カテゴリー「織田信長」の131件の記事

2018年1月20日 (土)

圧切長谷部と対面

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久しぶりの空の旅で、5年ぶりに福岡へお邪魔します。
空から見下ろす富士山がまた綺麗でした。

日本海側を覆う寒波の影響で雪の降りしきる福岡へ到着後、まず最初に向かったのは福岡市博物館です。

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母里太兵衛が福島正則から呑み獲ったとの逸話でも有名な名鎗・日本号
元々は朝廷の御物で、正親町天皇から足利義昭、織田信長、豊臣秀吉の手を経て正則へと渡りました。

その日本号の横に、今回の福岡旅を決めた最大の目的のものが・・・

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国宝・圧切長谷部
膳棚の下に逃げ込んだ茶坊主を、織田信長が棚ごとへし切ったとの逸話からその名で呼ばれています。
黒田官兵衛が天正3年(1575)に岐阜で信長に謁見した際に拝領したとも、信長から秀吉の手を経て伝わったとも云われますが、以降は黒田家の家宝として伝来しました。

大太刀を磨り上げて短くしています(刃長64.8cm/茎長16.7cm)。
考えてみれば信長は、宗三左文字(義元左文字)も義元から接収後に磨り上げ、大太刀を刃長67cmの打刀に改めています。
一概には言えないのかもしれませんが、大太刀よりも振り易くて実戦的な打刀を好んだのかもしれません。

圧切長谷部は「黒田家名宝展示」の中で、平成30年1月5日~2月4日まで展示されています。

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新春特別企画「黒田家の刀剣と甲冑展」(同1月7日~2月12日)では、圧切長谷部の拵(国宝)も展示されています。

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長谷部の拵の隣りには、やはり官兵衛の愛刀だった安宅切の拵(右/重要文化財)も並べて展示されていました。
共に金霰鮫青漆打刀拵という様式ですが、反りの違いが一目瞭然です。

ようやく念願叶って対面した圧切長谷部・・・寒さも忘れる至福のひと時。
平日とあって想定外に人も少なく、ゆっくりと拝観することができました。

※金印もちゃんと拝観してきました。

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2017年12月24日 (日)

釆女城

旅の2日目は三重県へ移動し、四日市~亀山の城をめぐります。

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移動途中、桑名で旧東海道七里の渡し碑を眺めつつ・・・

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浄土寺へ立ち寄り。
徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の墓所にお参りします。

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浄土寺の近代的な山門。
鹿角脇立兜に蜻蛉切・・・洒落てますね。

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本多忠勝墓所
彼を追って殉死した家臣らの墓碑も建っていました。

四日市駅前で他の参加者とも合流し、総勢9名で向かった先は・・・

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四日市市の釆女城

永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛戦の前に織田信長は伊勢に進攻、伊坂城や市場城などに続き、釆女城を攻略して北伊勢を制圧していきます。
この北伊勢攻めをきっかけに神戸具盛や長野具藤が織田方に降伏し、信長は息子の信孝を神戸家へ、弟の信包を長野家へ養子として送り込み、伊勢攻略の地歩を固めていきました。

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五の郭への枡形虎口

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その枡形虎口を上から・・・綺麗な四角(枡形)をしています。

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五の郭と一の郭間の空堀

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一の郭の井戸跡

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一の郭北面の土塁
郭のコーナー部分(写真奥)は土塁が厚くなっており、櫓が建っていたのではないかと思われます。

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一の郭から空堀越しに、二の郭を見る。

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一の郭と二の郭間の空堀・・・かなりの規模です。
尾根を分断する「堀切」でいいのでしょうが、不思議と両サイドの縁を削り残して土橋のようにしていたので、あえて「空堀」としました。

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二の郭にも土塁が明瞭に残り・・・

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やはりコーナー部分には櫓台がありました。
写真は櫓台の上から、三の郭方向を見ています。案内板の奥に空堀が見えています。

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二の郭と三の郭間の空堀

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三の郭から東の斜面を下り、斜面下に残る遺構を見ていきます。
上写真正面は、先の縄張図aの土塁(横から)。

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一の郭~二の郭間の空堀下には、静岡の丸子城にもあるような半円状の橋頭保bが築かれていました。
横堀と土橋の先に続く半円状の削平地が、写真でおわかりいただけますでしょうか・・・?

