カテゴリー「織田信長・信長公記」の190件の記事

2025年2月24日 (月)

幻の居城?!…二の宮山

或る時、御内衆悉く召し列れられ、山中高山、二の宮山へ御あがりなされ、此の山にて御要害仰せ付けられ候はんと上意にて、
(信長公記 首巻「二宮山御こしあるべきの事」より。以下引用同)

ある時、織田信長は側近の家臣らを従えて二の宮山へ登り、この山に居城を移すと告げます。
尾張國二宮といえば大縣神社。二の宮山とは大縣神社の背後にそびえ、山頂には奥宮も鎮座する本宮山を指します。
当時敵対していた犬山城や稲葉山城(岐阜)との位置関係からも、矛盾しない立地です。

20250216b01
という訳で我々も、大縣神社本殿(写真を撮り忘れました)への参拝を済ませて早速、本宮山へ取り掛かります。

20250216b02
おおよそ七~八合目付近から、犬山城を遠望する眺め。

爰の嶺、かしこの谷合を、誰々こしらへ候へと、御屋敷下され、

20250216b03
40分ほども登ったでしょうか・・・山頂の奥宮へ到着。

20250216b04
山頂からの眺め。
名古屋市街方面も望めましたが、残念ながら小牧山方面は道中も含め、全く眺望がききませんでした。

此の山中へ清州の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりと、上下迷惑大形ならず。

こんな山深い場所へ引っ越すのは大変だ、と家臣らが戦々恐々として渋っていると、信長は急遽方針を転換し、小牧山への移転を決めます。
これには家臣らも「小牧山ならば麓まで川続きで、引っ越しにも便利だ」と、ドッと喜んで移っていったと云います。

最初から小牧山への移転を告げれば、それもまた不満の対象となって上手くいかなかっただろうに、まずは二の宮山を持ち出したことで小牧山への移転をスムーズに遂行したとして、太田牛一はこれを信長の奇特なる御巧み、としていますが・・・さて、真相や如何に。

さて、昨年1月以来、実に13ヶ月ぶりの歴旅となった今回の1泊2日。
旧交を温めて今後の展望もお話しできたし、個人的にはまだまだ大変な状況が続きますが、希望あるリスタートを切れた旅となりました。

| | コメント (0)

2025年2月23日 (日)

小牧山城現地説明会、小松寺山砦跡

旅の2日目はホテルで、これまた岐阜に住む友人・ゆっきーと合流し、小牧山城へ。

20250216a01
前日に情報をいただいた発掘現場の現地説明会に参加します。

20250216a02
今回の発掘現場は、麓から真っ直ぐにのびた大手道が東へ折れ、その先で続く屈曲の最初の2折れ辺り。

20250216a03
現場の詳細写真は、UPしていいものか判断がつかなかったので控えますが、石垣は勿論、大手道築造のために岩盤を削ったり盛土をしたりして、大手道の幅を確保するための造成の痕跡をはっきりと見て取ることができて興味深かったです。
30人ずつグループを分けての見学としてくれたことで混みあうこともなく、じっくりと楽しむことができました。

20250216a04
こちらもやはり大手道の一部で、数年前の発掘調査で判明した削った岩盤の上に築かれた石垣。
綺麗に復元整備されましたね。

20250216a05
天守周辺も。
私が初めて小牧山城を訪れた20年前とは様相が一変しました。これも調査・研究の賜物。

20250216a06
小牧山城から遠望する本宮山(二宮山。正面中央、一番高い山)
織田信長も登ったと云う彼の山。我々もこの後向ってみます。

・・・と、その前に。

20250216a07
小牧市内に建つ小松寺へ。
小牧山城(小牧山歴史館)に、小松寺へ宛てた池田恒興や森長可らの制札が展示されていて、気になったので立ち寄ってみました。

