

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池田近道沿いにも「一言坂戦跡」の案内板が建っています。

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坂を下ると、道路脇に池田近道の案内板がありました。
下ってきた車道を折り返すようにして、この未舗装の道に入っていくようです。

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一言坂の段丘の縁を添うようにして進みます。

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その段丘を見上げる。

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古道はこの先で消失しているようなので、ここは左へ折れ、豊田野球場の南側を西へ進みます。

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一つ目の交差点は斜め北西方向へ。

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更に、寺谷用水を跨ぐ交差点も斜め北西方向へ。

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智恩斎
山門は、すぐ南にあった皆川陣屋からの移築と伝わります。
そして、山門脇の小屋の中に・・・

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一言観音が祀られています。
一生に一度、一言だけ願いを叶えてくれるという観音様。
一言坂から敗走する徳川家康も、一言だけ願っていったと云います・・・「無事に逃げ切らせて!」とでも願ったのでしょうか?(;^_^A

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智恩斎から先も、池田近道は消失しています。
実際の古道は写真の右斜め前方へ伸びていたようなので、方向を調整しながら農道を歩きました。

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人っ子ひとりいない長閑な道をのんびりと・・・。

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森岡ICの下を潜って一つ目の交差点を左折すると、すぐにまた池田近道の案内があります。

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高い生垣は遠州のからっ風除けでしょうか。

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豊田上新屋ポケットパーク(左)の先で、池田近道はまた消失しています。
ここもやはり方角を調整しながら、写真の右斜め方向へ向かいます。

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豊田西保育園に行き当たった所で右折し、ずっと北上していくと・・・

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門前市通りに出ます。
ここを左折すると、いよいよ池田の渡しになるのですが、その前に・・・

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行興寺に立ち寄り。
平宗盛の寵愛を受けた熊野(ゆや)御前が母の菩提を弔うため、この地に庵を結んだのが始まりとされています。
池田に生まれた熊野御前は、遠江の国司だった平宗盛に見初められて上京しましたが、故郷の母の病を知ると、
いかにせん 都の春も 惜しけれど なれしあずまの 花やちるらん
と詠み、母を想う心に打たれた宗盛の許しを得て池田に戻りました。

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境内には熊野御前が生前に愛したと云う藤棚(熊野の長藤)が、本堂を取り囲むようにして広がっていました。

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こちらは国の天然記念物にも指定されている1本で、推定樹齢は850年とのこと。

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本堂横には熊野と母を供養する墓所もありました。

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さて、それでは池田の渡しへ向かいます。

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行興寺門前から門前市通りを西へ向かった突き当りが、池田の渡し跡になります。
水量などによって使い分けていた上・中・下3ヶ所の渡し場のうち、こちらは上の渡し跡。
(中の渡しは天白神社付近、下の渡しは「天龍川渡船場跡」の碑が建っている辺りにありました)

写真左手は池田の渡し歴史風景館。
渡し場の様子を伝える簡単な展示がありました。

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「池田橋の跡」碑。
明治に入ってから、ここには橋が架けられていたそうです。

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池田の渡し(上の渡し)から眺める天竜川。
織田信長も徳川家康が架けさせた舟橋で、ここを渡っていったのですね。

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私は新天竜川橋で渡河。
遠くに見える赤い橋の少し手前辺りが、先ほどまでいた上の渡しになります。

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天竜川を越えた後は、信長一行と同じように旧東海道を浜松宿まで歩きました。
※このルートは以前にも歩きましたので、詳細は省きます。

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松林禅寺の薬師堂。
徳川家光が命じて建立させたと伝わります。
2度の火災にも焼失を免れたのだそうです。

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本坂通(姫街道)安間起点。
東海道と姫街道の追分です。付近には江戸から64里目の安間一里塚もありました。

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遠くにアクトシティー浜松が見えてきました。
終盤は国道152号線沿いを歩くことになり、退屈な区間が疲労に追い打ちをかけました・・・(;^_^A