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こちらは四の郭への虎口
ちょっとわかりづらいですが、やはり左へ折っています。
この虎口の先にはもう一つ、北側の斜面からのルートに繋がる虎口があり、そちらは内枡形のように土塁で受けていました。差し詰め「二重枡形虎口」と言ったところでしょうか。

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四の郭西面の土塁
あちらの土塁の先は・・・

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深い堀切になっています。

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その堀切から北側の斜面には、竪堀も落とされています。
写真は竪堀を横から撮影したもので、水色の服の同行者が立っている辺りが竪堀の底。

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四の郭からしばらく何もない尾根をダラダラと下った先、cの削平地に転がっていた五輪塔などの石材。
専門の方によると、宝篋印塔の形状から16世紀頃のものではないか、とのことでした。

九の郭を含めた山麓付近の削平地には寺院、或いは畑の跡のような雰囲気も感じ、四の郭との間に何もなかったことも踏まえ、果たして城の遺構としていいのかは参加者一同、少々懐疑的でした。
dの辺りには、池・滝・弁天島などを備えた庭園跡とも受け取れる痕跡がありました。

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六の郭の幅広な土塁上から、五の郭との間の堀切を見る。

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最後に八の郭へ。
写真は一の郭(左)と八の郭間の堀切。
ここには土橋がなく、一の郭の切岸との高低差から橋を架けることもできそうにないので、八の郭は完全に独立した郭だったことになります。

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八の郭南端の虎口の先には土橋が架かり、土橋の左は切岸、右は空堀になっていました。
この土橋を進み、空堀に沿って右へカーブした先は・・・

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土塁を広げたような削平地が設けられていました。
右が八の郭との間の空堀。

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その空堀から、正面に八の郭からの土橋を見る。

さて、これにて釆女城攻めは終了です。
一通り観てまわった印象としては、とにかく規模がデカい!とても一土豪・国人クラスのお城とは思えませんでした。
やはり織田軍が占拠した後、自らの軍事拠点として改修の手を加えたのではないでしょうか。

この後は亀山市の峯城へ向かいます。

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2017年12月21日 (木)

白鬚神社 (道三・信長別れの地)

またまた岐阜への旅です。
2017年は本当によく岐阜県にお邪魔しました。数えたところ、今年だけで8回目とか・・・(笑)

いつもお世話になっている流星☆さんと岐阜羽島で待ち合わせ、まず最初に連れて行ってもらったのは・・・

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笠松町田代の白鬚神社

又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。
(信長公記 首巻「山城道三と信長御参会の事」より抜粋)

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天文22年(1553)4月20日、富田の正徳寺斎藤道三と会見した織田信長は、会見終了後、道三を廿町許り見送って、この地で別れの儀式を執り行ったと伝えられています。

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白鬚神社の北方2㎞を流れる境川
美濃・尾張の国境となる木曽川の、この当時の本流はこちらの境川でした(まさに“国境の川”)。つまり、笠松は今でこそ岐阜県ですが、当時は尾張の一部だったということになります。
信長は美濃へ帰る道三を、国境ギリギリまで見送りに来た、ということになるのでしょう。
※天正13年の洪水でほぼ現在の流路に変わる。但し天正10年の段階で、美濃を領する織田信孝と尾張の信雄が、国境を木曽川(現境川)にするか「大川(現木曽川)」にするかで揉めているので、この段階で既に現在の木曽川も遜色ない規模を誇っていたものと考えられる。

但し、1点疑問もあります。
太田牛一は「信長公記」の中で、(正徳寺から)廿町許り御見送りした、と記しています。廿町とはおよそ2.2㎞
ところが、正徳寺(聖徳寺)跡から白鬚神社までは7~8㎞ほどもあり、いくらなんでも距離が一致しません

ちなみに正徳寺から2㎞前後の距離には後年(1556)、道三が嫡子の義龍と対立した際、その救援のために出撃した信長が、義龍軍との戦闘(大良の戦い参照記事)に備えて着陣した大浦の寺砦があります。大浦の寺砦に入った信長軍はその北方、現在の笠松町北及の辺りで義龍軍との戦闘に及んだと云われています。
その北及は白鬚神社のすぐ南。正式な(当時の)国境は越えていますが、この近辺まで斎藤家の勢力が既に及んでいたのだとすれば、案外、会見後に信長が道三を見送ったのも大良(大浦)の辺りまでだった可能性もあるのでは?・・・などと、勝手に想像を膨らませています。

あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。
(同)