20250216a08
小松寺本堂は1600年代中盤に再建された、小牧市内最古の寺院建築。
天正12年(1584)の小牧・長久手合戦時には秀吉方の砦(小松寺山砦)が築かれ、三好秀次(後の豊臣秀次)や丹羽長秀らが守備したと云います。
共にこの合戦で討死した秀吉方の池田、森らが小松寺に制札を発給したのもこのためでしょう。

20250216a09
小松寺山砦跡から遠望する小牧山。
小牧・長久手合戦にて対陣する両軍の緊張感に思いを馳せる・・・

| | コメント (0)

2024年1月18日 (木)

有岡城

2024011301
1月中旬の週末、神戸を訪れる予定があり、そのついでに未訪のままになっていた有岡城にも足を延ばしてきました。
JR伊丹駅の周辺一帯が有岡城の主郭部だったようで、駅の横には史跡公園も整備されています。

2024011302
有岡城惣構図
図で見ると、不自然に感じるほど主郭部が惣構の東端に寄っていますが、この惣構の東側のラインは伊丹台地の縁で崖になっていたようです。

2024011303
有岡城主郭北端に残る石垣や土塁。
建物礎石跡や井戸跡なども復元展示されていました。

2024011304
主郭西側の堀跡。

2024011305
その南側の土塁、堀跡。

ところで、有岡城といえば荒木村重が織田信長に叛旗を翻して籠城した折、説得の使者として訪れた黒田官兵衛が城内の牢に幽閉されたことでも知られます。
その牢の位置は判明しませんが、黒田家が編纂した「黒田家譜」によると、牢の後ろには溜池があり、官兵衛の家臣・栗山善助は夜陰に紛れて池を泳ぎ渡り、官兵衛と連絡を取っていたそうです。

2024011306
江戸時代初期、寛文九年(1669) に成立した「伊丹郷町絵図」には、有岡城主郭の東側に池のようなものが描かれています。

2024011307
JR伊丹駅東側の地形。
現在も細い川が流れていますが、堀や池だった名残に見えなくもないですかね。

牢の外に咲く藤の花が幽閉される官兵衛の慰めになった、というエピソードも伝わっていますが、JR伊丹駅北東側の地名は「藤ノ木」・・・なんだか想像を逞しくしてしまいませんか。

2024011308
続いて旧石橋家住宅、旧岡田家住宅の前を抜けて・・・

2024011309
猪名野神社へ。
有岡城惣構の北端、岸の砦跡になります。

2024011310
境内に残る岸の砦土塁。

2024011311
その外側。
この小径は堀跡、ということでいいのかな?

この日は冷え込みが厳しく、急な雨もありましたので早々に退散しました。

| | コメント (0)

2023年5月28日 (日)

安土城、他

20230521b01
安土駅前に建つ織田信長像。
ここから炎天下の中、徒歩で安土城跡へ向かいます。

20230521b02
安土城跡では「令和の大調査」と銘打ち、最長20年にも及ぶ発掘調査・整備事業が予定されています。
最終的な調査範囲は広範に渡るようですが、本年度(R5)中には早速、天主台周辺の調査・整備が始まる模様です。
その天主台周辺の整備後のイメージ図に少々不安を覚えたこともあり、景観が変わってしまわないうちにとの思いから、今回の訪問になりました。

20230521b03
黒金門
途中の遺構はすっ飛ばし、黒金門まで一気に駆け上がってきました。
ここから始まる主郭部を重点的に見ていきます。

20230521b04
二の丸へ上がる石段。

20230521b05
二の丸に祀られている織田信長廟。
門構えが新しくなっていました。

20230521b06
本丸への虎口部と、天主台西面石垣。

20230521b07
天主台南面石垣。

20230521b08
本丸

20230521b09
本丸礎石列

20230521b10
台所跡へと続く本丸東虎口。

20230521b11
本丸取付台を経由して天主台へ。

20230521b12
天主台の石段。

20230521b13
石段に用いられている切石状の笏谷石

(天正九年)七月十一日、越前より、柴田修理亮、黄鷹六連上せ、進上。並びに、切石数百、是れ又、進上申され候ひしなり。
(信長公記 巻十四「因幡国取鳥城取り詰めの事」より)