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そしてようやくのゴール地点、馬込橋手前、浜松宿東木戸門跡に到着。
午前11時に磐田駅を出発してから、およそ4時間の行程でした。

なお、早朝に掛川を出発した織田信長一行も天竜川を越え、その日は浜松に宿泊しています。
私も浜松に宿を取り、翌日は袋井から東へ旧東海道を歩くことにします。

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2020年11月11日 (水)

当目の虚空蔵菩薩

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焼津市浜当目の虚空蔵山。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

花沢城の記事織田信長が田中城近くから花沢城を眺めていたことをご紹介しましたが、「信長公記」にはとう目(当目)の虚空蔵についても言及されています。

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虚空蔵菩薩は聖徳太子作とも伝わる日本三大虚空蔵菩薩尊の一つ。
現在は麓の功徳院に安置されているようですが、元々は虚空蔵山々頂の香集寺(現在は無住)に祀られていました。

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虚空蔵山の登り口ともなる、香集寺参道。

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参道から眺める当目砦方向。
武田軍が築き、徳川家康によって攻略されたと伝えられます。

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想像以上に急勾配な参道が20分ほども続き、さすがに息が上がります。

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ようやく最後の階段前まで到着。
この辺りには市の文化財にも指定されていた仁王門が建っていたようですが、老朽化が著しく、倒壊の恐れもあることから2017年頃に撤去されたようです。
今では礎石が、その痕跡を残すのみとなっています。

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ようやく香集寺に到着。
ご本尊はいなくとも、しっかりとお参りさせていただきました。

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市指定文化財の石燈籠。
「寛永二年五月十三日」の刻銘を有する、焼津市内最古の燈籠だそうです。

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香集寺跡の碑。
こちらにも、お寺に関する建物が存在していたのでしょう。

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虚空蔵山からの眺め。
本来であれば富士山も見えるらしいのですが、生い茂る樹木に遮られて叶いませんでした。

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織田信長の甲州征伐凱旋旅を追いかけ始めた時から、ずっと気になっていたとう目の虚空蔵
期せずして訪問の機会を得られて良かったと思います。

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2020年11月10日 (火)

花沢城、花沢の里

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花沢の里観光駐車場からの花沢城(静岡県焼津市)遠景。

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花沢城は駿府の西の守りとして、今川氏によって築城されたものと考えられています。

永禄11年(1568)の暮れから駿河侵攻を開始した武田信玄は、永禄13年(1570)の正月、抵抗を続けていた花沢城へ攻め寄せます。
花沢城を守備する今川家臣・大原肥前守資良(小原鎮実)以下の城兵は懸命に戦いますが、14日間に及ぶ籠城の末に降伏開城しました。
永禄13年の時点で既に主君の今川氏真は駿府を追われ、逃げ込んだ先の掛川城も徳川軍によって包囲されて開城し、小田原の北条氏の元に身を寄せています。
大原らは主君が去った後も城を離れず、駿河を占拠した武田家に抗い続けていたのですね。

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花沢城縄張図
花沢の里観光駐車場から車道伝いに進み、A地点を目指します。
※五の曲輪を示す線に違和感を覚えるので、実際に歩いてみた感触として赤線を加えてみました。

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A地点の遊歩道入口。
ここから一の曲輪(本丸)まで、10分ほどの登山になります。

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途中で見かけた気になる岩。
しかし、城の遺構ではなさそうです。

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城域に近づいてきました。
ここまでの道のりの鬱蒼とした雰囲気とは変わり、下草が刈られてとても見易くなっていました。

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一の曲輪(本丸)

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一の曲輪に建つ城址碑

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一の曲輪からの眺め(南西方向)
辺りには田中城があります。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

天正10年(1582)4月、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は同月14日、江尻城を発って田中城へと至る道中、田中城近くからこの花沢城を眺めています。(関連記事
従ってこの眺めは、天正10年4月14日の信長視点の正反対からの光景、ということになりますね。