信長と別れて美濃に入った道三は、あかなべ(岐阜市茜部)まで来たところで、
「信長はやはり“たわけ”でしたな」
と言う猪子に対し、
「ならば無念なことだ。私の子供は将来、その“たわけ”の門前に馬を繋ぐことになる(家来になる)であろう」
と呟いたとか。
その後の歴史は・・・周知の通りです。

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ところで、白鬚神社の境内には蓮台寺遺蹟の石碑が建っていました。
付近の笠松町長池東流地区で昭和32年、土地改良工事によって古代寺院(蓮台寺、或いは東流廃寺とも)のものと思われる塔の礎石が出土しています。

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白鬚神社の境内に安置されている塔の出土礎石(半分)
この礎石の大きさから、塔の高さは30mほどもあったのではないかと考えられています。
何故か半分に割られ、もう一方は東別院(西宮町)に保管されているようです。

そういえば白鬚神社の所在地である「田代」は「でんだい」と読むそうです。
「蓮台(寺)」⇒「でんだい」と、地名の由来になっていたのかもしれませんね。

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2017年12月14日 (木)

近江丸山城 (丹羽砦)

直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取出仰せつけられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通路をとめ、
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より抜粋)

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田信長は7月1日、佐和山城 へ軍勢を寄せ、北の山に砦(物生山城…参照記事)を築かせて市橋九郎右衛門に守らせ、南の山※1に水野信元、西彦根山※2には河尻秀隆を配し、百々屋敷にも砦を築かせて丹羽長秀を置き、東西南北の四方から佐和山城を包囲させています。
※1 里根山。現在はほぼ全域がゴルフ場。
※2 実際に砦が築かれたのは、彦根山のすぐ東にあった尾末山とされている。彦根城築城の際、周辺の湿地帯埋め立てのために切り崩されて消滅。現在の尾末町


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ちなみにこちらが、尾末町越しに彦根城から見る佐和山城(河尻秀隆目線)

「百々屋敷」の跡地とされるのは佐和山城跡の東約1km、国道8号線沿いの彦根トラックステーション一帯
しかしこの場所は、佐和山城からあまりに至近な上に全くの平坦地で、とても包囲網を維持するのに適した占地とは言えそうにありません。
そのため、その更に南東500mほどにある近江丸山城(以下「丸山城」)を、「信長公記」の著者・太田牛一が百々屋敷と記した場所と比定する見解があります。(他に、百々氏が東山道摺針峠の関を守っていたことから、同所付近とする説も)
※但し、牛一が東にだけ「」の一字を用いていないことが若干引っ掛かりますが・・・。

という訳で今回、その丸山城にアタックさせていただくことにしました。
(お付き合いいただいた方々には本当に感謝!)

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鳥居本の旧中山道から県道239号を東へ折れ、名神高速のガード下を潜ってすぐの場所からアタック開始です。
こちらは、丸山城のある尾根の1本北隣りの尾根になりますが、城跡は鳥居本町と小野町の境界線上に築かれており、南の小野町側は入山を禁じているようなので、こちらから登って隣りの尾根へと移動し、町の境界線ギリギリに沿って歩いていきます。

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登り始めるとすぐ、小さな神社の境内に出ます。
ここから更に、右手の山道を登っていきます。
※この神社の脇、尾根下には百々家先祖代々之墓が建っていました。詳細は分かりませんが、「百々屋敷」の百々氏に関係しているのではないでしょうか。

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しばらくすると鉄塔の足元に出ます。
その付近から丸山城の方向を見た様子・・・城跡は樹間に覗く尾根上にあります(本当は鉄塔付近の視界はもっと開けていたのですが、写真を撮り忘れました…)。
あちらの尾根へ向かい、まずは鉄塔の先で獣道を少し下り、鉄塔管理用のものと思われる山道を登り直し、2つの尾根の間にある谷戸を迂回するようにして移動していきます。

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尾根を移ると、別の鉄塔の足元に出ました。
奥には佐和山のピーク(本丸)が見えています。

丸山城はこの鉄塔から、西へ少し下った先になります。
鉄塔からしばらくは、きつい藪を掻き分けての行程となりました。

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ようやく尋ね当てた、城域の東端と思われる切岸?土塁?による段差。
なお、左手のフェンスが鳥居本町と小野町の境界線になります。

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北側には腰曲輪状の平坦地も。

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主郭と思われる最上段の曲輪の切岸。
一段低い平坦部(写真左)と、鏡石を思わせる大石が虎口を連想させました。
(※個人的感想です)

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境界フェンスの向こう、小野町側には土塁らしきものが主郭から西へ、2段ほどの曲輪跡を取り巻いていました。
※写真はフェンスから手を伸ばして撮影しています。

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城域西端付近にあった・・・竪堀?