20230521b14
天主台

20230521b15
しっかりと、今の姿を目に焼き付けておきます。

20230521b16
天主台の発掘調査は主に、現在我々が目にすることのできない北側が中心になる模様です。

20230521b17
摠見寺跡から西の湖を望む。

20230521b18
三重塔と共に貴重な現存建築物、二王門。

20230521b19
下山後、引き続き徒歩にて安土城考古博物館へ。
令和五年度春季特別展「信長と家康 裏切る者・裏切らざる者」を拝観しました。

20230521b20
信長と家康(裏切らざる者)、そして「裏切る者」として松永久秀や明智光秀、浅井長政、荒木村重らの関係資料を中心とした内容でした。
最も印象に残っているのは;

天正元年11月29日付 佐久間信盛宛織田信長黒印状
→反旗を翻し抵抗を続けていた松永久秀を、多聞山城の明け渡しと人質の提出を条件に赦免することにした旨を伝える内容。

松永申分つらにくき子細と表現していますが、個人的な印象としては、そこにあるのは「怒り」というよりも;
憎ったらしくてアッタマ来るけど、しょーもない○○ジジィが多聞山城と孫を人質に差し出すって言うから許したることにした。なのでお前らもこれ以上、四の五の言わないでね重而被申ましく候)。
といった調子で、むしろ反旗を翻した者を赦すのを、他の家臣(この場合は佐久間信盛)に言い訳しているようなニュアンスにさえ感じました。
そして佐久間信盛って、本当に一言多い家臣だったのかも・・・(^m^)

日付は、コチラの記事でご紹介した妙覺寺での茶会の6日後。信長はこの年、12月2日に岐阜に到着するまで京に滞在しています(信長公記)ので、妙覺寺を発つ直前くらいのタイミングで発給された文書とみて間違いないでしょう。

20230521b21
考古博物館から駅までの道すがら。
今の季節ならではの、逆さ安土城。それにしても暑かったです。。。

| | コメント (0)

2023年5月25日 (木)

妙覺寺の特別拝観

20230520a01
今回の京都旅は地下鉄「鞍馬口」駅から徒歩7~8分、妙覺寺からスタート。

20230520a02
5月31日までの日程で行われている新緑特別拝観。
その一端の特別展示「京都妙覺寺における織田信長の茶会」を目当てに伺いました。

20230520a03
方丈、書院の間に置かれた展示品。

京での宿所として、妙覺寺を幾度となく利用していた織田信長
朝倉・浅井を滅ぼし、足利義昭を京から追放して間もない天正元年(1573)11月23日、彼はここ妙覺寺で茶会を開きました。
その席で供された初膳~三ノ膳までの本膳料理と引き物2種、菓子9種を加えた計五膳を、列席していた津田宗及が事細かく書き留めていた記録(津田宗及茶湯日記)を元に復元(レプリカ)したものを並べていました。
献立を見ていくと雉や雁、鶉に白鳥と、明らかに鷹狩の獲物と思しき食材も多く使われていました。


もう一つの目当て、妙覺寺が所蔵する弘治2年(1556)4月19日付の斎藤道三書状、いわゆる美濃国譲り状も本堂に展示されていました。

長良川で討死する前日、道三がその一子に宛てて;
美濃国は織田信長の存分に任せることにした。その譲り状を信長にも書き送った。
そなたはかねてからの約束通り、京の妙覺寺に入りなさい。
etc...
などと書き送った書状です。
実際、妙覺寺19世・日饒上人は道三の子息と伝えられています。

20230520a04
いつかは目にしたいと願っていた、あまりにも著名な文書。
誰にも気兼ねすることなく、一人静かにじっくりと拝観することができて感無量です。
※写真は本堂前の青もみじ

| | コメント (0)

2023年3月 6日 (月)