なお、「信長公記」著者の太田牛一は武田信玄が花沢城攻めに随分と手こずり、然も負けたかのような書き方をしていますが、或いはこれは案内役の徳川家の人間が、武田家に対する信長の感情に忖度してこのような説明をしたため、と考えますがいかがでしょうか。

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三の曲輪

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一の曲輪(手前)とニの曲輪(奥)を隔てる堀切。
花沢城跡で一番の見所でしょう。

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白い土嚢を積んだ箇所は、2~3年前に行われた発掘調査の痕跡のようです。

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ニの曲輪サイドから見下ろす堀切。

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二の曲輪

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五の曲輪

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五の曲輪は緩やかにカーブしつつ、結構先まで細長く続いているようでした。
そのまま曲輪の先を下っていくと・・・

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六の曲輪に出ます。
このままB地点まで下って、花沢城攻めは終了とします。

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折角なので、花沢の里も散策させていただきます。

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花沢の里は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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日本坂峠へと続く古代の官道(古代東海道)と考えられる旧街道が、集落を通り抜けていきます。

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沢の水もとても綺麗でした。

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集落の最北端に位置する法華寺。
武田軍による花沢城攻めの際には法華寺も兵火に遭い、伽藍を焼失しているそうです。
折角なので是非とも参拝したいところでしたが・・・新型コロナウィルス感染症の影響で、残念ながら現在は拝観停止になっていました。

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花沢の里で企画展「寺社からたどる戦国の焼津」のチラシを見かけ、武田軍による花沢城攻めの様子を描いた陣形図も展示されていることを知ったので、歴史民俗資料館にもお邪魔させていただきました。
今川氏や武田氏関連の文書類などの他、小川城の発掘調査記録や出土遺物展示が目を引きました。
珍しそうなところでは、文明の内訌の際に本中根(焼津市)に陣を張った太田道灌の愛馬の轡と伝わる品(個人蔵)なども展示されています。
また、学芸員の方には焼津市内の遺跡分布状況と、諸河川の流域や地形の変遷との関係性、古代の街道などについても教えていただきました。

この後は浜当目の虚空蔵山へ向かいます。

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2020年10月24日 (土)

特別展「桃山―天下人の100年」拝観

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今回はトーハクの平成館へ。

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2020年10月6日~11月29日まで開催されている特別展「桃山―天下人の100年」を拝観させていただきました。

屏風絵や茶器、甲冑、刀剣、文書類、etc...
あらゆるものが国宝・重文のオンパレードで、「さすがはトーハク」といった規模の充実した展示内容。
「なるべく90分以内でご観覧ください」との掲示を見かけましたが、一つ一つの展示品拝観にあまり時間をかける方でもない私ですら、気がつけば1時間を優に超えていましたので、なかなかハードルが高いかも(笑)…それほどの展示ボリュームです。

なお感染症対策のため、入館は30分刻みで人数制限されており、web等での事前予約(購入)が必要となります。
前後期など期間内に展示替えもありますので、ご興味をお持ちの方は公式サイトでご確認の上、お出かけになってみてください。

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個人的には山形の致道博物館が所蔵する;
太刀 銘 真光(梨地糸巻太刀)
を拝観できたことも嬉しかったです。
そう、天正10年(1582)の甲州征伐からの凱旋の折、酒井忠次が織田信長から拝領したと伝えられる一振です。
迷わず絵葉書もゲット♪

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2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

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東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

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2020年1月18日 (土)

岐阜城の石垣発掘現場

岐阜城の天守台北西隅や二ノ門下から出土した石垣が、2020年1月14~18日の間だけ一般に公開されると聞き、矢も楯もたまらずに東京から日帰りで駆け付けてしまいました。

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在来線や路線バスへの乗り継ぎも順調に進み、予定よりも早く到着したので、まずは山麓居館区域を散策。
上の写真は、金箔瓦なども出土したC地区の池跡越しに、巨石が並べられた居館虎口方向。

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居館部の中枢、宮殿のような建物が建っていたのではと考えられているC地区。

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C地区の奥、谷の方へ入り込んだB地区。
こちらからも建物や水路、庭園跡が出土しているようです。