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城域西端の土塁を外側から。
段差は割とハッキリと残っています。

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城域内は視界が利かなかったので、少し下った先から見る佐和山城の遠景
丹羽長秀の手勢は、この距離間で佐和山城と対峙していたのでしょうか。

佐和山の右の尾根続きには、市橋九郎右衛門の北の山(物生山城)が見えていますし・・・

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少し左へ目を転じると、水野信元の南の山まで見渡すことができます。
まさに元亀元年7月~翌2年2月までの佐和山城包囲戦の舞台を、一望の元に収める光景です。

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下山後、佐和山城との間を通る旧中山道(東山道)から遠望する丸山城。

北の物生山城に比べ、丸山城の遺構自体は見るべくもない※3ですが、こうして実際に現地に立てる喜びは、やはり何物にも代えがたい喜びがあります。
※3 確認できた遺構範囲も狭く、100人も入れば満員になってしまうような規模でしたので、もし丸山城が佐和山城包囲の東の付城であるならば、尾根全体にもっと広く兵を展開させていたものと思います。

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2017年12月 2日 (土)

安養寺 (岐阜県郡上市)

先日の記事でも少し触れましたが、城友会で郡上八幡城を訪れた際、麓の安養寺にも立ち寄りました。

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遠郷山安養寺本堂
昭和11年の再建ですが、岐阜県下最大規模の木造建築とのことです。

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安養寺宝物殿

安養寺は、「宇治川の先陣争い」で有名な佐々木高綱(近江源氏)の三男・高重が出家して西信と号し、近江蒲生郡に創建した安要寺が始まりとされます。
その後は長い歴史の中で各地を転々とし、本願寺八世蓮如の命で寺号を安養寺に改め、戦国期には美濃国大島村(現白鳥町)に移っています。(天正6年から八幡中坪村園野→明治の大火による焼失後、現在地へ)
第十世住職乗了の時には石山合戦にも参戦していて関連する文書も多く、それらは「石山合戦関係文書及び安養寺文書」として岐阜県の重要文化財に指定され、その一部をこちらの宝物殿で拝観することができます。

本願寺十一世顕如が各地の真宗門徒へ宛てて、
織田信長の上洛より、一昨年以来いろいろと難題を懸けられ、随分な扱いにも何とか応じてきたが、その甲斐もなく、本願寺を破却すべき旨を通告してきた。この上は身命を顧みず、忠節に抽んでて(本願寺のために)馳走を頼み入る。もし無沙汰する者は永く門徒とは認めない」
と発した、いわゆる檄文も展示されていました。

その他、

武田信玄/朝倉義景からの書状
本願寺教如の石山退去前後二通の書状(※後述)
足利義昭御内書

などもありましたが、それらの展示文書の中で少々意外だったのは;

織田信長地子免除安堵朱印状

です。その全文は以下の通り。

依今度忠儀、當寺
境内寺領地子
以下之事、令免除
之訖、永不可有
相違者也

天正三年
   五月三日 信長(朱印)


「地子」とは土地に架かる租税のようなもので、本史料は安養寺に対し、境内寺領の地子免除を安堵したものです。
宝物殿の説明には;
「織田の圧力を受けて飛騨白川へ退避していた安養寺は、この安堵状を以て大島へ戻った
とありましたが、天正3年の5月といえば、信長と本願寺は未だ交戦状態の真っ只中にあります。(一時的な和議が結ばれるのは同年10月)
ましてや、安養寺乗了は後の天正8年に至っても、本願寺顕如が信長と講和して石山を去ることに反対し、教如と共に抗戦する姿勢を示しています。
※前出の二通の教如書状(①顕如退去後も徹底抗戦継続への協力要請/②結局は石山を退去することになった無念の胸の内)が両者の関係を物語るように、安養寺はその後、教如の真宗大谷派に属しています。