大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)

20230227a01
「京の冬の旅」で初公開されている三玄院参拝の為、大徳寺へやってきました。
案内板にある他の2院にもお参りします。

20230227a02
まずは三玄院から。

石田三成や浅野幸長、森忠政らが創建した大徳寺塔頭の一つ。
枯山水の昨雲庭を愛でつつ、八方にらみの虎や、一間毎に春夏秋冬を描きわけた襖絵の数々、三成や近衛信尹らの御位牌、古田織部による八窓の茶室・篁庵(外観のみ)などを拝観させていただきました。

今を逃すと次はいつ機会を得られるかわからない、貴重な時間を過ごさせていただきました。

20230227a03
続けて芳春院へ。

慶長13年(1608)、前田利家夫人の芳春院(まつ)が開創した大徳寺塔頭の一つ。
本堂に安置された芳春院の木像や、金閣・銀閣・飛雲閣と共に「京の四閣」と称される呑湖閣などを拝観しました。
呑湖閣は想像以上に存在感のある建物で、とても印象に残りました。

20230227a04
そして、10年ぶりの再訪となる総見院

まずは本堂で、案内板に写真が載っている織田信長坐像、そして総見院では初公開となる信長の肖像画を拝観しました。
※総見院所蔵の肖像画は、2017年に大徳寺本坊で狩野永徳の筆による信長の肖像画を拝観した際、一緒に並べられていました。
当時の記事

20230227a05
3つある茶室も見学。

20230227a06
信長の木像を運んできた輿。

20230227a07
加藤清正が船底石として船に積み込み、朝鮮から持ち帰ったと云う大石を囲いに用いた掘り抜き井戸。
井戸自体はもっと古くからあったようで、天正13年(1585)の大徳寺大茶会では、秀吉自らこの井戸の水で茶を点てたとも伝えられているようです。

20230227a08
いまだ現役の井戸で、石組みも綺麗に積まれています。

20230227a09
大石を運ぶ時にあけられたものか、鉤状の穴も確認できます。

20230227a10
可憐な姿で境内を飾っていたボケの花。
ボケを漢字で書くと「木瓜」・・・なるほどね♪

20230227a11
最後に織田家墓所へご挨拶して、総見院、及び大徳寺を辞します。

所変わって・・・

20230227a12
こちらは妙心寺の壽聖院
石田三成が父・正継の菩提寺として創建しました。

20230227a13
庭は狩野永徳の設計とも伝わります。
瓢箪池は秀吉の馬標をモチーフとしているそうですが、植木に隠れて形はよく見えませんでした。

本堂では;
石田正継肖像画(複製)
石田三成や正継、その妻女らの御位牌
朝鮮出兵先からの石田三成書状
などを拝観しましたが、中でも印象に残ったのは、細川忠興が藪内匠頭正照の子息を召し抱える際に発給した目録で、日付の下にtada/uoqui
と彫られた小さな丸い朱印が捺されていました。
妻ガラシャが敬虔なキリスト教徒だった影響では、との説明でしたが、確かにラテン系っぽいスペルではありますね。

20230227a14
石田三成と一族の墓所。

20230227a15
その隣には、関ヶ原合戦後も壽聖院を支援した藪内匠頭正照のお墓も。

20230227a16
妙心寺では7年ぶり玉鳳院にも再訪、狩野安信による襖絵花園法皇玉座の間に据えられた徳川家康(東照大権現)の御位牌織田信長・信忠、武田信玄・勝頼・信勝・信豊らの供養塔などを拝観しました。

この日はここまで、大徳寺と妙心寺で合わせて5つの塔頭を拝観しました。
拝観料だけでも4,000円・・・さすがにお財布も厳しくなってきましたので、これにて打ち止めです(;^_^A

| | コメント (0)

2022年12月 7日 (水)

別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)