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C地区とB地区の間に並べられた巨石列。

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続いてA地区へ。
A地区では現在、調査結果に基づいて庭園の滝を再現する実験が実施されています。

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滝の再現。
向かって右の滝は、水量も結構ありました。

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令和2年12月末まで、9~17時の毎正時に15分ほど水が流されます。

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発掘の結果、実際にこうした滝の水受けと思われる川原石の集石が見つかっているそうです。

専門家の中には岩盤の上に水源がないとの理由から、滝の存在に懐疑的な意見もあるようです。

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しかし山麓居館には今もこうして、槻谷から豊富な水が流れ込んでいますし・・・

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多くの池や水路跡(写真)も見つかっているように、豊富な水源の下に水をふんだんに利用していたことが窺えます。
山の高い位置で槻谷の水源から樋を回すなどすれば、A地区に滝を演出することも可能だったのではないかと、私のお城仲間の方もtwitter上で提示されていましたが、私も同意です。
川原石の集石など、滝を連想させる遺構が見つかっている以上、水源問題はその存在を完全に否定し去るほどの要件は満たせていないのではないでしょうか。

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さて、それでは山上へ向かいます。
ロープウェイ乗り場では、モックン道三がお出迎えw

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岐阜城 山上部の図

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一ノ門

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一ノ門に残る石垣

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堀切(切通)を横目に通り過ぎ・・・

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二ノ門下の発掘現場へ。
裏込め石もたくさん出ており、野面に積まれた様子から織田信長入城以降の石垣と推定されています。

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二ノ門下から出土した石垣は、江戸時代の絵図にも描かれています。

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ピンクのテープが石垣の推定ラインで、出土した石垣自体はごく一部です。
高さも50㎝ほどしか残っていなかったようですが、江戸期の絵図には「石垣高一丈(約3m)」と書かれています。
瓦もたくさん出土したようで、瓦葺の門があったのではないかと考えられています。

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下台所曲輪への虎口となるニノ門には、他にも大きな石材で積まれた石垣があり、重要な門だったことを窺わせます。

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下台所曲輪

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下台所から上台所へと至る途中に積まれていた石垣。
平たい石をほぼ垂直に、あまり勾配をつけずに積み上げている特徴から、こちらの石垣は道三ら斎藤期のものではないかと思いますが、いかがでしょうか。

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いよいよ天守が近づいてきました。

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天守台北西隅の発掘現場へは、あちらの足場を上って向かいます。

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天守台北西隅から出土した石垣。

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裏込め石や間詰石も確認できます。
こちらも斎藤期の(とされている)石垣にはない野面積みの特徴で、信長の入城(1567)~1600年の廃城までの間に築かれた石垣と考えられます。
江戸期の絵図とも一致するようなので「天守台の石垣」という位置づけで問題はないのでしょうが、それが即ち「信長在城時=安土築城以前の天守台」ということにはならないかと思います。

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こうして見ると本来の石垣の北面は、明治43年に復興天守建造のために築かれた天守台(奥)よりも、50㎝ほど南へ引っ込んでいたようにも見えます。
あの黒い壁の向こう側にも回り込んでみましたが・・・

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やはり改変が著しく、実際の石垣がどのように続いていたかは判然としませんでした。

なお、発掘調査は岐阜城資料館の南斜面でも行われていますが、そちらは非公開でした。
やはり、石垣と裏込め石を確認しているとのことです。

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リニューアルされた天守内部の展示も観てから・・・

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裏門跡へ。

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裏門跡
右手前に、上の復元イメージ図Aの巨石列が倒れた状態で見えています。

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現在の登山道を挟んだ反対側にも巨石列。イメージ図のB部分と思われます。
右寄りの尖った石は、石垣の角とのこと。

門の周囲に集中して巨石を連ねる趣向は、山麓居館とも通じるものがありますね。

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イメージ図Cの石垣。
こちらは斎藤期のものと推定されています。