そのような安養寺が天正3年5月の段階で、果たして如何なる「忠儀」を信長に示したというのでしょうか・・・?
安養寺の大島退去~帰還を、もう少し後のことだったとする説(天正3年の段階に於いては未だ白川へ退避すらしておらず、退避後の大島帰還も本能寺の変による信長の横死後、とする説など)もあるようで、この天正3年のタイミングで、わざわざ安堵を与えるような接触が信長と安養寺の間にあったのかも含め、まだまだ解明が待たれる謎が多そうです。

※一つ気になるのは、郡上で勢力を張っていた遠藤氏の存在。
永禄12年(1569)、飛騨の三木自綱と結託した父の旧臣・畑佐某の攻撃を受けた遠藤慶隆は、安養寺の助けを借りてこれを撃退しています。
慶隆は信長の稲葉山城制圧(永禄10年)以後、元亀3年の一時期、武田信玄が西上を始める頃には武田に誼を通じる動きも見せたようですが、基本的には織田家に従属しています。
そして天正3年の5月3日といえば、長篠設楽原合戦(同月21日)のまさに直前。遠藤氏も信長軍(佐久間信盛寄騎)に従って参戦しています。
こうした情勢も相まって安堵状の影信長と安養寺の間に、或いは遠藤氏の存在が絡んでいたのかなぁ~と想像を逞しくしています。
(いずれにしてもこの安堵状は、安養寺の大島帰還問題とは直接的な関係はないものと、個人的には考えます)


宝物殿には他に、本願寺九世実如の裏書のある絹本著色親鸞聖人御影や、宇治川の川底に張られた綱を切ったと云う佐々木高綱の太刀綱切丸!?なども展示されていました。

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2017年10月 8日 (日)

狩野永徳筆「織田信長公像」拝観

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京都旅2日目は大徳寺からスタート。

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一目散に本坊へ向かいます。

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大徳寺本坊は現在、特別公開中。
お目当ては無論、初公開されている狩野永徳筆「織田信長公像」(但し10/1まで)です!

まずは国宝の方丈で前庭と、聚楽第の南門を移築したと伝わる唐門(日暮門/国宝)を眺めながら係の方の説明を聴き、狩野探幽筆の襖絵後醍醐天皇御宸筆の額を堪能し、小堀遠州作庭の東庭を眺めつつ、方丈の裏手へ。
開山大燈国師の木像を安置する雲門庵(外観)や、その木像を火災から守るためだけに設置されたという井戸、大幢燈国師の墓所を遠目に見学してから、とある一間の書院へ・・・

その床の間に、狩野永徳の筆に成る織田信長の肖像画が、総見院殿像(総見院蔵)と並んで展示されていました。

実際に本人にも拝謁している狩野永徳が描いた織田信長。
先日拝観した長興寺蔵の肖像画(参照記事)とは表情も一線を画し、独特な雰囲気を醸し出していました。
僅か1mほどの至近距離で直に拝観することができ、感激も一入です。
(ゆっくり拝観するため、次の人に遠慮することもないよう、わざとグループの最後尾に並んだことは言うまでもないww)

最後に法堂で龍の天井絵を拝観して、大徳寺をあとにしました。

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2017年8月29日 (火)

凌雲寺、稲葉地城跡

旅のラストは名古屋へ移動、地下鉄「中村公園」駅から歩くこと20分ほどで・・・

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凌雲寺に到着。

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名古屋市教育委員会設置の案内板によると、凌雲寺は永正年間(1504~1521)に、稲葉地城主で織田信長の伯父でもある(津田)信光によって創建された、とありましたが・・・
信光の生年は永正13年(1516)と伝えられています。仮に凌雲寺の創建が永正年間の最終年にあたる永正18年だったとしても、信光は満年齢で5歳・・・ちょっと無理がないでしょうか?

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凌雲寺境内
凌雲寺には織田信長も幼少の頃、手習いに通ったと伝えられています。

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本堂の前には、信長が手習いの墨で真っ黒になった草紙を枝に掛けたと云う草紙掛けの松があります。
(一番背の高い木がそれかと・・・)

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その松の根元にあった石碑。
織田信長公掛草紙松…etc.