2022年12月3~4日は、静岡県への旅。
運動不足に陥りがちな愛車のためのドライブが主な目的で、いくつかのお城をのんびりとめぐります。
が、その前に・・・

20221203a01
まずは藤枝市郷土博物館・文学館へ。
先日発表された新発見文書、織田信長黒印状羽柴秀吉宛(天正6年)三月十三日付が、天下人と東海の戦国大名展で公開されるという情報を得、タイミング良く静岡への旅を予定していたので立ち寄りました。

文書は;
別所長治と問題があったよう(別所小三郎与申事有之由候)だが、別所はずっと忠節を尽くしている者である(別所之儀、連々忠節之者候)から、穏便に対処して報告するように。

と秀吉に伝える内容で天正6年(1578)に比定され、秀吉による別所長治の三木城攻め(三木の干殺し)が始まる直前にあたります。

思えば信長は、浅井長政の寝返りが明るみになった際も「浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべし」(信長公記)と、なかなか離反を信じようとしなかったですし、武田信玄が織田・徳川同盟との対決を期して遠江へ侵攻した元亀3年(1572)10月の時も、信玄本人が甲府を出陣(10/3)した後に至ってもなお、武田×上杉間の甲越和与の実現に向けて奔走(10/5付書状)しており、当初は先に動いていた武田別動隊(山県)の軍事行動の切っ先が、己の側を向いているとは露ほども疑っていませんでした。
また、荒木村重離反の際も「不実におぼしめされ、何篇の不足候や、存分を申し上げ候はば、仰せ付けらるべき」(同)とあります。

今回の新発見文書も信長のそんな、同盟者や配下を疑わない、疑いたがらない性分の一端が垣間見えるような史料で、とても興味深く感じました。

その信長が最後の最後、明智光秀の謀反を知った瞬間だけは;
是非に及ばず
の一言を発しただけだったと云うのは・・・推して知るべし、といったところでしょうか。

| | コメント (0)

2022年11月15日 (火)

旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿

2022111201
旧東海道、藤川宿の西棒鼻。
8月に旧東海道を御油宿から藤川宿まで歩いてきましたので、今回はその続きとなります。

2022111202
出発するとすぐに藤川の松並木が出迎えてくれます。

2022111203
松並木を抜けると一旦国道1号線に出ますが、1㎞ほどでまた左へ逸れていきます。

正田の町より大比良川こさせられ、岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、矢はぎの宿を打ち過ぎて、池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月18日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長はこの日、三河の吉田城下を出発して御油や本宿を経由(参照記事)した後、岡崎や矢作を通過して知立(池鯉鮒)まで進みました。

2022111204
国道から外れて300mほど進んだ地点。
この辺りの旧街道から左(南西)の方向には名鉄の美合駅がありますが、その北~北西一帯に「美合町生田」という地名があります。

正田の町より大比良川こさせられ、
太田牛一が書き残した正田の町、その名残の地名が美合町生田ではないでしょうか。

2022111205
その北西側には美合町生田屋敷という地名もあり、詳細は不明ながら生田城址碑も建っています。

2022111206
正田城址碑前から、美合町生田方向。
少し高台になっている辺りが正田の町

2022111207
長閑な旧街道をしばらく進み・・・

2022111208
藪に遮られえた突き当りが、乙川の渡河地点。

2022111209
旧街道は川で途切れていますので、すぐ近くを通る国道1号の橋へ迂回します。

2022111210
乙川の流れと旧東海道の渡し場付近。
藤川宿側から川を渡った対岸(北)は「大平」という地名になり、乙川には「大平川」という別名もあります。
そう、牛一が記した「太比良川」です。

2022111211
乙川の北岸。
旧街道の名残らしき畦道が見えていますが、その傍らには・・・

2022111212
大平川水神社が祀られていました。

2022111213
太平の集落を進みます。

2022111214
旧街道から少し外れ、西大平藩陣屋跡。
西大平藩は旗本だった大岡越前守忠相が寛延元年(1748)、三河国宝飯・額田・渥美で4,080石の加増を受け、都合1万石の大名となったことでて立藩されました。