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最後に天守の南下、井戸上の石垣。

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下山後は岐阜市歴史博物館に開設された「麒麟がくる」の大河ドラマ館にも立ち寄り。

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諸事情で放映開始は遅れましたが、キャストの皆さんには頑張っていただきたいと思います。

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2019年12月16日 (月)

飯道寺

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行場巡りを無事にクリアした後は、飯道寺跡へ。

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飯道神社(図左上)の眼前にはかつて、神仏習合の飯道寺として栄えた時代の名残として数多くの僧院跡が残っています。

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1枚目の写真の石段を上がった先は東照宮跡。

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明治の神仏分離・廃仏毀釈で寺院(仏教)関連は廃され、今はこうした痕跡を留めるのみとなっています。

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思いのほか立派な石垣も。

十月九日、伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊り
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」)

天正9年(1581)、次男・信雄を総大将とした軍勢を派遣して伊賀国を制圧(第二次天正伊賀の乱)した織田信長は、嫡男の信忠、甥の信澄を同道して伊賀の視察へ向かいます。
その道中、伊賀入り前日の10月9日にはここ、飯道寺に泊まりました。

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参道を挟んで左に梅本院跡、右奥に智積院跡。
信長らが泊まった僧院は果たして、いずれにあったのか・・・想像を膨らませながらめぐります。

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智積院跡

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高野山を再興したことでも知られる木食応其上人は、晩年を飯道寺で過ごしました。
智積院跡の向かいには、彼の入定窟も残ります。

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岩本院跡に残る石積み。

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岩本院跡
この岩本院と先ほどの梅本院は、醍醐寺三宝院を本寺とする真言宗本山派に属す寺院で、山内でも特に有力な存在だったようです。

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不思議な切石状の石積みも。

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岩本院跡から見る、智績院跡の石垣。
左の下段は行満院跡。

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鳥居坊跡

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飯道寺跡(飯道神社)からは、紫香楽宮跡などを見渡すことができます。
まさに、飯道寺に上がった織田信長が御覧じ国中の躰の光景。
数年来の念願叶い、飯道寺跡を訪れることができて感無量です。

※現在、甲賀市水口町に所在する飯道寺は、天台宗の本覚院が明治25年に廃寺となっていた飯道寺の寺号を継承したものです。
御本尊は飯道山から移されたものとか。

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折角なので山頂まで足を延ばします。
山頂からは杖の権現を経由して飯道寺跡まで戻り、その後に下山します。

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飯道山山頂
飯道寺跡から山頂までは7~800m。緩やかな登りの尾根道が続きました。

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山頂からの眺め。
辛うじて近江富士の姿も確認できました。

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杖の権現
山頂から杖の権現までは、急勾配な直線の尾根を一気に下ります。

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飯道寺跡まで戻りました。

行場巡りに、念願の飯道寺跡・・・とても楽しい山歩きになりました。

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2019年12月14日 (土)

弥高寺

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上平寺城跡から山中を少し北へ回り込み、西の尾根へ雪中行軍・・・(;^_^A

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伊吹山も心なしか、少し近くなってきました。

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尾根の北側から弥高寺跡へアプローチすると、最初に出迎えてくれる大堀切。
この先(南)にある本坊の背後を断ち切っています。

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大堀切の近くには、これも規模の大きな畝状竪堀も。

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更に南へ進むと、規模は小さいながら堀切や・・・

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竪堀が続きます。

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弥高寺の墓地跡。
発掘調査で、火葬された人骨が数十体も納められた大きな甕が出土しているそうです。
寺の長い歴史の中である時期、墓地が手狭になってまとめて改葬されたものではないかとのことでした。

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いよいよ本坊跡が見えてきました。
雪に埋もれてはいますが、周囲を囲む土塁や虎口もはっきりと見て取れます。

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本坊手前に切られた竪堀。

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弥高寺本坊跡

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本坊の虎口から真っ直ぐに伸びる参道。
参道の両側には、数多くの削平地が見受けられます。