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また、墓地には凌雲寺開基「信光」の墓と伝わる宝篋印塔も。

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當寺開基津田豊後守法名
凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士


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その裏には・・・
天文五年十一月廿八日没
津田玄蕃建之

・・・通説による信光の死没年は、信長と共に清須城を落とし、下四郡守護代・織田大和守家を滅ぼした直後の弘治元年11月26日(10月に天文24年より改元)。
天文5年はその19年も前に当たり、この宝篋印塔が本当に凌雲寺開基のお墓で、創建時期が伝承通り永正年間なのであれば、織田信長の伯父である信光と凌雲寺の開基を同一人物とするには、やはり無理があるように思えます。
年代からしても信光より少なくとも一世代は前の、誰か別の「津田」姓を名乗っていた人物、という可能性はないのでしょうか。
・・・お墓に関しては、単に建碑時点(江戸時代?)での歴史認識・年次比定の誤り、という可能性も拭えませんが。
(ちなみに「凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士」を信光の戒名としているのは、江戸時代編纂の「尾張國誌」が元になっているようです)

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さて、凌雲寺の近くには神明社があり、織田信光の築城と伝えられる稲葉地城址の石碑が建っています。

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神明社境内

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本殿の脇にひっそりと建っていた石碑。
漢文調の碑文に「織田」や「津田」の文字も見えたのですが・・・後で解読しようと撮影した写真が見事に手ブレ・・・(´;ω;`)ウッ

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神明社のすぐ裏には、庄内川の堤防が眼前に迫っていました。
信長は幼い頃より、庄内川(当時は於多井川)で遊んでいたと云います。凌雲寺に手習いで通っていたのであれば、この付近でも遊んでいたかもしれないと思い、試しに登ってみましたが・・・堤防の上には大きな道路が走っており、庄内川の川面は見えませんでした。

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稲葉地城・・・お城としての痕跡はもはや皆無といったところですが、「城屋敷」という地名に僅かにその名残を留めている、と言えるでしょうか。

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2017年8月28日 (月)

「天下人の城」展

岐阜市歴史博物館を辞した後は岐阜タンメンを食しつつ南下し、名古屋市の徳川美術館へ。

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話題の天下人の城展を拝観してきました。
既に訪問された方も多く、応援ブログ等でもたくさん取り上げられているので詳細は省きますが、こちらで私が個人的に魅かれたのは;

脇差 銘吉光・亀王丸 号 蜘蛛切丸(熱田神宮)
刀 名物 義元左文字(建勲神社)
織田信長永禄3年に熱田社へ奉納した(「張州雑志」)と伝わり、桶狭間合戦の戦勝祈願に奉納したとも云われる蜘蛛切丸。それが、その桶狭間の勝利で手にした義元左文字と並べて展示されている姿には、やはり特別な感慨が湧いてきました。
※ちなみに義元左文字は3度目の拝観になるのですが、今回も茎の金象嵌は「義元討取刻・・・」の側を向けて展示されており、「織田尾張守信長」を観ることは叶いませんでした。

唐物茶壺 銘松花
唐物茶壺 銘金花
信長・秀吉・家康の歴代天下人が所持した大名物。
「信長公記」にも;

せうくわの壷・きんくわの壺とて、隠れなき名物参り、御機嫌斜ならず。
(信長公記 巻九「安土の御普請首尾仕るの事」)

とその名が登場します。
過去にもそれぞれを個別に拝観したことはありましたが、今回はその2つが同時に並べて展示されており、とても感動的でした。

脇差 無銘あざ丸
千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれたり。此の刀、陰山掃部助求めさし候て、
~中略~
陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす。其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ此の刀所持の人は必ず日を煩ふの由風聞侯。熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。これにより、熱田大明神へ進納侯てより、即時に日もよく罷り成り侯なり
(信長公記 首巻「景清あざ丸刀の事」)

これまた、「信長公記」に登場する脇差。熱田神宮に奉納された経緯もはっきりしており、曰くありげなエピソードが更に特別な魅力を加えているかのようです。

織田信長書状 おね宛
こちらも3度目くらいの拝観になりますが、最も好きな信長文書の一つでもあります。
参照記事

真田信繁自筆書状 小山田壱岐守(茂誠)宛 (慶長20年)二月八日
「歯も抜け、髭にも黒いところはなく、白い髭ばかりになった」と、老いへの嘆き?を綴った有名な書状ですね。
平成28年に再発見されたばかりの自筆文書です。


■以下、自らの拝観記録のために列挙。

・小豆坂合戦ノ図
・斎藤道三書状 織田玄蕃允宛 天文22年頃
・今川義元木像 正徳4年 長福寺(名古屋市)
・松井宗信木像 嘉永2年 長福寺(名古屋市)
・今川義元旧位牌 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦戦死者位牌 二基 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦討死者書上 長福寺(名古屋市)
※信長勢の戦死者の中に「近江国佐々木方」が含まれており、近江六角氏からの援兵があったことを匂わせる史料。
公開されるのは初めてかもしれませんが、その存在については既に数年前には指摘されており、私も桶狭間を訪問した折などに耳にしておりました。