2022111215
太平一里塚
江戸日本橋から80里になります。

2022111216
岡崎IC出入口の下を潜る旧東海道。

2022111217
岡崎の城下町(岡崎宿)が近づいてきたところで、少し寄り道して朝日町の若宮八幡宮へ。

2022111218
徳川家康の嫡男・信康の首塚にお参りしました。

2022111219
さて、旧東海道に復帰して岡崎宿へ。

2022111220
岡崎宿内を通る旧東海道は二十七曲りとも呼ばれ、20ヶ所以上もの折れを伴います。

2022111221
要所要所にこうした案内表示を建ててくれていますので、これを頼りに丁寧にトレースして行きます。

2022111222
岡崎三郎信康も初陣の折に祈願したと云う、聖観世音菩薩を本尊とする根石寺。

2022111223
籠田惣門跡
ここから先が、近世岡崎城の惣構の内になります。

2022111224
籠田公園の中を通り抜ける旧東海道。
この日はラリー・ジャパンに関連したイベント(お祭り)が開催されていて、凄い賑わいでした。

2022111225
いや、そこまで小刻みに案内してくれなくてもわかるって(笑)

2022111226
もうすぐ城下を抜けてしまう、という地点まで来てようやく岡崎城天守が見えました。

2022111227
旧東海道が国道248号と交錯する辺りが、松葉惣門跡。

2022111228
江戸時代、現在の国道248号の西側を沿うような位置に、松葉川という川が南北に流れていました。
岡崎城の西側の惣堀も担っており、旧東海道が松葉川と交錯するこの地点には松葉惣門が構えられ、橋も架けられていたと云います。
「東海道中膝栗毛」でも、弥次・喜多が(宿のはずれの)松葉川を渡って矢作橋へ向かった様子が描かれています。

岡崎城の腰むつ田川矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、

事前にいくら調べても、信長公記に見える「むつ田川」を特定することができませんでした。
しかし、岡崎城の腰の「腰」が何を意味しているのかは判断に悩むところですが、むつ田川・矢はぎ川と連続する既述の並びと、実際の矢作川との位置関係などから、この松葉川をむつ田川に比定しておきたいと思います。

2022111229
松葉惣門跡を出てしばらく進むと、八丁味噌で有名な八帖町に入ります。

2022111230
岡崎を舞台にした連続テレビ小説「純情きらり」に出演されていた、宮崎あおいさんの手形。

2022111231
矢作橋からの矢作川(矢はぎ川)。
江戸時代の矢作橋はもう少し南側(写真の方向)に架かっていたそうですが、天正10年に信長一行のために架けられたと云う橋は、果たして何処にあったのでしょうか。

2022111232
矢作橋、西側のすぐ袂に建つ出合乃像。
史実云々は別にして、「絵本太閤記」に描かれた日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いのシーンを再現しています。

2022111233
矢作川を越えると、矢作宿の町並みが続いています。
江戸時代に整備された旧東海道の宿駅制度からは外れましたが、矢作川を渡る旅人らの宿場町として栄えたそうです。

2022111234
岡崎信康唯一の肖像画を所蔵する勝蓮寺。

2022111235
矢はぎの宿を打ち過ぎて、

2022111236
矢作宿を抜けると国道1号線に合流し、3㎞ほども退屈な区間が続きますが、安城市に入ったところでようやく国道から右へ逸れてくれました。

2022111237
やっぱり松並木はいいですよねぇ~。

2022111238
低く横に大きく枝を広げる、永安寺の雲竜の松。

2022111239
推定樹齢は約350年・・・さすがに信長一行が通過した天正10年にはまだ生えていませんね。

2022111301
猿渡川を越えると、旧東海道はいよいよ知立市に入ります。

2022111302
来迎寺一里塚
旧東海道を西向きに歩いてくると、一方(北側)の塚が建物の裏に隠れてわかりづらいのですが・・・

2022111303
実は一対で残っています。

2022111304
泉蔵寺、吉田忠左衛門夫妻の墓所。

2022111305
元禄赤穂事件で有名な吉田忠左衛門。その妻であるりんは、忠左衛門切腹後に身を寄せた娘婿の主家の転封により、宝永七年(1710)に刈谷へ移り住みました。
しかし刈谷入りの僅か半年ほど後に亡くなり、形見として持っていた忠左衛門の歯と共に、この地へ埋葬されました。