弥高寺は仁寿年間(851~854)に創建された伊吹山寺を前身とし、後に分立した伊吹山四ヶ寺の一つ。
弥高百坊とも呼ばれ、この大きな本坊跡をはじめ、60をも超える坊跡が残る巨大な山岳寺院の跡です。

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本坊から南の方角。
2本の鉄塔の先には上平寺城の記事で触れた、件の長比城がありました。

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弥高寺本坊から見る上平寺城。
つい先ほどまでは、あちらから弥高寺跡を見ていました。

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琵琶湖に浮かぶ竹生島も見えています。

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それでは本坊をあとにし、こちらの参道伝いに下りていきます。

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少し下った先から本坊を振り返る。
土塁の高さがよくわかります。

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弥高寺の玄関口でもある大門跡に差し掛かりました。
右へグイッと曲げた枡形になっています。

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大門跡
高い土塁で仕切られた見事な枡形、そして土橋。

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大門の脇には横堀も掘られています。

本坊背後の堀切や竪堀群、そして大門の枡形や横堀・・・弥高寺が城郭として改修されていることは明らかです。
現地説明板にも、京極氏や浅井氏らによる改修が想定される、といったことが書かれていました。
直に遺構を目にした個人的な印象としては、元亀元年(1570)に敵対する織田軍に備え、上平寺城と共に浅井氏や越前衆が改修した痕跡ではないかと感じました。

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大門の南西、登山道を林道まで下り、更に林道を伝って下山する途中に現れる2本の大きな竪堀。
やはりこれは、歴とした軍事施設です。

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そのまま林道を下っていくと、悉地院(弥高護国寺)に至ります。ここが今回のゴール地点。
所要4時間強、山中は積雪の中での行程となりましたが、見応えのある素晴らしい遺構を堪能し、参加16名全員無事に下山いたしました。
なお、悉地院は伊吹山四大護国寺の一つで、弥高寺の法灯を現在に伝えているお寺とのことです。

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下山後は伊吹山文化資料館にお邪魔して、上平寺城の模型や・・・

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弥高寺跡で出土した、火葬された人骨が納められていた大きな甕などを見学させていただきました。

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夕暮れの伊吹山。

夜は彦根駅前へ移動し、これまた恒例の忘年会。
踏査会に参加した皆さんと、2次会まで楽しく盛り上がりました。

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2019年12月13日 (金)

上平寺城

年末の恒例行事となった城友山城踏査会(& 忘年会)
2019年の舞台は・・・

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滋賀県米原市の上平寺城です。

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上平寺城絵図(江戸時代前期)

上平寺城は16世紀の初頭、北近江守護の京極高清が築いた京極氏の城館。
山麓に平時の居館を置いて守護所とし、伊吹山から伸びる背後の尾根上には詰の山城が築かれていました。
大永3年(1523)、高清は自らの後継をめぐって浅見氏や浅井氏、三田村氏らの国人衆と対立して上平寺を追われ、北近江では浅井氏が台頭するようになります。
以降、眼前に北国脇往還(越前街道)を扼する上平寺城は、美濃・近江の国境を押さえる境目の城として機能したものと考えられています。

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今回のスタート地点となる居館区域の目の前(南)を流れる用水路は、居館と城下町との間を隔てる堀跡。上の絵図にも「ホリ」と記されています。
この写真の方向に、「諸士屋敷」や「町屋敷」などとある城下町が広がっていました。

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伊吹神社(「伊吹大権現」)の参道に沿って進み、「弾正屋敷」跡・・・

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「蔵屋敷」跡

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「隠岐屋敷」跡と順に見ていき・・・

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一番奥、伊吹神社の社殿手前に、京極氏の居館となる「御屋形」跡。

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御屋形には池を伴う庭園の跡も残ります。
奥に見える巨石の先にも・・・

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池の跡がもう一つ。
付近からはかわらけも出土しているそうで、庭園を鑑賞しながらの宴や儀式が行われていたことを連想させます。