・尾州知多郡大高内鷲津丸根古城図
・織田信長書状 沢源三郎宛 天正弐十一月廿四日
※平成29年新発見の鷹匠宛。
・脇差 銘吉光 名物 鯰尾藤四郎
・純金天目 伝豊臣秀吉所用
※単純な全面純金製ではなく、金の釉を垂らして景色を作っているところに興味を惹かれました。
・真珠付純金団扇 伝豊臣秀吉所用
・金箔押木瓜紋飾り瓦 清州城下町遺跡出土金箔瓦の内

さすがに話題になっているだけあって、充実の展示構成・内容でした。

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2017年8月27日 (日)

「Gifu信長」展(後期)

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7月にも訪れた岐阜市歴史博物館のGifu信長展

再訪の一番の目的は、8月11~20日の期間限定で公開された、
織田信長像(狩野元秀筆/天正11年) 長興寺蔵
を拝観すること。歴史の教科書などにも必ず掲載されている、信長といえば誰もが真っ先にイメージする有名な肖像画ですね。
割と最近になって修復されたようで、色彩はとても鮮やかでした。
日曜日とはいえさほどの混雑もなく、お蔭で白い小袖の薄っすらとした文様や刀に差し込まれた金の笄まで、具にゆっくりと観察することができました。

それ以外で興味を惹かれたものといえば、何といっても;
織田信長制札 楽市場宛 永禄10年10月日 円徳寺
織田信長制札 加納宛 永禄11年9月日 円徳寺
の二つの制札(木札)ですね。
永禄10年の楽市場宛のものは全体的に日焼けによる傷みが目立ち、裏には立て札として掲げられていた際の木の棒の痕がクッキリと残り、それに沿って縦に釘穴も2ヶ所ありました。
それに対して永禄11年の加納宛の方は、文字がクッキリと見て取れるほどに保存状態も良く、裏にも棒の痕はなく、真ん中の上寄りに横並びで2つ、小さな穴が開いていました。
永禄11年版は町の往来ではなく、どこか屋内に紐で吊るしていたのかもしれないな、などと考えました。

信長が美濃を制圧したばかりの永禄10年段階では、戦火によって荒廃した市場(町)の復興を企図して楽市楽座を打ち出し、往来に掲げて人々を呼び寄せ、1年を経た永禄11年にはある程度の復興も成って町が形成され、制札をあえて往来に掲げておく必要性も薄れてきたために屋内で保管したのではないか、との説もあるようです。
この辺りに、制札の宛名が「楽市場」→「加納」に変化した理由も潜んでいそうですね。


■以下は私自身の拝観記録のための羅列です。
冗長になってしまうので、詳細は省きます。

・織田信長像 總見寺(名古屋市)
・足利義昭御内書 上杉輝虎宛 (永禄11年)7月12日
・武田信玄(晴信)像 高野山持明院
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)2月10日
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)4月7日
※以上2点、駿河へ侵攻したものの北条家との対立に至って窮した武田信玄が、足利義昭・織田信長へ斡旋を依頼した「甲越和与」へ向けた、信長と上杉方の交渉経過。
・織田信長書状 上杉謙信宛 (元亀2年)9月25日
・太刀 銘長光 名物 津田遠江長光

全体的に、7月に訪問した前期よりも後期の方がより楽しめました。

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2017年7月19日 (水)

450周年の「岐阜」

今年に入って早4度めとなる岐阜への旅。
2017年は織田信長が稲葉山城を攻略して美濃を制圧し、「岐阜」と改めてから450年の節目の年。
それにちなんで岐阜市では、岐阜市信長公450プロジェクトと銘打って様々な試みが実施されています。今回は同プロジェクトに関連するいくつかのイベントに足を運んでみることにしました。

7月16日(日)、岐阜駅前で集合して最初に向かったのは・・・

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ぎふメディアコスモスにて開催されている信長公ギャラリー

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お目当ては「おもてなし劇場」で上映される岐阜城山麓居館のCG
信長の小姓に扮したMCの先導で見学してまわるという設定で、15分ほどの内容でした。
奥御殿や茶室の周辺が中心で、CG自体は素晴らしいのですが、もう少し全体をくまなく紹介して欲しかったなぁ…というのが正直な感想です。