2022111306
知立の松並木

2022111307
松並木の途中に建つ馬市の句碑。
江戸時代、この辺りでは毎年4月25日~5月5日の間、馬市が開かれ、4~500頭もの馬が並べられたと云います。

2022111308
歌川広重も、東海道五十三次で馬市の様子を描いています。
「池鯉鮒 首夏馬市」

知立は「池鯉鮒」とも書きましたが、それは当地にあった御手洗池、或いは知立神社の神池に鯉や鮒がたくさんいたため、との由来も伝えられています。
旧東海道の宿場名を示す際は、「池鯉鮒宿」とするのが一般的なようです。

2022111309
松並木を抜けた先が池鯉鮒宿。
今回の旧東海道歩き旅のゴールです。

2022111310
風情ある細い道を進み・・・

2022111311
この突き当りを右へ折れた先が・・・

2022111312
知立古城址

池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。

2022111313
元々は知立神社の神官・永見氏の居館があった場所で、刈谷城主・水野忠重(宗兵衛)が、その跡地を利用して信長饗応のための御殿御屋形)を整備したと伝わります。
※家康の側室で、結城秀康を生んだ於万の方は永見氏の出

2022111314
御殿址の石碑
江戸時代に入ると更に拡張され、徳川将軍が上洛する際の休息用の御殿にもなりました。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、知立一帯は刈谷城を押さえた緒川城主・水野信元の領有となりました。忠重はこの信元の異母弟にあたります。
信元は織田家に従っていましたが、信長に武田方への内通を疑われて死に追いやられ(天正3年/1575)、刈谷を含む彼の旧領は佐久間信盛の手に渡りました。
その佐久間父子の追放(天正8年)後、刈谷は忠重に与えられて水野家に復します。
忠重はこの後、高天神城を包囲する徳川軍の陣中にあり、年が明けた翌天正9年1月には、高天神城の処置についての信長の意向を伝える書状を受け取っています。

慶長5年(1600)、家康から隠居料として与えられた越前へ向かう堀尾吉晴を知立でもてなした際、同席していた加賀井重望によって殺害されました。
堀尾吉晴をもてなし、そして自らの最期をも迎えることになってしまった歓待の席も、或いはこの地にあった御殿が用いられたのかもと想像しています。

2022111315
知立付近一帯を描いた屏風絵。
東海道が御殿のところで突き当りになっている様子もよく描かれています。
右下隅の方に描かれているのは、岡崎城とその城下町。こちらも二十七曲りの様子がよく見て取れます。

2022111316
旧東海道は更に西へと続きますが、私はここを右(北)へ曲がって・・・

2022111317
知立神社にお参り。
写真は永正6年(1509)の再建と伝わる多宝塔。知立神社の別当寺だった神宮寺の遺構とのことです。

2022111318
神池には、やはり多くの鯉が。

2022111319
七五三シーズンにあたっていたため、この日は多くのお子さん連れで賑わっていました。

2022111320
旅の最後は電車で少し移動し、刈谷市の楞厳寺へ。
水野家の菩提寺で、水野忠重画像も所蔵しています。

2022111321
水野信元や忠重らが眠る水野家廟所。

本当は刈谷城まで足を延ばしておきたかったのですが、空模様が急激に怪しくなり、疲労もありましたので雨に降られる前に切り上げました。
いずれまた機会があれば・・・。

| | コメント (0)

2022年10月13日 (木)