各屋敷や庭園跡の配置、伊吹神社(社殿)の位置や参道の曲がり方に至るまでが、江戸時代の絵図とピタリと一致していることに驚かされました。

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京極氏一族の墓。
伊吹神社の社殿横にあります。

上平寺を追われた高清は、後に浅井氏と和睦して小谷城に迎え入れられましたが、晩年には上平寺へ戻っていたようです。
そのため、彼のお墓もこの地にありましたが、寛文12年(1672)に丸亀藩主・京極高豊が清瀧寺徳源院(米原市清滝)を復興した際、歴代の墓所も整備しており、その時に高清の墓石も徳源院へ移されたものと考えられています。

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山麓の居館跡から山城までは、およそ30分ほどの登山。
写真は、絵図に「七曲」と書かれている辺り。文字通り九十九折の登山道が続きます。

ところで、絵図に「七曲」と書かれている箇所の近くに「刈安尾」という文字も見えます。

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべかりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取り敢へず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。
(信長公記 巻三「たけくらべ・かりやす取出の事」)

織田信長との対決の道を選んだ浅井長政は元亀元年(1570)、自らの領国である北近江と信長の領国・美濃との境に位置し、東山道を押さえる長比と、北国脇往還(越前街道)を押さえる刈安に要害を構え、織田軍の襲来に備えました。
絵図にある「刈安尾」とは「刈安の尾根」の意で、上平寺城こそがこの時、長政が要害に構えさせた「かりやすの要害」に比定されています。

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南側から城域に至り、最初に出迎えてくれる大きな竪堀。
登山道のすぐ右手に現れます。

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南西側の斜面には、連続する畝状竪堀群も。

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三の丸
広い削平地が2段に築かれていました。

上平寺城は南北に伸びる尾根上に、南から北へ三の丸→二の丸→本丸と連なる連郭式の城郭です。

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スロープ状の坂の先に、三の丸2段目への虎口。
うっすらと通路に積もった雪が示す通り、虎口の土塁は食違いになっているようでした。

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こちらは二の丸への虎口周辺。
三の丸⇔二の丸間は、堀切で隔てられています。

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その堀切。

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二の丸虎口。
土橋の先で少し左へ曲げてから、虎口の先へと誘導しています。
虎口の先は縦に細長い枡形のようになっており、奥の方で土塁が立ち塞がっている様子も見て取れます。

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二の丸虎口の枡形。
先を行く同行者のように右へ折れた先が・・・

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二の丸
奥に切岸が見えていますが、二の丸もやはり複数の段に分かれていました。
但し三の丸とは違い、周囲をグルッと土塁が取り巻いています。

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本丸
降り積もった雪がより一層、深くなっていました・・・。

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本丸南東側の虎口。
その先の遠景は、関ヶ原方面。

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本丸の背後には、雪を被った伊吹山の姿も。

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西の方角には、この後に向かう弥高寺跡も綺麗に見えていました。

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北端の土塁上から本丸。
曲輪の真ん中で赤い服を着た同行者が丸まっていますが・・・日の丸弁当のつもりのようです(笑)
まぁ、周囲を囲む土塁が弁当箱に見えなくもない、か・・・(;^_^A

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本丸が城域の北端となり、その背後は高い切岸と深い堀切で遮断されています。

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本丸北側の堀切に架かる土橋。

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圧倒的な堀切感。

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土橋を渡り、城外側から本丸方向。
本丸の高い切岸が攻め手を圧倒します。

現在に残る遺構のどこまでが、元亀元年の浅井、及び越前衆の手によるものかは定かではありませんが、とても見応えのある城跡でした。
なお、中世山岳寺院上平寺の跡地については、伊吹山中腹に位置する山城部分と、山麓の居館跡地との2説あるようです。

こうした要害を構えて織田軍に備えた長政でしたが、長比の守備に就いていた堀秀村・樋口直房主従が織田方へ寝返ったため、城兵は退去し、両城共に信長の手に落ちました。
ここから歴史は、姉川の合戦へと続いていくのでした。

この後は雪山の中を移動し、先ほど遠望した弥高寺跡へ向かいます。

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