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他にも、自らCGを操作して山麓居館をバーチャル散策できるコーナーなどがありました。

入館無料ですし、私のような遠来者のみならず、地元の方々にも多く足を運んでいただき、改めて信長のいた時代の岐阜城の姿に思いを馳せ、郷土の誇りを感じてもらうきっかけになればいいな、と思える企画でした。

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さて、お次は長良川沿いのとあるホテルへ移動し、川沿いの一室へ通されて・・・

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予め予約を入れておいていただいた、信長の饗応膳にて昼食です。
料理は勿論のこと、天下布武の朱印に織田木瓜紋・・・その全てに目も心も奪われます。

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献立
鯉に鮑、宇治丸(鰻)、巻きするめ・・・更にようひ餅が入っているあたり、やはり信長が天正10年5月15日に、安土城で徳川家康をもてなした際の献立(「続群書類従」)を参考に再現しているようです。

天正十年安土御献立
於安土上様。三河守殿。御申献立。拾伍日をちつき。

本膳
たこ/たいのやき物/な汁/のなます/かうの物
(香の物)/ふなのすし/御めし
二膳
うるか
(鮎のわたの塩辛)うちまる(宇治丸:ぶつ切り鰻の蒲焼)/ほやひや汁/ふとに/かいあわひ(鮑)/はむ(鱧)/こいの汁
三膳
やきとり/やまのいも・つる(鶴)しる/かさめ(がざみ:渡り蟹)/にし(タニシ)/すゝき(鱸)
四膳
まきするめ/しきつほ(鴫の壺焼き)/ふな汁/しゐたけ
五膳
まなかつうを さしみ(真魚鰹の刺身)/しやうかす(生姜酢)/かわらけ入こほう(牛蒡)/かも汁/けつりこふ(削り昆布)
御くハし(御菓子) ふちたか足をつけて(容器の説明)
やうひもち(求肥餅)/まめあめ/ミのかき(美濃柿)/はなにこふ(花昆布)/から花(造花)

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用いられる器の一つ一つにも全て、木瓜紋が入っています。

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鯉の洗は人生初体験でした。

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岐阜城下、長良川の畔で信長の饗応膳を堪能する・・・織田信長を追い求める者にとってはまたとない、贅沢なひと時でした。

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饗応膳を堪能した後は岐阜公園へ移動。
岐阜市歴史博物館で開催中のGifu信長展で;

ルイス・フロイス書簡写(原本/1569)
・フランシスコ・ザビエル書簡(自筆/1549)
※何故か署名部分が切り取られている。
・太田牛一自筆の信長記(岡山大学附属図書館)
・唐物肩衝茶入 銘:勢高
・唐物文琳茶入 銘:本能寺
・織田信長制札 北加納宛(永禄10年9月日)
・数々の織田信長書状類

などを見学してきました。
※後期展示にも必ず足を運びます。

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午前中にCGで見学した山麓居館跡を抜けて・・・

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ロープウェイで金華山の山頂へ。

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岐阜城資料館の特別展信長公の隠れ家

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その中のテーマ展示マンガに描かれた信長公

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7月1日~9月28日までの期間は、宮下英樹氏「センゴク」の複製原画が展示されています。

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織田信長肖像画(長野剛氏)と南蛮胴具足。

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混雑するロープウェイを諦め、猛暑(35度超え!)の中、岐阜城の大手とされる七曲り道で下山。

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暑くて大変でしたが、実は岐阜城の登城路を歩くのは初めてだったので、密かに嬉しかったりする(笑)

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途中、ちょっと気になる痕跡も・・・道?

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岩盤がセットバックに切り開かれている箇所も。
・・・本当はこの、平に整地された岩盤部分が道だったのかな?

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岐阜市街へ戻り、夜は恒例のギフナイト☆
貴重で美味しい日本酒も味わい、2次会まで楽しく過ごしました。

岐阜市信長公450プロジェクト
勿論、私自身も楽しませていただきましたが、これがより多くの岐阜市民の方が歴史に関心を持つきっかけになるといいな、と思いました。地元の関心が高まってこそ、文化財の保護などへの認識も高まるでしょうし。
そういった点でCGやマンガをテーマに用いた展示は、門戸を広げる意味に於いて面白い試みなのかもしれません。応援したいと思います。

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