「こぬか薬師」を拝観

20221008c01
医徳山薬師院
毎年10月8日の1日だけ行われる、御本尊の薬師如来像開扉法要に合わせてお参りに来ました。

薬師院の御本尊は、後に比叡山延暦寺(延暦25年/806~)の開祖となる最澄が延暦元年(782)、16歳の時に彫った薬師如来像7体のうちの1つとされていて、伝承によると美濃国横倉の医徳堂に安置されていました。
(現在の薬師院の山号である「医徳山」も、これに由来するものでしょう)
最澄作の薬師如来像で現存するのは、延暦寺のものと当院の僅かに2体のみと伝わります。

寛喜2年(1230)、「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」との薬師如来のお告げがあり、これを知って訪れた人々の病が平癒したことから「不来乎(こぬか)薬師」と呼ばれるようになったのだとか。

その後、評判を知った織田信長により、美濃から京へ勧請されたものと伝えられています。

20221008c02
法要の後、午後2時頃から順に本堂へ上がらせていただき、実際に至近の距離で御本尊を拝ませていただきました。
想像していたものより遥かに小さく、僅か15~20㎝四方ほどの御厨子の中に本尊の薬師如来をはじめ、日光・月光菩薩、そして十二神将の、合わせて15体の仏様がびっしりと立ち並んでいました

前年までの2年間は、コロナ禍の影響で本堂に上がることは叶わなかったそうです。
そういう意味でも、本当に幸運な参拝になりました。

| | コメント (0)

2022年10月12日 (水)

島津家久が信長を目撃した場所とは?

天正3年(1575)2月、「島津四兄弟」の一人としても名高い島津家久は薩摩を出発し、伊勢神宮参拝を主な目的とした半年近くに及ぶ旅に出ました。
彼はその道中を、「中務大輔家久公御上京日記」「中書家久公御上京日記」「家久君上京日記」などと呼ばれる日記に事細かく残しているのですが、その4月21日の条は次のようになっています。

廿一日、紹巴へ立入候、やかて心前の亭をかされ宿と定候、さて織田の上総殿、おさかの陣をひかせられ候を心前同心ニて見物、下京より上京のことく、馬まハりの衆打烈、正国寺の宿へつかせられ候、(~中略~)上総殿支度皮衣也、眠候てとをられ候、十七ヶ國の人数にて有し間、何万騎ともはかりかたきよし申候、

京に入った家久は連歌師の里村紹巴を訪ね、その弟子である心前の居宅を宿として提供されました。
そして織田信長が大坂から帰陣するというので、心前と連れ立って見物に向かい、実際に信長を目撃しています。
果たして彼が信長を目撃した場所とは何処であったのか・・・俄かに気になり、ちょっと検討を加えてみました。

紹巴の弟子である心前は後に、明智光秀の発句「時は今~」で有名な愛宕百韻にも、師の紹巴や兄弟弟子の昌叱と共に名を連ねています。
その居宅の所在地は不明ですが、師である紹巴屋敷の隣にあったとの説もあるようなので、下長者町通沿いに所在する紹巴町の付近一帯と推定しました。

そして信長の軍勢は下京から上京へと進んだ後、相国寺に達しています。
このことから、信長の軍勢が通行したルートについては、下京と上京を結んでいた室町通を真っ直ぐに北上してきたものと想定しました。

とすると家久が信長の軍勢を見物したのは、現在の紹巴町から下長者町通を東へ進み、室町通と交差する・・・

20221008b01
こちらの写真の辺りではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
写真手前から伸びる道が下長者町通で、左右に交錯するのが室町通です。

20221008b02
相国寺がある北の方角へと続く室町通。

家久が目撃した信長は皮の衣を着し、(馬上で)居眠りをしながら通っていったと云います。
なんだか信長の人間臭い一面が垣間見えて、個人的にはとても好きなエピソードの一つです。

家久は同月28日にも、美濃へ帰国する信長の軍勢を見物しています。
※「信長公記」では、信長の離京は27日。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